ドライゼク
エコロジーの道具性否定
最初は、「エコロジー的」から見ていきたい。環境政治の分野では、「環境的」と「エコロジー的」とは明確に区別して使われる場合があり、ドライゼクもそれを前提にしている。前者は、環境問題を人間の外部「環境」における課題と見るのに対して、後者の場合は、人間もそのなかの一員としての「生態学的世界」における課題が環境問題だと捉えるという違いがある。
こうした見方は、それ自体が環境問題を捉える際の一つの立場を示すものであるが、ドライゼクは、あえて後者の立場を採っている。ここで特に注意すべきことは、民主主義は基本的に人間の社会制度である。他方、エコロジーは基本的に自然世界の視点である。つまり、両者は本来的に作動する領域が異なっている。したがって、この異種のものを結びつけようとするには周到な作業が必要になることである。
本書を通じて彼は、なぜ「エコロジー的であること」が社会制度に求められるのかを探っていく。
エコロジー的問題は、実際、世界が直面しているもっとも深刻な難題のなかの一つである。特定の指標における改善の兆候を指摘することによってこの深刻さを否定する人々の議論を認識しているので、第二章では、こうした改善はほぼ幻想であると論じている。
このような認識は決してドライゼクだけのものではない。たとえば、人類史のなかに地球的規模での地理学的視点と生態学的視点の両者を持ち込んで書かれた『銃、病原菌、鉄』(1997)の著書として広く知られているジャレド・ダイアモンドは、また『文明崩壊』(2012)も著している。 そこでは、過去の文明社会のなかで、その存立基盤である「健全なエコロジー的基盤」を損なうところまで行ってしまって崩壊した文明と、それをかろうじて避けることができた文明が描き出されている。明らかに、どのような社会も文明も、資源や食糧、あるいは自然の浄化能力に応じた廃棄物の産出、気候の極端な変動や水の確保における変動への緩衝力、こうしたものなしには、繁栄は言うまでもなく、生き残りすらできない。したがって、環境問題の深刻さに目を向けるとき、エコロジー的視点は不可欠の視座となるのである。 エコロジー的な視点が重要だとしたとき、次に問題となるのは、このエコロジー的な価値をどのように理解するかである。というのも、人間にとっての手段的な価値しか自然環境に認めないことが、人間による環境破壊を深刻化させてきたと理解しうるからである。この点をめぐって、生まれた論争が、環境的価値についての道具的価値論か本源的価値論か、あるいは人間中心主義か非人間中心主義か、の論争であった。
この論争に関して、ドライゼクは次のように論じていく。すなわち、デカルト以来の啓蒙主義の伝統では、人間が主体として位置付けられるのに対して、それ以外のすべて、とくに自然世界は、客体を構成し、主体の望むがままに操作され支配されるべきものとみなす。このことが逆に、人間が自然から疎外される結果をもたらす。言うまでもなく、「エコロジー的価値」は、人間のとどまるところのない成長欲求の前ではほとんど考慮されない。したがって、
ドライゼク的エコロジー観
ドライゼクは、エコロジー的価値については、人間の生命維持のための手段的価値を力説する立場をとっている。より具体的には、自然環境がもつ再生可能資源、再生不能資源、農産物といった生産能力の機能、そして大気循環や水文循環あるいは地球全体を通しての海洋循環などによる人間の生息環境の保護機能、そして、汚染物のリサイクルに関わる廃物浄化機能をとりあげて下記と言明している。
それらは人間生命にとっての基本的な必要を提供しているがゆえに、エコロジー的合理性と解釈できよう もちろん、かれはそれ以上の価値をエコロジーに認める人々が多数存在していることは承知しているが、二つの理由からこれを出発点とするとしている。
一つは、自然システムの価値としては、この人間の生命維持の価値は最低限のものだから、必要不可欠のものとして主張できることである。
第二には、人間のこうした基本的な利益に限定することによって、他の有力な合理性、たとえば、経済的合理性、社会的合理性、法的合理性、政治的合理性など、人間社会システム独自の諸種の合理性と競いあうことができることである。人間中心的なアプローチを採らないかぎり、他の合理性と肩を並べることは不可能だというのである。
自然システムと人間システムの共生
このエコロジー的合理性は、「合理性」であるから、人間が認定するものでしかない。しかし、それは、自然システムがもつ機能から捉える合理性なので、事物側に属すものでもある。そこで、まず「エコロジー的に合理的な」自然システムが考えられる。それはどのようなものであろうか。これについてドライゼクは次のように述べていく。
エコロジー的に合理的な自然システムとはこうである。すなわち、その低エントロピーが、ストレスや変動に対処する能力において顕現されるのである。~それゆえ、エコシステムの合理性は、自動調整(self-regulation)の特質と密接に関連している。エコシステムの「客観的な機能」は、システム内部の特定の個体、個体群、あるいは種に対してではなく、むしろ全体としてのシステムの健康 (wellbeing) に適応される。自動調整は、ホメオスタシスと適応の両者で現れる。そしてホメオスタシス的な安定性は、次に二つの形態をとる。抵抗(resistance)と回復(resilience)である。抵抗の安定性は、ストレスへの反応における不動性である。回復の安定性は、ストレスによってシステムが通常の作動範囲以上のレベルにまで進んだ後で、迅速に回復する能力である。抵抗の安定性も回復の安定性もともにネガティブ・フィードバック、すなわち、システムのアウトプットにおける逸脱に反応するシグナルシステムへのインプット、を必要とする。 これが健康な自然システムの特性だとすれば、エコロジー的合理性では、この特性が保持され続けることを人間システム側に要請することになる。なぜならば、この合理性に反する存在は、それ自体がエコロジー的合理性を損なうからである。そうなると、人間システムは、以上の特性をもつ自然システムとどう関わるべきなのであろうか。
一つの考え方は、自然システムの模倣であろう。しかし、人間システムは自然システムとは異なって、一つの種(人間)でしか構成されていない。したがって、そもそも、アウトプットに至る構造が全く違う。この点だけみても、単なる模倣はありえない。
他方で、人間が引き起こしているエコロジー問題は、諸種の要素が複雑にからみあう「複雑性」、特定の問題だけ解決したと思っても他に問題が生じてしまう(たとえば、代替フロンが温室効果の高いガスでもあることなどに見られる)「非還元性」、問題の影響範囲が世代を超えたり、多様な場所に広がったりする「時空的可変性」、諸種の条件が絶えず変化してしまうことによる「不確実性」、そして問題を引き起こす人間システムがもつ(コモンズの悲劇が例示したような)集合的行為問題の特性、をもっている)。とすれば、知恵という特殊な能力を高めた「特殊な種」としての人間を特別扱いするだけでは解決がつかない。 そこでドライゼクが提案するのは、その中間の道である。それがエコロジー的合理性である。このエコロジー的合理性が求めるのは、自然システムへのある程度の介入だが、しかし極端なエコロジー的工学(たとえば、地球温暖化への緩和策として検討されているジオエンジニアリングなど)とは程遠いものである。人間は、自然システムの自然発生的自己組織化と自動調整能力の代替ではなく、それを利用する。エコロジー的に合理的な人間─自然システムとは、人間要素と自然要素とが共生的 (symbiotic) な関係に立つものである。 このように、自然システムとつながりながら、共生的な姿勢で問題を解決する能力を生み出していくことが、人間システムの側に求められるのである。そして、人間システムは、この力を自らの知性によって作り上げ、自然システム側に最終成果をアウトプットしていかなければならない。このアウトプットを生み出す人間システムのメカニズム、これをドライゼは「社会選択メカニズム」と命名し、今度は、社会システム側のエコロジー的合理性の条件を挙げていく。 それは、「エコロジー問題」についての上述した人間システムの側から見た特性(複雑性、非還元性、時空的可変性、不確実性、集合的特性、そして自然発生性)を前提に置きながら、さらにこの自然システムとの共生的関係のなかで、エコロジー的合理性を保証するために必要となるものである。
それらの条件として、ドライゼクは4つ挙げていく。「ネガティブ・フィードバック」、「調整 coordination」、「頑強さもしくは柔軟性 robustness or flexibility」、そして「回復力 resilience」である
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ここでの私の狙いは、現代世界の政治的苦しみの少なくともいくつかに対する診断を探求し、治療法を考察することである。診断はこうだ。こうした苦しみの多くは、かつての信頼が衰退したのに依然として蔓延している合理性の形態と深く関わっている。治療法としては、私が討議民主主義 discursive democracy と呼ぶものの大量の服用が挙げられる。
ハーバーマス的基礎づけ
出発点は、ハーバーマスが行為論において道具的行為と戦略的行為に対置した、コミュニケーション的行為への注目である。
この行為論の重要な点は、それが、コミュニケーション的合理性を語る上での根拠になることである。
コミュニケーション的合理性とは、この行為〔コミュニケーション的行為〕が討議能力のある行為者の反省的な理解によって特徴づけられる、その程度である
ここで、コミュニケーション的行為は、二者以上の「行為調整」としてとらえられているので、コミュニケーション的合理性は、個々人の行動の統制的理念(regulative ideal)としてだけでなく、諸個人によって構成される集団の統制的理念ともなる。したがって、こう定義される。
われわれが集合体をコミュニケーション的に合理的だと描写できるのは、その相互作用が平等主義的で、非強制的であり、思い込みやごまかし、権力、戦略、から自由であるその程度に応じてである
ハーバーマス思想の限界
ここまでは、ハーバーマスとともにあると言って良いであろう。しかし、環境問題への対処に際しては、ハーバーマスの理論では問題が出てくる。それをドライゼクは二点ほど挙げている。
一つは、システムと生活世界を区別し、コミュニケーション的合理性の固有の世界は、社会統合によって調整される生活世界だとする、二分法的な理解である。
政治的な世界は、ハーバーマスが言う意味でのシステム世界を当然含んでおり、環境問題は、「システムによる生活世界の植民地化」だけをいくら糾弾しても、解決にはつながらない。環境問題に限らず、ドライゼクは、政治的制度や政策分析にコミュニケーション的合理性を応用しようとする。そこで、こう述べる。
私は、道具的合理性とコミュニケーション的合理性は切り離されていて両立できない、とは思わない。~選ぶべき道は、あれかこれかではなく、むしろ両者がつなぎ合わされるその比率である
エコロジー的な問題に対しても当然、ドライゼクはこの姿勢を貫いていく。
もう一点、さらにドライゼクは挙げている。こちらは、エコロジー的には前者よりもさらに深刻な問題だ。ハーバーマスは、コミュニケーションを人間同士が行為調整に際してとる特質として見ている。またハーバーマスは、われわれが自然世界との間で構築する関係と、人間相互の間で構築する関係を明確に分けようとする。
そこで、人間の生存にとっての物質的条件を確保するのに必要な自然世界に対する人間の唯一の態度は、道具的なものでしかないと断言している。
自然に対する支配は、人間解放という啓蒙の約束の実現のために、ハーバーマスが喜んで支払おうとする代価なのだ
このように、ドライゼクは、ハーバーマスのコミュニケーション的合理性が、人間対自然の二分論を自明視し、道具的理性による自然の支配をむしろ肯定する論理となっていると問題視したのである。ではどうするのか。それは、「コミュニケーション的合理性をハーバーマスから救い出そうとする」ことであった。
エコロジーで拡張したハーバーマス
この救出の要は、自然的世界とのコミュニケーション的合理性の視点からの新たな関係性の構築である。その関係性はほぼ4つのポイントで構成されている。
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第一のポイントは、コミュニケーション的関係をとる実在として自然を認識する、その人間の側の姿勢である。
人間がコミュニケーション能力をもっているのは、人間だからであるが、そうした能力をもてるのは、人間も生物としての自然(言語処理能力の脳と声帯など)をもっているからである。こうしたコミュニケーション能力の前提条件は、他の生物にも共通している。たしかに、人間のコミュニケーション機能、とりわけ人間言語は、他の大半の種のそれよりははるかに複雑である。が、
人間と人間以外の種とをまたぐ大きな連続性が、身体運動やフェロモンのような非言語的形態のコミュニケーションには明白である。
つまり、ここでの要点は、話し手となる「主体性」(subjectivity) はたしかに自然の側にはないが、何らかの「エージェント」としての存在性、つまりエージェンシー (agency) は自然にも認めることができるということである(つまりこれが非言語的形態のコミュニケーション?)。
エージェンシーは主体性と同じものではない。そして、自然に対して求められるべきものは前者だけ
こうして、自然世界が人間にとってのコミュニケーション的行為の対象となることは、道具的合理性からの解放につながり、エコロジー的合理性の入り口にたどり着くことになるが、これだけではコミュニケーション的合理性がエコロジー的合理性を満たしているとは言えない。そこで提唱されるのが、第二のポイントである。
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それはコミュニケーション的に合理的な姿勢がもつ、「フィードバック」、とりわけ「ネガティブ・フィードバック」に対する感受性の高さである。 自然世界をコミュニケーションの相手方とした際に、最初に直面するのは、まさにかれら(それら)は人間の言語を語らないという問題である。しかし、語らなくても、かれら(それら)には固有のインタレストがあるだろうし、それは多様な場所で、多様な形で存在しているであろう。
したがって、生命体だけではなく、諸種の自然的なシステムのなかにエージェンシーを認めるということは、「自然世界から発するシグナルを、人間主体から発するシグナルに与えるのと同じ敬意をもち、等しく注意深い解釈を求めるものとして扱うべきだということを意味している」。
ここで重要なのは、相手が積極的に語れない以上、熟議民主主義者の場合は、より一層注意深く「傾聴」に徹することになる点である。というのも、沈黙を強いることはまさにコミュニケーションの抑圧であり、聞くこ
ディープ・エコロジー批判
第一の批判
エコロジー的精神性 (spirituality) への指向性が、非合理性を評価して最終的には全体主義的傾向を帯びることである(エコファシズム)。 実際、たとえば、アメリカ合衆国でのディープ・エコロジー運動の指導者である、DevalとSessionsは、アルネ・ネスに始まるディープ・エコロジーは二つの「究極的な規範 ultimate norms あるいは直感 intuitions」にまとめられるとして、そして、この二つの究極的な規範を「自己実現self-realization」と「生命中心的平等 biocentric equality」として、前者を全体的人格 whole person となる「本当の作業」と呼んでいるし、歴史学者のアンナ・ブラムウェルは、エコロジー思想には右寄りの思想との、とりわけナチズムとの深い関係があったことを指摘したことで良く知られているが 、エコロジー的な精神性の力説が、人間を越えた共同体に拡張されたときに、哲学的な全体論が政治的な全体主義に移行する可能性がないとは言えないであろう。これまでとは違う生き方を求める「精神性」への注目は、内面世界での自己実現以外の事柄には目を向けなくさせがちなのである。 しかしながら、だからこそ、先の二つの規範の第二が「生命中心的平等」という、ヒエラルヒーを拒絶する規範が挙げられているとも言えよう。
第二の批判
しかし、この場合でもドライゼクは問題が残るとしている。これが批判の第二点だが、それは、これらの倫理がとらえている自然のシステムが実際には「複雑」なものであり、下記見解を示す。
複雑なシステムへの介入は、しばしば直感に反する結果をもたらす。~したがって、直感、善意の直感、そして共感的な意識は、行為を導くには十分なガイドにはならない
さらに、自然に対する精神的な指向性がエコロジー的に調和的な社会を維持する上で仮に適切なものであるとしても、現状はこの指向性から見れば、エコロジー的には不調和な社会であろう。とすれば、ここからそこにどのようにして行くのであろうか。「改心によって」が、おそらくその答えであろうが、その「改心」をどう進めるのか。
エコロジー的な精神性を語る大半の人々は、この移行についてはほとんど語らない。まして、実際的な政治的プログラムは言うまでもない