ハーマン
思弁的唯物論と分かつ
思弁的実在論の「実在論」という側面は、観念論に敵対するのではなく(今日でもはっきりと観念論を擁護する論者もいる)、カンタン・メイヤスーが「相関主義」と呼ぶものに敵対していた。相関主義の見方にしたがえば、哲学は人間と世界とを切り離して別個に語ることはできず、つねにこの二項の根源的な相関あるいは関係しか語ることができない。これに対して思弁的実在論が目指したのは、〔人間から切り離された〕物自体を議論のうちへと復活させることであった。 だがこうした物自体への議論は多様なセクトが生じたとして、オブジェクト指向学派と思弁的唯物論の立場のちがいを論じる。
オブジェクト指向哲学にとって、物自体は人間による把握を永遠に超え出たままである〔カント哲学の一点目の肯定〕。しかしそれは、とくに人間だけが物自体への到達に失敗するからなのではない。一般に関係は、関係項の把握に失敗するのだ。この意味で、幽霊のような物自体が、人間と世界との関係だけでなく、無生物どうしの因果関係にも取り憑くことになる。人間と世界との関係は、もはや哲学の中心にはない〔二点目の否定〕。 思弁的唯物論にとって、事態はちょうど反対となる。そこでは、依然として人間が哲学の中心にとどまる〔カント哲学の二点目の肯定〕が、その認識はもはや有限ではない〔一点目の否定〕。人間は、〔人間から切り離された〕絶対的なものを受容することができる。数学的に定式化可能なあらゆる性質は、絶対的なものとして認識されうる第一性質であり、それを超えたところにはいかなる暗い余剰も存在しない。そして、この「絶対的なもの」はわたしたちが眠ったり死んだりしたとしても実在するので、思弁的唯物論は超越論的観念論ではなく、むしろ実在論の一形態であるとしばしば主張されるのである。本稿では、わたし自身が採用しているオブジェクト指向の方法に限定して、その内的な課題について論じることにしよう。 オブジェクト指向存在論のパースペクティヴ
「哲学は、反オブジェクト指向の企てとしてはじまった」というように、現代物理学にも存在する「下方解体」的な「還元」を明らかにする。これは、対象をその原因(構成要素など)に還元するのだ。ハーマンは、この戦略を「下方解体」(undermining)と名づける。下方解体の哲学は、対象の下方にある根源的なものによって対象を置き換える。ハーマンがよくもちいるハンマーを例にして考えてみよう。下方解体の哲学は、たとえば物質的な構成要素を根源的なものとみなす。ハンマーは、鉄原子や炭素原子などから構成されている。さらにミクロな素粒子へと遡ることもできるだろう。下方解体の哲学にしたがえば、こうした構成要素こそが実在の名に値するのであって、ハンマーといった対象はそれから派生するものにすぎないことになるのだ。
哲学はソクラテス以前の時代において、これらすべての存在者の基底にある、より根本的な実在を見つける取り組みとしてはじまったのだ。ソクラテス以前の哲学者たちにとって、世界を構成するのは、水・空気といった不滅の要素や、愛憎によってさまざまに混合される四元素、空虚のなかで方向転換する原子、あるいは、わたしたちが触れうるあらゆる事物の奥底でうごめく無定形の「アペイロン」であった。これらのうちどれが世界の土台として選ばれようとも、宇宙にあふれるなじみの個体的存在者が根源的なものとされることはない。宗教や迷信の対象だけではなく、花や星々、野生動物、海賊船、銅山といったものまで、あらゆるものがこのようにして土台から掘り崩されてしまう(undermined)。これらはすべて、より根源的なものから構成された混合物としてあつかわれることになるのだ。このように、ソクラテス以前の時代において哲学とは、もっとも根源的な要素にかんする決定の問題にすぎなかったのである。とはいえこうした態度は、ソクラテス以前の時代だけに限られたものではない。同様の態度は、現代でも見いだされる。〔たとえば〕現代の粗雑な唯物論では、オブジェクトを、分子、原子、クォーク、電子、あるいは弦の集合体とみなす。また、いわゆる「前個体的なもの」の哲学では、世界を準分節化されたかたまりとみなし、そこから断片が人間知性によって恣意的に切り出されるのだと考える。もっと最近の哲学では、世界を数学的構造としてあつかい、それらがさまざまな観測規模に応じて、孤立した「実在的パターン」へと分裂するのだと考える。このようにオブジェクトを、真理であるにはあまりに浅薄だとみなす理論に対して、「下方解体」(undermining)という語をもちいることにしよう。この理論によれば、実在の活動は、個体的事物の奥底にある深層において―微小な要素的断片から成るにせよ、準流動的でホーリスティックなかたまりから成るにせよ、なんらかの深層において―繰り広げられるのだ。 次にそれに対する「上方解体」の立場を明らかにする。それはつまり「対象はなにをもたらすか」と問う方向に還元するものだ。これによって対象は、その結果(関係性や相互作用など)に還元される。ハーマンは、この戦略を「上方解体」と呼ぶ。上方解体の哲学は、対象の上方に生じる表層的なものによって対象を置き換える。ふたたびハンマーを例に考えてみよう。上方解体の哲学は、たとえば関係性のネットワークを実在的なものとみなす。したがって、孤立したハンマーそのものは意味をなさないことになる。そもそもハンマーとは、釘を打つためのものだ。そしてそれは家を建てるためであり、さらにそれはわたしの生存を確保するためである。上方解体の哲学にしたがえば、こうした全体的な目的のネットワークこそが存在するのであって、ハンマーはこのネットワークにおけるたんなる一コマとして存在するにすぎない、ということになる。 オブジェクトに対するこうしたあつかいが生じるのは、哲学者たちがつぎのように述べるときである。彼らは、「オブジェクトとは、それが観察者に対していかに現われるかということ以上のものではない」とか「オブジェクトとは、直接的に知覚される性質を恣意的にあつめた束にすぎない」などと述べたり、あるいは「『出来事』だけが存在し、そのしたに横たわる実体は存在しない」とか、「オブジェクトは、他の事物に影響をあたえたり、あたえられたりする限りにおいてのみ実在する」などと述べたりする。いずれの場合においても、オブジェクトは無用な仮説としてあつかわれることになる。彼らにとってオブジェクトとは、意識の直接的所与や世界の具体的出来事のしたに、まちがって設定された深淵なのである。
最後に「上方解体と下方解体の双方を〜組み合わせるという方法」を論じる
この方法は、たいてい科学的唯物論においてもちいられる。科学的唯物論者は、わたしたちの日常的なオブジェクトの基底にその構成要素を見いだすことによって下方解体し、さらにこれらの微小な断片がまさに数学的に定式化可能な属性をもつのだと考えることによって上方解体する。
こうしたパラダイムに対して「こうした下方解体と上方解体に対する反動的な系譜の中心は、もちろんアリストテレス的系譜である。この系譜では、個体的存在者は第一実体としてあつかわれる」とし、ハーマンは「わたしにはこれらふたつの哲学よりも、アリストテレス的系譜のほうが正しいように思われる」といった立場をとる。そしてアリストテレスの追随として「スコラ哲学、ライプニッツは、第一実体や実体形相という発想のもとで、初期のオブジェクト指向学派を形成したのだとみなすことができる」とする。「とはいえわたし自身の場合は、現象学をとおして間接的に、この〔オブジェクト指向の〕系譜へといたった」とし、それぞれ別個の革新的潮流としてフッサールとハイデガーをあげる。 フッサールとハイデガー
フッサールについて
フッサールは、現象を超えた外的世界についての理論を宙吊りにすることによって、現象をわたしたちに現われるがままのすがたで分析し、クロウタドリや郵便ポストといったわたしたちがかかわる現象の捉えがたい輪郭に注意を傾けた。たしかにフッサールが ― 『論理学研究』においてでさえも ― 根本的に観念論者であるということに疑問の余地はない。彼にとって、意識によって原理的に観察不可能な実在が存在しうると述べることは、意味をなさない〔からだ〕。 だがそうした見解に対してハーマンは「フッサールはしばしば実在論者であるかのように感じられる」とする。それは「個体的な事物たちが、精神のうちの現われによって完全に汲みつくされることなく、どこまでも不透明のまま抗う」といったカント的態度や「たんに個体的事物を上方解体して、意識の現われへと還元してしまうのではなく、具体的な個体的事物がもつ数々の側面を目のまえにして、しばしば当惑しているかのよう」に感じられるというのだ。 フッサールはブレンターノと同様に志向性に関心を抱いた。つまりそれは、精神のまえに置かれたオブジェクトに関心を抱いたということを意味する。〜だがフッサールは、『論理学研究』のもっとも重要な箇所のひとつのなかで、まさにこの志向性の意味を規定するさいに、ブレンターノから距離をとった。ブレンターノは、志向性は「経験された内容」にかかわると考えたのだが、フッサールからすれば、志向性は「対象付与作用」から成るのだ。このちがいは無味乾燥で専門的なものに見えるかもしれないが、わたしはここにこそフッサールのもっとも重要な哲学的貢献があると考える。リンゴとわたしたちとの出会いは「経験された内容」から成り立つのだという〔ブレンターノの〕主張は、わたしたちが経験するのは民主的な平面のうえの無数の性質だけであって、これらの性質が圧縮された結果、リンゴと呼ばれるひとつの事物ができあがるのだという主張に等しい。リンゴのまさにこのかたち、手にしたときの温度感、この固さの具合、まさにこの瞬間に現われる輪郭、この瞬間の甘さ ― これらはどれも、経験された内容として、ひとしくそのリンゴの性質である。しかしフッサールは、この状況を別様に捉えた。フッサールにとって、リンゴの経験は対象付与作用であって、それはわたしたちに刻々と現われる、リンゴの諸性質のリストではないのだ。わたしたちはリンゴを空中へと放り投げ、それをさまざまな角度から眺める。そして、さまざまな強さの陽射しを浴びるリンゴを観察し、幸福な気分あるいは深刻な憂鬱さのなかでそれを描写することができる。これら一連の状況において、そのリンゴはわたしたちにとっておなじリンゴでありつづける。フッサールの有名な専門用語をもちいれば、数えきれないほどのリンゴの「射映」(Abschattung)がある。リンゴが示しうるさまざまな見かけや特徴をたしあわせても、リンゴそのものを手にすることはできないだろう。むしろリンゴは、さまざまな瞬間に無数の側面を提示しつづける、永続的な単一体として、はじめからそこにあるのだ。 フッサールにとって志向的対象は、精神のまえに置かれたたんなる性質の束ではない。〜オブジェクトは、さまざまなときにさまざまな性質をあらわにしつつも、それらとは別個のままでありつづけるのだ。管見では、これは哲学史上まったく新たな事態である。たしかにフッサールは、実在の世界を締めだし、すべてを内在的な現象の領野へとたたみこんだ。しかし彼はまさにそうすることによって、志向的領野の内部を、絶え間なく移ろう表面とオブジェクトとに分断し、そこにそれまでは知られていなかったドラマを発見することができたのだ。わたしはこうしたオブジェクトを、ふたつの理由から、志向的対象ではなく「感覚的オブジェクト」と呼ぶことにしたい。第一に、「志向的対象」という表現は無味乾燥で専門的であり、議論のさいに必要に応じて何度ももちいられると不快だからだ。さらに、もっと重要なこととして、「志向的」という語があいまいに使われるからである。おおくの哲学者たちはこの語をもちいることで、心的領野の外部にあるオブジェクトを意味しているのであり、しかも彼らは、この隔たったオブジェクトをわたしたちの思考が「指示する」のだと考えている。ところがこれは、ブレンターノやフッサールが志向性について語ったさいに意味していたことではない。このように、「志向的対象」という表現はしばしば混乱をまねくのである。以上の理由から、わたしたちはむしろ、感覚的オブジェクトと感覚的性質とのあいだの永続的な緊張関係について語ることにしたい。この緊張関係において、一方ではリンゴが時々刻々の変化のなかで同一性を保持しつづけ、他方では表面上の諸性質が万華鏡のようにはげしく移り変わっているのだ。 「こうしてわたしたちは、現象学によって描かれた純粋に感覚的な闘技場の内部において、いかにしてオブジェクトと性質が闘争を繰り広げているのかを理解することが可能となる」としてまさにフッサールの相関主義的性質を明らかにする。そして続いてハイデガーを論じるにあたって「ハイデガーからすれば、わたしたちはそもそも意識への現われを介して事物をあつかっているのではない。ハイデガーがフッサールから決別したのは、有名な道具分析においてであった」とし、「本稿の目的からすれば、この道具分析を簡潔に要約すれば十分だろう」としてハイデガー論に入る。 ハイデガーについて
ハイデガーを理解するうえで重要なことは、なにかが意識に現前する限り、それは眼前にある(vorhanden)にすぎないということだ。だがこのような仕方でわたしたちの精神に現前するものは、わたしたちがかかわる存在者のごく一部分にすぎない。わたしたちが吸い込む空気、わたしたちが立つ床、わたしたちの内部で機能する心臓や腎臓、肺など、これらはどれも滞りなく働いている限りにおいて現前することはない。ハイデガーの読者にとっては周知のことだが、意識的な注意にのぼってくるのは、たいてい壊れた道具である。〔これに対して〕滞りなく機能している道具は、眼前にあるのではなく手元にある(zuhanden)。
こうした見解にハーマンは3点付け加える。まず「道具」とは「使用」ではなく、(おそらく)現存在から手元存在者への交渉によってなりたっていることを論じている? 第一に、道具分析の適用範囲は、狭い意味で「道具」と呼ばれる特定の種類の存在者(ハンマー、ドリル、車、銃、コンピュータは含むが、家族、友人、ペット、神は除いたもの)だけに限定されない。むしろすべての存在者が、手元にあるという側面と眼前にあるという側面の両方をもつ。それは、わたしたちが家族や友人たちをハンマーやドリルとおなじように「使用する」からではなく、友人たちが道具に劣らず深遠だからである。彼らは、わたしたちがなしうるどんなアクセスよりも深遠なのだ。ある瞬間のハンマーの知覚は、ハンマーそのものとおなじではない。これとおなじことは人間にかんしても言えるだろう。さらには、痕跡によってのみ疎通可能な隠れたる神にかんしても、なおさらおなじことが言えるのである。
そして「第二に、道具分析を、実践と理論の区別と同一視する」ことを避けるべきとする。
こうした解釈にしたがえば、ハイデガーは、たんにハンマーについての知覚や理論が理論以前の使用に基づいているということを指摘したにすぎないことになる。〔だが〕こうした解釈の問題点はあきらかである。というのも、もし道具がつねにその知覚や理論よりも深遠であるならば、同様に、道具はその使用よりもまた深遠であるからだ。椅子に座ることは、椅子について思考すること以上に親密な関係でありはしない。どちらの場合においても、椅子そのものは、わたしたちとの関係よりも深遠であって、汲みつくすことのできない余剰をとどめている。この余剰は、理論と実践のずれではなく、物自体と関係のずれなのだ。ただし、ここにはさらなる一歩 ― ハイデガーはけっして考察することのなかった議論への一歩 ― がある。理論と実践が世界内の事物を汲みつくすことに失敗するのは、人間や知能の高いごく少数の動物たちだけがもつ、悲劇的な精神のせいではない。むしろそれは関係性一般の限界である。人間が道具を使用するときに劣らず、無生物間の因果関係においても、オブジェクトどうしはたがいに退隠する(withdraw)。トタン屋根をうつ雨も、その屋根のうえのサルも、その屋根のしたの貧しい住人も、みな同様にトタンの実在性と親密な接触をもつことはできないのである。〔さらに〕簡単に付け加えておけば、因果関係におけるオブジェクトどうしの退隠は、因果性を深刻な哲学的問題にする。というのも、もしオブジェクトどうしが直接的に触れあえないならば、それらはいったいどのようにして影響しあうというのだろうか。そこには、第三項、すなわちオブジェクトを相互作用させる媒体といったものがなければならない。因果性は、直接的で無媒介的ではなく、間接的で代替的でなければならないのだ。 最後に「ハイデガーが描く、現象の奥底へと退隠する道具存在の世界は、個体的事物から成り立っていなければならない」とする。
だがこれは一見すると、あらゆる道具が融合して単一の体系をなしているかに見える『存在と時間』の精神に反するように思われる。ハイデガーが述べるように、「ひとつの道具はけっして『存在し』ない」。この点は後期の著作にも妥当するように思われる。「事物」について論じた後期の著作では、個体的存在者の隠れた部分が「大地」と呼ばれるのだが、おおくの場合、この「大地」は分節化された諸個体の集合としてではなく、一枚岩のようなかたまりとしてあつかわれる。エマニュエル・レヴィナスが熱心なハイデガー研究者だった一九四〇年代に引きだした結論のように、存在の地下世界はあたかもざわめくかたまりのようであって、ただ人間の意識だけがそれを断片化することができるかのようだ。ところが、これは不可能である。ハンマーはドリルとは異なった仕方で壊れ、またドリルは心臓、腎臓、呼吸器とは異なった仕方で壊れる。作動しなくなった道具がもたらす衝撃と驚嘆は、好き勝手にできるようなものではない。世界は、意識だけが〔好き勝手に〕断片化できるような単一のかたまりではない。世界は、はじめから諸個体の断片でできあがっているのだ。 要約すれば、フッサールとちがいハイデガーの場合には、現象の奥底に実在的な世界がある。この点については、はっきりとしている。〔ここからさらに〕ハイデガーが言いたかったことをほんの少しだけ推し進めれば、この実在的世界は、理論的、実践的、因果的なあらゆるアクセスから退隠する、個体的オブジェクトによって構成されているのだと結論することができる。さらに推し進めるとすれば、こうした実在的オブジェクトは、それぞれが特定の実在的性質をもっていなければならない。というのもライプニッツが述べたように、単純で統一的なモナドでさえも、たがいに異なった性質をもっていなければならないからだ。さもなければそれらはたがいに交換可能になってしまい、ハンマーは観察者の気まぐれしだいで、ドリルや腎臓、イルカ、サルとおなじように機能できることになってしまうだろう。しかし、これはばかげたことである。 〔本節において〕わたしたちは、フッサールの考察をとおして、感覚的領野が〔感覚的〕オブジェクトと〔感覚的〕性質に分裂するのを見た。また、ハイデガーの道具分析をほんの少しだけ推し進めることによって、同様の区別を実在的オブジェクトと実在的性質とのあいだに発見した。こうしてわたしたちは、〈実在的オブジェクト、実在的性質、感覚的オブジェクト、感覚的性質〉の四項から成る世界を手にしたのである。〜ハイデガーが「四方界」という神秘的な理論によって目指したのは、こうした世界観である 四方界
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仮象の実在性についてのパラドクス
他の事物に影響をおよぼしているが、実在的ではない事物が存在するかもしれないという事例だ。これと関連するのは、「フラットな存在論」(flat ontology)という用語である。この用語は、ときを経てその意味を逆転させた。一九七〇年代のはじめ、ロイ・バスカーが実在論的な科学論にかんする著作のなかで「フラットな存在論」という表現をもちいたときには、それは論争を仕掛けるためのものであった。つまりそれは、実証主義に向けられた否定的な言い回しであって、世界をフラット化して人間の観察によってアクセス可能なものにするような理論を意味していた。この用語は、けっして実在論をよろこばせるようなものではなかったのである。だがその意味は、二〇〇六年に、バスカーを崇拝するマヌエル・デランダによって逆転された。デランダにとって「フラットな存在論」は、たんにすべての存在者が同様にあつかわれなければならないということを意味する。言いかえればそれは、鉄柱やカリウム原子と同様に、軍隊や都市、牛の群れまでもが実在的であるとするほどに、反還元主義的な用語なのである。〔こうして〕いまや「フラット」の意味は逆転した。その語が意味するのは、すべてが人間の意識の領野に住みつき、もろもろの次元が失われた世界ではなく、むしろあらゆる次元がおなじ土俵のうえに存在するような世界なのだ。 完全にフラットな存在論の最たる例は、初期のブルーノ・ラトゥールの哲学である。初期ラトゥールにとっては、人間も人間以外の事物も、物質の集合体も人間の集合体も、さらにはアニメキャラクターでさえも、すべてがひとしくアクターである。たがいにおおきく異なっているにもかかわらず、〔このように〕すべての事物がひとしくアクターであるとされるのは、それらがみな、他のものに対して影響をおよぼしているということによる。比較的最近のもので言えば、一九九九年の『パンドラの希望』のなかでラトゥールが述べているように、実在的であるということは、他のなにかを「修正、変換、撹乱、創造するということ」を意味する。実在は、それがどうあるかによって定義されるのではなく、それがなにをしているかによって定義されるのである。〜初期ラトゥールにとって、実在するとは、他の事物に対して影響をおよぼすということを意味する。そしてアリストテレスが、すべての人間はひとしく人間であり、すべての樹木はひとしく樹木であると考えたのとちょうどおなじように、初期ラトゥールにとって、すべてのアクターはひとしくアクターなのである。ブライアントにとって、なんらかの影響をおよぼすものはどんなものでも実在的である。棒人間もポパイもラヴクラフトの怪物もみな、だれかの気分に対してであれ、映画館や書店の売り上げに対してであれ、なんらかのものに多少なりとも影響をおよぼすだろう。それゆえに、あらゆるものがひとしく実在的となるのだ。ブライアントは、このように虚構世界のあらゆるキャラクターに対してはっきりと実在性をあたえている。しかしそのために、現実的なものも可能的なものもすべてが実在的となる、不条理と言っていいほどのインフレ状態におちいった宇宙を擁護することとなり、この点において非難を招いてきた。 このようにブライアントとラトゥールにとって、実在性と影響力はたがいに交換可能な語である。 ただこれは「科学」や「実在」を特権的正義に掲げる、「思弁的実在論のエピステモロジー派」の立場をとるわけではないとして、なぜならそれは哲学を酷く矮小化してしまうからだという(その点でブライアントに賛成するとのこと)。
このことは一見わたしを、思弁的実在論のエピステモロジー派とでも呼びうるようなものとおなじ陣営に位置づけるように思われるかもしれない。この陣営にとって、ポパイのような存在者を実在的であるとみなすのはばかげたことである。さらには、日常的に経験される他のおおくの常識的な事物にかんしても、その存在を信じることはばかげているのである。彼らの目的は、事物についての正しい科学的イメージを称揚し、彼らが「日常的イメージ」(manifest image)と呼ぶものを破壊することにある。ここで言うエピステモロジーとは、軽信的なキリスト教徒や錬金術士、ラトゥール主義者たちの誤りを指摘して、世界を科学にとって安全なものにする方法を意味している。ブライアントであれば、すべてのイメージは実在的であると主張するのに対して、エピステモロジー派の暗く曇った目からすれば、あるイメージは実在的であり、またあるイメージは偽となる。これに対してわたしは、たんにすべてのイメージが偽であると考えるのであって、エピステモロジー派の立場とはいっさいかかわりがない。そしてこのことは、わたしをますますオッカムの剃刀の圏域に引き止めることになる。というのも、思弁的実在論のエピステモロジー派は、たとえそれを「科学的」イメージと呼ぶことに同意したとしても、じっさいにはイメージ以外のなにものでもないような無数のオブジェクトに対して実在性を認めるのだが、これに対してわたしの立場だけが、感覚的なものと実在的なものを混同することがけっしてないからである。わたしの立場からすれば、感覚的なものは、どれほどおおくの影響をおよぼそうとも、けっして実在的ではないのだ。 べつの仕方で表現しなおしてみよう。わたしたちは、感覚的な木や椅子、アニメキャラクター、幻惑するユニコーンのような、人間経験に住みついたものについて語ることができる。ときどき投げかけられる問いは、こうした感覚的オブジェクトのうち、どれが実在的世界の事物と一致し、どれが一致しないのかをいかにして知るのか、というものだ。そのさいに求められているのは、ふるいにかけるための「基準」である。つまり、一方で、なんらかの実在的なものとじっさいに一致するものとしてクォークのイメージを賞賛し、他方で、ポパイやユニコーンといった素朴な「日常的イメージ」を嘲笑したり根絶したりするための「基準」である。しかし、問題を定式化しなおさなければならない。そもそもわたしたちのイメージが、なにかと「一致する」ことなどないのだ。暗闇へと退隠する実在的オブジェクトに対して、なんらかの同型的な類似性をもつことはできない。すべては虚構である。あるいは、ラトゥールのことばをもちいれば、すべては翻訳である。このことを理解するためには、木についての科学的概念がいかにすぐれていたとしても、その概念はけっして木そのものではないということを考えればよい。木の概念は、木そのものとおなじように、夏が訪れるたびに成長することもあるだろうが、それが葉を落とし、果実を実らせることはない。わたしがこのような不平を言うといつも、「それは『わら人形論法』であって、実在的な木とそのイメージが同一のものだとじっさいに信じている者などいない」と反論される。わたしはこれに対して「もちろんだれもそのようには言わない」と答える。一瞬でもそのように主張することは、あまりにばかげているだろう。ところがまさにこのばかげた説は、「ポパイのイメージはなにとも一致しないが、木のイメージは〔実在と〕一致する」という理論によって、ただちにもたらされるのである。この応答に対して彼らはただ、「木のイメージはたんなる形式や構造にすぎないが、実在的な木のほうは、このおなじ形式や構造が物質に刻まれているのだ」と付け加えることしかできないだろう。ところが、この補足がわたしたちにもたらすのは、質料形相論といういかがわしい伝統的形而上学以外のなにものでもないのだ。たんにその平凡さが、科学主義の派手な攻撃によって覆い隠されているにすぎないのである。 わたしが思うに、じっさい、シェイクスピアの仏訳や独訳が英語原文と一致しないのと同様に、いかなる感覚的オブジェクトも実在的オブジェクトと「一致する」ことはない。〔とはいえ〕どの翻訳も同等というわけではない。〔たとえば〕ワインの香りと相性のよい食事もあれば、相性のわるい食事もあるように、シェイクスピアのよい翻訳もあれば、わるい翻訳もある。あるいは、(ラトゥールがもちいる格好の例で言えば)原油をガソリンへと精製して車のタンクに入れるのに、よい仕方もあれば、わるい仕方もある(とはいえそれは、けっしてガソリンが原油の「コピー」であるということを意味しない)。以上の立場は、相対主義ではなく、むしろ最大限に徹底した実在論である。それが相対主義でないのは、じっさいに翻訳の善し悪しが存在するからだ。また、それが徹底した実在論であるのは、実在的オブジェクトを真剣にとらえ、それをどんな概念的モデルによっても置き換えることのできないものとみなすからである ― バナナやリンゴのモデルは、どれほど詳細なものであったとしても、それが世界のうちへと踏み出して、バナナやリンゴそのものになることはけっしてできない。 要するに、わたしはエピステモロジー派の企てを退けるという点で、ブライアントに心の底から賛同する。エピステモロジー派は、まるで警官にでもなったつもりで、わるい常識的イメージとよい科学的イメージとを選別しようとするのだが、その企ては、哲学の偉大さを、麻薬の取り締まりのような些末なことに切り詰めてしまうのだ。 そしてここでハーマンは「実在的」なものと「虚構的」なものをよりわけるのだから、「どのような場合において、翻訳は実在に対して遡行的に働きかける」のか、を論ずる。結局は行き詰まるのだが
さてそれでは、虚構的なものも実在的であるという、ブライアントのさらなる主張にかんしてはどうなるのだろうか。これにかんしては、わたしは問題を定式化しなおす必要があると考える。すべての実在的オブジェクトが翻訳へと変換されうるのだとして、問題は、どのような場合において、翻訳は実在に対して遡行的に働きかけることができるのか、ということである。こうしたことがごくふつうに生じるということは、否定できない。〔たとえば〕部屋についての感覚的経験がわたしたちを不快にさせる場合、わたしたちは家具の配置替えをすることになり、それによって実在的オブジェクトのあいだで移動が引き起こされることになる。また、イチゴのものたりない甘さは、イチゴそのものを改良する遺伝学的なしごとを引き起こすだろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』によって生じた有名な現象のように、小説のキャラクターがじっさいの自殺を引き起こすこともある。あるいは、エジプトのおおくの抗議者たちが心に抱いている漠然とした政治的発想は、じっさいの憲法となることによって、何世代にもわたって数え切れないほどおおくの人々に影響しつづけるかもしれない。さらには、ポパイやユニコーンと同程度にしか実在への要求をもたないオブジェクトであっても、玩具やテレビゲーム業界に莫大な貢献をなすことによって、実在的なものに遡行的な影響をおよぼすことができるだろう。 〔ところで前節において〕フッサール現象学における「形相」の考察をとおして、感覚的オブジェクトはつねに実在的性質をもつという奇妙な事実があきらかになったのであった。わたしたちがなにか適当な怪物を考えだしたとしても、それだけではただちに実在的オブジェクトを生みだしたことにはならない。ところが実在的性質であれば、そうするだけでただちに生みだしたことになるのだ。なぜならユニコーンやドラゴンは、わたしの精神のうちに存在し、わたしの気分に働きかけているという理由だけで、ただちに実在的であることにはならないのだが、それでもそれらは実在的性質をただちに有するからである。わたしたちは、〔ユニコーンやドラゴンといった〕精神のうちの虚構的存在にかんして、なにがそれらの決定的な特徴であり、「形相」をなしているのかを、けっして正確に述べることはできない。そうした特徴は直接的なアクセスから退隠してしまい、どんなに分析や解釈をくわえたとしても、それを超え出てしまう。まさにこの事実こそが、こうした特徴を ― それが非実在的事物(たんなる感覚的オブジェクト)に属すのだとしても ― 実在的にするのである。問題は、どういった条件のもとで、非実在的事物の実在的性質が、実在的オブジェクトへと配分・再配列されることになるのか、そして、精神内の虚構的オブジェクトが実在的なものへの架け橋を渡ることになるのか、という点である。〔前段落で〕すでに述べたように、こうしたことはしばしば生じるが、ときには生じないこともある。いったいどのようにしてそうしたことが生じたり、生じなかったりするのだろうか。この点だけが難問として残される。 本書の主題
まず美学論を展開するべく、唯物論哲学としてのオブジェクト指向存在論を拒むところからはじめるとする。
オブジェクト指向哲学は、しばしば最近の唯物論哲学のリストに分類される。この「唯物論」という言葉を断固として拒否することからはじめよう。なぜなら、わたしは唯物論を、現代におけるもっとも有害な哲学的誘惑のひとつだとみなしているからだ。とはいえ、オブジェクト指向哲学を唯物論だとみなす人々にも、なにか理由があるはずである。だれもオブジェクト指向哲学を、たとえば「ヘーゲル主義」だとか「マルクス主義」だとは呼んだことがない。それにもかかわらず、わたしの研究と、唯物論に共鳴する人の研究とのあいだに密接な近さが見て取られるのには、なにか理由があるはずなのだ。そこでまず、ジェーン・ベネットによる唯物論の擁護を考察することからはじめたい。 とはいえフォーマリズムには、すでに文学や建築、視覚芸術において議論されてきた長い歴史がある。わたしは自分の提唱するフォーマリズムが、こうしたなじみのものとは一切かかわりがないのだと主張することになるだろう。じっさい、(語の通常の意味における)フォーマリズムと(語のあらゆる意味における)唯物論とは、おなじ誤謬のふたつの側面であるということが示されることになる。わたしは最終的にフォーマリズムではなく、芸術においてそれよりもずっと古く、評判の悪い用語 ― すなわち「ミメーシス」の復活を試みる。いいかえれば、〈芸術はなによりもまず世界の模倣である〉という考え方を復活させることになるだろう。ここでわたしは、芸術はミーメーシスであると主張するが、それは、模倣物をつくるという生産的な意味においてではなく、むしろ、メソッド演技法(method acting)のような演劇的な意味においてである。芸術家が模倣をするのは、外的事物のコピーを生み出すことによってではなく、外的事物になることによってなのだ。 https://scrapbox.io/files/6556f2f792b23f001c4508ac.png
冒頭
まず伝統的な哲学の系譜に対して、思弁的実在をハーマン流に位置付ける。
思弁的実在論なんてものが本当にあるのか。あるとしたら、それは何か新しいものなのだろうか。この問いの一方ないし両方に対して、多くの批判者が「いいえ」と答えようとしてきた。しかし私の見立てでは、答えは、はっきり両方ともに「はい」である。実在論から出発しよう。この言葉は人によってさまざまなことを意味するが、哲学でふつう言われる意味は比較的はっきりしている。つまり実在論者とは、人間の心とは独立した世界が在ることに賭ける人々だ。実在論を否定する簡単なやり方は、その反対の立場つまり観念論を採用することである。観念論にとって、実在は心と独立ではない(とはいえ後に確認するように、グラントはこの語のこうした定義を拒否している)。観念論のもっとも明白な事例は、ジョージ・バークリの著作に見つかるものだろう。バークリにとって「存在することとは知覚されること」である。現在ではバークリを文字どおりに受け継いでいる人はわずかだが、しかし現代にはもっと人気のある観念論の流れがあり、これがいわゆるドイツ観念論だ。フィヒテ〜シェリング〜ヘーゲルである。現代では、スロヴェニアの多産な思想家スラヴォイ・ジジェク(一九四九年〜)が哲学的観念論者の良い例である。ただし彼自身は、このレッテルを貼られるのをよしとはしていない。独立世界の存在を肯定する実在論者、またこれを否定する観念論者に加え、実在論と観念論を「超えて」、より洗練された中間地を手にしたと主張する人々もいる。〜フッサール、そして彼の弟子にして反逆者のマルティン・ハイデガー〜だ。両者にとって、外的世界をめぐる問いは単に「偽の問題」である。彼らの見方によれば、私たちはつねにすでに私たち自身の外側にあって対象へと向けられている(フッサール)。あるいは、前理論的な実践的活動を通じてつねに世界へと関わっている(ハイデガー)。どちらの観点からしても、互いに孤立した思考や世界を考えることは不可能である。というのも思考も世界も、相互的な相関においてのみ存在する一対のものとして、いつも取り扱われるからだ。分析哲学はつねに、実在論と(より小規模だが)観念論とは二者択一として通用するものと考えてきた。これに対して大陸哲学は、実在論vs観念論という問いは哲学的に真剣な注意を払う必要のないぶざまな偽の対立であるという、フッサールとハイデガーの見方をほとんど満場一致で採用してきた。 こうしたメイヤスーの言葉でいえば、ポストカント的な系譜である「相関主義を拒否するという一点において」最初の思弁的実在論者たちは「団結したのだと述べてもよいだろう」とした。実際、「思弁的実在論を哲学的に企画した最初の四人は、そもそも性分がばらばら」で「二年以上も一緒に集ま」っていないという。 /icons/白.icon
レイ・ブラシエ
ゴールドスミスのブラシエ
まずブラシエは物心二元論的なものから、唯物論的一元論へ導くものとして認知科学を重要視している。 これぞ二十世紀のもっとも重要な哲学的発展だと言えるものは、おそらく認知科学の出現だろうと考えている。すなわち、認知プロセスは、経験科学が研究する客観的現象の領域に再統合されうるという考えの出現だ。
次にメイヤスーように「実在への直接的なアクセス」として「知的直感」に訴えること、つまり思考を「特権的存在体」として扱うことを拒む。そしてグラントのように自然の一生産物として思考である、という立場をとる。 グラントについての彼のまとめは、哲学的に興味深い。書き起こしの冒頭、ブラシエはグラントの思想の中心へとまっすぐ向かっている。「自然は自己組織化している。自然の観念的構造が思考の構造を主産する。しかし、もし認知が結果であり生産物であるならば―もし認知が各部分ごとの他の自然現象と同じように条件づけられているならば―そのとき問題は、思考がある所与の瞬間、ある特定の歴史的状況において、実在の究極構造を描いたり、把握したりすることが可能であると想定すべき理由があるかどうか、である」。このグラントについての説明は正確だ。のちに見ていくとおり、グラントは、そのシェリング本や他のところで、思考を、実在全体を超越しうる特権的存在体としてではなく、自然のもう一つの生産物として扱っている。このため彼は、メイヤスーと特に相性が悪かろう。というのも、メイヤスーは、人間主体が物の一次性質を数学的に把握することを非常に重視しているからである。少なくともこの点では、ブラシエはグラントの側につく。「物質的実在の構造が思考の構造を生成する。しかしこれは、知的直観への依拠については一切あてにすべきでない、ということを意味する。つまり、思考は組織化と実現という己の物質的・神経生物学的条件を端的に超越することができ、また即自としての実在の叡智ヌーメノン的構造を把握できる、とする考えはあてにできない」 ただ同時に「グラントについては、ひとつのリスクに言及している」。それは通俗的な進化論的歴史観に陥ることである。だが、これは「超越論的自然主義」という「自然自体にすでに現前している」ものから思考が創発するという点で越えることを示す。
もし私たちが思考を自然の生産物に変えてしまうなら、私たちは簡単に、最近はやりの理論、人間思考の構造は単に進化の歴史の帰結であるとする理論になびいてしまうだろう、と。「これは、自然化された認識論を大いに活用した主張である。しかし形而上学的に問題がある主張だと私は考える。なぜなら、進化適応が世界についての正確な信念のみを排他的に優遇するなどと想定する理由がないからだ」。つまり「実在の顕著な特徴や深層構造を正確に追跡しうる認知装置が、進化によって間違いなく人間の有機体にもたらされると想定するいかなる理由もない」。ブラシエが述べるように、グラントの斬新な解決法とは、人間の思考は自然自体にすでに現前している思考から生じる、と主張することである。「イアンの本の力は、彼が「超越論的自然主義」と呼ぶものを提案しようとしている点だ。その主張によれば、自然的実在の観念的構造から、観念生成の構造の創発を説明することができ」、その結果として「観念生成は、観念的力動―すなわち単なる経験的実在や単なる物体的実在の裏に控える超越論的力動―の軌跡を追うことができるだろう」。
そしてハーマンは「2007年のブラシエは〜OOOがとる逆方向のアプローチに対応している」とするが、グラントの立場から考えたパースペクティヴにおける二点の異論を提示する。
一つ目の問い
OOOが実在的特性と感覚的特性とを区別することにかかわっている。これについてブラシエは次のように問うている。「任意の対象に対して感知可能な特性と感知不可能な特性とを区別する際の基準は何だろうか。何らかの認識論的偏見や定式化をこの対象に与えることなしに、こうした基準を提供することは可能だろうか」
これに対してグレアムは、メイヤスーや「フッサールが考えるように、実在的性質は感覚ではなく知性によって獲得されねばならない」というわけでもなく、下記のように論じる。
OOOが実在と感覚について論じるのは、世界の正確なイメージを偽者から区別するためではない。これは存在論的区別であり、認識論的区別ではないのだ。
二つ目の問い
これに対してハーマンは「実定的な存在論的現象」としての立場は認めるが「どうして彼は、ヤハウェや処女マリアをフロギストンと同じ水準においてよいと確信できるのか疑問である」とする。
虚構を嫌うブラシエ
ブラシエがひどく嫌っているのは、エドムント・フッサールの現象学とブリュノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論(両者ともOOOに枢要な影響を与えている)だと言って差し支えない。フッサールとラトゥールが同じグループに入れられることはそうないが、少なくとも二人には、ひとつの主要な類似点がある。二人とも、ただ現れるだけの存在の消去しがたさに傾倒していることだ。フッサールにとっては、意識に与えられた対象は、たとえそれらがのちに妄想と判明しようが、志向対象として真剣に受け取られねばならない。対象であるということは、何らかの志向する心に対して現前することである。ラトゥールにとっての基準はこれと異なっているが、ブラシエの視点からすれば、やはり同じく間違っている。「アクター」(対象に相当するラトゥールの用語)であることは、他のアクターに効果を及ぼすことと同義である。フッサールとラトゥールの両者にとって、ドナルド・ダックや祖母の家の屋根裏で見たぼやけた幽霊は、二つとも、化学薬品や原子に劣らず、哲学にとっての正当なペルソナである。たとえのちに非実在だと分かろうとも、それに固有の資格で探求されねばならないのだ。 「こうした主張に出くわした時、彼の最初の反応は、そうした非実在的存在体を消去しようと試み、認識された宇宙からそれらが一斉に追い払われるよう求める」のがブラシエismなのである。
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プロメテウス主義
「プロメテウス主義とは端的に、私たちが到達しうるものや、私たちが自分や世界を変容させるその仕方に、予め決められた限界があると想定する理由は一切ないという主張である」。言うまでもなくブラシエにとってこれが意味するのは、前進するための道は科学的合理性によって指し示されねばならないということだ。メッツィンガーをこだまさせつつ、彼は、プロメテウス主義には「自己なき主体性」が必要だとも述べる。
グラント
不注意な読者なら、グラントの序文のページをちらりと読んで、彼が哲学を科学の手にすっかり委ねるように説いているのだと決めてかかるかもしれない。(...) グラントは (...) 自然哲学は「「哲学を自然科学に適用する」という「哀れな世俗的関心」」のために時間を無駄にするべきでないという主張に関して、シェリングに同意する。グラントは続けて、カール・ポパーからの助言―「自然への哲学的介入は、自然科学がそれを必要とみなす時にかぎり急遽参照される理論的資源[に切り詰められるべきであり]、そのため自然哲学からその形而上学の「新たな中世の蒙昧主義」を剥ぎとって使用可能な核を取り出すこと」―に対し、軽蔑の念を表明する。グラントは、現代自然主義や全開の科学主義とは違い、現代の諸科学分野の侍女になるべきだとする主張に対抗して、形而上学的思弁の権利を支持する。 https://scrapbox.io/files/651144d7d29778001bbadb52.png
OOO〔オブジェクト指向存在論〕が擁護する考え方にしたがえば、対象(実在的対象、虚構的対象、自然的対象、人工的対象、人間、非人間)は相互に自立的であって、前提されるのではなくむしろ説明が必要な特殊事例においてのみ関係する。この点を専門的な表現で強調して言えば、あらゆる対象は相互に退隠しているのだ ハーマンにしたがえば、まず自立した個々の対象がある。それらは特殊な事例において、ごくまれに関係するにすぎない。ハーマンは、こうした対象のあり方を、ハイデガーの読解から引き出した「退隠」という概念によって表現する。対象は、他の対象から退隠している、つまり隠れているのだ。対象は表面にいま現れている以上の性質を、つまり余剰を隠しもつ。自立した対象は余剰を隠しもち、他の対象との直接的な関係から退隠している。こうした対象がいたるところに満ちている世界観を描き出すのが、オブジェクト指向存在論である。
こうした切り口は「根本的に世俗的な精神にもとづくもの」である一方、「実践的なカトリック教徒」なラトゥールらしく「核となる部分に宗教のための場が残されている」理論であると言えよう。
だが「はやくも1987年には」、「「あらゆる状況は人間的要素と非人間的要素の両方を含む異質なアクターのネットワークから成り立つ」という洞察に飽き飽きとしていた」という。そしてラトゥールは「実在のある領域が自らに折り重なって他の言説様態を排除する仕方にしだいに関心をもつ」ようになり、「四半世紀の苦心のすえ、この関心は後期の最高傑作である『存在様態探求』へと結実した」らしい。