グラント
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主題 ①
デカルト以後のすべてのヨーロッパ哲学が自然の概念だけでなく、その存在までも亡きものにしている。
「現代の形而上学と自然哲学が認識論的・分析的な限界のなかに閉じ込められたまま」だとして、その起源をカントとする。
〔ところで〕このような限界を哲学に押しつけたのはカントのコペルニクス的転回であった。これによってカントの哲学は結果的に形而上学から「それ自体においてあるもの」を切除し、そのようなものの役割を「数学のx」へと還元し、形而上学を認識論に、哲学体系の構築を概念的・論理的分析にまるごと置きかえてしまったのである。
シェリング哲学の本質と困難は、それがカントのコペルニクス的転回の帰結に厳密に逆らって哲学の役割を定義しなければならない、ということにある。「哲学によって〜人間はたんなる表象を超えた地点にまで運ばれなければならない」。これによって一つの哲学的な-厳密に言えば形而上学的な-文脈が与えられる。この文脈のなかで本書はいまだ失われていない重要性を証明しようとするのである。 そしてこの意味でヤスパースのシェリング論を真っ向から覆す。 その後継者としてまさにドゥルーズをだす
主題 ②
シェリングの哲学の変遷は、第一に「フィヒテ的な時期」、第二に「自然哲学の時期」、第三に「同一哲学〜の時期」、そして最後に「自然哲学に立ち戻る」と言われる。これらの変遷をグラントは独自に解釈し、「シェリング哲学は始めから終わりまで自然哲学であり、それが何を対象としているかによって異なるだけ」と論ずる。
〔シェリング哲学の〕最初の時期は「フィヒテ的な時期」である。しかしシェリングの分析が示しているのは、フィヒテのように〈主観の理論〉が〈主観的なものを哲学の公理として用いること〉でしかないなら、〈主観そのもの〉の理論を哲学は構築できなくなってしまう、ということである。〜それだけではない。〔フィヒテ的時期に先立つ〕1794年の『ティマイオス註解』は「生成によって存在となったもの」に、また「能産的自然」を論じるプラトン自然学に関心を示しているが、その一方で〔フィヒテ的時期に続く〕『知識学の観念論の解明』は「自己組織する自然」.についての探究を含め、初期のプラトン的な主題をふたたび取り上げている。この二つの著作にじっかいに挾まれているのを見ると、シェリングが自然哲学をカント=フィヒテ的な哲学に公然と対置しているのはまちがいない。要するに「フィヒテ的」時期はフィヒテ的ではない、ということになる。実のところ、この時期に〈主観の理論〉に主要な関心が向けられているのは次のような目的のために必要だからなほかならない。その目的とは、フィヒテが主観を人間の反省的意識によって把握されうる主観に制限するならば、それに対しては戦いを挑まざるをえない、というものである。 つまり「カント=フィヒテ的」「主観の理論」を打ち倒し、オルタナティヴとしての「自然哲学」を打ち立てるための時期が第一タームなのである。
フィヒテ的な時期に取って代わると考えられているのは自然哲学の時期である。〜このあと〜はシェリング哲学的発展の第三段階を形づくるとされ、それは同一哲学ないし「同一性の体系」〔の時期〕と呼ばれている。しかし『近世哲学史講義』と『神話の哲学』との二度にわたってシェリングが述べているように、「同一性の体系」という呼び名は「いずれにしても著者自身は一度しか使用していない名称」なのである。〜その後、同一性の体系の重要性はあきらかに低下する。それにもかかわらず1840年代の終わりになってもシェリングはこの体系の創立を「わが青春の発見」と呼ぶであろう。ここからわかるのは、同一性の体系の重要性は減少するけれども、同一性そのものはそうではない、ということである。〜同一哲学と呼ばれているものはむしろ自然哲学そのものの内的な発展なのである。〜同一哲学の時期、つねに自然哲学に力点が置かれていたということは『人間的自由の本質』にも明言されている。 このように同一哲学とは「自然哲学そのものの内的な発展」なのであり、自然哲学の重要契機としての「わが青春の発見」こそが第三タームの本質なのである(ちなみに「同一性の体系」を用いた書は『私の哲学体系の叙述』である)。ここから下記結論に至るのだ。 そこで本書が第二に主張したいのは、シェリング哲学は始めから終わりまで自然哲学であり、それが何を対象としているかによって異なるだけなのだから、シェリングは「いかなる完結した体系も」生みださず、ただ「哲学の一連の発展段階」しか生み出さなかった、というヘーゲルの判決を信奉する人々も同様にまちがっている、ということである。
第一章 反カント=フィヒテ
アリストテレス=カントの物体論としての自然学
哲学におけるコペルニクス的転回にのっとって、しかも思弁的理性に対する「純粋実践理性の優位」が認める範囲内で、自然は「現象の無制約的な必然性」によって(実体的にというよりもむしろ)主観的に限定されて、のちに「自然の必然性」と呼ばれるものになってしまう (...) 形而上学から自然そのものが切り離され、いまやあとに残されているものは「現象の総体」としての自然でしかない
『自然科学の形而上学的原理』の冒頭でカントは自然を「〈もの〉の総体」と定義している。もっともその後には「私たちの感官の対象でありうるかぎりの」という周知のコペルニクス〔的転回〕らしい但し書きが添えられている。ここで問題となっているのは、哲学から〈自然そのもの〉が消去されてしまうもう一つの理由である。 (...) カントは自然を(a)自然界の物体の総体と見なした上で、同時に(b)〔自由と自然という〕二つのものの一方の極と見なしている。 その創始者はカントでもなければ、ハイデガーでもなく、一般に〈カント以後〉の哲学でもない。というのも彼らはアリストテレスの自然学についてシンプリキウスがおこなっている説明を踏襲しているだけだからである。シンプリキウスによると、アリストテレスの自然学は「万物の自然学」である。(...) アリストテレスとカントにとって自然学が「万物の」つまり「あらゆる物体の自然学」であるならば、シェリングの解決法はあきらかにこのような〈物体主義ソーマティズム〉の対極にある。というのもそれが提案しているのは〈その仕組みはわからないがとにかく自然の活動は物体の性質や属性に根ざしている〉というのではなく、むしろ〈「もの」-存在するものや実在するもの-は自然の活動の結果として生まれた〉ということだからである。言いかえると〔シェリングの〕自然哲学そのものがもはや〈物体主義〉にではなく、あらゆる物体やその根底を生みだす〈力の理論〉にもとづいているのである。「質量は物体のたんなる素材、言いかえると物体の根底にすぎないのだから、ただちに物体的というわけではない」。 カント=フィヒテ的二世界論の起源-プラトンではなくカント
ただ一般的には「ニーチェ以来、「二世界」論はプラトン主義に由来すると解されてきた」。これに則るなら「カント=フィヒテ的な二世界〔説〕」はプラトンを起源にしているようにみえるゆえ、反カント=フィヒテ的なシェリング哲学がプラトン的というのは相反するようにみえる。そうした一般的見解をグラントは下記のように葬る。
プラトンの (...) 形而上学においてピュシスが中心的な位置を占めていることは『ティマイオス』を読めばあきらかであるし、シェリングもそのように考えていた (...) シェリングの自然哲学の始まりに位置しているのは、プラトンの『ティマイオス』に提示されている一世界論的自然学の研究 つまり万物の生命の源たるピュシスによる自然解釈とは「あらゆる物体やその根底を生みだす〈力の理論〉」の原初形態なのであり、まさに「一世界論的自然学」そのものなのである。即ち、むしろ一世界論的自然学の起源こそがプラトンなのである(プラトンとシェリングの論の関連は二章で語られる)。では「二世界論の起源」はどこにあるのか。
二世界論の起源は別のところにある。(...) シェリングは、このようなカント=フィヒテ的な二世界論〔説〕の源泉をカントがおこなった「普遍的自然科学からの有機的自然の分離」に求めている。この分離によって「動物そのものはもはや物質ではなく、あたかも別世界からやってきたかのような、まったく別種類の存在である」という見せかけが生まれるのである。
アリストテレス的踏襲をしていたカントは、自然科学を「物体論」を明らかにできるものとした。そこで、カントは自然科学によって明らかにできる、物体主義的な「〈ものの総体〉」としての自然に秩序づけられてないものとして「動物」或いは「有機的自然」を扱ったのである。それゆえそれらは「あたかも別世界からやってきたような、まったく別種類の存在」として素描され、「これによって二世界論的自然学が生みだされた」。これが「普遍的自然科学からの有機的自然の分離」による「二世界論的自然学」という起源あたるのだ。
この二世界論的自然学からフィヒテは彼の二世界論的な形而上学を導きだし、これによって自然に対する哲学の返還要求がすべて公式に放棄されてしまうのである。
また上記は別箇所で「二世界論的形而上学の基礎は二世界論的自然学にある、というわけである。二つの世界とは〈外的自然という生命の無い無機物の世界〉と〈有機体の世界〉のことである」とも言い換えられている。こうした二元論はニーチェ、ベルクソン、ドゥルーズに見出される。この有機的自然の世界と物体論の世界の二元論を、有機的自然と無機的自然と言い換え、次のように論じる。 これと好対照なのがシェリングの自然哲学である。なぜならば、有機的自然と「無機的」自然を分断する境界線は自然学的根拠がなく、哲学にとっても有害であるので、取り除かれるべきだという主張が、『世界霊』以来、その必須の構成要素だったからである。両者の境界線を取り除くとシェリングが言うわけには、それによって有機的組織化を、機械論的自然秩序の例外にではなく、むしろ自然そのものの原理にするためである。初期のシェリングは「自己組織化する自然」の概念に注目してきたが、その際にすでにこのような含意があった。 反復発生による一元化
ここまで無機的なものと有機的なものによる、アリストテレスを起源としたカント=フィヒテ的な二世界論と、それらの境界線を無くさんとするプラトンを起源としたシェリング的一世界論を展開してきた。では具体的にシェリングは無機的なものと有機的なものをどのように繋げるのか。
この「反復発生」は19世紀におけるアカデミアにとって、超重要争点であるため、一度シェリングから離れて俯瞰するとする。 こうしたキールマイヤーを基礎づけにした議論がさきの引用であるのだ。
このようなキールマイヤー説から自然に導きだされるので、先に引用したシェリングの発言は〈彼が反復発生説を非線型的に用いている〉ことの証拠にもなっている。この非線型的使用では、反復発生の単位は「力動的過程」そのもの、つまり「さまざまな水準で反復される (...) 質量〔物質〕の連続的自己構成」である。言いかえると、有機的物質の生成にかんするシェリングの物理主義に歩調を合わせるかのように、有機体-あるいは有機的組織化-はたんに〈質量〔物質〕がその自己構成をさらに推進する〉ということの、つまりは〈しだいに困難になる無機的なものの有機的組織化〉の帰結にすぎないのである。とはいえ〈反復発生にあらかじめ定められた終極がある〉というような兆候はどこにもない。反復発生はむしろ「かぎりなく」「変化しつづける」のである。じっさい反復発生は自然の最高の所産である〔と考えられている〕「人間」で終わるのではない。(...) 力動的に活動することを通して「未知の思考器官をそなえた未知の人種」をたえず産出しようとするのである。このように反復発生を自然哲学的に論じることによってシェリングがおこなっているのは、つまるところ、反復発生の概念を反復発生の単位にかんして連続的に無制約化する、ということにほかならない。これによって反復発生の単位は、原子であれ、化学化合物であれ、有機体であれ、惑星であれ、とにかく特定の物質ではなく、質量〔物質〕の自己構成の力動的過程そのものに置かれることになる。(...) このようにして反復発生説は-1801年以後のシェリングの著作の中心を占める-〈同一性の自然哲学的な理論〉の基礎となるのである。 こうした有機性はカントに似通っているかのように見えるが、それは側面的な解釈である。つまり一世界論的に再帰性を論じているところに、シェリング特有の在り方が存在するのである。
第二章 プラトン自然学の再興
第三章
カント
「『自然科学の形而上学原理』に見られるとおり」カントは「理論理性の批判の形式的側面をその実在的側面から分離している」ので、「カントの自然学は自然哲学になれなかった」とシェリングはカントへの追悼文のなかで断言している。もっとも〈超越論的哲学が自然哲学になれなかった〉という問題はすでに『自然哲学考案』の「序論」でも論じられている。 カントのフィヒテ批判
知識学における形式の重要性をフィヒテが主張したために、たとえばカントはたんなる形式主義、「知識の内容を捨象する純粋な論理学」であると言って知識学を切り捨てた。
つまり知識学を「論理学から現実的なものを抽出する試み」としてフィヒテは提唱したのだが、これはカントに言わせれば、形式論理学はあくまでオルガノンでしかなく、カノンとして用いるフィヒテの知識学は弁証論的仮象なのである(補足として、カントはフィヒテの知識学の前著の公刊されている宗教論については称揚している)。 フィヒテとオーケン
第四章
第五章〈超越論的なものを自然化する〉
主題
本章の主題は四章にあるように下記である。
超越論的なものを用いてカントが「自然的認識の批判」を企てたのだとすると、シェリング固有の超越論的哲学は超越論的なものをふたたび自然化する。これによって超越論的なものは「自然の論理」に最初からそなわっているもろもろのアプリオリのうちに根を下ろすのである。じっさい「自然はアプリオリにある」とも言われていた。
第六章
第七章
memo
自然が絶対的同一性からうまれ二つの極になる
→固体と流体へ
それは絶対的同一性という高次では統一されている。