ラトゥール
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グローバルなものをローカル化
オリゴプティコン
ミシェル・フーコーを読んでいる者ならば皆、知っているように、「パノプティコン」、つまり、ジェレミー・ベンサムが十九世紀初頭に構想した囚人の全面監視を可能にする架空の刑務所は、空想的な計画にとどまっている。〜パノプティコンの絶対主義的なまなざしを脅かすものは何もないように見え、それゆえに、ベンサムの刑務所の中心を占めることを夢見る社会学者に、パノプティコンはかくも愛されているのだ。 上記のように社会の全貌を映し出さんとする「パノプティコン」的な空想に対して、『アリはなぜ、ちゃんと動くのか』で研究されているような「近視眼的なANT研究者」の在り方を下記のように提示する。 ANTの研究者が、今一度、アリの研究者と同じやり方で、流動的な社会的なものを集め直せるようになるにすぎない。アリの研究者は、アリが通る小さな橋をつくる方法を学ぶことで、アリの移動を阻むことなく、一匹ずつ数えることができるのである。
それこそが「オリゴプティコン〔駅の改札口のように、狭いところに集中させて眺める場や仕組み〕」であり、「オリゴプティコンの場合は、〜小さすぎるように見えるが、見えるものについては、よく見える」のだ。そうした立場で観察するオリゴプティストは「「構造の影響は、実際には、どこで生み出されているのか」〔構造はどこにあるのか〕」と問うことができる。 マクロという語は、ロシアのマトリョーシカ人形のようにミクロのものが埋め込まれている場を表すものではなく、つまりは、もっと広い、ないし、もっと大きな場を表すものではない。マクロという形容詞が表しているのは、等しくローカルで、等しく「ミクロな」別の場である。つまり、「マクロな」場とは、種差的な痕跡をともなう何らかのメディアを介して他の多くの場と結びつけられている場のことなのである。〜何らかの下部構造を、そのローカルな作用から切り取れば、何も起こらない。その構造は、謎の神座にとどまったままである。構造を形成する場と構造化される場との結びつきを切り離せば、構造を形成する場は、何かを構造化することをやめるほかない。
パノラマ
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