ヴァレラ
ヴァレラ
オートポイティック・システムは、構成素の産出(変換と崩壊)の各プロセスがひとつのネットワークとして組織化(単位体として定義)されたとので、そのネットワークは以下のような構成素を算出する。(1)各構成素は、相互作用や変換を通して間断なく、前に構成素を産出した、プロセス(関係)のネットワークを再生成し実現する。(2)各構成要素は、その空間における具体的な単位体としてのネットワーク(機械)を構成する。そのようなネットワークとして単位体を実現する位相的領域を特定することによって、その空間で各構成要素は存在する。 環境と構造レベルで可塑的なシステムの再帰的摂動を伴った継続的な相互作用は、システムの構造に常に自然選択を生み出す。この構造は一方でシステムの構造とその許される摂動の領域を決定し、他方で環境の中のシステムが分裂することなく作動することを許可している。 構造的カップリングは生命システムに特有のものではない
マトゥラーナ=ヴァレラ
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カップリング
単体がその環境とのあいだに破壊的相互作用をはじめないかぎり、観察者としてのぼくらは、環境の構造と単体の構造とのあいだに、〈両立性〉あるいは〈合同〉(適合)を、かならず見いだすことになる。この両立性があるかぎり、環境と単体は、おたがいに状態変化を引き起こしながら、攪乱をもたらす相手としてふるまうことになる。ぼくらはこの進行するプロセスを構造的カップリングと呼んだのだった ここで用いられている「単体」unityという語は、オートポイエーシス的システム理論で言う「構成素の産出過程のネットワーク」として環境と区別できる何ものかのことであり、「システム」と読みかえても指し示すところは同じである。というのは、マトゥラーナやヴァレラは「システム」というタームを「規定可能な構成素の集合」と定義しているため。
閉じているということ
オートポイエーシス的システムの性質は、しばしば「物質やエネルギーについては開いているが、情報的に閉じている」という言い方で表現されることがあるが、この「情報的に閉じている」とは、「入力」や「出力」がないということではあるのだが、それはシステムと環境との間に相互作用がないということではない。従来は「入力」や「出力」とみなされていたものを「攪乱」や「補償」として捉え直せということである。つまり、ここで問題となっているのはパースベクティヴの変更なのである。そしてその意味について以下のように語っている
生物とその環境との、相互作用の結果としての変化は、攪乱する動因によってひきおこされるものではあるが、それを決定するのはシステムの構造だ。おなじことが、環境についてもいえる。[環境のほうから見れば]生物は指令を出すものではなく、攪乱を引き起こすものなのだ
ヴァレラ
まずヴァレラは、「本稿では自然界のシステムにおける自己組織化の研究と理解のガイド役」となる二つの原理を紹介したいとし、その生まれと主張を下記のように述べる。
2つの原理は、経験的観察とサイバネティクス的思考の組み合せから生まれた。この原理の基本的な主張は、組織が明確に記述できる特定のクラスないしタイプのシステムの行動として自己組織化を考える、ということである。つまり、自己組織化そのものの根底にあるメカニズムを探求するということだ。
原理一
先に結論を言ってしまうと「固有行動」とは、「自己組織化」している「内的コヒーレンス」のこと
原理二
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原理一について
作動上の閉じ(operational closure)とは,あるクラスの「組織(organiza-tion)」のことである。実際,あらゆるシステムは,いったん何らかの基準によって弁別されると,次の2つの相補的な側面をもつ。1つはシステムの組織,すなわちシステムを定義する必要条件としての関係,もう1つはシステムの構造(structure),すなわちシステムをある形に構成する構成要索間の実際の関係。~ 組織は,システムが不統合に陥ることなく自らのアイデンティティを保持するかぎりにおいて不変的であり,構造は,組織上の制約条件を満たすかぎりにおいて可変的である システムの組織とは:「システムを定義する必要条件としての関係」―「不変的」
システムの構造とは:「システムを形成する構成素間の関係」―「可変的」
こう考えると,システムを定義するキー・ステップは,その組織を記述することである
上記のように結論づけるのは「不変的」な「組織を記述」することによって、「可変的」な「構造」を理解できるから「キー・ステップ」とするのだ。そこでヴァレラは記述方法を二つに弁別する。
そうではなく,観察者によって与えられた弁別基準に基づいてシステムは弁別されるのだから,観察者が何を十分条件あるいは好都合と考えるかによって,ある弁別に対して組織を特定する方法の候補はたくさんあるはずだ。その根拠を示そう。システムの組織の特性を記述するさいもっとも重要な選択の1つは,入力型の記述(input-typedescription)をとるか閉鎖型の記述 (closure-type description)をとるかということである。
「観察者によって与えられた弁別基準に基づいてシステムは弁別される」とあるように、弁別は恣意的なものである。それゆえ「組織を特定する方法の候補はたくさんある」〔方法は恐らく記述とも換言できる〕。その中からヴァレラは「入力型の記述」と「閉鎖型の記述」のどちらを選択するかが重要であるとする。
入力型の記述とは,きちんと定義された入力の集合とそれが代入される伝達関数を通してシステムと環境が相互作用する,という特殊な方法でシステムの組織を定義するやり方である。これは,これまでシステム理論やサイバネティクスにおける記述の標準様式であったから,なんら驚くぺきものではない。これは,メカニズムの何たるかについての特定の考え方と,それに対応する推論様式をともなっている。だが生物システムの研究をみると,入力型の記述とは相補的な記述様式を考えざるをえない。その記述様式は,直感的な表現をすれば,内部決定や自己主張を示すシステムが存在するという事実に基づいている。そのような自律的システムにとって,特性記述の主要なガイドラインは入力の集合ではなく,構成要素の相互連結から生じるシステムの内的コヒーレンス(internal coherence)という性質である。だから,作動上の閉じという用語を使うのである。 意訳するなら「システム理論やサイバネティクス」に用いられてきた「入力の集合とそれが代入される伝達関数を通してシステムと環境が相互作用する」という「入力型の記述」方法は、「生物システムの研究」では不完全であるため「相補的な記述様式を考えざるをえない」という。その「相補的な記述様式」はヴァレラによると「内部決定や自己主張を示すシステム」としての「自律的システム」であり、それは外部の「入力の集合」ではなく、内部の「構成要素の相互連結」から生じるものである。その性質を「内的コヒーレンス」と言い換える。だからそれは「作動上の閉じ」なのである。
システムの組織を定義するためのスタンスを入力型から閉鎖型に変えた主要な帰結として,内的コヒーレンスに注目が集まり,そのため従来は環境からの特定の入力であったものが,不特定の攪乱ないし単なるノイズとして括弧に入れられる。入力は,もはやシステムの組織を特定するために必要でなくなったときに,攪乱となる。つまりノイズになってしまう。組織上の閉じの例はたくさんある。神経系,免疫系,生態系,会話⋯これらすべての事例において,システムが自己自身にかかわりあう度合が非常に大きいので,研究されるべきもっとも重要な部分は,この自己自身にかかわりあうこと(self-inolvement)の性質ということになる。確かに,システムが満たすべき限定要因ないし制約条件は幾つかある。しかし,そうした制約条件を満たす十分大きい範囲のなかで,環境との相互作用はすべてノイズ的攪乱として扱われる。つまり,入力型とは異なる種類のメカニズムが扱われ,それに対応して入力型とは異なる推論様式が扱われる,ということである。 記述「スタンスを入力型から閉鎖型に変え」ると、先程言っていた「入力の集合」は「不特定の攪乱ないし単なるノイズ」となる。そうすると必然的に「内的コヒーレンスに注目が集ま」る(「研究されるべきもっとも重要な部分は,この自己自身にかかわりあうこと(self-inolvement)の性質」という部分とも対応する)。その結果「入力型とは異なる推論様式が扱われる」。続いて「主張されているのは,記述の排他性ではなく,明解な認識論的説明である」とあるように、「観測者」がどういったスタンスに立脚するかによって認識論的次元が変容するよ、ということ。 さて,システムの閉じの研究においてもっとも驚くべき経験の1つは,システムが構成要素の相互依存性から生じるコヒーレントな行動をいとも簡単に示すことである。実際,アシュビーやフォン・フェルスターによって1950年代にはじめて研究された,一見トリビアルでランダムなネットワークは,この驚きをはじめておずおずと表明したものだった。いったんシステムの閉じができると,システムはまるで自動的に,自己の内部の規則性を生みだす態勢をとるかのようにみえるのである。私は,明白な理由があって,このような内的コヒーレンスを固有行動(eigen-behavior)とよぶ。 内部の「構成要素の相互依存性から生じるコヒーレントな行動」として「自動的に,自己の内部の規則性を生みだす」、「内的コヒーレンスを固有行動(eigen-behavior)」としている。つまり第一原理の「作動上閉じたシステムは、すべて固有行動をとる。」とは、全ての作動上閉じたシステムは自己組織化するということ。それは下記引用からも明らかである。 私の信じるところ、これが自己組織化の最重要点であり,だからこそ原理1は,自己組織システムの何たるかを解明することや,あるいは定義することにまで役立つのである。正確にいえば,存在するのは自己組織システムではなく自己組織行動だけであり,その自己組織行動が,行動の根底にあるシステムの組織上の閉じの特性を明示的に記述したいという要求に,我々を駆り立てるのである。 補足:「作動上閉じたシステム」では「構成要素の相互依存性から生じるコヒーレントな行動」が生じる際に「自動的に,自己の内部の規則性を生みだす」。だから正確に存在するのは「自己組織行動」だけである。なぜなら規則は「システムの組織上の閉じの特性を明示的に記述したいという要求に,我々を駆り立て」ることによって初めて認識されるものだからだ。つまりシステムは「自己組織行動」から認識論的に分離されていくものである。 原理二について
ヴァレラは原理2にて「自己組織システム」の「環境との媒介と連結ないし相互作用」における「適応」の解釈を主題とする。
原理2に移ろう。原理1が完全に避けた問題は,自己組織システムが自己のアイデンティチィを保持するために,いかにして環境との媒介と連結ないし相互作用するか。ということである。さらにいえば,自然界のシステムが自己の環境と適応的な様式で関係しているようにみえるのはどういうことか,ということだ。この問題に対しては,もちろん,入力型の記述による古典的な答えがある。適応は与えられた入力に対する最適化過程である,というわけだ。システムは自己の入力によって定義されるのだから,そのような最適の適合に意義を与えることには何の問題もない。~入力型のスタンスからみれば,システムが適応的なのは,与えられた世界に最適に適合しているからである。閉鎖型のスタンスからみれば,システムが適応的なのは,制約条件を破らないような構造の変化の過程を通して組織が不変に保持されているから,というだけのことである。前者の場合には。システム・環境の関係は命令的ないし規定的な規則になる。後者の場合には,この関係は十分条件的ないし規制的な規則になる。 組織の保存によってアイデンティティが保持されるかぎり,適応は行われているのだが,どんな特定の様式で適応が生じうるのかについてはいわないのである。その様式は,システムの閉じとそれに対応する固有行動によって示される。
ここで「適応」概念を論ずるにあたって「古典的」な「入力型のスタンス」と、ヴァレラの論ずる「閉鎖型のスタンス」を対置する。前者は「適応は与えられた入力に対する最適化過程である」或いは「システムが適応的なのは,与えられた世界に最適に適合しているからである」とする。また「システム・環境の関係は命令的ないし規定的な規則になる」と言われるのは世界=環境に最適化=適応を要請されているという意味で理解しなければならない。一方、後者は「システムが適応的なのは,制約条件を破らないような構造の変化の過程を通して組織が不変に保持されているから」或いは「組織の保存によってアイデンティティが保持されるかぎり,適応は行われているのだが,どんな特定の様式で適応が生じうるのかについてはいわないのである。その様式は,システムの閉じとそれに対応する固有行動によって示される」とされる。これは換言するなら世界=環境に際して内部の「固有行動」を修正することによって適応することを指しているのではなかろうか。その解釈でいうと下記言明に説明がつく.
かくして,システムが媒介と連結される過程では,環境の広籠な制約条件のもとで、システム自身によって特定される固有行動が間断なく構成されることになるだろう。だから,そのような固有行動の可能な様相は複数あるのである。 私は,アイデンティティを不変に保つこのような複数の経路のことをいうのに,自然浮動(natural drift)という名称を選んだ。これで明らかなように,第2の原理が我々に教えるのは,さまざまな固有行動をとる作動上閉じたシステムが,攪乱の世界に対して自分自身の世界としての意味を実際に付与する様式である。明らかに,ここでは大事な話題が触れられていない。生存能力の保持へと導くような構造変化の規則は何か,という話題がそれである。 つまり「固有行動の可能な様相は複数あ」り、それを修正することによって、「制約条件を破らないような構造の変化」を可能とし「組織が不変にほじされている」または「アイデンティティを不変に保つ」という閉鎖型の「適応」解釈を、「自然浮動」と名付けた。これがいわゆる「自己組織化」によって適応するということ。 入力型のスタンスとは,遺伝による変化とその発現のダイナミクス―その結果よりよく適応した有機体の系統が出てくる―を理解するための主要なガイドラインとして,環境を扱うことである。別の言い方をすると,自然選択は最適化アルゴリズムの一例であり,だからこそ最適者生存というのである。閉鎖型のスタンスとは,系統発生における形態変化を理解するためのガイドとなる特徴として,動物の内的コヒーレンスを扱うことである。このスタンスをとると,多様性は生みだされるが,そこに適応の最適化という意味合いはないことになる。実際,適応は不変項であり,それはちょうど,有機体が崩壊しないかぎりそのアイデンティティが不変項であるのと同じことである。自然選択はこの場合,系統発生における多様化が進行しうる範囲をきめる主要な境界条件の記述にすぎない。
つまり閉鎖型からしてみれば「最適者生存」などといったある種の目的論的なものではなく、種はただ「多様性」が確保されつづけるだけ。それが入力型のスタンスからみたとき「適応的」であるように映るが、閉鎖型からしてみれば「多様化が進行しうる範囲をきめる主要な境界条件の記述にすぎない」のである。
則、「閉鎖型のスタンス」における「適応」解釈は、種は「自然浮動」によって絶えず多様化していくだけ、ということではないか。
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デカルト主義の不安
われわれが感じるこの苛々は、リチャード・バーンスタインに倣えば、いわゆる「デカルト主義の不安」に根差している。「不安」とは、概ねフロイト流の意味であり、「デカルト主義」と呼ぶのは、デカルトが『省察』において厳密かつ劇的にそれを表現したからである。この不安は一つのジレンマとして最もうまく表現される。知識についての固定かつ安定した基盤、つまり知識が始まり、根拠つけられ、落ち着く点をもつか、またはある種の暗闇、混沌、混乱を免れえないかのいずれか。絶対的な根拠や基盤が存在するか、あらゆるものが分裂するかのいずれかである。 カントの『純粋理性批判』には、デカルト主義の不安がいかに強いかを伝える驚くべき一節がある。『批判』会体を通して、カントは、われわれにはアプリオリすなわち所与の生得的なカテゴリーがあり、それが知識の基盤となると論じることにより、知識理論の体系を築いている。「超越論的分析」に関する議論を締め括るにあたり彼はこう述べている。「われわれは今や純粋悟性「アプリオリ・カテゴリー」の領土を遍歴して、そのあらゆる部分を入念に検分しただけでなく、その広さをすっかり測量して、この領土のあらゆる事物にそれぞれの正しい位置を規定した。この領土は一つの島であって、本質的に不変の限界のうちに閉じ込められている。それは真理の土地(何と魅力的な呼び名であることか)であり、広大な荒れ狂う大洋という錯誤の故郷に取り囲まれているのであって、そこでは多くの霧峰や、たちまち溶け去る多くの氷山が彼方の海岸と思い誤らせ、冒険好きな航海者を絶えず空しい希望で欺きつつ、彼を冒険のうちへ巻き込むが、そうした冒険を彼は決してやめることも終わらせることもできない」。ここには、二つの極端なものがある。デカルト主義の不安の二者択一である。すべてが明瞭で、究極的に根拠がある魅力的な真理の土地があるが、その小さな島の向こうには、広大で荒れ狂う、暗闇と混乱の大洋、錯誤の故郷があるのだ。