ブラシエ
ニック・ランドの教え子
2007『ニヒル・アンバウンド』
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永劫回帰の起源
まずブラシエはニーチェにとって、ニヒリズムが生じる地点を明らかにする。
ニーチェによれば、それまで至上の価値とされていた真理がその対立物に転じるような重要な局面において、ニヒリズムはその極みに達する ― というのも、「真理」の価値を問いに付すのは「真実らしさ」そのものであり、それによって後者は、既知にして可知的なすべての価値を ― とりわけ仮象に対して実在を、生に対して知を高く評価するという営みを ― 転倒させるからである
ただ「心理学その対立物に転じ」たからといって、行き着く先は対立項を信じることではなく「「信じられる」ような何ものかは存在しない」ことに至るという。
ところが、その尊ぶべき価値の保証人としての真理は、信の守護聖人でもある。というのもニーチェによれば、あらゆる信は「何かを‐真なるものと‐みなす〔holding-something-true, Für-wahr-halten〕」というかたちをとるからである。したがって、真理の自己否定は、信の可能性そのものを問いにかけることになる ― 「ニヒリズムのもっとも極端な形式は、あらゆる信が、すなわち〈何かを‐真なるものと‐みなす〉ことが、必然的に虚偽であるという見方へと転じる。なぜなら、真なる世界など存在しないのだから」(『力への意志』)。だが、ニーチェも認めているように、真なる世界に対する信の崩壊は、同時に仮象の世界に対する信の解消を避けがたく引き起こすだろう。というのも、仮象の世界は、真なる世界に対する矛盾として定義されていたからだ。仮象の彼方に位置する実在への不信が、仮象の実在に対する信へと転じることなどありえない。実在と仮象の区別の崩壊が、信と真理の内的な結びつきの土台を掘り崩してしまう以上、確実に保証され「信じられる」ような何ものかは存在しない。かくして、ニヒリズムは同時にみずからの土台を掘り崩してしまうように思われる。なぜなら、それはいかなる信とも折り合いをつけることはないからだ ― 思うに、ニヒリズムが信じられることはない。というのも、仮にいかなるものも真ではないのだとすれば、その「いかなるものも真ではない」という主張すら真ではないからだ。
完璧なるニヒリストを自称するニーチェは、このアポリアを前に徹底的に検討し「永劫回帰の思想において結晶すると同時に解消される」。
回帰の思想は、ニヒリズムにおける究極の臆見である ― 「現にある存在は、意味や目的をもたず、しかし無という結末を必要とすることもなく、必然的な仕方で回帰する」― と同時に、つかの間の儚さを無条件の肯定の対象へと変え、それを絶対的な価値の座に置くことで、ニヒリズムを打ち破るものなのである。〜ドゥルーズがその卓抜な(しかし異論もある)『ニーチェと哲学』で指摘したように、価値転換は、力への意志における根本的な質の転換 ― 価値を生み出す「微分発生的な要素」 ― へと向けられている。ユダヤ゠キリスト教の文化において崇められてきた既知の(そして可知的な)諸価値のすべては、否定的な無への意志によって突き動かされてきた反動的な諸力の産物であり、その評価は真理という規範に支配されていた。ゆえに永劫回帰の肯定は、あらゆる既知の価値の消滅であるとともに、未知なる価値の創造でもある。それは、あらゆる既知の価値を殲滅する。なぜならそれは、一連の流れに区切りを入れる、あるいは始まりと終わりを区別する「無という結末」すら必要とすることなく、絶対的かつ永劫的な分別の不在を断言するものだからである。この点から言えば、永劫回帰は、実存のもつあらゆる意味や目的を奪い去り、その究極的な価値の不在を知らしめるものであるがゆえにこそ、まさしく「悪魔のごとき」仮説なのだ
こうした転換は同時に新たなる価値の発見も齎す。
旧来の評価様式において、生成は永遠の存在がもつ超越的な価値に劣るものだとみなされていた。だが、そのような評価様式においては無価値なものであった瞬間の儚さは、新たな評価様式において究極の価値の中心に置かれる ― つまり、そこでは超越が破棄されるのであり、それにともなって、何らかの外的な視座から実存の価値と無価値を見極める可能性もまた、破棄されるのである。 以上のように、ニヒリズムはある価値転換を通じて克服されるのであり、そこでは生成のもつ無意味さが、真なる存在がもつとされる目的性との対比を超えたところに位置づけられる ― つまり目的の欠如は、外的な正当化に対する訴えを必要とすることなしに、それ自身において、それ自身のために肯定されるのだ。かくして永劫回帰の肯定は、「正午と真夜中」が重なり合うようなある一点をしるしづける
そしてその様を下記のように結論づける。
世界がたえず生成しつづける何ものかを欠いた生成にほかならないと信じることは、いかなる真理も存在しないと信じ、そして、いかなるものも真ではないという内容を「真なるもの‐と‐みなす」ことである。だが実際のところ、これは矛盾に満ちた信であり、それはみずからを相殺し、何かを真であるとみなすことをあまねく退ける不信にこそ等しい。それゆえにこそ、永劫回帰の思想は、ニーチェその人が「もっとも極端なニヒリズム」と呼ぶものを代表しているのだ。永劫回帰を信じることは、いかなるものも真ではないとするニヒリズム的な信に決定的な表現を与える。より正確に言えば、それはいかなるものも真ではないということを〈真なるもの‐と‐みなす〉唯一の方法なのだ。信の不可能性を信じるというこの矛盾に満ちた構造は、合理性をめぐる素朴心理学的な解釈の断層を暴き出している。