ユヴァル・ノア・ハラリ
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意味 人生は物語ではない
「共同主観的現実」は「客観的現実」とも「主観的現実」とも異なる第三の現実のことで、ハラリは,人間の大規模協力を支え,今日に至る文明構築を可能としてきたのは,人間が共同主観的現実を構築する能力を持つからであると主張する。そしてポジティヴに使用した本概念を本性では「虚構」という言葉で形容し、危険性を警告する。
物語から苦しみへ
ヒンドゥー教と『ライオン・キング』、イスラム教、ナショナリズムとしてのシオニズム、共産主義、仏教(「語らないこと」としての無を求めるが、それを誰かに教え説くあまりに物語になってしまう)、自由主義(「宇宙は私に意味など与えてくれない。私が宇宙に意味を与えるのだ。」は自己と自由というニューロンによって押しつけられた自由意志という虚構によって構成される物語にほかならない。)、などとあらゆるイデオロギーの物語的性質を説く。そしてそれら物語は「私に何らかの役割を与える」ことと「私の地平の外まで続いている」という条件のもとに、対象の実用的なアイデンティティと人生の意味を与え、「安全地帯」を提供するという(そのため物語は不完全で結論を出さずしても成り立つという)。 人生は果てしない叙事詩的物語であるという考え方は、きわめて魅力的で一般的だが、大きな問題を二つ抱えている。
第一が「自分の個人的な物語を引き延ばしたところで、それは本当にもっと意味深いものにはならない。たんに長くなるだけだ。」と主張し無意味で非目的論的世界観を展開し、第一は「裏付けとなる証拠の乏しさ」と主張し、ティラノサウルスやアメーバなどを引き合いに出す。だがそんな物語をなぜ信じるのかをまた二つ下記のように説明する。
一つには、個人のアイデンティティが物語の上に築かれているからだ。〜物語に疑いを抱いたり、それが正しいことを証明したりするのに必要な知的自律性や情緒的自立性を発達させるはるか以前に、親や教師、近隣の人々、そして文化一般から、物語を聞かされる。だから、知的に成熟する頃には、物語の中にすっかりはまり込んでいるので、〜物語を合理化しようとする〜第二に、個人のアイデンティティだけではなく、自分たちが所属する集団の制度や機関も物語の上に築かれている〜そのため、物語を疑うのは〜追放されたり迫害されたりする。〜ほとんどの物語は、土台の強さではなくむしろ屋根の重みでまとまりを保っている〜この上なく脆弱な土台の上に載っている〜個人のアイデンティティや社会制度全体がいったん物語の上に築かれると、その物語を疑う行為は想像を絶するものになる。それは、その物語を裏づける証拠があるからではなく、物語が崩れたら、個人と社会の激動が引き起こされるからだ。歴史においては、土台よりも屋根のほうが重要な場合もあるのだ。
そして「自己」を再定義し、視覚的幻想から身体的経験の重要性を問う
「自己」は私たちの心の複雑なメカニズムが絶えず作り出し、アップデートし、書き直す、虚構の物語であると認めることだ。私の心の中には、私は何者で、どこから来てどこへ向かっており、今この瞬間に何が起こっているかを説明する〜内なるプロパガンダ機関は、〜個人の神話を築き上げる。フェイスブックやインスタグラムの時代の今は、この神話創作の〜過程の一部が、心からコンピューターへと外注された。〜私たちの幻想の自己はとても視覚的であるのに対して、本当の経験は身体的であることは特筆に値する。
こうした大がかりな物語はみな、私たち自身の心が生み出した虚構であるとはいえ、〜現実は依然としてそこにある。〜人類が直面している大きな疑問は、「人生の意味は何か?」ではなく、「どうやって苦しみから逃れるか?」だ。〜苦しみは、依然として100%現実のものだ。〜というわけで、もしこの世界や人生の意味や自分自身のアイデンティティに次いての真実を知りたければ、まず苦しみに注意を向け、それが何かを調べるのにかぎる。その答えは物語ではない。
苦しみが100%現実だというが、その解は何から導出したのか??普遍性に最も近い概念とは言えるが、実在を絶対的に重んじるプラトニズムを信仰するプラグマティストらはボードリヤールを読んで一度病むべきだ。 主題
二十章のテーマ「意味―人生は物語ではない」から最終章のテーマ「瞑想―ひたすら観察せよ」に至る。
人生には何の意味もなく,人々はどんな意味も生み出す必要はない
仏教の教えに基づいた非目的論的世界観を展開する。