ピーター・シンガー
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パーソン論
人間概念
生物学的意味
ホモ・サピエンスという種の構成員
即ち他の種との関係において優位か否かはなく、道徳的になんの根拠も持ち合わせない。
平等の原理が我々人間の種に属する他の人々との関係のための確固とした道徳上の基礎であることを認めた以上、この原理が我々の種に属さないもの―つまり人間以外の動物との関係のための確固とした道徳上の基礎であることも認めることになる
人格的意味
理性的で自己意識のある存在
ホモ・サピエンスであろうがなかろうが(例えばチンパンジー、ゴリラ、オランウータンを挙げる)、人格(person)を持つ対象は尊重するべきであり価値ある対象である。定義としてロック的人格概念を基礎づけとする。(『人間知性論』より) 序列
私の決定によって左右される関係者すべての利益〜これらの利益を比較考量し関係者の利益を最大なものにしそうなコースの行為を採用する。
① 人格を有する存在
人格は生き続けたいという未来志向的な選好をもつ。人格を殺すことは、人格の生き続けたいという選好、おそらく人格のもつあらゆる選好のうちでもっとも基本的な選好を侵害するがゆえに、不正なのである。
② 快苦=感覚=意識を有する存在
意識ある存在は人格がもつ存在し続けたいという選好は有さない。例えば釣り糸に引っかかった魚が抵抗して暴れるのは、将来への選好によるものではなく「苦痛あるいは恐怖を与えると感じられる事態の停止」への選好にすぎない。 ③ 快苦=感覚=意識を有さない存在
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信仰の不要性
来世を語るような「物語」が不要であり、造物主・超越者・絶対者といった外的存在に規定されずとも、選好する存在として個々に人生の意味を獲得していくことが可能であるということ。
自身の生き方の倫理的な正当化こそ「倫理的な生き方」であり、それを外在的に正当化された超越的なものによって無思考に行うことではなく、主体―集団の図式での内在的なものとして行うことである。=これはつまり外在的な物語信仰ではなく、内在的な物語正当化である。 アプリオリな倫理
さらに目的追求的な存在としての本性
自分自身の快楽を超えたところに自分の人生の意味を求め、自分が意味を認めたことをなす時に満足と幸福を感じるら、〜精神病質者の人生は内側へと向かい、現在この瞬間の快楽だけを見ていて、もっと長期的に、あるいはもっと広く外に目を向けて見ないがために無意味である〜正常な人の人生は何かもっと大きな目的をもって生きているために意味がある。
そして宇宙へ
精神病質者のレベルを超えるだけでは十分ではなく、富や名声といった自分の利益だけに関わる長期的な計画を抱いている思慮ある利己主義者のレベルをも超えていかなければならない。〜倫理的な視点は、個人的な観点を越えて公平な観察者の立場に向かうよう求めてくる〜(即ち)我々が自分の内側に向かう関心を超越し、可能な限り客観的な視点に自分を同化させるージジウィックにならっていえば「宇宙の観点」に自分を同化させるー一つの方法〜この視野から眺めるならば、私たち自身の苦しみや快楽が他の存在の苦しみや快楽と非常に似ていることがわかるし、その存在が単に"他のもの"であるという理由だけでそれの痛みにさほど配慮しないというのが、まったく不当であるということも理解できる。 即ち一存在ととして苦しみを減らすという実践の努力をし、普遍的な永遠性をもつ宇宙に対して、プラスの影響を与え、宇宙史に行為を刻むことに意味があると見なすよう呼びかける。
補足/プルースト
補足/デリダ
理性のエスカレーターという契機
理性の能力をもっていると、私たちは最初到達したいとはまったくのぞんでいなかった結論へと導かれることがある〜理性のおかげで、私は、他人も同様に主観的な見方を持っていること、そして「宇宙の視点」という普遍的な見地からは私の見方、他人の見方のいずれもが特権的な位置にはないことを知ることができる。
その信念は下記にて語られる。
理性能力によって、私たちは、恣意的な主観的立場から脱することができるし、自分の属する社会価値をなんの批判もなく受け入れるという態度に陥ることを免れることもできるだろう。〜私たちが宇宙の視点をとる時に得られる自分に対する見方はかなり客観的なものである。この客観性は、自分自身の欲求を離れて価値のある主張を見つけようとするには十分なものである。
この理性によって視座を漸進的に上昇させていく。そして個人的な俗物的なものから引き剥がし宇宙の視点に導く。この作用を理性のエスカレーターという。 summary
則、集団ではなく個人として、理性のエスカレーターに足を運び、一般的時間性から解き放たれた宇宙史を俯瞰し、世界の苦を減らすことによる幸福の最大化するプロジェクトを執行することである。
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はじめに
エキサイティングな新しいムーブメントが起きています。それが、「効果的利他主義」です。このムーブメントを支える学生組織が生まれ、ソーシャルメディアで活発な議論が起き、 ニューヨークタイムズ紙やワシントンポスト紙もこのムーブメントを取り上げています。効果的な利他主義は、非常にシンプルな考え方から生まれています。「私たちは、自分にできる〈いちばんたくさんのいいこと〉をしなければならない」という考え方です。盗まず、騙 さず、傷つけず、殺さないという当たり前のルールに従うだけでは十分ではありません。少なくとも、私たちのように、非常な幸運に恵まれ物質的に満たされた生活を送り、自分と家族の衣食住を確保でき、その上さらに時間やお金に恵まれた者にとっては、それだけではだめなのです。私たちの余分なリソースのかなりの部分を、世界をよりよい場所にするために使うことが、最低限の倫理的な生活と言えるでしょう。完全に倫理的な生活を送ろうと思えば、私たちにできる最大限のことをしなければならないということです。 効果的な利他主義のムーブメントを推し進める人の多くは、ミレニアル世代、つまり、今世 紀のはじめに成人となった世代です。私のような古い世代の哲学者は、効果的な利他主義という名前もムーブメントもない時代から、このことについて議論してきました。哲学の一分野としての実践倫理は効果的な利他主義の発展に重要な役割を果たしてきましたし、効果的な利他主義もまた、この哲学の大切さを裏づけています。 効果的な利他主義者の選択肢
シンガーはマットという教え子を例に出す。彼は「グローバルな貧困問題とその対処法」の資料から「予防できる病気で毎年亡くなっている数百万の子供たちの命を救うためにおおよそどの程度の金額が必要なのか」を知り、その金額を元に「自分が一生のうちに何人の命を救えるかを計算してみた」ところ、「平均的な年収の一割」を「効果の高い組織」に寄付することによって「一生のうちに100人の子供の命を救えることに気づいた」という。
二年後にマットは大学を卒業しました。彼の卒論は哲学科の最優秀論文に選ばれました。そしてオクスフォード大学の大学院に合格したのです。哲学専攻の学生にとっては夢のようなチ ャンスです。私でさえうらやましい話です。ですが、そのころまでに彼は、自分がどんな仕事に就けば〈いちばんたくさんのいいこと〉ができるかを考え抜き、議論を重ねていました。そして思いもよらない仕事を選んだのです。マットはウォール街の仕事に就きました。裁定取弘を行う金融企業に勤めることにしたのです。収入が多ければ、それだけたくさん寄付ができます。大学教授の収入の一割をチャリティに寄付するよりも、寄付の割合も絶対額も増やせます。大学を卒業してから一年後には、マットは収入のおよそ半分にあたる六桁にのぼる金額を、極めて効果的なチャリティに寄付していました。100人の命を救うのに一生かかるどころか、働き始めてわずか一、二年で目標を達成し、その後毎年それができるよう になったのです。
こうした「マットは効果的な利他主義者」であり、「そのほかにも道はあります」とシンガーは言う。例えば「質素に暮らし、収入の大部分をもっとも効果的なチャリティに寄付する。収入の一割という一般的なやり方よりもはるかに多くを寄付に回す」、「どのチャリティがもっとも効果的かを調査し、議論を交わし、独立系の評価機関の調査を参考にしたりする」、「贅沢をするためではなく、より〈たくさんのいいこと〉ができるように、いちばん収入が多くなるようなキャリアを選ぶ」、「血液、骨髄、さらに腎臓など、身体の一部を赤の他人に提供する」ことを提案する。
この質問への答えは一様ではありませんが、効果的な利他主義者にはいくつかの共通の価値観があります。ひとつは、ほかのことがすべて同じなら、より苦しみが少なくより幸福な世界の方が、苦しみが多く幸福の少ない世界よりもいい、ということです。また、ほかのことがすべて同じなら、寿命は短いよりも長い方がいいということです。こうした価値観に基づくと、 効果的な利他主義者が極めて貧しい人たちを助けるチャリティに向かうのもうなずけます。〜同じ金額なら、途上国の極めて貧しい人を助ける方が、それ以外のほとんどのチャリティに寄付をするよりも、はるかに苦しみを減らし、はるかに多くの命 を救うことができるからです。