ファイヤアーベント
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認識論的アナーキズムの姿勢
anything goes
その最たる例として「古代における原子論の発明やコペルニクス革命や、近代原子論(運動論、分散理論、立体化学、量子論)の勃興や、光の波動論の緩やかな出現のような諸々の出来事や発展は、幾人かの思想家が、ある「明白な」方法論的規則に束縛されまいと決心したためか、あるいはこれをそれと知らずに犯したために、初めて起こった」とする。だからこそファイヤアーベントは「科学は本質的にアナーキストな営為である」というのだ。そうした明白な違反行為を犯すことが「知識の発展のために絶対に必要とされるものである」とする。 すなわち、科学にとってどんなに「基本的」であれ、ないしは「必要な」ものであれ、ある規則があったとすると、単にその規則を無視することのみならず、その反対のものを採用することが懸命であるような、そうした状況が必ずあるのである。
そしてさらにこれはよいわるいを規定する公式をファイヤアーベント自身が持っているということではないとする。
則、「固定した方法の、あるいは合理性の固定的理念の観念は、人間とその社会的環境についての、あまりにも素朴な考え方に依存しているということが明らか」であり、それゆえある特定の固定化された「明晰性、精確さ、「客観性」、「真理」という形式」がいかに貧しいものかわかるであろう。だから彼は下記のように結論づける。
あらゆる状況において、また人類の発展のあらゆる段階において、擁護することができる原理といえば、そのようなものはたった一つしかないということが。すなわちこの原理である。anything goes(なんでもかまわない)。
ダダイズムと方法論的規則に対するアナキズム
なぜなら「アナーキズムは、おそらく最も魅力的な政治哲学ではないにしても、認識論と科学哲学とに対してはたしかに素晴らしい薬であるという確信」のもとに書いているからだ。
それゆえ「古い社会の殻の内側で」新しい社会の諸制度を創造するアナキストと同様、認識論的な「アナーキストは「理性」(「真理」、「正直」、「正義」等々)の権威を掘り崩すために「理性」というゲームに加わっている秘密工作員のようなものである」のだ。 /icons/白.icon
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これはイヴァン・イリイチとの通有性を感じる。則、「不能化する専門職の時代」というのはファイヤアーベント流にいうなら何も現代に限った話ではなく、従来から私たちは「不能化」していたのであり、その「専門職」が「司教」や「枢機卿」から、「科学者」に移っただけという話なのではないか、と。だからこそ認識論的アナーキズムなんだというメッセージなのである。 https://scrapbox.io/files/65801adeadd0220023e77d98.png
相対主義的社会
ファイヤアーベントの認識論的アナーキズムは「かなり多くの人々が、このような問いは、相対主義に誘い込むものだと考えている」という誤謬が存在するという。そしてそういった立場だと誤謬した者は「いったい諸君は本気で真実にも嘘や過ちと同一の権利しか与えないと言うのか」と反問してくるだろう。そこで「われわれはここであえて火中の栗を拾い、この恐ろしがられている怪物の姿を眺めてみることにしようではないか。つまり相対主義という怪物を。」として分析を始める。先に結論を述べるのであれば彼は下記のような立場に立つ
相対主義的社会は可能か。どのようにすればそのような社会になるのか。そのような社会で人間はどのように身を守るのか。そしてもう一つ、いったい本当にすべての伝統に等しく同一の権利を与えねばならないものであろうか。ありとあらゆるもののうち最も非人間的な伝統にまでそれを保証する必要がいったいあるのか。
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