2022/01
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ひと足お先に2022年は始まっている
今月の貼るべき写真
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https://gyazo.com/0eceb8a9ea91fdef83711d6e3c6b8ae3
#sandbox というタグはもう自分的には必要ないんだけど、誰か他のひとが見たときに、これはそういうページなのだ、とお知らせするために必要かな、みたいな感じでつけている 現政権がソ連に似ているのは外見のみだ。ソ連は世界的な超大国だったが、ロシアは地域のリーダーにすぎない。ソ連はイデオロギー国家だったが、ロシアは独裁者の生涯にわたる権力を維持する以外に何の思想も持っていない。
ソ連では金は主たるものではなく、特に重要な要素でさえなかったが、ロシアでは金が物を言う。そしてルーブルではなく、ドルがすべてを決定する。腐敗した全くの欺瞞(ぎまん)に満ちた構造であり、巨大で可能性ある偉大な国の正常な発展を妨げている。
マクニールはイデオロギーなどというものは仮面で、国家というものは大昔から形は変わらない、的なことを言っていた
ロシアは昔からロシアで、中国も昔から中国だった、みたいな
読書日記になった。読書くらいしかしていない
https://gyazo.com/373ae4b51eb386bd1161284fc2a0299a
積読山脈
僕らが今回やるべきなのは、「ノスタルジー」を使わずに聴き込むということ。そこが大切です。ノスタルジーを使えば、どんな音楽でも聴けてしまいますからね。そうじゃなくて、音楽そのものにちゃんと対峙する。そういう意味でも、古典を繰り返し聴くことには大きな意味があると僕は思うんです
ノスタルジーを使わずに
たとえば、奴隷貿易を土台としてアフリカとヨーロッパの混交の軌跡として形成されたカリブ海の文化と社会を論じる仏領マルティニク島出身の独創的な思想家エドゥアール・グリッサンである。彼が説く「痕跡traceの思考」や「関係の詩学」は、インゴルドの「生のライン」の議論と、まったく異なるフィールドでありながら、おおきく共振するように思われる 関係の詩学
Vol.1 ~ Vol.7 ~ つづいている
https://gyazo.com/6634752077a6d80617f8162df34cfc25
一つは、知らない場所や景色の発見。その道が安全なのかの下調べ。いつかは外国人の登山者やトレイルランナーにも来てもらいたいので、いわば、日本山岳地の新しい広報活動ですね。二つ目は、登山者とトレイルランナーの線引きの排除について考えること。手段が違うだけで、山を登る目的は同じだと思うから。そしてもう一つは、北アルプスの稜線散歩です
日本山岳地の新しい広報活動
登山者とトレイルランナーの線引きの排除について考えること
北アルプスの稜線散歩
セルゲイ・ラフマニノフ(1873年4月1日-1943年3月28日)は、ロシアの伝説的なロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者である。ラフマニノフの音楽は、壮大なメロディ、名人芸的なピアニズム、明晰なオーケストレーションが特徴である。モスクワで学んだ彼は、まずコンサート・ピアニストとして活躍したが、若くして作曲家としても天才的な才能を発揮し、10代のうちに作曲した嬰ハ短調の前奏曲や1幕オペラ《アレコ》で、師であるチャイコフスキーを圧倒した。
ショパンとリストからの強い影響は明らかだが、彼の作品のほとんどはチャイコフスキーに似た後期ロマン派のスタイルである。彼の主要作品には、4つのピアノ協奏曲、3つの交響曲、2つのピアノ・ソナタ、3つのオペラ、合唱交響曲、晩課、パガニーニの主題による狂詩曲、41の前奏曲とエチュード、交響的舞曲と多くの歌が含まれる。
https://gyazo.com/f96fcf4f92561d2e10923bb0c97d30de
山梨だと大泉くらいの気温なのでそりゃ寒いはず
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アポロ計画
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海上保安庁 航空写真
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paper → dark
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概要をまとめた
読むことになるかも
オデュッセイアとおなじようにまとめてみたい
https://gyazo.com/623ef0234f340a935ca6448daedbf2b5
https://gyazo.com/c15acf9568f273f289f13602be751aa8
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「書物と世界のつながり、というよりは、むしろ、世界とアルファベットのつながりにある」
「世界はアルファベットだ」
「ガリレオは組みあわせについて語り、さらに、コミュニケーションの速さについて語っている。速度は、ガリレオにおけるもうひとつの重要なテーマだ。」
ガリレオ・ガリレイ「黄金計量者」(贋金鑑識官)
自然という書物
taizooo 曰く
「本は自然ぽい」
自然は、一つ一つバラバラの事象がてんでバラバラに存在いているのではなくて、それぞれがリンクしている。その全体の繋がり、広がりにこそ本質がある
https://gyazo.com/9f4f9e5a1760c82aa6d7e6cc019dcac4
時間を操る話
小説おける時間の操作について
倹約について
その秘密は、物語の倹約にあります。
出来事は、その継続する時間からまったく自由に、点のようになり、休むことのない動きに一致するジグザグの図形を描きながら、直線で結ばれているだけなのです。
叙述の時間はぐずぐずと遅らせるものにもなりますし、円環的であったり、あるいは停止することもあります。いずれの場合でも、物語は継続的な時間に対する一つの操作です、時間の経過に対して、それを凝縮させたり拡張させたりして働きかける魔法の術なのです。
無用の細部は無視し、それでいて、たとえば話が一連の障害をのり越えなければならない点にあるときには、くどいほどくり返しを重視します。
私の文学活動の一時期において、民話とか、妖精譚に魅かれたことがありましたが、
民話が語られる際の倹約や、リズムや、その本質的な論理とかに対する文体的、構造的な関心によるものでした。
イタリア民話集について
イタリアの民話を書きうつすという仕事をしながら、私がとりわけて歓びを感じたのは、オリジナルのテキストがきわめて寡黙で、その切りつめた簡潔さを尊重しながら、しかもそこから最大限の叙述的な効果と詩的な印象をひき出せるように努めながら、それを語るようにしなければならないというときでした。
カルヴィーノは「速さ」について、現在地から目的地へ一直線に最短距離をいく速さと、支離滅裂にあっちこっちへ猛スピードで動きづづける速さの二つについて言っていて、そんなふうに最初の1ページから光の速さで読み飛ばすことと、ずる賢く巻末からあっちへフラフラこっちへフラフラ何回も行ったり来たり読み彷徨うことの二つを考えた。
長い時間をカットしたりスキップしたり場合によっては巻き戻したりする
長篇小説の基本形は伝記であり年代記
そうではない型式、技法が勇敢な作家たちによって開発されてきた
短篇小説は短い時間を扱う
または、長い時間をカットしたりスキップしたり場合によっては巻き戻したりする
とあった
馬は、心理的なスピードの象徴であるばかりではなく、現代のテクノロジーの分野に固有な問題を予告することによって、全文学史に刻印をしるしてもいるのです。交通や情報におけるスピードの時代は、イギリス文学でももっとも美しいエッセーの一つ、トマス・ド・クィンシーの「イギリスの郵便馬車」とともに始まります。この著者は1849年に、今日私たちが自動車と高速道路の世界について知っていることのすべてを、フル・スピードでの衝突とその死の危険をも含めて、はやくも理解していたのでした。 ド・クィンシーは全速力で走る郵便馬車の御者台での、深夜の旅を描いています、傍らの巨人のような御者はぐっすりと眠りこんでいます。技術の粋をつくして完成された乗り物と、生気のない盲目の物体と化した操縦者とが、旅人をただ機械の冷厳無情の正確さにゆだねているのです。阿片チンキのせいで感覚が鋭敏にとぎ澄まされているなかで、ド・クィンシーは、馬は時速十三マイルのスピードで街道の右側を〔間違った側を〕走っていると悟ります。このことは惨事の確実であることを意味していますが、ただしそれは堅牢で全速力の郵便馬車のほうではなく、この街道をたまたま反対方向からやって来る、最初の、不運な馬車にとってのことなのです! 果たせるかな、大聖堂の身廊を思わせる一直線の並木道の彼方に、若い男女を乗せた一台の華奢な製の二輪馬車が、時速一マイルの速さでやって来るのを、彼は目にします。「彼らと永遠との間は、あらゆる人知の計算をもってしても、一分半しかない」。ド・クィンシーは大声をあげて叫びます。「私がやったのはただの第一歩だ。次は若者の番。三歩めは神のものだ」。
このわずか数秒間の物語は、高速度の経験が人間生活の基礎ともなっている現代においてさえ、まだ乗り超えられてはいません。
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ガリレオ・ガリレイ「天文対話」
正確な標題は《プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系についての対話》。ガリレイの著。1632年フィレンツェで出版。ガリレイを代弁して地動説を支持するサルビアーティ,天動説を支持するアリストテレス主義者のシンプリチオ,間をとりもつサグレドの4日にわたる対話の形で,コペルニクスの体系の基礎を解明し,同時に新しい科学の方法を述べたもの。
サルビアーティ
シンプリチオ
サグレド
Amazon Prime Try Before You Buy
Amazon Prime Try Before You Buyを使ったけど、雑に履いて試して良さそうなら買うっていうのができてよかった。
以前はナントカ・ワードローブと呼ばれていた
牽
牽
牽制(けんせい)の牽の字
1 相手の注意を自分の方に引きつけて自由に行動できないようにすること。「隣国を―する談話」「一塁走者を―する」
2 作戦上、敵を自分の望む方にひきとめたり引きつけたりすること。「敵の援兵を―する」
「玄」+「冖」+「牛」の順に書きます。
冖部(べきぶ)は、漢字を部首により分類したグループの一つ。
2007/12/29
rewrite the webってそういうことですよ、おくさん。ウェブにアップロードした時点で、それはでかいディスクの中にある、誰にでも読めるようになっているひとつのファイルでしかないから誰にでも読めますよ。コピーはしてはいけないことになってるけど
まさにその何らかの書式がHTMLで、それがスタンダードかそうでないかの違いしかない。
https://gyazo.com/9b337000bf9d030f3a1734df74c2d9b0
正確さ
歴史の話とストーリーの話が交差している、それから、歴史のルビに(ストーリア)、物語のルビに(ストーリエ)と振ってあった
病気は人々の生活や諸国民の歴史(ストーリア)にさえ及んでいて、あらゆる物語(ストーリエ)を始まりも終わりもない、無定形で、出まかせの、混乱したものにしてしまっているのです。
この history と story の話は、歴史学と文学の関係にまで及びそう
history と story は語源が同じ
「英語のhistoryとstoryは語源が同じ」と聞いたら、あなたはびっくりするだろうか。フランス語やイタリア語をしっかり勉強した人なら、すぐに察しがつくだろう。多くのロマンス諸語には、「歴史」と「物語」の両方の意味を持つ語があるからだ。たとえばフランス語histoire、スペイン語historia、イタリア語storia、ポルトガル語históriaには、「歴史」と「物語」の両方の意味がある。
一橋大学附属図書館の福田名津子氏は「ヒストリーの語源と語義」と題したコラムで、「歴史と物語を明確に区別し、歴史をむしろ編年史として捉える感覚では、ヒストリーの核にある概念を正確に捉えることは難しい」と指摘している
福田名津子「ヒストリーの語源と語義」
イタロ・カルヴィーノ「パロマ」
イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」
パオロ・ゼッリーニ 『《無限》 概念の小史』
Paolo Zellini "Breve storia dell' infinito"
ジャコモ レオパルディ「断想集」
フランシス・ポンジュ「物の味方」
レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿集
煉獄篇
煉獄は、地獄を抜けた先の地表に聳える台形の山で、ちょうどエルサレムの対蹠点にある。「浄火」あるいは「浄罪」とも言う。
永遠に罰を受けつづける救いようのない地獄の住人と異なり、煉獄においては、悔悟に達した者、悔悛の余地のある死者がここで罪を贖う。
煉獄山の構造は、下から昇るごとに幾つかの段階に分かれている。亡者は煉獄山の各階梯で生前になした罪を浄めつつ上へ上へと登り、浄め終えるとやがては天国に到達するのである。
ウェルギリウスに導かれて山を登り、生前の罪を贖っている死者と語り合う。ダンテは煉獄山を登るごとに浄められていく
煉獄のいくつもの環道では、そのそれぞれの風景や天空といった細部や、またそこで出会う悔い改める罪人の霊たちや超自然的存在〔主に天使たち〕の他にも、罪や徳の手本の表象もしくは引用となっているさまざまな光景がダンテに提示されるのです。
最初は、あたかも動いて話しかけるかのように思われる背景彫刻という形で。
次には眼前に投影される幻視と、また耳を打つ声となって。
そして最後には純粋に精神的なイメージとして。
要するに、これらの幻視は段々と内面化されてゆくというわけで、
それはあたかもダンテ自身が、環道ごとに新しいメタ表象の形式を考案することなど無用である、いちいち感覚を通さずとも、ただ精神の内部に幻覚を生じさせればそれでよいのだと気がついたとでもいうようです。
それは当時の哲学が語っていることを忠実に再現しているものなのです。
表象、感覚、精神
しかしそうする前に、想像力の働きとは何なのかを定義する必要があり、ダンテはそれを二連の三行詩節(第十七歌、第一三─一八行)で行っています。
おお想像力よ、お前は私たち人間の能力と意志とを圧倒して、私たちを外部の世界から引き離し内面の世界に奪い去ってゆく力をもっており、そのために私たちはたとえ千の喇叭が鳴り響こうと気づきもしないほどになるのだが、お前が受け取るあの視覚的なメッセージはいったい、どこから生じるのだ、それが記憶のなかに集積された感覚的反応から生じたものではないとするのなら?そして「お前を動かすのは天に生じる光」とダンテは言います。
天上に存在する一種の光源のようなものがあって、それが観念のイメージを伝えてくるというのですが、 そのイメージが形成されるのは想像力による世界の内在的な論理(「そのおのずの力」)によるか、あるいは神の意志(「下界へそれを導く御意志(みこころ)」)によるか、なのです。
想像力による世界の内在的な論理
神の意志
想像力についての考え方の歴史で、もっとも納得のゆく、明快で総括的なものは、ジャン・スタロバンスキーの論文「想像力の帝国」(『批判的関係』所収)に見られます。
ジャン・スタロバンスキー
Jean Starobinski, La relation critique. (1970/2001)
イタロ・カルヴィーノによる要約がジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロンによる要約と微妙に違う(大筋では一緒だけれど)と思っていたジャン・スタロバンスキーの想像力論、実際に一通り読んでみると、ジョルダーノ・ブルーノへの着目の仕方がカルヴィーノ独自のもののよう。スタロバンスキー自身は、これまたロベール・クラインの研究に依拠して、ブルーノを自然哲学的な想像力論(現実の産出としての想像)の系譜の端緒に位置づけて、認識論的な想像力論(現実の反映としての想像)の系譜に対置しているが、カルヴィーノはブルーノをこのどちらでもない位置(アルゴリズム的想像力?)に置いている。
伊藤博明「ルネサンスの神秘思想」
ジョルダーノ・ブルーノ
世界霊との 交信という想像力
世界霊との 交信という想像力の考え方
新プラトン主義に由来するルネサンスの魔術から発しており、この考え方はやがてロマン主義や、また シュルレアリスムに受け継がれます。
宇宙の真理を秘めるものとする想像力の理論はある種の「自然哲学」、もしくは神智学的認識の一タイプとは協調してゆけるけれど、 科学的な認識とは両立不可能なものです。
認識の手段としての想像力
認識の手段としての想像力という考え方
後者によれば想像力は、科学的な認識の筋道とはまた異なった経路をたどりながらも共存可能であり、 また その助けともなり得るばかりか、科字者にとってはむしろ、仮説をつくりあげるのに必要な瞬間ともなり得るものなのです。
https://gyazo.com/25b8b4f4b197f50fedeef3f245d47c4b
https://gyazo.com/45d6bd9fcbd6a7cb0910cf598dc74c9b
もう1月を終わらせたくなっているが、読書メモがたくさん残っているのでこれをどうするか
1ヶ月で281回もこのページを見ているというのはちょっと異常な
https://gyazo.com/319df6d18e663070fc4051b8dcdf204e
自分だけじゃなくて、だれか他の人が見ている分も、カウントされているかもしれないけど
書かれているものもほとんどが、ただのリンクであったり、ただどこかからのコピー・アンド・ペーストである、ということもまた異常な
お気持ち表明
このページにはお気持ち表明している行がほとんどないな
scrapbox にはほとんどお気持ち表明していないな
買おうかなーという本 2022/1/29
本屋でみたらやたらと分厚かった。読むならキンドルにしよう
本屋に下巻しかなかった
本屋に柳瀬尚紀の1-12があったけど、ちょっと眺めて、まだ先でいいかな、と思った
そもそも黒ヶ丘の上でを読み始めたのは、これを読もうと思ったからだった 農業革命、産業革命、ヨーロッパ史、といった流れ
本屋にはなかった
1922年、つまり戦間期
20世紀初頭、2021年に追いかけていたトピックだった
2つの世界大戦をはさんでなにが変わったのかを、文学作品で感じることが出来るか、みたいな
本屋で眺めたが、読むならもうちょっと先かな、みたいな
結局、買った本 2022/1/30
end