森林計画学
森林計画学
森林には「収穫規整」という言葉があります。コントロールする、抑えるということではなく、文字通り、世の中に供給できる量を整えていくということです。持続可能であることを前提として、「どれくらい伐っていいのか」を考えるのが森林計画学です。
収穫規整
森林計画学は、17世紀のドイツやスイスで発展しました。歴史をたどると、もともとは、領民に食べさせるパン焼くために安定的に薪を供給しなければならなくなったことから始まっています。
その後産業革命が起き、石炭を得るために穴を掘らなくてはならなくなり、今度は穴を支える木・坑木(こうぼく)が必要になってきました。パンを焼くための薪ならばどんな形でもよかったんですが、坑木となるとまっすぐな形質が求められるようになる。こんな風に、安定的に木を供給するためにはどうしたらいいかを考えてきた学問です。
木材は、最も重要な資源だった時があった
燃料
原材料
鈴木馬左也 - 1904年、別子銅山(現在の住友林業につながる部署)で森林計画を策定
明治32年(1899年)別子鉱業所支配人となる。1904年、伊庭貞剛の別子大造林計画を継承し、当時珍しかった森林計画を策定。別子大水害後の復旧に努めた。大正6年(1917年)から北海道北見市から、宮崎県椎葉村まで山林事業を起こし、また朝鮮の国有林にまで植林を敢行。これは後の住友林業の源流となった。
明治32年(1899)1月6日、馬左也は別子鉱業所支配人となったが、道義に基づいた経営方針を執った。同年8月別子は未曾有の風水害によって、514人の尊い人命と全施設を喪失した。鈴木はその善後策に陣頭指揮を執ったが、その原因は銅製錬による山林の濫伐であった。馬左也は、伊庭の別子大造林計画を継承し、「鉱山は国土を損する仕事故、国土を護ってゆく仕事をする必要がある。云ひ換ふれば、罪滅ぼしの為めに・・・・・・それには山林事業が最も適当」と述べ、四国の別子山はもとより、全国に植林を敢行する決意を固めた。大正6年(1917)から北は北海道の北見から、南は九州宮崎県の椎葉村まで山林事業を起こし、また朝鮮の国有林にまで植林を敢行した。のちに鈴木は「住友の林業は百年の計をなさんとするもので、私は山林を住友最後の城郭と致したい。」と述べている。
明治15年1月、住友家では、伝統的家業経営から近代企業経営へと大きく転換していく中で、当時住友家総理人であった広瀬宰平は、第十二代家長住友友親の命を受けて、「住友家法」を制定した。これは本店重任局の田辺貞吉を中心として編集事業が進められていたもので、全編十九款一九六カ条から成る詳細な規定となっていた。
住友家法
これによって、「三井の番頭政治」「三菱の独裁政治」に対して住友の「法治主義」という特色が出来上がった
三井の番頭政治
三菱の独裁政治
住友の法治主義
貫井 陵雄
経営倫理実践研究センター
さて、明治15年、広瀬らによって制定された家法の第1款は、7条からなる家憲である。一部原文を交えて考察することにする。
第1条は、前文とあわせて、家長に「家訓を確守」する義務を課し、家長の専断を回避している。
第2条は、別子銅山を住友の「財本」と規定している。
第3条は、「我営業ハ確実ヲ旨トシ、時勢ノ変遷理財ノ得失ヲ計リテ之ヲ興廃シ、苟モ浮利二越リ軽進ス可ラザル事」と明記した。
我営業ハ確実ヲ旨トシ、
ワレ エイギョウ ハ カクジツ ヲ ムネ トシ、
時勢ノ変遷理財ノ得失ヲ計リテ之ヲ興廃シ、
ジセイ ノ ヘンセン リザイ ノ トクシツ ヲ ハカリテ コレ ヲ コウハイ シ、
苟モ浮利二趨リ軽進ス可ラザル事
イヤシク モ フリ ニ ハシ リ ケイシン ス ベカ ラザル コト
第4条は、祖先の祭記を掲げ、住友家への帰属意識や忠誠心を求めている。
以下、第5条は相続方針、第6条は雇い人の管理と意志疎通の重視、第7条は家長の分家末家に対する愛護について規定している。
注目すべきはこの家法において、住友の精神「確実」「浮利を追わず」の規定の初見であることである。ちなみに、「浮利」とは何であろうか。それにはどのような意味が含まれているのであろうか。「浮利」とは、住友商事 宮原賢次社長によれば、「easy gain」と表現されているが、「目先の利益」「儲けだけを追うような商売はしない」「短期的利益」などと解釈すれば理解がし易いかもしれない。