ケアの倫理
ケアの倫理
まず、本書に頻出する語のひとつに「ケア(care)」がある。文脈に応じて「思いやり」、「配慮」、「気配り」等に訳し分けたが、本書が基盤とする思想のひとつに、アメリカの倫理学者キャロル・ギリガンが提唱した「ケアの倫理」があると見て間違いないだろう。本書第一章でもマザーフッド(母であること)から派生するケアと維持の倫理が取り上げられているが、「ケア」とは介護や子育てなど直接的ケア行為だけでなく、「共感」や「思いやり」、「関係性」まで含んだ幅広い概念なのだと英文学者の小川公代は指摘する(3)。本書を貫くのは、そのような他者に向けた「ケア」のまなざしだ。 コロナの時代ということもあいまって最近とみに注目を集めるようになった「ケアの倫理」だが、そこから見える風景はどんなものだろう? 20世紀初頭、スペイン風邪が猛威をふるった時期に、英国の作家ヴァージニア・ウルフは「病気になるということ(On Being Ill)」というエッセイを書いた(4)。そこで健常者と病人のメタファーとして登場するのが、「直立人(the upright)」と「横臥する者(the recumbent)」だ。「横臥する者」は「直立人」の隊列から脱走して横になり空を見上げ、「薔薇の花」を観察する。この姿勢はまさに、有用性あるいは生産性からの逃避を試みる本書の態度にそのまま重なる。 キャロル・ギリガン
ケアの倫理は、規範倫理学の学説の一つ。アメリカの倫理学者・発達心理学者のキャロル・ギリガンの著書『もうひとつの声で : 心理学の理論とケアの倫理』(1982)に由来する。20世紀後半にかけてフェミニストたちにより発展した。帰結主義や義務論が普遍的な基準や不偏性を重視するのに対し、ケアの倫理は責任の重要性を強調する。ケアの倫理がもたらした新しい道徳的観点は、独特な問いの立て方において明らかである。すなわち、他の理論が「何が正しいか?」と問う一方で、ケアの倫理は「どのように応じるか?」という問いを立てるという違いがある。ケアの倫理は普遍的な基準を適用することに批判的である。なぜなら、そうすることは「道徳的な盲目性・無関心を助長するという問題がある」からだ