学習
本
初心者から達人への道
学習モデル
学習対象
科学の学習を構造化する7つの横断的な概念
パターンと類似性と多様性(patterns/similarity/diversity)
原因と結果(cause/effect)
尺度と比率と量(scale/proportion/quantity)
システムとシステムモデル
エネルギーと物質(energy/matter)
構造と機能(structure/function)
安定性と変化(stability/change)
学習の段階
聞いたことある
入門前
入門
習得後の作業量変化
・大工、大きい、無駄な動きを削る幅が大きい
・プログラマー、小説。少ない。無駄な動きを減らす幅が狭い。
学習方略
大人の学習
1. メンターやコーチをつける
2. 全く異なる業種の人と学び会う
3. MBAなどアカデミックを学ぶ
4. 離れた年齢の人と学ぶ
関連、用語
前提
前提知識
顕在知識
潜在知識
状況
動機
はじめに
現状と目標
個別要素の学習
学習組織
支援
感情的な支援
メトリクス
知識の収穫逓増
質の目利き
練習
集中する
分割
家庭教師の友人に、子どもが宿題で癇癪を起こすと相談したら頭のいい方法を教えてくれた「仕事にも使える」
学習の障害
記憶
実践
学習内容と実践のギャップ
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もっとやる、てっていてきにやる
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学習の誤解
例えば、「勉強」という言葉を考えてみよう。実にあいまいな表現ではないか。勉強とは教科書を繰り返し読むことだろうか。設問を解くことだろうか。記憶することだろうか。そのすべてだろうか。別の例として、「練習」という言葉はどうだろう。練習とは同じスキルを何度も反復するという意味だろうか。練習にはこまやかなフィードバックが必要だろうか。練習は苦しいものであるべきか。楽しくあるべきか。
他にも誤解はたくさんある。こと学習に関しては、研究による裏づけのない思い込みが多々まかりとおっている。最近私は国内の権威ある学習の専門家と共同で、スキルの身につけ方に関する一般人の知識について調査を行ったが、その結果に啞然とさせられた。自分は効果的な教え方と学び方の基本がわかっていると回答しながら、人がいかにして学習するかについてあやふやな感覚と間違った思い込みを抱いているアメリカ人が圧倒的多数だったのだ。
例えば、一般人の三分の二が生徒の頭の良さを褒めるべきと考えていた。しかし研究からわかっている事実はその正反対で、人は頭の良さよりも努力を褒められたほうが頑張って学習する。また半分の人は、これといった指導がなくても効果的な学習ができると回答していた。しかし相次ぐ研究で、学習は周囲の積極的な関与をともなうプロセスであることが示されている。さらに、それを裏づける研究はないにもかかわらず、八割以上が、手を動かしたほうが覚えやすい、あるいは視覚に訴えたほうが覚えやすいなど、人によって適した学習スタイルがあると信じていた。
とはいえ、救いは学習プロセスの開発にはそれほど手間がかからないことだ。無味乾燥な数々の調査研究に埋もれていた向上策を見てみれば、その多くはたいした努力をしなくても大きな効果が得られることを示している。キトサンタスを訪ねた日も、彼女は小さな工夫で結果が格段に向上すると指摘していた。例えばダーツの実験では、「チーム・学習メソッド」の被験者の約半数が投げるたびに点数を記録していたが、たったそれだけでも成績は大幅に上がった。「考えてみればすごいことですよね」とキトサンタスは言った。
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https://youtu.be/kfx1FF8D0CE
https://gyazo.com/39e61d49ee837af201e356f3b89d9dd5
プロセス
障害
リソース
テクノロジーによる学習の促進
https://gyazo.com/6f912f8baa57edac40b5111e61975da6
個人が学習で培った人的資源は組織ではほとんど使われていない
人は同時に一つのことしかできないため、どれだけ多様な知識を有していても、ほとんどの場合で使われない。
学習の局所性…抽象…メタ抽象…特殊…離散と連続の再構成
隠れた真実? 多くの人が誤解している現象に学習がある。学習とは行動を修正する変化であり、また局所現象だ。
学習は局所現象とは何か?
学んだことは、学んだ状況と同様の条件にしか使えないということ。
これが多くの人が誤解しているというのはどういうことか?
例えば知識の領域を二次元以上に広げた空間に学習をマッピングしていくと偏りが見える。ところがグラフを用いて総量を表現すると、進歩しているように見えてしまう。
学習の総量が増加しても、目の前の問題解決に必要な学びを得られなかったら事態は進展しない。学習と問題は適合するかどうかの関係であり局所的だ。学習の総量が問題解決を直接促進はしない。
だからも、自分達に何が必要なのかという問題設定の視点をもたずに、学びの総量だけで自分は成長していると言った自己評価をすると危ない。
日常での学習はほとんど局所現象だ。
「こうしたらうまくいった、ああしたら失敗した」
こういった学習では他の状況に容易には転用できない。学んだことを他の状況にも応用できるのは、学んだ状況と類似性が高いに限られる。
事例を聞きたがる「事例おじさん」が揶揄される。事例をいくら集めても、自身の問題に適用できなければ解決しない。局所的な理解では役に立たない。
学習の局所性を抑制することは難しくない。つまり「より多くの異なる状況に適用できる因果関係の理解」をすればいい。日常での体験を他の状況でも適用できるように理解すればいい。
ただ、よく抽象化が大切というが、世間で扱われる抽象化は非常にぼんやりしている。抽象化には第一に方向性があることと、第二に特殊が軽視されている。
抽象化の方向性というのは、抽象化はひとつだけではなくいくつもの選択肢があるということ。例えばうさぎは「かわいい」という抽象もできるし、「動物」という抽象もできる。世間だと「難しい言葉にする」ことを抽象化といっていることがあるが、それは間違いだ。大切なのは、取りあげている状況に反応する確率分布の高い属性を抜き出すって話だ。
例えばミッフィーやキティといったデフォルメキャラクターは、モデルとなった動物の造形の内、人が最もポジティブに反応する刺激を抜き出すことによって、「本物の動物よりも可愛らしい」と感じるように整えられる。
すこし具体的にすると、単純にウサギや猫に、人の好意的な反応を引き出す視線の集まりを可視化したヒートマップをつくり、さらに好意的な視線が集まるように加工した…という操作だ。
抽象化の方向性の質は、抽象化する状況によって巧みに制御される。たとえばキャラクターデザインというコンテキストでは「捕食と排泄といった生態」よりも「かわいい」という方向性に抽象化する必要がある。※しかしパロディでは、捨象された側を特徴づけられることが多い。ミッフィーが捕食するように。
この、「状況に求められている抽象化の方向性の一致の度合い」だったり、「理解が進むにつれてより一致が進むという抽象化の方向性の度合いの変化」が大切だ。「勘が働く」とかそういう主観的認知が伴う。これを抽象化の抽象化、メタ抽象と呼んでみよう。
抽象化をぼんやりしている人と、一時的な抽象化までしか分かっていない人、メタ抽象を分かっている人がいる。異なる人同士では会話がうまく進まないことが多い。つまり学習という現象には抽象という領域があり、人によって使われ方が大きく異なるし、会話が通じない原因になるということ。仕事ではてんで勘が働かない人も、好きな趣味には勘が働く人は多い。
特殊というのは捨象の言い換えだ。ぼんやりとした表現だと、抽象化したときに取り除いたところ。うさぎから「かわいい」を抽象したら、特殊なのは「捕食と排泄」だ。
抽象化は大切と言われるが、この特殊も非常に大切だ。二種類ある。単に取り除いたと言うだけではなく、そぎ落とした属性の中から最も刺激の強いところを理解しておく、特殊の抽象化。
別の文脈に切り替わったときに役に立つ。例えばキャラクターデザインだとエッジの効いたものができる。「かわいい」「捕食と排泄」するキャラクター。「かわいい」「子殺し」するキャラクター。七味に山椒をぶちまけたみたいな刺激ができあがる。
特殊のもうひとつは「刺激がすくなく、言葉にしにくい連続性」だ。ウサギであれば「しろくてふんわりしたぼんやりとしたシルエット」。これは強い刺激と刺激をつなぎ合わせる下地になる。全体性とも解釈されたりする。味噌と出汁をといただけのスープ。図と地の関係における地の役目を果たす。
これで中核+特殊(離散)+特殊(連続)ができあがった。
コンテキスト「キャラクターデザイン」
抽象(離散)「かわいい」
特殊(離散)「捕食と排泄」
特殊(連続)「しろくてふんわりしたぼんやりとしたシルエット」
かわいいキャラクターデザインを作るという状況では、いままでの流れにのっとった「かわいい」だけのキャラクターにもできるし、「かわいい捕食と排泄」するという今までの流れを意図的に外したキャラクターにもできる。
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グレゴリー・ベイトソンの「学習」概念について
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https://youtu.be/qqR8a8PPKoY?t=51