隣接可能性(Adjacent Possible)
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隣接可能性から構築する働きかけと反応
アイデア
問題同士の隣接性
問題空間同士の隣接性
学校教育のリテラシーを潤沢な資源の土台とすること
学校で習っていないことは普及に時間がかかるが、習ったことならば普及が早い。
ビジネスモデルキャンバスはビジネスの重要な要素を9つのエリアに分かけて描くキャンバスというモデリング方法を編み出した。キャンバスというアイデアはビジネスマンだけではなく、新しい解決策を生み出そうとしているメソドロジスト達も刺激し、リーンキャンバスなどを生み出した。つまり、Xキャンバスはビジネスモデルキャンバスが切りひらいた隣接可能性によって生み出されたものといえる。問題は、ビジネスモデルキャンバスがそのものが一部のビジネスマンがちょっとかじったくらいしか使われておらず、狭く脆い隣接可能性しか開かなかったことだ。
多くの人にとってなじみのある道具によって、大きく開かれている隣接可能性から生み出さなければならない。
バーコードバトラー
真似しやすい
https://gyazo.com/20cb095c443b8fdb63d0370acb0edc58
名前を忘れた
日本名の企業の事業展開
事業展開で四象限のグラフが連続する
事例
https://gyazo.com/8e989c07eb4786b07d4c0b73cc8295db
https://gyazo.com/4aad511e8f28f59e0b003a388aff4a67
グッドアイデアとは、このネオナーチャーのようなものだ。グッドアイデアには必ず、それをとりまく部品や技能の制限がかかる。私たちにはもともと、飛躍的なイノベーションこそがロマンだと思って、周囲の状況を超越した画期的なアイデアや、古いアイデアや化石のような伝統が覆いかぶさった状況をよそに、その外が見える才能ある人物を思い浮かべる傾向がある。ところがアイデアは間に合わせブリコラージュの仕事で、あれこれかぶさったものから築かれるものだ。自分で受け継いだり偶然出くわしたりしたアイデアを使って、それをいじってまとめて新しい形にする。人は自分たちのアイデアが四万ドルの保育器のようなもので、工場から新品が出荷されるものと思いたがるが、実際のアイデアは、たまたま修理工場にしまわれていたありあわせの部品をつぎ合わせてできている。
科学者のスチュアート・カウフマンは、この第一段階の組み合わせを「隣接可能性(アジェイセント・ポシブル)」と呼んだ。この言い回しは変化とイノベーションの限界と創造的な力の両方を捉えている。前生物化学の場合には、隣接可能性は原初のスープで直接に達成できる分子の反応すべてのことに相当する。ヒマワリや蚊や脳は可能性の範囲外にある。隣接可能性とは、未来の影のようなもので、ものごとの現状というか、現在から作り替えられる、あらゆる形の地図のへりの上に止まっている。それでも無限の空間ではないし、何でもありの場でもない。第一段階の反応としてありうる数は膨大だが、数は有限で、現代において生物圏にいる形態のほとんどはそこには入らない。隣接可能性が教えてくれるのは、世界にはいつでもとてつもない変化をする力があるとしても、一定範囲の変化のみが起こりうるということである。
隣接可能性については奇妙で美しい真実がある。それは、その境界を探ると、当の境界で区切られる範囲が広がるということだ。新たな組み合わせが見つかるたびごとに、別の新たな組み合わせが隣接可能性の領域に呼び込まれる。ドアを開けるたびに魔法で家が広がるようなものと考えてみよう。最初は四つのドアがついた部屋にいるとする。それぞれのドアはまだ入ったことのない別の部屋につながっていて、その四つの部屋が隣接可能性となる。ところが、そのドアの一つを開けて、その向こうの部屋に入ると、また別のドアがいくつか目に入る。それぞれが、最初の部屋からは行けなかった新たな部屋につながっている。ドアを次々と開けていくと、いずれ大宮殿になるだろう。
基本的な脂肪酸がいくつかあると、自然に自己組織化して球となり、まわりは分子による二重の層でふちどられる。これは今の細胞の境界を定める膜によく似ている。脂肪酸が結合して境界のあるこの球を作ってしまうと、新たな隣接可能性の部屋が開ける。その分子はそうとは知らず、球の内と外という根本的な区分を生み出しているからだ。この区分は、まさしく細胞の根幹をなしている。「内側」ができてしまえば、そこに栄養、小器官、遺伝子など、いろいろなものを入れられる。小さな分子は膜を通り抜け、中で他の分子と結合して、もっと大きなものになることができ、そうなると、今度は大きすぎて原細胞の境界を逆向きに通って脱出することはできなくなる。最初の脂肪酸が自然発生的にあの二重の層をなす膜を形成したとき、その脂肪酸は、最終的には核酸による遺伝子や、葉緑体やミトコンドリアといった動力源など――今のあらゆる細胞にいる原始的な「住民」――につながる隣接可能性に至るドアを開いていたのだ。
四〇億年前の一個の炭素原子だったら、偶然の遭遇でなれる分子の配置は数百といったところだっただろう。今日になると、その同じ炭素原子は、原子としての性質は少しも変化していないのに、マッコウクジラでも、メタセコイアの木でも、新型インフルエンザ・ウイルスでも、生物以前の地球では隣接可能性の中には入っていなかった、ほとんど無限に続く他の炭素型生物のいずれでも、その体を作る助けになれる。さらに、炭素を使う人工物――たとえば地球上にあるプラスチック製のものそれぞれ――という、やはりおそるべきリストもあるし、あの脂肪酸が集まって最初の膜を作って以来、隣接可能性の王国がどれほど広がってきたかもわかる。
生命と人間の文化の歴史は、隣接可能性を徐々にでもたゆみなく探ってきた話として語ることができる。新たなイノベーションがあるごとに、探るべき新たな経路が開ける。しかし、その可能性の空間を探るのがうまい組織もあれば、そうでない組織もある。
大都市の環境は、小さな町や村よりも、商業的な隣接可能性を探索する余地がはるかに大きく、人口の少ないところでは成り立たないような分野を専門とする商売や企業が成り立つ。ウェブは、歴史上の他のどんな通信技術よりも高速なメディアの隣接可能性を探ってきた。一九九四年の初め、ウェブはテキストのみのメディアで、ハイパーリンクでつながるのは言葉によるページだった。けれどもそれから何年もしないうちに、可能性の空間は広がり始めた。
隣接可能性は、開けるものであると同時に限界でもある。生活圏が広がる歴史のどの瞬間でも、開けられないドアがある。人間の文化では、飛躍をもたらすアイデアについて、それは時間軸上で突然に加速するもので、天才と呼ばれる人が、時代に五〇年先駆けて、普通の人はそのときの流れに取り込まれて思いつかないようなことを思いつくというふうに考えられるものだが、実際には、技術的(科学的)前進が隣接可能性を超えて突出することはめったにない。文化の前進の歴史は、ほとんど例外なく、ドアが開いてまた次のドアにつながるという話で、宮殿を調べるのも一部屋ずつしかできない。けれどももちろん、人間の心も分子の配置という限られた法則に制約されるものではないし、それでときどき、何部屋か先までテレポートさせてくれて、隣接可能性で言えば何段階かすっとばすようなことが誰かの頭に浮かぶことはある。しかしそうしたアイデアはたいてい、すぐに失敗に終わるものだ。まさしく、そういうアイデアが途中をすっとばしているからである。そういうアイデアを表す言葉もあって、そういうものは「時代が早すぎた」と言われることになる。
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アルゴリズムと言えば、こうしたプロセスのコンピュータ・シミュレーションでこのような結果がうまくモデル化されている。複雑なふるまいが、個々の主体間で作用する非常に単純な規則の繰り返しで生じるのだ。これらのシミュレーションは、非常に複雑なシステムの面食らうような動きやまとまりが、個々の構成要素の相互作用を司る非常に単純な規則から生じるという考えを裏付けてきた。この発見が実現したのは、約三〇年前にコンピュータがそんな大量計算をこなせるほど強力になったおかげだ。今やこんな計算は、普通のノートパソコンでも手軽にできる。こうしたコンピュータによる研究は、多くの系に見られる複雑性の根底には実は単純性があるのではという考えを裏付ける上で、非常に重要だった。