認知的柔軟性
心理学者のバリー・シュワルツは別の例を使って、経験を積んだ人が柔軟性を失っていくことを示した。シュワルツは大学生に、電球が並んでいるボードを使って謎解きをさせた。そのボードは、スイッチを押すと順番に電球がついたり消えたりする仕組みになっていた。ある順番で電球を点灯させると、得点と少額の賞金が与えられる。被験者の学生たちはその順番を試行錯誤しながら見つけ出す必要があった(*2)。点数が得られる順番は70通りあったが、学生たちは正解の順番を一つ見つけると、それがどうして正解なのかはわからないまま、何度も繰り返し用いて賞金を獲得した。
しばらくして別の学生たちが加えられ、実際に謎解きをした学生も一緒に、どうすれば点数が得られるのか、全般的なルール(70通りのやり方に共通するルール)を見つけるよう求められた。すると、パズルに新しく加わった学生たちは全員、共通するルールを発見した。一方、一つの解決方法で賞金を獲得し続けていた学生たちのうち、そのルールを見つけられたのは一人だけだった。シュワルツがこの実験について書いた論文の副題は「ルールを見つけさせない方法(注32)」だ。その方法とは、限られた解決方法で繰り返し正解させて、報酬を与えることだ。
弁護士は、たとえばオクラホマ州の個人が起こした訴訟の結果が、カリフォルニア州の企業が起こした別の訴訟にどう影響するかを考える。その訴訟のために、さまざまな弁論を準備し、さらには相対する弁護士の立場に立って、彼らがどう主張してくるかを予想する。このような「概念化」は柔軟な仕組みで、概念化によって情報やアイデアを異なる用途に活用し、異なる領域に知識を移行できるようになる。
こうした「知識移転」が現代の仕事では求められる。知識を新たな状況や別の分野に適用する能力だ。私たちの根本的な思考プロセスは、複雑化する世界に対応するため、また従来のパターンに頼らずに新しいパターンを導き出すために変化してきた。概念に基づいて分類する仕組みは、知識を結ぶ足場となり、知識を手に入れやすくし、また知識を柔軟にする。
先進国6カ国の成人の調査によると、仕事に自律的な問題解決や、毎回異なる課題が伴うほど、「認知的柔軟性(注18)」が強くなるという。フリンが指摘するように、これは現代の脳が従来の脳より本質的に優れているということではない。むしろ、元々かけていた「実利的なメガネ」が、「概念によって世界が分類されているように見えるメガネ」に交換されたということだ(*1)。ごく最近でも、古くからのしきたりを守る宗教のコミュニティーで、近代化されてはいるものの女性が現代的な仕事に就くことを許さない場合は、同じコミュニティー内でも、男性より女性のほうがフリン効果は現れにくいという(注20)。現代社会に触れることによって、私たちは複雑さにより順応し、それが思考の柔軟性として表れる。このことが、私たちの知的世界の幅に深い意味をもたらす。
近代化により、村人の内なる世界は完全に変化した。モスクワから来た科学者たちが村人に、科学者やモスクワについて何を知りたいか尋ねた。すると、辺境の地の村人は、質問を一つも思いつかなかった。「ほかの町で人が何をやっているのか、見たことがない」と、ある男性は言った。「だから、質問なんかできない」
一方で、集団農場に関わっている人々は、すぐに興味を持った。「さっき白いクマの話をしていたけど」と、集団農場の農民で31歳のアフメトジャンは言った。「そのクマがどこから来るのかわからない」。彼は言葉を止めて少し考えた。「それから、アメリカの話もしていたね。アメリカはうちの国の領土なのかな。それともほかの国?」。やはり集団農場で働き、2年間学校に通った19歳のシダフは、想像力に富んだ質問をした。シダフの自己改革の意欲は、自分自身から、地域、世界にまで及んでいた。「集団農場の人たちを向上させるために、私は何ができるでしょうか。どうすれば、より大きな作物が収穫でき、大きな木ぐらいに成長する作物を植えられるでしょう。それから私は、この世界がどのように存在しているのか、興味があります。どこからいろいろな品物がやってくるのか、金持ちはどうやって金持ちになり、貧しい人はなぜ貧しいのか」
近代化以前の人たちの思考は、直接の経験の範囲に留まっていたが、現代に触れた人たちの考えはそれに比べると自由だ。
知識移転のトレーニング
フリンをがっかりさせているのは、社会、特に大学教育において、こうした概念的な知識や移行可能な知識についてのトレーニングではなく、専門特化が推進されていることだ。
フリンは、アメリカのあるトップクラスの州立大学で、神経科学から英語までさまざまな専攻の4年生を対象に調査を実施し、彼らのGPA(成績評価平均値)とクリティカル・シンキング[批判的思考。客観的にものごとを分析して判断すること]のテスト結果を比較した。クリティカル・シンキングのテストは、経済学、社会学、物理学、論理学の基礎的な概念を、現実世界の問題に適用する力を測るものだった。この幅広い概念的なテストの結果と、GPAとの相関関係はほぼゼロで、それを見てフリンは愕然とした。フリンは著書で「よい成績をとる力があっても、重要なクリティカル・シンキングの能力が高いわけではなかった(注21)」と述べた(*2)。
テストの20の設問はそれぞれ、現代の世界で広く活用できる概念を活用する力を測った。その中では、たとえば循環論法を見つけるなど、特に公式に教育を受けなくてもできる思考に関しての成績はよかった。
しかし、分野別の概念を活用したフレームワークに関しては、ひどい成績だった。生物学専攻と英語学専攻の学生は、自分の専門分野に直接関係しない問題はすべて成績が悪かった。心理学を含めたどの専攻の学生も、社会科学の手法を理解していなかった。理科系の学生は、真の結論を導き出す科学の手法を理解せずに、各自の専門分野について事実だけを学んでいた。神経科学専攻の学生は、特によい成績をとれた問題はなかった。経営学専攻の学生は、経済学も含めて全体的にひどい成績だった。
全体の中で最もよい成績だったのは、経済学専攻の学生だった(*3)。経済学は本質的に幅が広い分野で、経済学の授業では学んだ論法の原理を専門以外の問題にも活用することを教える(注22)。一方で化学専攻の学生も成績はよかったが、いくつかの質問では科学的な論法を化学以外の問題に用いるのに苦労していた(注23)。
学生がよく間違えたのは、科学的な結論における微妙な価値判断の問題だった。たとえば、間違いやすいシナリオを示し、相関関係を因果関係と間違えないよう警告した問題では、鉛筆を転がして答えた場合よりも成績が悪かった。
どの専攻であっても、ほとんどの学生は自分の専門分野で学んだ真実の判定方法を、他の分野にどう応用するかわかっていないようだった。その点において、学生たちはルリヤが調査した辺境の村人たちと共通していた。理科系の学生でも、自分の分野の調査方法を一般化して、他の分野に活用することができなかったからだ。フリンはこう結論づけた。「どの学部も狭い範囲でしか、クリティカル・シンキングの能力を育てようとしていない」