認知的洞察
多様なリソースの中で徐々に解決に向かうのが認知的洞察
ひらめきは、専門的には洞察と呼ばれる。ひらめきの特徴は、ひらめく前とひらめく後の不連続性にある。今まで解けない、わからないとうめいていたのが、突然、天から解が舞い降りてきたかのように、パッとわかってしまう。こういう神秘性もあり、認知科学の中で研究が展開し始めたのは二〇年ほど前からである。
洞察は前に述べたような常識とは大きく異なる姿をしており、前節で見た思考の発達と似たような姿をしていることがわかってきた。つまり、多様なリソースの中でゆらぎつつ、徐々に変化していくのが洞察だったのである(68)。
私たちは問題解決を意識的な過程として、つまり自分が一生懸命考えて、いろいろなことを思いつき、それらを取捨選択しながら試していくものと、見なしている。もちろんそういう部分はあるだろうし、そこにもさまざまなリソースが関与している。しかし、私たちの問題解決はそれだけではなく、無意識の情報処理(評価や制約緩和)というきわめて強力なリソースの力も借りているのである。
人間はある間違ったやり方にはまってしまった時でも、もっぱらそのやり方だけを使っているわけではない。確かに、初期には制約にとらわれた不適切なやり方が優勢である。しかし、数は少ないながらもはじめから適切なやり方も用いられている。こうしたことが無意識の情報処理というリソースによって気づかれ、適切な評価を受けることによって、私たちは徐々に洞察へと近づいていくのである。
サラダ記念日の過程
俵万智さんを一躍有名にした、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
という短歌がある。歌心のない人は、俵さんのような鋭敏で可憐なセンスを持った天才が、これを一挙に作り出したと思うだろう。しかし、彼女が体験から最初に考えついたのは、 カレー味の唐揚げ君がおいしいといった記念日六月七日 というものだったという。
コメントは控えるが、多くの人にとってグッとはこないものだろう。これも含めて七パターンくらい作ったのだそうだが、どうもうまくいかない。いろいろ考えているうちに「カレー」が却下され、「塩味」をへて、「この味」になったそうだ。そうしたことで「唐揚げ」からも自由になり、「サラダ」が浮上した。なぜサラダであり、七月なのかは、サラダの新鮮さ、サ行の音が持つさらさら感に由来するものであり、なぜ七月七日でなく七月六日になるかは、七夕ではあまりにでき過ぎだからだ。ここらへんまでくるのに一週間くらいかかっているとのことだ(79)。
こうしてみると、この創作過程は子どもの発達、ひらめきの中で見てきたものと同じように思える。その思考過程は、さまざまな可能性が絶えずゆらぎながら少しずつ変化していくこと、生み出されたものはすでに生み出されたものと相互作用しながら、自分を、また他のものを変えていくこととなるだろう。こうした意味で、創作の「プロセス」は通常の認知過程なのだと言えるのではないだろうか。われわれと俵さんが違うのは、さまざまな可能性の幅と、それを評価する目(関数)であると思う。そして、これを養うために修行が必要なのだろう。
発達においても洞察においても、ゆらぎの多い人たちは次のレベルの思考への変化が行われる一方、一貫したやり方しか使わない人たちは一つの場所にとどまり、その先へ進むことはない。多様な認知リソースが文脈と相互作用し、ゆらぐ中で思考が営まれ、発展するのである。
論文
(68), Suzuki, H. (2009). Dynamics of insight problem-solving: Its generative, redundant, and interactive Nature.
参考
(79), 『短歌をよむ』俵万智(1993)
出典