言語の摩滅
語の摩滅という現象は昔から知られている。言語は使っていなければ話せなくなることが多い。第二外国語を勉強した人によく起こる。中国語にせよリトアニア語にせよ、実際にその言語を使っていなければ、だんだん思うようにしゃべれなくなる。
さらに驚いたことに、言語の摩滅はネイティブスピーカーにもよく起こる。例えば先日私はボリビアの田舎で育ったヤヨイ・オオタと話をした。オオタの両親は日本人なので、彼女は両親とはいつも日本語で話していた。また子どものころに日本語で書く勉強をし、日本語の課外授業も受け、友達の多くとは日本語で話していた。
高校卒業後、オオタはボリビア有数の大都市サンタクルスに出てきて、スペイン語中心の日々を送るようになった。周りに日本語がわかる人はほとんどいない。今では母語をほとんど忘れてしまった。両親や昔の友人とはつっかえながらも日本語で話すことができるが、書くスキルはほぼ完全に失った。母語と実質的に縁が切れてしまったのだ。
不思議ではないだろうか。オオタが最初に覚えた言葉は日本語だった。両親とは長年、日本語で会話していた。しかしこのような言語の摩滅はネイティブスピーカーでも意外に多く起きている。五年間にわたりタリバンに拘束されていたボウ・バーグダル軍曹は英語が話せなくなっていた。アイダホ州で大人になるまで英語で育ったにもかかわらず、バーグダルはアフガニスタンで捕虜生活を送る間に母語を失ってしまったのだ。
オオタやバーグダルのような人々は、母語の語彙を必ずしも完全に忘れてしまったわけではない。例えばオオタは今でも基本的な表現を思い出して書くことができる。消失してしまうのは意味だ。オオタのような人々は言語の組み合わせ方を思い出せない。言語に埋め込まれた関係と体系がわからなくなってしまうのだ。ある研究者が述べているように、言語の摩滅はゆっくりと「複雑に絡まった相互の結びつきがほどけていく」現象と言える。