教授主義
工業化経済に適応した教授主義(instructionism)
1920年代 学校教育は科学的に確かめられていない常識的な課程に基づいてデザインされた
学校教育が今日われわれが知るような制度として広く普及した1920年代においてもまだ、「人はいかに学ぶのか」についての継続的研究はなされていなかった。その気か、今日の学校教育はこれまでまったく科学的に確かめられていない常識的な仮定に基づいてデザインされた。
知識は問題解決に必要な世界についての事実と手続きの集合である。事実とは「地球の自転軸は23.45度傾いている」などの記述であり、手続きとは、「繰り上がりのある足し算」の方法の教示のようなステップ・バイ・ステップの教示のことである。
学校教育の目標は、これらの事実と手続きをを生徒たちの頭の中に注入することである。人々はこうした事実と手続きをたくさん知っていれば、教育されたとみなされる。
教師はこうした事実と手続きを知っており、彼らの仕事はそれらを生徒に伝達することである。
生徒は比較的単純な事実と手続きから始め、しだいに複雑な事実と手続きを学んでいくべきである。"単純さ"と"複雑さ"の定義および教材の配列は、教師や、教科書の著者や、数学者や科学者、歴史の専門家のような熟達した成人によって決定され、生徒が実際にどのように学習するのかを気軟球することによってではない。
学校教育の成功を確かめる方法は、生徒がどれだけ多くの事実と手続きを習得したかをみるために、生徒に対してテストすることである。
知識経済においては、事実と手続きを記憶しているだけでは成功するのに不十分である。教育を受けた者は、複雑な概念の深い概念的理解や、新しいアイディア、理論、知識、作品を生みだすために創造的に働く能力が必要となる。
また、読んだものの内容を批判的に評価できること、科学的・数学的な思考を理解できることも必要である。
さらに、教授主義で重視される一つひとつ区分けされ脱文脈化された知識よりも、統合化され実際に使用可能な知識を学ぶことのほうが重要である。
そして、一生続く生涯学習に自己責任で取り組まなければならない。
教授主義は新しい知識を作り出し、持続的に発展させることができる創造的な専門職を教育するのには適合しておらず、現代の革新的な経済社会においては、もはや時代錯誤と言わざるをえない。
出典