ラプジャード
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本書の主題-ペソア、カフカ、ベケット
わたしたちがいるのは一九三〇年二月二十一日。帽子をかぶり、細いフレームの眼鏡を鼻先にのせたフェルナンド・ペソアは、多くの異名をもちいる男で、いつものようにリスボンの街を散歩している。疲労と倦怠をいつもどおり味わう。外の世界から遊離している気がして、じぶんが生きていることがむなしいように感じる。一般的な観点からすると、じぶんの人格には「形面上学的なあやまち」があるようにおもえるのだ。よけいなモナドとして生きているといってもいいかもしれない。ご存知のようにライプニッツの体系において、モナドには扉も窓もない。モナドが外の世界に開かれている必要がまったくないのは、この世界は、多種多様でありながら秩序立ったというかたちで、モナドのなかに包みこまれているからだ。それにたいしてぺソアの抱える問題すべてがどこにあるかといえば、かれは知覚を有しているにもかかわらず、その知覚が外の世界のリアリティや、じぶん自身の存在のリアリティを感じさせてくれないということだ。現実が外にあるというよりむしろ、かれ自身があらゆる現実の外にいるのである。かれはモナドのようなものなのだが、ただし扉と窓のうしろに幽閉されている世界なきモナドなのだ。「生とわたしのあいだには薄いガラスが張られていて、生をはっきり目の当たりにして理解することができたとしても、わたしは生にふれることができない」。かれはいわば、生きる可能性を奪われているのだが、それにもかかわらず、生きることの重みに耐えなければならない。 こうした「じぶんは実存していない」といった主張に対する反駁として「なんにせよじぶんに問いかける者としてそこにいるのだからもう実存しているのであって、偽の問題に嵌まりこんでいるにすぎない。難なく実存しているのに、実存への入口を探しているなんて」といった主張が存在するが、ラプジャードによれば「こうした反論は、実存とリアリティというふたつの概念を混同しているにすぎない」とする。
ある面からすれば、この男はじっさいに実在し、所与の時空間を占め、さまざまな事物に囲まれ、橋のうえで通行人たちとすれちがい、無数の印象をとりまとめ、いくつもの考えがかれの心を横切っていく。だがこうしたことのどれを取ってみても、ほんとうにリアルなわけではない。存在たち、事物たちはたしかに実存しているが、リアリティを欠いているのだ。
ラプジャードによれば、こうした独身者の立場は「ベケットの人物たちからさほど遠からぬところにいる」。がしかし同時に「カフカ/ベケットの並行関係をつくりだすことではない」とする。それはなぜか。
なぜならカフカからベケットにかけて、状況は変わったからだ。唯一の共通点は、ベケットの人物たちも剥奪された者たちだということである。かれらにはじぶんに帰属するものがいっさいない。だが剥奪はかれらにとって既成事実となり、いわばアプリオリな条件と化している。かれらはもういかなる権利も要求しない。「もう権利もないというのかい?失くしてしまったのか?-売り飛ばしてやったのさ」。ベケットにおいて、ひとは剥奪された状態で生まれる。だから訴訟という考えじたいが意味をもたないのだ。「生まれるまえに諦めなければならなかったし、ほかのやりかたなんてありえない」。ベケットの人物たちはじぶん自信を保有する手段をもたないので、それよりむしろ、じぶんはいったいだれに属しているのだろうかと自問する。こんな世界のなかにじぶんたちを置いたのはだれか。じぶんたちにかかずらわっているのはだれか。もっというなら、じぶんたちの代わりに、じぶんたちの頭のなかで喋り考えているのはだれか。所用物といえば、定期的に目録をつくっている詰まらないものがいくつかあるだけだ。ところでカフカからの甚大な変化は、ベケットの人物たちがこうした剥奪状態に苦しむことさえないということだ。問題は別にある。ベケットの人物たちを特徴づけ、かれらにおおきな喜劇的な力を授けるのは、この人物たちのおこなう要求である。かれらはどれほど全面的に奪われていようとも、それでもなにかを要求する。かれらはどんなことにかんしてもいっさい権利を求めないし、いかなる財産も要求しない。大抵の場合、じぶんがなにかを求められているかさえわからない。そうだとするならベケットの人物たちはなにを要求するのか。かれらは訣別することを要求するのだ。もう語らないこと、もう見ないこと、もう考えないこと、もう動かないこと。すなわち決別すること。昼の光のもとでは、この要求は傲岸不遜でさえありうるだろう。「きょうにも死ぬかもしれない。わたしがそうしたければ、一押しするだけでいい。もしわたしがそう望めるなら、一押しできるなら」。ただしベケットの人物たちは、この要求を決して実現させられない。望むだけの意志すら十分にもちあわせていない。完璧に黙ることも、もう思考しなくなることも、もう動かなくなることも絶対にない。いつまでも存続する残滓や振動が訣別を妨げるので、終えることを終えられない。「さらに終わるために」。かれらがラディカルに剥脱されているのはまさしくそのためだ。つまりかれらは、訣別すると決断することさえできないのである。
すなわちベケットは自らが不在たる物質的実存によって、訣別を剥脱されているのだ。精神的自殺志願者が肉体的苦痛や恐怖によって断念するが如く、物質的実存はラディカルに剥奪するのである。
ペソアを救う「リアリティを徐々に得てゆく様式」
「スーリオの出発点である「実存的多元論」」からラプジャードは始める。
この多元論が真っ先に主張するのはまさに、世界に棲息するあらゆる存在に当てはまるたったひとつの実存様式などないし、あらゆる存在にとってのたったひとつの世界などないということだ。「これらの様式のなかのひとつの様式、たとえば物理的実存や心的実存といった様式にもとづいて実存するものすべて」を網羅したとしても、世界の広がりを汲みつくすことはできない。スーリオは存在と無のあいだにふくまれる多種多様な実存様式の広がりを展開し、探究してゆくのである。ハムレットの実存様式は平方根のそれと同じではないし、電子の実存様式はテーブルのそれと同じではない、など。すべて実存しているのだが、それぞれに独自のしかたがあるのだ。また逆に、ひとつの存在には実存様式がひとつしかないわけではなく、複数の様式で実存しうる。〜ハムレットが、シェイクスピアの作中人物として、舞台上に現前するものとして、言説で言及されるものとして、映画の主人公として、等々で実存するのもそうだ。ひとつの存在はおのれの実存が二重化、三重化されるのを目撃しうる。つまり数的にひとつであり続けながら、複数の別々の平面にまたがって実存しうるのである。〜ひとつの存在は、まるで複数の世界に属するかのように、複数の実存平面に参加しうる。ひとりの個人がこの世界に実存するとして、そのひとは身体や「心」として実存するが、それにとどまらず鏡のなかの反射としても、他者の精神のなかの主題、観念、記憶としても実存する。実存のしかたは、ほかのさまざまな平面と同じ数だけあるだろう。この意味でいうなら存在とは、多元様式的で、多数様式的なリアリティである。そして世界と呼ばれるものはじっさいのところ、多種多様な「狭間世界」が絡みあい、さまざまな平面がもつれあう場なのだ。
こうしたスーリオの実存的多元論の一つの結論を次のように述べる。「ひとつの存在を実存させる多彩なしかた、実存を後押ししたり、リアルなものにする多彩なしかたから、多元性を引きだしているのは諸芸術のほうなのである」。これは下記注釈によって補足すると明晰になる。
いくつかのテクストでのスーリアは、彼自身の実存的多元論を、諸芸術の多様性をモデルに構想しているように見える。だが、やがてそれを修正して、いっそう深い芸術が実存することを示すのである「〜なんらかのモデルを提供しうる創建の道ではなく、むしろ芸術に属するなにかのほうに[解決策]を探るのは、奇妙なことではないはずだ。-ただし、それを十分に拡張し、純粋原理において把握しなければならない。-実存するというの共通の純粋芸術は、異なるさまざまな実存する芸術に共通のものである。実存を獲得したければ、このさまざまな芸術からどれかひとつをじっさいに選択し実践しなければならない」。
つまり前期スーリオは実存的多元論の構成論的アナロジーとして、諸芸術の多様性をみていたが、後期スーリオは下記にあるように「芸術に属するなにか」に実存の「共通の根源」を見出したのだ。ただそれは「根元的存在論」を理論展開するためではない。それを次のように述べる。
もしかしたらあらゆる存在のしかたを、その由来たる共通の根源-《存在》-へと差し戻し、哲学を根元的存在論と同一視することもできるのかもしれない。だか〜もはや重要なのはさまざまな様式を、ひとつの根拠のもとへと-あるいはあはゆる根拠よりも深い無底へと-差し戻すことではない。そうではなく、さまざまな様式がこの根源から身を引き離すしかた、「ちょうど切先が剣の外へと飛びだしてゆくように」、さまざまな様式が《存在》の外へと抜けだすしかたを、研究することが問われているのだ。
つまり「スーリオの興味をひくのは、こうした茫然とした根源ではなく、この根源を出発点として下絵が素描されたあと、仔細を決められ、詳細を詰めてゆくにつれてリアリティを徐々に得てゆく様式のほうなのだ」。こうして、デカルトの我のような「根源」ではなく「根源」から立ち顕れ「リアリティを徐々に得てゆく様式」を論ずるからこそ、スーリオの美学はペソアを救うやもしれないのだ。
これらの様式のほとんどは粗描や下描きの状態にとどまったままで、茫然とした土台からおのれを異化することなく、ふたたびそこへ沈みこんでゆく。だが、そうならないほかのものは、リアリティの強度を高めてゆくことで頂点へと浮上してゆく。
繰り返すが「スーリオは〜多種多様な実存様式を探究し、現象の束の間の瞬きから、潜在的リアリティのふたしかな実存に到る、さまざまな実存の漸減を踏査しようとしている」のだ。
スーリオは、こうした実存様式の弁護士たらんとする。~スーリオにあっては、「美学的」な特徴や実存的な特徴のために、法的な特徴がなくなると予想されるかもしれない。だが、頻繁に起こるのは逆の事態なのだ。美学的な人物像のうしろには、法的領域に属する人物たちが控えているのである。 たとえば、知覚主体のうしろに浮びあがるのは、証人という人物像である。というのもスーリオにおける美学的な知覚は、中立的なものでも、利害関心のないものでもないからだ。むしろ逆である。いくつかの特権的な知覚は、おのれが見たものの重要さや美しさを「擁護するために」 証言したいという欲望を掻き立てるのだ。知覚することはこのとき、たんに知覚対象を把握するばかりでなく、その価値を証言し証明したいと望むことなのである。 こうした「いくつかの特権的な知覚は、おのれが見たものの重要さや美しさを「擁護するために」 証言したいという欲望を掻き立て」、「その価値を証言し証明したいと望む」のはカント的な主観的な普遍妥当性に近しいと言えるのではないか。つまりその主観的な美を普遍的だと他者に要請する態度そのものではないか。 証人は決して中立的でも不偏不党でもない。じぶんが見て感じ思考するという特権を得た物事を、見させる責任が証人には課せられる。証人はこうして創造的になる。証人は知覚する主体(見ること)から、創造する主体(見させること)になるのである。だがこうしたことが起こるのは、証人のうしろに弁護士という別の人物がいるからだ。弁護士は証人を出頭させる。弁護士のおかげで、あらゆる創造はそれが出現させるというよりむしろ出頭させる実存を、擁護するための弁論となるのだ。おのれが特権的な証人であった物事に、力を、重要性を賦与しなければならない。だからこそ芸術家、哲学者は、ほかのどんな役割をじぶんに割りあてようとも、同時に弁護士なのである。その体系は、おのれが創建しその合法性をたしかなものとしようとするあらたな存在物を擁護するための論陣を張るのだ。芸術家、哲学者は、かつてだれひとりとしてなにも見いださず、なにも理解しなかったところに、あらたな存在物を実存させ、あらたなリアリティをつくりだす。たとえばプラトンのイデア、アリストテレスの実体、デカルトのコギト、ライプニッツのモナドなどがそうだ。かれらがこうしたリアリティの弁護士とならないことがあろうか。というのも、その創建につきまとう懐疑、反駁、軽蔑に打ち勝たねばならないのだから。 つまり「芸術家、哲学者は」まず「知覚する主体(見ること)」として存在物を知覚し、次に証人として「創造する主体(見させること)」みさせる。最後に「弁護士」として弁論されることによって、存在物として合法化し「リアリティ」を獲得するのだ。
つまりスーリオの哲学は、芸術哲学であると同時に権利の哲学〔法哲学〕でもあるはずなのだ。おそらく芸術さえも全面的に権利のためにある。或る実存を「いっそう」リアルにすること、それに足場や特殊な輝きをあたえること、それは、こうした実存の存在のしかたを合法化し、特定の形式のもとで実存する権利を授けるひとつの手段ではないか。このことが前提するのは、あらたな実存形式はすべて、そのリアリティを地下から掘りくずす疑問~に先立たれているということだ。いかなる権利で、あなたは実存することを要求するのか。いったいなにが、あなたの実存の「立場」を合法化しているのか。哲学的なあらたな存在物ばかりでなく、芸術、科学、生存にかかわる実存形式も、おのれ自身の妥当性の証拠をそれぞれ示さなければならない。それら実存形式もおのれを「打ち立てる」には、実存する権利に異議を唱えてくる疑い、懐疑、否認に打ち勝たねばならない。実存がおのれの妥当性の証拠を示さなければならないのは、実存がそうした合法性をあたえる根拠に依拠している、という意味ではないのか。仮にそうだとするなら、このとき芸術は根拠をあたえる芸術となるだろう(それによって哲学の定義は、プラトン的なものに舞い戻るにちがいない)。 それじたいで正当化されることのないあらゆる実存は、おのれの意味、真理、リアリティを、高次の根拠から受けとることになるだろう。ちょうど「代理人〔権力によって根拠をあたえられたもの〕」が、その職権を法的機関(権威)から受けとるように。いったん根拠づけられると、実存は 「ゆるい土や砂」から立ち去って、「岩や粘土を見つけだす」。根拠はたんに基盤や地盤を差しだすばかりでなく、おのれが根拠づける実存様式に合法性を授けるのである。不可思議な変貌ともいえようが、合法化されるという事実のみによって、実存はあらたなリアリティを獲得する。いまや満ち足りたしかたで実存し、堅固な大地を踏みしめるのだ。 意訳するなら、なんらかの「権利」によって「実存の存在のしかたを合法化」がなされる。そうした「特定の形式のもとで実存する権利」というのは―「根拠はたんに基盤や地盤を差しだすばかりでなく、おのれが根拠づける実存様式に合法性を授けるのである」とあるように―言い換えるなら「根拠」である。その根拠はより「高次の根拠から受けとる」―「プラトン的」というのは恐らくイデア界と現前する事物の照合によって根拠づけられるということだろう―。こうして根拠によって「合法化されるという事実のみによって、実存はあらたなリアリティを獲得する」のだ。 だが、根拠があらゆる権威と合法性を失うなら、いったいどうなるだろうか。あるいは、根拠がおのれの権威を利用して、実存を粉々に砕き、そのリアリティを刺奪しようとするときには? このとき実存は、じぶんに欠けているリアリティをみずからの手で獲得しなければならないのではないか。問題すべてがここにある。どうすれば実存はみずからの手で合法性を獲得しうるのだろうか。このときおそらく、「瞬間ごとにじぶんの実存のあらたな裏づけ」を待ち望むカフカの状況に置かれるのではないか。実存する権利すべてを剥奪されているとするなら、こうした裏づけはどこから到来しうるのだろうか。おのれの実存様式に異議が唱えられるとき、ひとつの存在にはなにが残されているのか。どのような時空間をいまなお合法的に占有できるのか。「ぼくはがするほかないし、それさえできれば十分だ。けれどこの世界には、ぼくが散歩できる場所がまだない」。もう足を置く大地も、地面もいっさいない。あれやこれやの特異な実存様式を合法化する手段を、じぶん自身のどこに見いだせばいいのだろうか。実存をいっそうリアルにするにはどうすればいいのか。おそらく実存たちは、じぶんの居場所をつくり、じぶんを強化するために、ほかの実存たちにしたがわなければならないだろうし、その逆もあるだろう。じぶんひとりで実存しているものなどない。ほかのものを実存させてはじめて、じぶんもリアルに実存するようになるのである。どんな実存であれリアリティを増大させるには、強度を高めてくれるものを必要とするのだ。じぶんが実存させる他者の助けがなけ 、ひとつの存在が実存する権利を獲得することはできない。弁護士の役割とはまさに、実存のリアリティの強度を高めることだろうか。あらたな権利の擁護のために闘うことだろうか。これは権利問題だが、かつてないほど芸術の問題でもあり続けている。いかなる創建の「身振り」によって、実存はおのれ自身を合法的に「打ち立てる」に到るのだろうか。
実在的多元論の構成原子
一つひとつの実存はあたうるかぎり完全なのだ。日没、建物のファザード、光学的錯覚、電子の舞踏、二等辺三角形、抽象概念。この平面上にはどんな序列もなく、どんな価値評価もありえない。実存は階梯を認めない。それぞれの実存には、内的で比較しえない独自の存在様式があるのだ。(...) ましてや、(仮象、臆見……といった領域で正統性なく生きる実存と対比しながら)、ある実存がほかのものよりリアルで、より正統で、より本質的だと主張することも、この時点ではできない。あらゆる実存はどれも同じようにリアルで、同じように実存しており、同じように正統なのである。(...) 実存は大小のあるものではなく、その意味では中立的な概念である。
これらをもってスーリオの形而上学宇宙の全容から「実存のリアリティ」についての彼の理論を紹介するのは、彼の果てしない理論体系の中核を理解することと、そのなかに位置づけられる実存を欲する「存在物」がなにかを明らかにすることで、本書で語る中心となるものの性質を明らかにするためである。
第一の宇宙「現象の世界」
こうしたフラットな存在論のもとに第一の宇宙としての「現象の世界」について論じるわけだが、そうした前提をもったうえで「現象」という語を並べられると自然にフッサールを彷彿とする。が、それぞれの間主観性のもとに、生世界があるといったような話ではなく、むしろ非現象学的なものであるとラプジャードはいう。これはなぜか。 ある意味でスーリオのもちいる方法は、現象学的還元の逆をゆくものである。現象を、それがあらわれる意識や自我に関連づけるのが現象学的還元である。こうした相関関係を確立することはすでに、現象をほかの実存様式に依拠させることであって、観点がずれてしまうのだ。同じ困難は、現象を本質、実体、ヌーメノンに関連づけても起こる。より一貫していて、よりリアルであると想定される別の実存様式に依拠させることで、現象に特有の実存様式を歪めてしまうのである。
ではスーリオにおける現象はなんと理解できるのか。ラプジャードはスーリオに依拠しながら次のように述べる。
現象には、ほかのあらゆる実存様式から区別される独自の完全性を獲得するしかたがある。現象は、それに特異な響きと輝きをあたえる瞬間性という建築的構成によって展開されるのである。スーリオはよく同じ事例を取りあげる。まるで自然の恩寵のごとき瞬間が、ふいに訪れるまばゆさとして描写されるのだ。たとえば空に浮かぶピンク色の雲、風にゆれる木の枝、夕日に染まる山の分水嶺の線であり、即時的かつ対自的な純粋な瞬間のスナップショットである。
これはペソアがソアレスを通じて綴った次の体験はまさにスーリオのいう意味での「現象」を体現していると言えよう。「ふいに魔法のような運命がやって来て、かねてからのわたしの失明状態に手術を施し、その効果がたちまちあらわれたかのようだった。匿名の実存だったわたしは顔をあげ、じぶんがどんなふうに実存しているかをはっきり認識した(...)。ほんとうにじぶんが実存していること、 魂が現実の存在であることをはっきり感じるとき、どういう感覚を味わうのか説明するのはすごくむずかしくて、人間の言葉でどう定義していいかわからないほどだ。長いことわたしはじぶん自身にとって他人だった―生まれてからずっと、もの心がついてからずっと。そして今日、橋の真ん中で、河に向かって身をかしげながらわたしは目醒めたのだ。いままでよりたしかなしかたで存在していると悟ることによって。けれども街はよそよそしいし、通りにも馴染めないままだ。(...)こんな状態はほんの一瞬しか続かず、もう過去のことになった」。
第二の宇宙「事物のコスモス」
先程は「即時的」で「瞬間」的な現出としての「現象」を論じたが、「事物」とはこれに対応する概念としての「恒常性」を保持する。
だがこうした事物は一意に語ることができない。「事物にはおおきな多種多様性があるということをあきらかにする必要があるのだ(...)正三角形はひとつの事物なのだが、シューベルトのソナタもひとつの事物である。エジプトのピラミッド、ソクラテス、原子もそれぞれ事物である。どれをとってみても、時空間をつうじて同じしかたで存続しているわけではないにもかわらず、である」。そこで導入すべきは、「合理的な存在物」や「音楽的な存在物」に代表される「偏在性」をもつ事物と、「いっさいの偏在性を禁ずる恒常的な現前形式によって束縛されている」ような「特異な事物」の区別である。「スーリオの差しだすイメージが、こうした差異を例証してくれる」。
一枚の紙をアコーデオン状に折り畳んだものと、しわくちゃにしたものがあるとしよう。そのそれぞれに一本の針を刺してみることにする。いまのところ針が一本あって、穴がひとつあいているだけだ。けれども紙を広げてみると、複数の穴があらわれるのにくわえて、穴のあいている場所が紙の折り畳みかたによって異なっている。アコーデオン状に折った紙のほうは規則的に穴があいているのにたいして、しわくちゃの紙のほうは偶然まかせに穴があちこち散らばっている。針がちょうどそうであるように事物はひとつなのだが、時空間のなかでのその恒常性のあらわれかたは、紙にあいた穴の場所と同じくらい多彩なものでありうるのだ。したがって、たとえば正三角形やどんな「合理的な存在物」であれ、同時に複数の場所に、ばらばらのしかたで実存しうるのである。「即自的な正三角形とはひとつの本質であって、現象としては多彩なあらわれかたがあるのだ」。ソナタの場合も同様で、ソナタは複数の場所で同時に演奏されたり、あるいは、一定期間どこでも演奏されないこともあるだろう。こうしたあらわれの現象上の多彩さがどれほどあったとしても、それらは、個々の具体的な状況にたいして「無関心」な、数的にひとつの事物に結びついている。そのいっぽうで本質や、合理的な存在物や、音楽的な存在物とはちがって、いまここに実存することを余儀なくされる事物もある。特異な事物がそうだ。ソクラテスという個人は、正方形のような遍在性や、ソナタのような間歇的なあらわれをもちえない。かれは、いっさいの遍在性を禁ずる恒常的な現前形式によって束縛されている。「同時にふたつの場所にいることが絶対にできないのは遺憾なことだ。つねにどこかにいるという条件は、さらに苛酷なもの特異な事物に固有のこうした制約は同時に、身体の定義でもある。身体とはまず、その有機体としての特徴や物理的な特徴によってではなく、心を服従させているたえざる拘束によって定義される。身体とはまず束縛である。この視点からすると、固有の身体は、われわれにとって「諸事物」のなかで最初のものなのである。なぜなら、固有の身体は自己を維持しながら、われわれを世界のなかに挿しこむからである。「それは最初の作品であり、われわれがたんなる現象であることをやめた段階における幼年期の傑作なのだ」。身体によって、われわれは諸事物の世界に参入するのである。
ただこうした「事物」が「現象としてのあらわれを超えてら事物を実存として維持する」即ち、恒常性を獲得=保持するためには「思考」が必要であるという。換言するなら、恒常的な実存を獲得するには観測者が必要なのである。
というのも、現象はその実存するしかたをおのれ自身にのみ負っているのにたいして、事物のほうはその事物としての地位を、それを思考し、その統一性、同一性、宇宙性を同時に打ち立てる心に負っているからだ。現象としてのあらわれを超えて、事物を実存として維持するためには、 相互に結びつく諸事物で満ちたコスモスを構成するには、思考が必要なのである。だがまさにここでの思考とは関係にほかならない。この関係によって事物はおのれを実存として維持するのであり、自身がほかの事物と結合されるのを見るのである。逆にいうなら、思考には「おのれが束ね感じる事物のほかに支えがない」ということでもある。換言するなら思考は、それが実存として維持する事物によって条件づけられているということであり、事物は返礼として、思考に固有の足場を差しだすのだ。
第三の宇宙「フィクションの王国」
こうした実存様式にくわえて、「もろくて一貫性のない存在物」すべてを追加しなければならない。それは事物と思考の世界、スーリオの口吻をまねるなら、心と事物性の世界を二重化するものだ。この存在物はあまりにもろいので、かれがいうには、なんらかの実存をあたえるべきか迷ってしまうほどだ。それはフィクションの存在、想像上の存在すべてであって、「それらはわれわれにとって実存するものであり、その基礎は欲望、心配事、不安や希望であり、さらには空想や暇つぶしなのだ」。
こうしたフィクションの存在物を扱うには、どのようにそれらが「想像」されたのか、或いはなにを以て「想像」されたのか、とフィクションの存在物の源泉に当らねばならない。ラプジャードはスーリオの考える源泉を次のように紹介する。
それは現象のあらわれの論理にも、事物の同一性の法則にもしたがわないが、それらのありようを模倣する。ちょうど想像上の犬が、実存する犬からなにがしかを拝借するように。フィクションの人物はすべてこの事例に該当する。たしかにフィクションの人物は、事物のコスモスに参加し、諸事物のうちの一部となることはできない。なぜなら、あらわれの論理にも、同一性の法則にもいっさいしたがわないからだ。
じつをいえばフィクションの存在は、たとえ社会的な分割に組込まれているとしても、おのれの糧をそこから得ているわけではない。それを実存させているのは、われわれの信なのだ。ドン・キホーテやスワンが実存するのは、われわれの「顧慮」によるものだとスーリオはいう。なによりそれこそが、ドン・キホーテやスワンを実存させるのだ。(...)それが事物の物的な実存とちがうのは、こうした情動や信による支えがなくなると、たちまち実存するのをやめてしまうという点にある。こうした実存様式は実体的なものではなく、むしろわれわれの情動によって養われるという意味で、「心によって育まれる」ものなのである。
第四の宇宙「潜在的な叢雲」
つぎは第四の次元として「潜在的なものの実存様式」について論じる。この概念を理解するためにラプジャードはまず、「フィクション」の実存様式と「純然たる虚無」-換言するなら非実存(?)-を対比的に位置づけ潜在的なものを論ずる。
スーリオはフィクションの存在よりもいっそう繊細で、もろい実存類型を描きだす。すなわち潜在的な存在である。(...)顧慮によるのとはちがって、潜在的なものの実存様式はいかなる情動にも依拠することはなく、われわれの信じる力からリアリティを受け取ることもない。そのいっぽうで潜在的なものは、純然たる虚無と混同されないようにする手段をもたねばならない。なぜなら橋を修復すること、曲線を延長すること、一瞬しか姿を見せない示唆を発展させること、つまりこれらの潜在性を実存させることは、一定の条件のもとでのみ実行されるからである。その条件は、実存している下描きによって部分的に決定されつつ、しかしこれらの潜在性じたいによっても部分的に決定される。
これはラプジャードがいうように「見事な描写である」といえよう。われわれがごく日常的なコミュニケーションに至るとき、決して形式論理学的な操作をしている訳ではない。日常言語とは論理の積立ではなく記号の戯れなのである-かといって無法則とは言えず、無自覚で即時的な法則性に基づくものである。まさにローティの言葉でいうつかのまの理論なのではなかろうか。私は、この即時的なつかのまの法則性が「会話の流れのまにまに漂う微粒子」の運動を決定づけ、次の新たなコミュニケーションに生成変化していくと考える。上記が私の理解に基づいた、日常会話を条件づける「潜在的なもの」のダイナミズムの青写真である。つまり「潜在的なもの」とは唯一「未来のあらたな現実の断片となりうる」ような「様式的なものから様式横断的なものへの移行を差配する主要なオペレーター」なのである。それを次のように表現する。 潜在的なものの完全性とは、未完成であることだ。潜在的なものは、完全かつ内的に未完成なのである。つまり、潜在的なもののうちには、いわば完成を待ち望み、要求するものがあるのだ。(...)潜在的なものはむしろ、この世界にすっかり内在している。ちょっとした会話が物語の種になったり、顔の輪郭線がときに肖像画に変貌したり、いくつかの音が旋律の冒頭部になったり、一本のシナリオが映画になったり、ひとつの直感が体系になったりする、など。影のようにうしろからついてくる、ポテンシャリティの叢雲をともなわない現実など存在しない。どんな実存であれほかのものへの刺激、示唆、種子となりうるし、未来のあらたな現実の断片となりうる。あらゆる実存は権利上、未完成なものとなる。(...)スーリオにおける潜在的なものに特権があるとするなら、洋式的なものから様式横断的なものへの移行を差配する主要なオペレータであるという点にある。実存様式がそれぞれ別個に描きだされる静的世界から、力動的世界へと移行することで、いまや変形や増減が重要なものとなるのだ。
潜在的なものと芸術
ここで冒頭の章に回帰する。スーリオは「実存がいっそうリアルであるためには、なにが欠けているのだろうか」という問いを「芸術の領域においても、哲学や個別の実存の領域においても問い続けた」のであり、これはまさに「潜在的なもの」が要請している問題である。冒頭の章にもあるように、「潜在的なもの」は「リアリティの強度を高め」てくれるものを欲しているのだ。本章でもラプジャードは次のように言及する。
潜在的なものは、なによりおのれを実存させうる芸術を、さらには、おのれを別のしかたで実存させうる芸術を待ち望んでいる。潜在的なものの芸術とは、芸術を呼び醒すこと、芸術を要求することであり、潜在的なものに固有の「身振り」とは、ほかの身振りを呼び醒すことなのだ。潜在的なものは、あらゆる手段を講じて潜在的なものをまずは実存させ、さらには別の様式で実存させるほかの存在-創造する者-を必要とし、逆に創造する者は、あらたなリアリティを創造するためにこの潜在的なものの叢雲を必要とする。潜在的なものの未完成によって育まれるのだ。換言するなら、世界のなかに創造への欲望、芸術意志を導きいれるなは、潜在的なものである。それはわれわれの実践するあらゆる芸術の厳選なのだ。諸芸術、哲学、諸科学はまさに、われわれの世界を取り囲む「真実の諸原子」のこの流動的な叢雲によって育まれている。
ここでまた冒頭の章に回帰することができる。まず、「諸芸術、哲学、諸科学はまさに、われわれの世界を取り囲む「真実の諸原子」のこの流動的な叢雲によって育まれている」言い換えるなら力動的な「潜在的なものの叢雲」の「未完成」によって「諸芸術、哲学、諸科学は(...)育まれている」という言明は、冒頭の章の「哲学的なあらたな存在物ばかりでなく、芸術、科学、生存にかかわる実存形式も、おのれ自身の妥当性の証拠をそれぞれ示さなければならない。それら実存形式もおのれを「打ち立てる」には、実存する権利に異議を唱えてくる疑い、懐疑、否認に打ち勝たねばならない」という言明にリンクするし、それらを「創造する者」という表現は冒頭の「創造する主体」に相当する-冒頭の「証人は知覚する主体(見ること)から、創造する主体(見させること)になる」という言及は、他者において「潜在的なもの」であるが、同時に己にのみ「リアリティ」をもつ「特権的な知覚」から、他者にまでその「リアリティ」を「見させる」ように一般的な「知覚」へ「移行」することを成し遂げるものこそ「創造する者」であると理解出来る。
また、「或る実存を「いっそう」リアルにすること、それに足場や特殊な輝きをあたえること、それは、こうした実存の存在のしかたを合法化し、特定の形式のもとで実存する権利を授けるひとつの手段」が芸術であると冒頭で論じたように、実存の「権利を授ける」手段のひとつとしての芸術、と捉えるからこそ-「弁護士」としての「創造する者」という意味を踏まえて-「スーリオの哲学は、芸術哲学であると同時に権利の哲学〔法哲学〕でもある」とか、「芸術さえも全面的に権利のためにある」などというのだ。それを踏まえるなら芸術は「潜在的なもの」に実存の「権利を授けるひとつの手段」なのである。ここまで解説して初めて次の引用が明示的になるだろう。 ひとつの存在が、非実存の限界において、より「リアル」で、より存立的な実存を獲得するにはどうすればよいか。いかなる身振りによってだろうか。いかなる「芸術」によって、実存はじぶんのリアリティを増大させうるようになるのか。よりリアルになることを強く要求するのはおそらく、虚無と踵を接するもっとも儚い実存にちがいない。そのいっぽうで、そうした実存を知覚し、その価値と重要性を把握しうるのでなければるまい。だからこそ、実存の創建を可能にする創造行為の問いを提起するまえに、実存の知覚を可能にするものについて自問する必要がでてくるのだ。
これは引用前の前の段落の解説が示唆的である。実存の付与には(1)「特権的な知覚」、(2)芸術を代表とした「実存の創建を可能にする創造行為」、(3)一般的な「知覚」として「見させること」、の順に三関門があり、(3)を可能にする(2)を論ずるためにも「実存の知覚を可能にするもの」について論じなければならないのだ。それゆえそれが次章の課題となる。
実存の知覚
実存的還元
前章の最後で論じたことが本章の主題である。第一にラプジャードはスーリオを援用しながら「特権的な知覚」を明らかにする。
「幼い子どもが、さまざまなものをおおきいものからちいさいものまで、時間をかけて丁寧に母親の机に並べて、きれいで飾りつけみたいだとじぶんでおもえるようにして、母親を「いっぱい喜ばせよう」としているところを想像してみよう。母親がやって来る。静かでどこかぼんやりした様子のかのじょは、じぶんのつかうものをひとつ手にとって、別のひとつをいつもの場所に戻す。それだけでぜんぶ台無し。泣きそうになるのをこらえながら子どもが、がんばって説明すると、母親はじぶんの無理解がどれほどのものかを悟ってこう謝るのだ-ああごめんね、すごいものだってことが見えていなかったの!」。わたしには見えていなかった⋯⋯。結局のところ、かのじょにはなにが見えていないのか。母親に見えていない「すごいもの」とはなんなのだろうか。それはていねいに並べられたさまざまなものの配置であって、この配置こそが、子どもには精緻な視点があるということを証言するのだ。これこそ子どもの「魂」だといってもよいだろう-魂すべてが、さまざまなものの配置のなかに流入しているのだ。ふたりともそれぞれ納得できる理由がある。母親にはさまざまなものがよく見えている、なぜならじぶんで片付けたからだ。かのじょが見ていないのは、子供の視点からのオブジェの実存様式であり、子どものまなざしによって素描された建築的構成である。かのじょに見えていないのは子どもの視点なのだ。かのじょには、そこに視点―独自のしかたで実存する視点―があるということが見えていない。かのじょが知覚していないのは潜在性なのだ。ちょうどぼんやり散歩しているひとには、小川を横切るように並んでいる石のなかに、潜在的な橋の下絵がひそんでいることが見えないように。まるで鑑賞者がアナモルフォーズのまえにいながら、その解読を可能にする角度を探しあてられないために、なにを表象しているのか見えないようなものだ。このように諸事物からなるコスモスのなかには、さまざまな開かれが、潜在的なものによって描きだされる無数の開かれがある。そうした開かれを知覚し、重要性をあたえるひとはそれほど多くない。もっと稀少なのは、創造的な実験をとおしてこうした開かれをみずから穿つ人たちだ。(...)母と子をめぐる先の挿話は、有名なブランクーシ事件をどこか想起させるものだ。騒動のいきさつを手短に振り返っておこう。一九二六年十月、二十点近くの彫刻が米国に陸揚げされたとき、《空間の鳥》がニューヨーク港の税関職員の目にとまった。職員は検査ののち、芸術作品が法的に受けられる免税措置をこの縦長のブロンズ像に適用することを拒否し、通常の営利目的の工業製品の税金が課されることになった。スーリオの事例における母親のようなこの税関職員には、ブロンズ製のたんなる部品にしか見えないのだ。フォルムに包みこまれている「魂」や視点、このフォルムが展開する建築的構成を、この職員は見ていない。つまり別の視点からすればこのフォルムのものである実存様式が見えないのだ。問題がすぐさま法的問題〔権利問題〕になることがわかるだろう。この事件が法廷にもちこまれ、合衆国における芸術作品の法的地位を変えたという理由ばかりではない。ブランクーシにとって同じく重要なのは、生のあらたな形態のための権利をつくりだすことだからだ。 こうした例をもとに「見させる」にあるべき「知覚」について論じる。
表現しているということ、固有の観点によって生気を得ているということを、どう理解すべきだろうか。スーリオにとって知覚することは、じぶんのまえに広がる世界を外から観察することではなく、むしろ逆に、ちょうど共感するときのように、ある視点のなかへと入っていくことなのだ。知覚とは参加することである。ある現象が到来しその美しさが心を打つとき、われわれはいわば知覚のモニュメントの内側にとらえられ、このモニュメントが瞬間的にまとう構成を探検することになるのだ。われわれの観点は別の観点のなかに、われわれの視点は別の視点のなかに嵌めこまれる。(...)世界にたいする観点があるのではない。そうではなく逆に、世界のほうが、その無数の観点のうちのひとつへとわれわれを入りこませるのだ。《存在》はおのれ自身のうちへと自閉し、到達しえない即自のなかに閉じこもっているわけではなく、おのれが生起させるさまざまな観点によってたえず開かれている。さまざまな観点は《存在》を開き、その璧を広げ、権利上無数にある諸次元や諸平面を探検するのである。
この意味でスーリオの観るとは、またもや「現象学的還元の逆をゆくものである」。なぜならスーリアによれば「現象学は事物を、内側からではなく外から観察する意識の視点にもとづいて把握する。その観点はつねに意識の観点であって、決して現象じたいの観点ではない(...)子どもと一緒にある母親と同じように、現象学は、現象じたいの内側に視点があるということを見ていない」からである。「すべてを意識の視点に従属させる」ことで、我々の眼前に広がる世界をただ観測せんとする現象学的試みに対して、「ちょうど共感するときのように、ある視点のなかへと入っていくこと」つまり別の観点へ「参加すること」こそ「現象学的換言にたいする明確なアンチテーゼたらんとする」スーリオの「「実存的」還元」である。つまり現象学とはスーリオにとって-多種多様な実存様式を無視して-自らの殻に閉じこもるようなものであり、「この意味での現象学とはしたがって、現象を探すのにもっとも適していない場なのだ。灯りの下こそもっとも暗い場所なのである(...)」-末尾のスーリオの言明は現象学の脆弱性を見事に揶揄した表現であろう。スーリオはこれに対して寧ろ、「そこ様式の表現している視点の内側へとたえず遡行することだからだ」。まさに「参加」なのである。ここでより詳細に実存的換言を検討するべく「還元」の歴史を遡ろうと思う。なぜなら「フッサールはこの述語を再発明したものの、操作を刷新したわけではない。この操作は哲学と同じくらい古いものだ」からだ。一言でいうなら「還元」は「純化」である。そこでプラトンとデカルトの純化を紹介する。 では実存的還元は如何なる世界を我々に見せてくれるのか。それは従来のあらゆる還元的操作と異なる。そしてそこにこそスーリオの描く多元的世界が可能となる。
問われているのは純粋経験に到達することなのだが、いまや消滅するのは、まえもって実存する共通の外部世界である。これこそ解体されるべきあらたな前提なのだ。とはいえ、もはや世界は存在しないということでもなければ、世界の実存が現象学的エポケーの場合のように括弧に入れられるということでもない。そうではなく世界が諸観点に内在するものになり、それによって多数多様化するということなのだ。消滅するのは世界ではなく、共通世界という観念である。遠近法主義のテーゼとは、まずひとつの共通世界があって、それを各自が領有しながら「じぶんの」世界につくり変えてゆくのではない、ということだ。むしろ逆である。「私的」で特異な諸世界がまずあって、つぎにそれら諸世界が多数多様なしかたで交流しあいながら、ひとつの共通世界を形成してゆくのである。「私的」な諸世界のあいだの交流によって世界は共通のものとなってゆく。まず共通世界があって、それを私物化してゆくことで、諸世界が詩的なものになってゆくのではない。ひとつの共通世界の代わりに、多数多様なしかたや身振りがあるのだ-すなわち、世界を知覚し、領有し、そのポテンシャリティを探求するしかたの多数多様性である。まえもって実存する世界に、さまざまな観点が外から付加され、その世界「についての」視点になると考えるのは誤りなのだ。繰り返しになるが、観点とは世界にたいして外在的なものではなく、むしろ逆に、世界のほうが観点に内在するのである。(...)むしろ、あらたな存在のしかたを自己自身の次元として獲得してゆくことだろう。 こうしてみると「かれの思想が多元論的な存在論の一種であるのがわかるだろう」。
[[魂
スーリオが実存様式の一覧に潜在的なものを導入すると、すべてが変貌を遂げる。もはや当初の原子論に甘んじていられない。原子論によるなら、一つひとつの実存はそれじたいで完全であり、おのれ自身の秩序のなかで決定的に完成されている。だが潜在的なものによって、あらゆる現実は未完成なものとなる。このことは壊れた橋のアーチや下絵だけでなく、これ以上ないほど完成され「仕上げ」られているものをもふくむ、すべての現実に当てはまる。大いなる事実とは、スーリオによるなら、「あらゆるものが実存的に未完成であることなのだ。あまねくすべては、われわれ自身もふくめ、一種の薄明かりや、幽かな暗がりのなかでしかあたえられない。未完成のものがおぼろに粗描されるこの暗がりのなかでは、なにものも充全たる現前や明白な単独性をもたず、全面的な完成や充足した実存をもたない」。
出来事が日常的というのはつまり、心のうちにあらたな視点をいっさい導入しないということである。先述の子どもの母親と同じく、なんら特別なものを見ることもなく、同じ実存を続けることを除けば、なすべき特別なこともまったくない。
現実リアリティとその潜在性とのあいだの拡張原理を魂と呼ぶ
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訳者解説
創建について
スーリオによれば、創建とは下記のようなニュアンスが込められている。 意味論の観点からすると、この語にはかなり興味深いニュアンスが認められる。近代における用法では、制度、儀礼、機能、おこないかたの、すなわち、厳密な意味からするとかならずしも物質的ではない現実の「おごそかな設立」という意味がある。だがラテン語のinstauratio instaurareは、かつて上首尾に成し就げられなかったものを復興すること(restauration)、 再開すること(recommencement)、刷新すること(renouvellement)、あるいはもっとうまくいうなら、今度は決定的なしかたで反復すること(reprise)を含意している
スーリオはここで接頭辞「re-」をふくむ単語を列挙してみせることで、反復、再開、やりなおしのニュアソスを強調してみせる。つまり「0」から「1」を生みだすという意味での「創造」は斥けられ、きほんてきに過去の反復としての、つくりなおしとしての産出が主張されることになる。哲学も芸術も、無からは生まれない。そうではなく、「先駆者から取りだした建築物の断片を、かたまりとしてまるごと再利用し、相当に異なるエートスをもつ構成のなかへと挿しこむのもしばしばである」。 どのような完成品も、どれほど見事な達成も、つぎなる多様=他様な反復、刷新、変様に向けて開かれている。スーリオにとってはあまねくすべての実存(存在するもの)が、別のかたちでの創建へとひらかれた未完成の下絵なのだ。
あまねくすべては、われわれ自身もふくめ、未完成のものがおぼろに粗描される一種の薄明かり、薄暗がりのなかでしかあたえられない。〜わたしがふれているこの机、われわれを取り囲むこの壁、あなたがたに語りかけているわたし、そしてこの主題について考えるあなたがたのだれもが、十全にはっきり際立つ実存をもってはおらず、満ち足りた強度を実存に見いだせはしないのだ
そして創建には、過去を未来のための下絵としてあらわれさせるまなざしがともなう。創建は、過去の作品をいわば未来に向けてよろめくもの、いまはまだ口ごもってあいまいにしか語らないものとして見いだすのだ。
偉大な創建者とは真の発明者というよりむしろ、幾人かの先駆者が言い淀んだことのうちに、あたらしいスタイルの下絵を見分けることのできるひとのことであって、その下絵を偉大な作品のなかで発展させ、賞揚し、正当化させてゆくひとなのだ
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序論-世界の闘争
SFは世界によって思考する。異なる物理法則、生の条件、生命形態、政治組織をもつ新たな世界を創造すること。パラレル・ワールドを創造し、世界間の移動を生みだすこと。世界を増殖させること。これがSFの本質的行為だ。世界と世界の戦争、最善だったり最悪だったりする世界、世界の終焉は、繰り返しあらわれる主題だ。こうした諸世界は、遠くの銀河に位置していたり、わたしたちの世界のなかにある秘密の扉や亀裂をとおって到達するパラレル・ワールドであったり、人間世界の破滅のあとに形成される世界であったりする。条件は、こうした諸世界が別世界であることだ。あるいは、わたしたちの世界が問われているときには、わたしたちの世界だとまともに認識できないくらい、世界が別ものになっていなければならない。そうだとするとSFとは、世界を破壊するためにその時間を使うものだとすらいえるのかもしれない。総力戦、天変地異、地球外からの侵略、致死的なウイルス、黙示録など、SFの描きだす世界のあらゆる終焉はとても数えきれないほどだ。ただ、可能性は沢山あっても、どんなときであれ世界をとおして思考することが問われている点に変わりはない。その代わりSFは、古典的文学が生みだしてきたような特異な作中人物を生みだすのが得意ではない。SFにはアキレウスも、ランスロも、ダロウェイ夫人もいない。SFの作中人物は、誰でもよい誰かのような任意の個人、個性の弱いステレオタイプやプロトタイプであることもしばしばだ。なぜなら作中人物は何より、ひとつの世界がどのように機能し、どのように調子を狂わせるかを示すために存在しているからだ。人物には見本としての価値しかない。人物の向きあっている世界が、どんな法則にしたがっているかを理解させてくれるなら、究極的にはどんな人物でもいいのだ。作中人物が、その人物たちの生きる世界と同じくらい重要であることは決してない。ある特定の世界の条件があたえられているとき、人物たちはどうやって適応するのか。人間の集団がいるとき、その集団はどんな異様な世界に向きあっているのか。SFの物語を駆動させているのは、このふたつの基本的な問いだ。いずれにせよ作中人物たちは、世界―じぶんたちが潜り込んだり逃げ出そうとしている世界―に対してつねに二次的である。 SFが、別世界を同じように構想したり想像したりする思考形態―たとえば形而上学、神話学、宗教―から着想を借りる理由もこれで説明がつくだろう。あらゆるSF作家の根底には、科学の夢よりむしろ、こうした別世界の創造をとおして表現される神話学、形而上学、宗教の夢があるのではないか。だからこそSF作家は、シラノ・ド・ベルジュラック、フォントネル、ライプニッツといったSFの先駆者たちに見られるような、新たな世界を構想するのだ。哲学ではおそらくライプニッッが、この道をもっとも遠くまで進んだ。なぜなら、かれにおいてすべては世界をとおして思考されており、現実世界は無数にある他の可能世界のひとつにすぎないからだ。 そしてここでディックの特異性を述べる。
こうした観点から「『月世界旅行』やジュール・ヴェルヌの小説よりも遥かに、セルバンテスとドン・キホーテの錯乱や『オルラ』のモーパッサンに近い。想像力の生みだす可能性よりも、錯乱の力のほうが不穏な性質をまとうのは、現実の概念そのものを揺さぶるからだ。」とする。
ディックにおける狂気はあちこちに忍び込み、世界全体を浸食してゆく。狂気を生みだすのは地球外生命体や麻薬ばかりでなく、社会秩序、夫婦関係、政治権力でもある。日常的な事物にも異常が生じ、しかるべき動作をもう行わなくなる。〜ディックを存在論的で形而上学的な探究(「現実とは何か」)を行う作家に祭りあげている人たちは、かれを褒めているつもりらしい。けれども、ディックにとっての問いはまず臨床的なものである。存在論的で形而上学的な次元は、想像力のたんなる遊戯ではない。精神の健康や狂気の危険にまつわる問いへと誘うのである。 つまり「ディックは世界を構築しようとしたのではなく、「現実」世界も含むあらゆる世界は人工物であって、たとえば端的なつくりものであったり、集団幻想であったり、政治的陰謀であったり、精神病的妄想であったりすることを示そうとしたのだ」などといったボードリヤールチックなものではなく、「臨床的なもの」の次元に求めることが重要なのである。 錯乱〔妄想〕の力はどこにあるのか。たしかに妄想する者は、共通の現実から切断され、「じぶんの」世界に閉じこもり、幻覚を見聞きし、誤った判断を下し、途方もないことを信じている者と見なされうる。基準となるのは妄想ぶくみの観念そのものではなく―観念が妄想的でないことなどあろうか―、観念と幻覚への確信の強さにある。どんな証拠があろうとも、どれほど反論しようとも、どれほど論証があろうとも、この確信を揺るがすことはできない。このように理解される妄想はたしかに世界の創造として定義されようが、しかしその世界は私的で、「主観的」で、独我論的である。妄想のほうへと「合図をよこす」要素を除くなら、「現実」世界と対応するものは何もない。妄想する主体は、じぶんが主権者然として中心を占める、私的な世界の真ん中に陣取るのである。
こうした独我論者たちは非対称的な存在論として、現実と妄想を行き来できると、ラプジャードは述べる。
心理学者ルイス・A・サスはこうして、つぎのパラドクスに驚くことになる。妄想する主体は、じぶんの妄想と矛盾する外部世界のいくつかの側面の現実性を、どうして認知できるのか。「大変な混乱状態にある分裂症者でさえも、精神病の急性期にあっても、じぶんの置かれた客観的なじっさいの状況―常識の観点によるならーについて、きわめて精確な感覚を保っていることがある。〜並行しながらもたがいに切り離されているふたつの世界にまたがって生きているように見えるのだ。すなわち共有の現実と、じぶんだけの幻覚と妄想の空間である」。分裂症者はこれらふたつの世界を、どうやって共存させているのか。それは妄想の別の特徴にかかってくる。つまり妄想する主体は、「客観的」な現実世界、共有される世界を、偽りのものと見なすのである。妄想は非現実的で常軌を逸した世界で進化するとか、外部の現実すべてから切り離されているとしきりに主張されるが、しかし逆の側面は等閑視される。つまり妄想する主体は、外部世界と接触する際に、じぶんは偽の世界、つくりものの欺く世界をまえにしていると考えるのであり、しかもときには世界で最高の善意でもってそうするのである。すると、先ほどのパラドクスは解決されるだろう。妄想する人が「現実」世界との相互作用を認めるのはまさに、現実世界の現実性を信じていないからだ。妄想する人は現実世界の現実性に同意しているわけではなく、ゲームに参加しているだけなのである。
そこに見いだすべきはパラドクスよりむしろ、闘争であり、闘争の恒久化ではないだろうか。すなわち狂人と精神医学者とのあいだで、かねて行われてきた闘争である。妄想者に対して、精神医学者はずっとこう繰り返してきた。あなたは現実のなかにはいない、あなたの妄想はかんぜんに幻だ、と。妄想者はそのとき精神医学者にこう切り返す。あなたは真実のなかにはいない、あなたの現実はぜんぶ偽物だ、と。精神医学者は現実にもとづいて、妄想する人は真実にもとづいて、それぞれ問題を立てている。精神医学者の議論とは、あなたの世界には現実と見なしうるものは何ひとつない、というものだ。狂人の議論とは、あなたの世界にはつくりもの以外は何ひとつない、というものだ。精神医学者は、独自の制約にもとづいて現実原則の権威を強調するのに対して、狂人は自身の妄換のなかで偽物の力能を駆動させるのである。
そしてこの闘争を次のようにも語る
闘いは世界と世界の戦争であり、また心と心の戦争でもある。心の整合性は、別の心が侵入してくるとかならず掻き乱される。世界の現実は、別の世界からの干渉によってかならず変様する。なぜならディックにおける複数の諸世界は、「巨大なクローゼットにかけられたスーツのように」整然と並んだパラレル・ワールドになることなく、たえずたがいに干渉しあい、浸食しあうからであり、どの世界であれ他の諸世界の現実に異議を唱えるからだ。世界間戦争は同時に、狂気に対する闘争でもある。世界が複数あるとき、避けがたく浮上してくる問いとは、どの世界が現実なのか、というものだ。ここでもまた、「現実とは何か」という問いは抽象的な疑問などではなく、底流を流れる狂気の現前を示すものとなる。狂気の現前こそが、この世界間戦争を貫いている。狂気の現前は、人物に亀裂を入れ、対象を一変させ、機械の調子を狂わせ、諸世界を破壊する。〜多様な妄想〜はどれも、われこそが唯一の現実であると自称し、オルタナティヴをすべて排除するものだ
つまり独我論的妄想世界間が「どこまでが現実で、どこまでがそうでないか」というレヴェルまで「たえずたがいに干渉しあい、浸食しあう」。そしてその諸世界は「どれも、われこそが唯一の現実であると自称し、オルタナティヴをすべて排除する」という非対称的な闘争関係に相互規定することによって、「きわめて精確な感覚」で、諸「世界をまたがって生きている」のだ。そしてそれらは「狂気の現前」によって貫かれているのだ。
闘争的-多元的宇宙と独我論宇宙間の因果
まず「どこまでが現実で、どこまでがそうでないか」という世界認識が容易に起こり得るのは下記のように客観/主観が維持しえなくなるからである。
こうした事態が起こるのは、ディックの小説が「作中人物たちの頭の中身」に同化するような焦点を、連続してもちいることによる。語り〔の焦点〕は、一人目の人物から二人目、三人目へと移ってゆき、〜まえもって存在する現実などなく、「多様な主観的現実の接続」があるだけだ。焦点を増殖させることは、ひとつの同じ世界に対する視点を多様化させることでなく、むしろ各々の視点に対応する世界を増殖させてゆく。ディックの小説世界は、ウィリアム・ジェイムズの用語をもちいるなら「多元的宇宙論」であって、複数の諸世界から構成されるひとつの宇宙なのだ。必要とあらば、世界を「複数化」するための麻薬すら存在している。 そして上記までに論じた多元的宇宙は、いっけんある種の重なり合うコンセンサス的な相対主義の香りがする。だがラプジャードはそれを拒否する。 ただしディックの語りの方法は、一人ひとりの作中人物が特異な世界の見方をもっていることだったり、各人には独自の世界があることだったりを示すのを目的としているわけではない。ディックには相対主義はいっさい存在しない。かれの方法の目的は、じっさいにはひとつしかない。心と心の戦争として理解される世界と世界の戦争を上演すること、これが問題なのだ。一つひとつの心はじぶんの世界の「現実」を押しつけるべく―あるいは保持するべく―、たがいに闘争する。またもスピンラッドが指摘するように、もはや相互作用の場となる共通世界があるかどうかすら定かではなく、様々な狭間の世界しかない。つまり個々の世界とは、諸世界の交錯そのものなのである―だからこそ必然的に、語りが多焦点的な性格を帯びてくる。ひとりの作中人物が、もはや「じぶんの」世界のなかにいないことに気がつくのは、何らかの異常なことが起こるからである。それは他人の心がじぶんの世界のなかに侵入し、その組織を一変させたしるしになるのだ。
こうした世界の生成条件を下記のように示す。
こうした個々の世界を構成する条件は、各人物の信仰、価値観、信条によって決まる。それにおうじて現実が変貌を遂げるのである。〜逆にいうなら、共有の現実があるとすれば、それはこうした個々人のおそるべきヴィジョンの総体から成り立っているということだ。そうしたヴィジョンとは、ひとつの世界に含まれる様々な世界であり、社会野のなかでいつでも遭遇しうるのである。思考や言説の宇宙だけが、社会野を諸観念の衝突の場、多彩な外交的やり取りの場に変えるわけではない。経験は遙かに暴力的なものだ。ある地点までは共有されている慣れ親しんだ世界、ある時点までは真の現実性をもつ世界のなかを、人びとが行き来しているとする。だが、あるとき新たな世界に投げ込まれると、その世界はわれわれから現実すべてを奪ってしまう。このとき人はもはや戯画としか、二次的な付属品としか、無意味で有害であやふやな存在としか見なされなかったり、あるいはいっさい知覚されることなく見えない存在にされてしまう。われわれにいかなる権利もない世界だ。
ここでラプジャードは「発散する複数の諸世界へと現実が解体され、それら諸世界が相互にたえず干渉しあうとなると、「現実」を組織している古典的カテゴリーすべてが粉々に吹き飛ぶのがわかるはずだ。この世界のなかで、別の世界の法則にしたがう現象が起こるなら、因果の普遍的体制などどうしてありえるだろう」と問い、下記のように回答する。
執筆を続けるにつれ、かれの世界はどんな物理世界の法則でもなく、心を司る―変わりやすい―諸原理にしたがうようになるのだ。この意味で、ディック作品は根本的に観念論的である。説明しえない一連の出来事が起こるとき、問われるのは「その原因は何か」ではなく、むしろ「そうしたすべての背後に誰がいるか」である。ディックの観念論とは、パラノイアの別名である。究極的には、ディックにおいて世界がしたがう法則を知るために、その世界を構成する現象同士の恒常的な関係を確立しようとする必要はなく、むしろ世界の見えかたをコントロールしている心の深層を探るべきなのだ。つまり惑星間のミッションでまず必要とされるのは物理学者ではなく、精神分析家なのである。両者が力をあわせて、たがいの領域の交点で概念を提起し、物質法則と精神法則とを結合させるならなおよしである。これこそおそらく、「同期性シンクロニシティ」概念―物理学者パウリが創造し、精神分析家ユングが取りあげた―がディックを魅きつけた点だろう。 シンクロニシティとは複数の出来事が非因果的に意味的関連を呈して同時に起きる(共起する)ことであり、つまり「意味のある偶然の一致」が連続的に起きるのではなく、だが必然的に起きるのだ。この背後としてユングが求めたのが集合的無意識であり、上記でいわれる「そうしたすべての背後に誰がいるのか」はまさに集合的無意識のことを指しているのではないか。その意味でシンクロニシティは「同じ世界の分散した諸部分のあいだだけでなく、異なる諸世界のあいだでも作用する」のである。そうした例として「ドイツと日本が第二次世界大戦に勝利し、米国を分け合うオルタナティヴな世界」を提示した『高い城の男』を引用し、説明する。 だからこそディックは『高い城の男』でオルタナティヴな世界史を書くばかりでなく、連合国側が戦争に勝利することを作家が想像するSF小説―『イナゴ身重く横たわる』―を地下で出回らせるのである。『高い城の男』は読者に対しては、読者自身の世界と異なるオルタナティヴな世界を描く一方で、小説のなかの人物からすると、われわれの世界のほうがオルタナティヴなのである。まるで鏡のように、それぞれの世界は他方の世界の反転したイメージとなる。だが、これらふたつの世界はたがいに切り離されてもいる。鏡のなかの仮想的ヴァーチャルなイメージが、それが映しだす現実世界から切り離されているように。ふたつの世界を「同期性によって」交流させる こうした事態を示して、ラプジャードは「因果を同期性へとすっかり差し替える」というのだ。