デ・カストロ
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1部
1章 事象への驚くべき回帰
人類学の当意
思考の永続的な脱植民地化の理論ー実践を全面的にひきうける用意がある。
植民地主義の亡霊
すなわち人類学というのは、最初から異国趣味で未開主義であり、西洋のあさましい興味関心にしたがって「他者」がつねに「表象される」か「発明される」倒錯した芝居にすぎないという主張である。〜こうした主張は西洋的な想像力がつくりあげた虚構には発言権がないものとし、いわゆる他者を変貌させてしまう。主体的幻影とでもいったものを二重化して、植民地主義的なシステムによってうみだされる他者という客体的な生産物のの弁証法に訴えることは、実際には、侮辱にさらに侮蔑をつけくわえるようなものだし、こんなふうにして非西洋的で伝統的な民族について「西洋的な」言説をおし進めても、われわれの「他者の表象」を美化するだけである。それは、一種の理論的なポストコロニアリズムをつくりあげるということであり、自民族中心主義の最終段階である。他にいつでも同を見てしまうために―つまり、他者という仮面をつけてはいても、われわれ自身をみつめるのは「われわれ」にほかならないのだから―、結局、われわれは目的へとまっすぐ向かう道のりを短縮することに満足して、「われわれの関心をひくもの」、つまり、われわれ自身に関心を払うだけとなる。
結論
この認識−政治の再帰的な循環をとめることが、『アンチ・ナルシス』の主要な目的の一つである。〜したがって、重要な人類学理論はすべて、先住民の知的実践の翻訳であるという主張を例証することにある。〜つまり、人類学において事実とは研究対象となる集合についての民俗―人類学的言説の歪み(アナモルフォーズ)である。
人類学のもたらす叡智
本当の人類学は「われわれが知らない自らのイメージへと、自身を立ち戻らせる」。というのも、すべての異文化の経験がわれわれに与えてくれるものは、われわれ自身の文化に対してある実験をおこなう機会だからである。それは想像上の変化ではあるが、我々の想像力を変化させるということなのである。〜「比較存在論」としての人類学−それざ真の内在という視点である。思考について他なる思考をするというこうした作業の機会と重要性をうけいれることは、概念的な想像力―それは人間であれ非人間であれ、あらゆる集合体の生に固有な創造性と反省性によって感じとることができるものである―についての人類学理論を入念につくりあげるプロジェクトに関わるということなのである
デリダを想起しておくのがよいだろうが、問題は、記号と世界、人格と物、「われわれ」と「彼ら」、「人間」と「非人間」を統合−分割する境界を破棄しなければならないということではまったくないからだ。還元主義の安直さや一元論の気軽さというのは、融合主義の気まぐれとまったく同様に、問題外である。むしろ、あらゆる分割線をかぎりなく複雑な曲線にねじ曲げ、それらを「還元しない」(ラトゥール)こと、規定しないことが重要である。輪郭を消してしまうのではなく、それらを折りたたんで稠密化し、虹色にして輝かせ、回折させなければならない。「われわれがいいたいのはこういうことだ。一般化した連続色彩主義⋯」連続色彩主義、この構造主義的な語彙をもちいることで、構造主義の流れ をくむプログラムが書き記されることになる。 第二章
西洋型政治とアメリカ先住民型政治
西洋政治イデオロギー
上記を構成する認識論
アメリカ先住民政治イデオロギー
上記を構成する認識論
アメリカの先住民のシャーマニズムは、ある特定の個人が、種のあいだにある身体的な障壁を横断したり、異質な主体性のパースペクティヴを自分のものにしたりすることによって、非人間と人間のあいだの関係を調停する〜種を超えた対話〜すなわち、認識することは「人格化すること」であり、知られるべきものの視点を手に入れるということである。〜シャーマニックな主体化とは、〜日々の生活のなかで完璧に「物理的」で「関数的」な態度をとることができるので、われわれはここで理想の認識論に向きあっていることになる。〜シャーマニズムは、政治の技術なのだとわれわれは声高にいおう。〜したがって〜客体とは、不十分にしか解釈されない主体のことである。 カニバリズム
食されるものは、敵と食する者との関係であり〜犠牲者から吸収するものは、他性の記号であり、そこで理解するものは自己に対する視点としての他性なのである。〜私は、アラウェテの戦いの歌を聴いているときに、こうした着想を抱くようになった。その歌のなかで、〜死亡した敵の視点から自分自身を語る。その歌の主体=主題である犠牲者は、〜殺した者 −「語り部自身」〜を食人的な敵として語る。アラウェテの殺戮者たちは、その敵をつうじて、自らを敵のようにみなしたり、敵のような状態にしたりする。つまり〜パースペクティヴ主義である。
第三章
自然の複数性とは
訳者はデ・カストロについて次のように論ずる。身体(自然)の単一性と文化の複数性を主張する西洋形而上学に対する、精神の単一性と身体(自然)の多数性こそが多自然主義の本質である。これはどう理解すればよいのか。まず精神の単一性については下記を引用することが適切であろう。
人間と動物とのあいだの共通する条件とは動物性ではなく、人間性である。〜何故、動物たち(もしくはその他のもの)は、自らを人間としてみるのだろうか。私がおもうにそれは、まさしくわれわれ人間が、われわれを人間としてみながら、それらを動物としてみるからである。ペッカリーは、自らをペッカリーとしてみることはできない(そして、人間と他の存在者が特殊な衣装をまとったペッカリーであるという事実を思考していることは誰にもわからない)。というのもそれは、人間によってそれらがみられる仕方であるからだ。〜人間性は相互的なものではない(ジャガーが人間であるとき、ペッカリーは人間ではなく、また逆も真である)。〜非人間はものごとを、人間がそれらをみるようにみている〜われわれにとって血であるものは、ジャガーにとってはビールである。死者の魂にとって腐った死体であるものは、われわれにとって発酵したキャッサバなのである。われわれが泥沼とみなしているものは、バクにとっては立派な儀式の場なのである。 また続けで「宇宙論的な主体のポジションを占領するすべての存在は人間的なものであり、すべての実在者は思考するものとして思考される」とも言われる。つまり、すべての存在は「人間的」精神の元に自然に相対するのだ。一方、ここで言われる自然が複数なのだ。これはどう理解すればよいか。
多自然のなかに実在するものは、異なった仕方で知覚される自己同一的な実体ではなく、血/ビールというタイプの関係論的な直接的多様性である。血とビールのあいだには境界しか存在しない。〜結局、ある種にとって血であり、他の種にとってビールであるようなXなどは存在しない。はじめから、血/ビールしか存在しないのであり、それは人間/ジャガーという多様性に特徴的な特異性もしくは情動性なのである。 世界に実在するのは、物自体ではなく、「関係論的な直接的多様性」である、というのが多自然主義なのである。則、実在対象とは「一つの視点からの「活性化させられた」もしくは「組み合わされたもの」である」。この意味で「動物は、われわれがみているのとは異なる事象を、われわれと同じ仕方でみる」というのである。例えばジャガーは、われわれにとっての血をビールとみる点で、「異なる事象」である。が、われわれもジャガーも自らを「人間」とするうえで血/ビールをみているのであり、その意味で「われわれと同じ仕方でみる」のだ。これこそが、精神の単一性と身体(自然)の多数性の正体である。 またこの意味で序文を再解釈できるだろう。デ・カストロは「デリダを想起しておくのがよいだろうが、問題は、記号と世界、人格と物、「われわれ」と「彼ら」、「人間」と「非人間」を統合−分割する境界を破棄しなければならないということではまったくないからだ。還元主義の安直さや一元論の気軽さというのは、融合主義の気まぐれとまったく同様に、問題外である。むしろ、あらゆる分割線をかぎりなく複雑な曲線にねじ曲げ、それらを「還元しない」(ラトゥール)こと、規定しないことが重要である。輪郭を消してしまうのではなく、それらを折りたたんで稠密化し、虹色にして輝かせ、回折させなければならない。「われわれがいいたいのはこういうことだ。一般化した連続色彩主義⋯」」、といったように脱構築ではなく連続色彩主義を提唱した。これはつまり「折りたたんで稠密化し、虹色にして輝かせ、回折」された「関係論的な直接的多様性」としての実在対象を指しているのである。
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西洋人にとって、人類学とはつねに「他者」の探求であった。ただこれはアマゾンのインディオも同様であり、当然自分たちが人間で西洋人を非人間として観察する。則、人類学的な記述とは、ヨーロッパの視点もアマゾンの視点も包括すべきものではないのか(パースペクティヴ主義の原理がここから導き出される。) 多自然主義について
同様にアマゾンの視点―それ自身が、多自然主義のアイデアを供給する――からみれば、 動物もまた視点であり、死者もまた視点である。彼は、動物が人間をみているとき、そこでは 動物が人間であるとのべている。どの視点からみるのが正しいということはない。西洋人には西洋人からみる視点があり、インディオにはインディオからみる視点がある。 だがそれは、「ひとつの固定された対象」が実在し、それに対してさまざまな文化的相対性があるというのでもない。動物や死者の文化があり、それぞれの視点があるのではないのである。それでは、対象とされる自然は一意的なものとして規定されてしまう。ところが、そうした「客体的」な対象Xなどはない。例えばビールは、ある動物にとっては血であるかもしれない。そこにあるのはビール/血としての、それ自身は多様体である自然なのであり、二者択一ではないのである。こうした多様体としての自然、そこでの潜在性そのものを多自然主義は肯定する。
動物にとって動物が人間なのであり、死者にとっては死者が人間だからである。それゆえここで主張される多自然主義は、たんなる多文化主義の自然化的ヴァージョンである以上にねじれたものである。 捕食について
身体の重要性が述べられるのも、観点とはそもそも身体的だからである(環世界)。 捕食においてわれわれは身体を自らの内に取り込み、生者と死者の境界をこえた多様体になる。いや、元々そのようなものとしてあるところへ、われわれがたどり着く
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先住民の観点主義は、近代西洋の法制度が、自然に対する人間の関係を再構築させる多様な生活形態をより明確に考えるためのさまざまな方法を提供する。 近代西洋の法制度は、法律家は本質的に「人間」と呼ばれるものから派生しうるものであり、またそうであるべきだという考え方に基づいて構築されている。しかし先住民の観点主義をもとに、「人間」という特徴を、人間が「自然」と呼ぶ文脈に属する物事に帰すると、私たち人間の関係や結びつきを組み直す新しい存在論が生じる。もし法制度が文化の多様性(多文化)だけでなく、自然の多様性(多自然)を説明することができるのであれば、権利の概念そのものを、自然環境と私たち人間の関係をよりよく把握するために用いることができる。