「神武は筑豊に東征した!」福永晋三
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アップロード日:2014/04/27
再生時間:1:57:03
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はい、それではお話しさせていただきます。東京から来ておりますけども、 元々生まれは福岡県鞍手郡、昔の名前で宮田町大字磯光1305番地に出生しております。本来18まで福岡で育ちまして、その後大学が東京の國學院だったものですから、そこで4年間を終えて、教員になろうと思ったんですが、おふくろが倒れてしまって、教員試験を受けることが出来ずに、そのままズルズルと東京に3年間いた内に、もう1回教員試験受けた時に福岡県で受かったんですが、福岡県はもう当時勤めておりましたんで、「1日面接を待ってもらえないか?」と言った瞬間に当時の副教育委員長ですかね? ガシャっと電話切られて終わりになりました。それで結局、東京都の方に就職しまして、今現在都立(*省略)高校の教員をやっております。そういったことで、私はしたがって東京にいて、40代になるまで古代史の方には全然関心がなかったというか、ほとんどやってなかったんですね。にも関わらずですね、結局古田武彦という人物の著書を読みまして、九州王朝論なかなかおもしろいと言うことで、しばらく一緒に行動してたんですが、その内やっぱり古田さんの言うことはちょっとおかしいという事を言い始めた途端に、「お前は首だ」ということで、色んな会を追われまして、今日に至っております。 さぁそこで特に私が國學院大学の文学部を出たわけだからと言っては何ですが、実はあの、中国文学科を出ておりまして、実を言いますと日本文学には非常に本来疎い訳なんですけども、中国文学をやっていたおかげで、とにかく漢文を白文で読むことができるという、まぁこれだけが私の唯一の取り柄なんですが、そうした時に、我が国の上代文学は、万葉集とか、それから日本書紀も文学として、あるいは歴史書と扱ってもいいんですが、古事記もそうですけど、実はこれみんな漢字、漢文、及び万葉仮名で書いてあるんですね。いずれにせよ、全部漢字なんです。 じゃあ、上代文学を国文学の先生に任せないで、中国文学風に読んだらどうなるんだ?ということを始めたわけなんですね。そうすると、特に面白かったのが『万葉集』と『日本書紀』あたりでしてね。そこに出てくる歌謡、歌、和歌、倭(やまと)歌なんです。この倭歌が、例えば古事記の本も、それから日本書紀の本も、そしてまたもう一つ言うならば万葉集の中でも、作歌事情と言いまして、詞書(ことばがき)というのがあるんですがね、題詞という。 この題詞とですね、歌の中身が全然合わないわけなんです。こらぁどう考えても、上代文学の先生たちの気が触れとらせんか?と。そこで一旦、万葉集の方から入りまして、とりあえずじゃあ題詞、「作歌事情」と「歌」と切り分けようと、「歌」だけ見つめようと、そういったことを始めたわけなんですね。そうすると、これが意外なことに、今までのみなさんの万葉集に対する常識でもそうですけども、万葉集の中で「ヤマト」と詠んであれば、もうみなさん全部「東の奈良県」だと思って来られましたよね? これ全部違ったんです。それを逐一追っかけますと、これから具体的にお話ししますが、すべて「古代のヤマト」は「筑豊」にあったという、とんでもない結論に至ったわけなんでありますね。じゃあ、そこが本当にヤマトの国だったとして、万葉集の有名な歌は、本当はどこで歌われたのか?それを一生懸命あちこちあちこち毎年夏休みにですね、こちらに出かけて来て、ここじゃないか?と思われる所に出かけて行って、その周辺をグルグルグルグル回って、歌を解釈していったわけなんですね。 そしたらもう段々段々、確信に近づいていきまして、そして最終的にはですね、我々国文学をやっている人間には、特に国語の教師では常識化されてるんですが、『古今和歌集』の仮名序、真名序にですね、万葉集は近畿天皇家の勅撰和歌集じゃないんです。今の上代文学の世界では、これは私撰集と言いまして、誰かが、公式ではない所で選んだ歌集ということになっているんです。 その古今和歌集の中では、万葉集は明らかに「平城の天子」が御作りになったよと、だから「勅撰和歌集」なんです。ただその奈良の天子、帝というのが近畿天皇家にいないんです。一応、平城(へいぜい)天皇とは言います。ところが、全然実は合わないんです。そのもっと前にですね、万葉集の原型としましては、このすぐ近くですが、朝妻ですよね?あそこに「曲水の宴跡」というのがありまして、つい最近話題になっております。 実はあそこで、「倭王武」、もしくはその前の「倭王興」、この大王(おほきみ)がですね、群臣を集めて倭歌を献上させたと、古今和歌集仮名序に書いてあるんです。日本全国広しと言えど、曲水の宴跡で一番古いのが出てるのは、この御井寺(みいでら)のすぐそばの「朝妻の曲水の宴跡」なんです。そうしますと日本書紀の顕宗紀(けんそうき)でしたか?あそこに書いてある三次の曲水の宴は、有名な歴史的な人物で言えば、中国史書に残された倭王武か、あるいは倭王興にあたるわけなんですね。 この大王がですね、大王が、あろうことか万葉集の原型、侍臣(じしん)を侍らせて和歌を献上させたという故事に遺跡と合わせると、ピタッと合うわけなんです。だから万葉集の古い部分、特に巻一、巻二は、そうして考えて、歌を作った「事情」と「歌」とを全部切り離して、「東の大和」を全部捨て去って、こっちの西の「本家本元の倭」と言う所を考えた時に、歌が全部蘇っていったわけなんですね。
そこから今度はじゃあ、歴史に戻ろうと、じゃあ歌の中身が本物であったら、じゃあ歴史は一体どうなるんだ?と。そしたらこれも古田さんの九州王朝論とまた違ってですね、倭国の、倭の国の最初は筑豊から豊前、豊後にかけての「大・豊の国」であったと、これが元々の倭の国であったと、こう言った事がわかって来たわけなんですね。それがこちらの地名研究会と、どの程度重なるかはわかりませんが、そういう万葉集、それから古事記、日本書紀、記紀の中の歌謡を通しまして、一つ一つの地名、つまり私としては、この福岡県下の、古代には存在して、今は失われた地名を、一つ一つ丹念に復元していったわけなんです。
だから今みなさんがおやりになっているのは、今に残る地名だけですよね?私はもう本当に、あろうことか、もう本当に普通の皆さんに言わせれば、気が狂ったんじゃないか?と言われるくらいに、「失われた地名の復元」というのをやらかしたわけです。そしたら意外なことに古代史が、また一つ一つ具体的に甦って来た、というのが今までの私の経歴なんですね。その万葉集をそういう形で読み直そうと提唱したのが、やはりこの国でどうも私が一番目みたいです。
それでそのことを言い始めて、「いや、万葉集は実は九州王朝の人間たちと言うか、むしろ『九州王朝の勅撰和歌集』だよ」と、こういう事を言い始めた時に、古田さんが「おう、それは面白い」ということで乗って来まして、あの人が結局、私から横取りして、さも自分が「万葉集は九州王朝の歌だ」なんていうことを、自分が言ったかのように宣伝今しているわけですけどもね、発端は私であります。 湯布院の宿で一晩徹夜しましてですね、激論を交わしましてね。「いやぁ、古田さんが以前にやっていた万葉集の考え方全部おかしいよ」と、「全部間違うとる」。その頃は中小路駿逸さんという、まぁ一応お友達みたいな人がいましてね。この人は文学の人なんですが、この人が「万葉集には九州人の歌がない」ってことを言ってたんです。古田さん、これにいともあっさり簡単に乗っかっちゃって、それを市民の古代という中で一生懸命書いてるわけです。 繰り返し巻き返し。それに対して「先生違うよ」と。「あれこそが『九州王朝の歌集』じゃないか」と、「『勅撰和歌集』じゃないか」と。まぁ、ここから意見がですね、最初の内はホイホイ乗ってきてたんですが、途中から私が情報を出さなくなったんですね。「お前は俺に情報を出さんのか?」と言われたから、「いやぁ、考えていることをすぐに口に出すわけにはいかない」と言ったら、「そういうことか!」ということで、チョンと首を切られたわけでありますね。非常に勝手な人なんです。まぁ、それはもうそれで、序に致しましょう。
それでは私が本格的に取り掛かった倭歌、ヤマト歌が解き明かす古代史という先週発表しました資料を解きながらですね、この地名研究会になるべく関わるようにお話を少し切り替えていこうかと思います。まず一番最初が私が取り掛かったのは、神功皇后紀なんでありますね。これは日本の古代史学の中では、もう神武から神功までをとにかく歴史学の対象として扱う、もうそれだけで我々は歴史学を研究しているということには「ならない」わけですね。 外されちゃうんです。と言いますのも、戦後すぐに戦争中に有罪となった早稲田大学の津田左右吉(そうきち)という博士がおりまして、彼が15代になりますかね、「応神天皇からが実際の歴史であって、それ以前はみんな架空だよ」って言うわけです。戦後60年ずーっとこれで来たんです。だから神功を取り上げること自体、神武を取り上げること自体、あるいは間の崇神を取り上げること自体、もう既にこれで、我々は歴史学の対象から外されるんです。 「こいつらはまやかしだよ」と。「学会が「それはないことだ」と、「架空だ」としたものを一々取り上げる奴らは、みんな歴史学を知らん奴じゃ!」と、まぁこういう風に言われるわけなんですね。これくらい日本の古代史っていうのは歪んでるわけです。それを私は逆のアプローチでやったんです。倭歌から解き明かすぞと。正直言いますと、上代文学の先生たちは、その戦後の歴史学の下部構造、下位に甘んじてるんです。
つまり歴史学の先生たちが、「万葉集に出てくるヤマトというのは、全部奈良県のことだ!」と言ったら、「はいその通り、ごもっともです!」と言ってる。国文学の先生は歌の内容と実際の、例えば向こうの奈良県の明日香の地形とか、そういったものが全然合わないにも関わらず、「無理やり」あの中にギュウギュウ詰めに押し込んじゃうんですね。例えば天香具山(あまのかぐやま)、これからお話ししますけども、せいぜい海抜150メートルもないですよ? 山の恰好してないんですよ?へちゃむくれですよ。大地のオデキ程度の物なんですよ。それをやっぱりみなさんずーっと「天香山だ、天香山だ」って言われてきてるんです。ところがこれもですね、天香山というの、これからお話ししますけども、単純に「いや、これ東の大和じゃない」と。「西のどっか、この豊国を中心とする倭のどっかにあった山だ」ということを、まぁずっと考えたんですね。それは古事記、日本書紀、簡単に言ってるんです。 天香山では「金が採れる。銅が採れる。鉄が採れる」と全部書いてあります。古代人、こんな大切な金属資源が採れる山を勘違いしますか?奈良県の天香久山、砂鉄が磁石に引っ付く程度、採れるかどうかです。金、出ません。銅、全然関係ないです。探求はそこからです。それで神功皇后がとにかく、この福岡県下で大暴れして、熊襲をやっつけて、それでまぁこちらに都を建てたという記録があるわけですね。 それを万葉集から抜き出しました。(*省略)万葉集、そこにありますが、4260番と4261番ですね。特に4261番です。この歌から私の歴史学への取っ掛かりが始まりました。
大王は 神にし坐せば 水鳥の 多集(すだ)く水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)と成しつ
もう、これだけでした。題字見て下さい、作家事情。<壬申之乱平定以後歌二首>って書いてある。万葉集の題詞では、これは「壬申の乱以降に作られた歌だよ」って言われてたわけです。 この歌からヒントもらいました。「ちょっと待てよ」と。「「みぬま」という地名がどっかにあるぞ」と。もうおわかりですね?皆さんはね。ここだったんです。福岡県に三潴郡(みづまぐん)あるやないか?と。ここには「水沼の君」もいらっしゃったじゃないか?と。「あ、ここの歌だ!」なんて思いましてね。じゃあ、これやっぱり題名が全然違うんです。これ壬申の乱以降じゃなかったんです。ここがまだ海か湿地だった頃、そこの水捌けか何かの工事をして、ここにちゃんと都を作られたという大王、おほきみがいらしたわけですね。 https://gyazo.com/a896afa309ed3a9cda63428105795732
これがひょっとして神功皇后さんじゃないか?ということで「水沼の皇都」というのを比定しまして、ここに比定しまして、それでじゃあ、ここのどこら辺に具体的にお宮さんがあったんだろう?と探して行ったら、すぐそこの「大善寺玉垂宮」さんだったということがわかったわけですね。残念ながらこっちの「高良大社」さんじゃないんです。大善寺玉垂宮さんの方がこの水沼の皇都の、しかもPALACEパレスにあたるわけですね。王宮だったわけですね。 これから神功皇后紀に入っていきまして、それで最終的には神功皇后さんがやっぱり日本書紀に書いてある通り、向こう遥か向こうですね、笥飯宮(けひ)から出発して播磨の国を南下しまして円山川沿いにずーっと下ってきましてね。最終的には瀬戸内の海に出ると。それから段々段々、「征西」というのやらかしまして、関門海峡までやって来ます。穴門(あなど)豊浦宮(とゆら)です。ここでこの福岡県にいた邪馬台国の女王卑弥呼の120年後の子孫たちと思われます熊襲をことごとくやっつけていくわけですね。 後はもうみなさんご存知の通り、福岡県下を縦横無尽に暴れまくるわけです。熊襲全滅です。つまり、あそこで邪馬台国滅んじゃうんです。こういう仮説を出しちゃった。神功さんはここに新たに都を建てられたんですよと。だから私が初めてこの国で「筑後の都」というの出したわけですね。神功さんのすぐ後は応神、これが今度は中国史の宋書に書かれてある「倭の五王」の時代に突入するわけです。だから倭の五王もやっぱりここにいらっしゃったよと。 そうすると地元で「玉垂命さん」と、「水沼の君」とかお呼びする方が、何人かは「倭の五王」に当たるんだよということを日本で初めて言ったわけです。神功皇后さんが出た国は実は邪馬台国じゃないんです。東鯷国(とうていこく)って言いましてね。(*省略)「東」という字、それから「魚」偏に是々非々の「是」ですね。さっきありましたけど。あの「是」という字を書いて「東鯷国 (とうていこく)」って言う。これがいわゆる弥生時代の「銅鐸」文化圏です。 倭国・邪馬台国は「銅矛」文化圏。銅鐸文化圏から、これがやがてですね、今日も久留米大学で話題になりましたけど、「三角縁神獣鏡」を作り出す国です。銅鐸が三角縁神獣鏡に替わるんです。祭祀が替わるんです。この中からオキナガタラシヒメ(気長足姫尊/息長帯比売)・神功さんが出現するわけです。そして今言ったように、銅矛文化圏に逆に殴り込みかけるんですね。これを私は「神功の西征」と呼んだ。だから、倭国敗れちゃうんです。 なんせ邪馬台国の子孫、全部滅ぼされちゃったんです。それで東鯷国・銅鐸文化圏が「三角縁神獣鏡圏」の国になって、倭国かつての銅矛文化圏、それが「後漢式鏡圏」の国なんですが、実は東の方が西の国を武力統合してしまったと。これで近畿地方から九州地方に至るまでのですね、「統一倭国」は出来たと。この後を受けて倭の五王の5代目の武の時には、ほとんど常陸国までを領有してしまうという、今の日本国のほぼ原形が出来上がるんではないか?ということを大胆に述べたわけなんですね。 だから、ここでまず一つ、地名比定しました。「水沼」、ここです。「水沼の皇都」というのを一番最初にここに比定したんです。もう三潴郡以外ないんです。日本全国どんなに広いと言っても。ここが水沼の皇都であると。これまず地名の第一比定でした。それからですね、今度は(*省略)その神功皇后さんに関係しまして、実は柿本人麻呂がそこにありますように、<過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌>近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿作る歌ということで、29番30番31番の歌があるわけですね。 玉手次(たまたすき) 畝火の山の 橿原の 日知の宮ゆ 阿礼座(あれま)しし 神の尽(ことごと) 樛(つが)の木の 弥(いや)継ぎ嗣ぎに 天の下 知らしめしける 虚見つ倭を置き 青丹よし 平山越えて 何方(いづかた)を 思ほしけめか 天離る 夷には有れど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろぎ)の 神の御言(みこと)の 大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿は 此処と言へども 霞立ち 春日か霧(き)れる 夏草か 繁くなりぬる 百磯城(ももしき)の 大宮処 見れば淋(さぶ)しも (万29) ちょっと歌変えてあります。「或は云はく」で書いてあります。短歌、或いは反歌、
楽浪(ささなみ)の 思賀の辛碕 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ (万30)
ささなみの 比良の大わだ よどむとも 昔の人に 会はむと思へや (万31) という歌が残されてるわけですね。その下に簡単に解釈書いてございます。
玉手次畝火の山の橿原の日知(神武天皇)の宮以来、出現された皇神の尽(ことごと)くが、(樛(つが)の木の)いよいよ(日知の位を)継ぎ嗣ぎして、天の下をお治めにになったところの、虚見つ倭(天満つ倭、古遠賀湾沿岸)をさしおき、青丹よし平山を越えて、何方をお思いになったのだろうか、天離る東方ではあるけれど、石走る淡海の国の、楽浪(ささなみ)の大津の宮に、天の下をお治めになったという、天皇(景行天皇)の皇神のお言葉の、大宮は此処と聞くけれども、大殿は此処と言うけれども、霞立ち春日がかすんでいるからか、夏草が繁くなっているからか、(実は涙でぼんやりとかすむ)百磯城の大宮処を見ると荒廃していることだ。(万29) をさめ歌、楽浪の思賀の辛碕は、昔に変らずにあるけれど、ここを出たままの大宮人の船を再びここに待ちうけることはできない。 (万30)、ささなみの比良の大わだは水が淀んで(大宮人を待って)いても、昔の人に会おうと思うことであろうか。いやそんなことはない。(万31)ということで、これは古田さんが最初に言いました。これは日本書紀の神功皇后摂政元年二月三月の記事、神功皇后軍が忍熊王(おしくまのみこ)を滅ぼし、入水自殺に追い込んだ戦記、これが背景にある。 この事実とこの歌が重なるんだということを言ったわけ。ところが、残念なことに古田さんはこの事件を向こうの琵琶湖に持っていってしまった。これが大間違いです。淡海はやっぱりこっちです。途中書いてありましたように、「古遠賀湾」です。あれが淡海です。証拠はただ一つ。万葉集に「鯨魚(いさな)取り淡海」とあるわけですね。外海で鯨を捕ってきて、そのまま淡海に入り込むんです。そういう歌が万葉集の中にあるわけですね。(*省略) 153番歌に「鯨魚取り淡海の海を」という例があるんですね。万葉集で他の「いさなとり」(鯨取り)は全て海にかかる枕詞であるから、ここでやはり「鯨魚取り淡海」とあるからには、淡海というのは外海で鯨を捕って来て、ダイレクトに入ることが出来る海のはずなんです。琵琶湖、入れますか?例えば日本海で鯨、捕ったとしましょう。無理ですね、これは。どうしても入らないですね。大阪湾で鯨捕ったとしましょう、百歩譲って。 淀川ずーっと渡って行くんですかね?もうそれまでに鯨腐っちゃいますね(笑)。だから、これもダメだということがわかったわけなんですね。「石走る淡海」というのは、こちらで地名研究おやりになってて、淡海というのはあちこち書かれていると思うんですが、福永の場合には動かないんです。これはもう「古遠賀湾」か、あるいはもう一つの候補は「行橋」(ゆくはし)が、かつて海だった時のあれがやはり東の方の淡海なんですね。 と申しますのも実は万葉集、古事記、日本書紀の中には「近つ淡海」(あはうみ)と、それから「遠つ淡海」があるわけですよね。福岡県のどっかに都があった時に、当時の都から近い方が「近つ淡海」、遠い方が「遠つ淡海」と言われてたわけですよね。だから、かつて近江も遠江(とほとうみ)も福岡県内にあった。行橋の海の方が、実にこれ面白いのがありましてね。その当時の海の、ちょうど最後の一番奥まった所の岸の所にありますがね。 そこにですね、「琵琶隈古墳(ビワクマ)」というのがあります。行橋市です。琵琶「隈」古墳です。「隈」(くま)というのは、みなさん福岡県の人はご存じの通り、「すみ」という意味を表すあの「隈」です。こざとの「隈」ですね、大隈の「隈」ですね。「琵琶の隅っこの古墳」というのがあるんです。だから行橋にかつてあった入り江が、「琵琶の海」だったみたいです。古代の地形を再現しますと、やっぱりビワという果物、あるいは琵琶という楽器の胴体部、やっぱり丸く入り込んでんです。(*省略) そこに古遠賀湾入り込んでます。これが淡海ですね、一つのね。それからもう一つ、東側の所に(*省略)ちょっと入り込んでる海がありますね。これが今の行橋市辺りです。このちょうど、この海の西北の角に、さっき言った琵琶隈古墳というのがあります。だから、かつてここの所を「琵琶の海」と呼んでたらしいです。それをやっぱり東の琵琶湖に持って行っちゃったんですね、淡海の国ごと。「あはうみ」って書いてありますから、やっぱり「海」なんです。
舐めるとしょっぱいですよ。琵琶湖、淡水です。やっぱり当たらないわけなんですね。こういったことも、歌を見ながらですね、次々に解き明かしていったわけなんでございますね。これでまた地名出ましたね。今は失われた「古遠賀湾」が一つ「淡海」ですよ、「行橋の海」が「琵琶の海」ですよ、と。これでもう地名3つ目です。それから、えっと、この前ですね、『越境としての古代6』を去年出しまして、ここで「神武は筑豊に東征した」と、まぁいうのをお出ししました。 その中で、その神武天皇はどこに都を置いたか?ということで、もう繰り返してますように「倭」が元々「豊の国」だったんだということから仮定した時に、神武はどこに都をつくったか?これもですね、先程申し上げた天香山からわかったんです。天香山からわかりました。まず、天香山関係ですが、2ページ見てください。2ページの写真にありますように、昭和10年の香春岳、これは右手から一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳になります。 三ノ岳の西北に、奈良時代にも有名な「採銅所」という地名が残されてます。つまり全国で、東大寺を作った時、「最大の銅を供給」したのが、この香春三ノ岳、採銅所という所。そういう役所が置かれた。だから『続日本紀』の中で一番有名なのはここなんです。銅の採れた山という。東大寺の大仏作った銅ですよ、ここの銅ですよ。だからこれは多分検査すればすぐわかると思いますけどね。やっぱり香春で出てくる銅と成分同じだと思います。 さぁそこで問題ですが、これが実はですね、崇神記にありますように、まず第一にこれが三輪の山なんです。綺麗に三輪です。三輪ですね?これ、三輪の山です。まず三輪の山です。これが天香山でもあるということに気付くのが、ずっと後だったんですね。そうしました時に、天香山というのは先程も言いましたように、古事記、日本書紀では「銅が採れる。金が採れる。鉄が採れる」。この香春一ノ岳からは磁鉄鉱が採れます。今も採れます。 三ノ岳、採銅所付近、今でも銅が採れます。それから非常に古い時代、奈良時代以前の「神間歩」(かんまぶ)という銅の採掘跡があります。今も採れます。昭和の年間も銅採ってました。すごい量なんです。で、私には俄かに信じがたいんですが、あの銅という金属はですね、地中からですね、地中からの供給が切れない限り、どんどんどんどん補給されるんですって。だからあそこは2000年来、銅が途絶えたことのない土地なんですね。 これも驚きですね。「東の天香久山」、絶対先程言いましたけど、銅採れません。出ません。供給もありません。1万年のスパンに渡っても出てません、銅は。それだけ明らかなんです。じゃあ、これがひょっとして天香山がこの山だとしますとね、三輪山=天香山なんですが、それがですね、古事記の中でですね、またこれが面白い表現でですね、日本では私しか多分言ってないと思うんですがね。 非常に面白いものが見つかりまして、(*省略)古事記の中にですね、あの例のイザナギ、イザナミの神話にまで遡っちゃうんですが、イザナミの神が亡くなった時に、イザナギの神が涙をこぼしますね。その涙をこぼした、その涙から生まれた神の名前がですね、「香山の畝尾の哭澤女神(なきさわめのかみ)」って書いてあるんですよね。 古事記に強い方はすぐに思い出されると思うんですが。(*省略)伊邪那岐命すなわち<御枕方に匍匐ひ御足方に匍匐ひて哭きたまふ時に、御涙に成れる神は、香山(これ、香山と書いて「かぐやま」と読ませます)の畝尾の木本に坐す、名は哭澤女神>ぞと。これを通常、「香山(かぐやま)の畝尾(うねお)」と読ましてるわけですね。ところがもう、みなさんの漢字力だったら簡単でございましょう?「畝尾」というのをちょっと読み替えると、「うねび」が出てくるわけです。 それで神武はですね、最終的にこの「畝傍山」の東南に橿原宮を築くわけです。日本書紀に書いてあります。だからこれが香春岳、仮に天香山であり、ちょうど3つの山になってますから、これ畝になりますよね?あの畑の畝とか畝織とかの畝ですね。畝の尾っぽですから、一ノ岳か三ノ岳のどっちかが畝尾(うねお)なんです。どうも三ノ岳が天香山、銅の採れる、金の採れる中心地みたいですから、中心の山ですから、今と順番逆で一ノ岳の方が当時は畝尾であったんだろうと思われます。 畝の尾っぽです。これが書き換えられて、読み替えられて、「うねび山」(畝尾山/畝傍山)であるならば、日本書紀には畝傍山の東南に橿原宮建ててあったんです。そこに「高野」(たかの)という地名がありまして、そこに鎌倉の鶴岡八幡宮よりも50年早く出来た鶴岡八幡宮がございます。その下に多分、神武の橿原宮が埋まっているんだろうと私は推測しております。後は教育委員会か何か、掘ってくれりゃ良いだけです。 掘れば多分証拠出てくると思います。もう一つ面白いことがあります。神武が亡くなって、畝傍山の今度は東北の陵に御陵(みささぎ)に葬られたって書いてある。そこにはですね、香春町に行かれるとわかると思うんですが、こういう名前の弥生時代の円墳があるわけでございます。「おほきんさん」って言う。漢字で書けば先程の万葉集のこの「大王」です。あるいはせいぜい「大君」、こっちですね。このどっちかであることは間違いないです。 もう一つ。固有名詞が付いてません。秦の始皇帝陵と同じです。「初代」だから付いてないんです。ひょっとしたらこれが神武さんのお墓だという可能性があります。ぜひ香春の町に行かれたら、歴史資料館があります。そこの学芸員のノムラさん、あるいは郷土史会会長の柳井さんという方に案内してもらえれば、この「おほきんさん」の墓まで案内してもらえると思います。 今はですね、まわりにごく普通の人たちのお墓が集まっておりますがね、その真ん中にデンッと弥生時代の円墳が直径15メートルぐらいですかね?今はあります。これが多分、神武さんのお墓であろうと。嬉しいことにこの私の仮説を受け入れてくださった(*不明)さんと、それから郷土史会会長さんともう一人、その香春町の学芸員のノムラさんという先程の若い方ですがね。
今までは太宰帥の、誰とかのお墓だっていう風に言われてきたんですが、私のこの本あたりがですね、やっぱり野村さんの手に届きまして、その若い学芸員さんが中央の学説から少しずつ離れ始めまして、「いや確かに香春の土地は古いんだ」と、「今までは律令以後のことしか言わなかったけど、やはり香春の町も弥生時代、あるいは縄文時代、そこまで遡って歴史を言わなきゃいけない」ということを、その若い30代の学芸員さんが言い始めたんですね。
そしてこの私の仮説を受け入れて下さって、「いやぁ、このおほきんさんの墓はひょっとしたらもっと古いよ」と。「2世紀、1世紀に遡る可能性があるよ」ということを今地元で言ってくれてんだそうです。もっと嬉しいことに1、2年の内に「掘る」とおっしゃってる。この「おほきんさん」のお墓から、わずか200メートル離れた所に「宮原古墳(みやばる)」というのがありまして、そこから出たのが黄金の耳飾り、それから例の後漢式鏡、内行花文鏡の破片が出ておりますね。 だから、状況としては申し分ないんです。私は神武天皇の即位というのをですね、(*省略)邪馬台国と古事記、日本書紀を横断しちゃったんです。そして中国の史書とあわせた時に、多分みなさんはもう眉唾だと思いますが、(*省略)121年、西暦です。もう、こんなこと言ったら大体笑われますよね?121年、これが「神武の即位」ですよと。同時にこれが、かの有名な「邪馬台国の創始」ですよと。こういう風に解いちゃったわけなんですね。 これでまた地名出ましたね。「天香山」、「畝傍山」、出ちゃいました。「東の大和」から奪還しました。田川郡香春町にあります。でもこの畝傍山、削られちゃったんですよ…みんなセメントに化けちゃったんですよ…もう今は何メートルですかね?200メートルもないかも知れませんね。かつて500メートル級の山だったんですがね…もっと大変です!今度は二ノ岳も掘ろうっち言うんです!二ノ岳堀り終わったら、また三ノ岳掘ろうっち言うんです!
この我が国の神話の歴史の神の御山が、ことごとく削られてるんです!ここで内緒の話しておきましょう。もう、地元でかき集めました。昭和10年、香春岳がセメント会社に売られました。香春町、経営が行き詰ったんです。とにかく何とか、あれセメントになるっていうから、じゃあ売って、それで町の財政潤そうと。そういったことで当時の議会がですね、決定して売っちゃったんです、セメント会社に。
ところが地元でですね、やっぱり私みたいにですね、「あんな神の御山を、そんな利益のために売るなんてのはけしからん!」って言った人が一人いたんですよ。町会議員か何か。日本刀で斬り殺されました。血の歴史があります、香春町に。だから僕は正直言って、昭和10年の香春町の町議たちをですね、その子孫たちを呼び集めてね、「お前たちは何ていうことをしたんだ!」ってことでね、問い詰めたいんですけどね。
本当に日本の役人っていうのはね、こんなつまらんことしてね、責任取らんのですよ。その正義感の人は本当にね、斬り殺されて豪快にやられて、あっという間に死んでしまったんです。その人が最後まで頑張ってたら…ねぇ?ということになっちゃいますけどね。それ聞いた時に、胸痛みましたね。あぁやっぱ同じように、やっぱそういう町のね、神が宿るという山をね、売っちゃいかん!って言った人がいた。まともな人が一人だけいた!
これで香春町は救われるんです。後は全部ダメです。ダメです。だから僕は今盛んに言っているんです。「もうこれ以上掘るな」と、「何とか残せ」って言ってるんですがね。私はただの都立高校の国語課の教員ですからね。私の言うことを信用してくれる人は、そういないわけです。ということでですね、そこからですね、私がここが三輪山だ、天香山だ、香春岳がそうだと言ってきたわけなんですね。そこからまた次々と地名が解けてくるわけなんですよね。
(*省略)神武天皇紀解明の糸口になったのが、実はやっぱり三輪山の歌でしたよ、ということから始まるわけなんですね。そこの19番歌に<綜麻形(へそがた)の~>という歌がありましてね。 綜麻形の 林のさきの 狭野榛(さのはり)の 衣に着くなす 目につくわが背 (万19)
という歌があったんです。これを徹底的に追求しましてね。「綜麻形」って書いてあるけども、結局これは崇神天皇記にある「三輪山伝説」、この伝説に基づいて、そこに「美和」と名付けられたんだってことが書いてあるわけです。 若い娘さんの所にですね、夜な夜な美しい男性が現れて、恋仲になってしまったと。それで赤ちゃんが出来ちゃったと。それで両親が激怒して、「お前は何で、独り身で子供出来るんや!」っていうことで、「いや実は夜な夜な通ってくる美しい男性がいるんだ」と。じゃあお前、その男性が帰る時に糸をですね、針で、でもって着物に刺しておけと。その時に赤い土の上に糸巻をいくつか重ねましてですね、その端と端をつないで、何巻置いたか知りませんよ。
とにかくその神が帰って行った、男が帰って行った後に、じゃあ、その糸を辿っていけば、その男の居場所がわかるんだということでやったわけですね。当時の糸巻はですね、大事なことだったんですが、綜麻ですがね、「円錐」なんです。今みなさんが知ってる、あの工業用で作られてるただの「円筒」、あれじゃないんです。古代は紡錘車というのを回して、クルクルクルと回してやっちゃいますと、横から見ると「三角形」なんです。
「円錐」なんです。その円錐の端と端とを結ぶんです。だから「綜麻」っていうのは「三角形」。みなさんのお腹の中心にある臍(へそ)ってのも、生まれた時みなさん、私もそうですが、「出臍」。あれも「ヘソ」。こんなこといつも真面目に考えてるんですよ、いつも馬鹿みたいに。「あぁ、ヘソだ」と。だからやっぱり円錐が3つ並んでるから、「三輪山」って言ったんだよと。
その男性が帰った後に、糸がスルスルスルスル伸びていって、糸巻が一つずつ一つずつ一つずつ解けていって、最後に「三勾」(みわ)残ったから「美和山」って言ったっちいう。その男性はあろうことか、美和の社に住む美和の大物主大神だったというおまけ付きでしょう?じゃあ「三輪山伝説」っていうのは、これまた「東」じゃないんですよ。香春岳のお話なんです。近い所なんです。 香春の里と、一ノ岳の頂上っていうのは、確かに糸巻を10個くらい繋げたら、それくらいで行ける距離なんです。ところが、日本書紀、解釈見てください。面白いですよ。あの何か今の、奈良の三輪山からですね、滋賀県でしたっけ?滋賀県の何かちょっと「綣」(へそ)という土地があるんだそうですけど。(*不明)とかという所。そこまで行っとったっち言うんですね。何か40数kmか50数kmあるんですってよ(笑)。
糸巻足んないですよ、昔の糸巻じゃ。ところが香春だったら、的確な距離なんです。本当に「三勾」残るんです。だから「三輪山」と言ったんだっち言うんですね。面白いことはですね、そこに残っていたのは「みは」(三勾)、古代語で「みぱ」なんです。今でもそうめんの束を1把、2把って言うでしょう?あの「は」だったんですよ。「みぱ」だった。後にこの三諸山(みもろ)なんて言ったりもするんですがね、大物主大神が住む所をね。 ところが、この「諸」という字ですね、「もろもろ」という字ですね。これやっぱり私、中国文学やってて良かったですね。「もろもろ」という読み方しか我々ほとんど知りませんけど、実はちょっとした漢和辞典引くと、「てにをは」の「は」という読み方するんです、実は。「何とかは~」っていう係助詞なんです。だから「三諸」と書いても、実は古代は「三諸山」(みぱやま)って読んでた。言葉の途中にある「はひふへほ」は「わゐうゑを」と読み替わったわけですから、これで「みぱやま」が「みわやま」になったわけです。 そうすると上代文学の世界というか、国語学の世界では、こういうのを「ハ行転呼音」て難しいこと言うんですがね。語中・語尾の「はひふへほ」が「わゐうゑを」と読まれるようになったっち言う。それはだから、今までは平安時代に起こったって言われてたんです。だから今でもみなさん、「かは」と書いてあっても「かわ」って読んでるわけですね。「かほ」と書いてあっても「かを」と読むわけですよね?それと同じ現象です。
ところが国語学の世界では、平安時代かそこらですね。私はこれ出しちゃった。「いや、違うぞ」と。「下手すら、こら2世紀以前。下手したら、紀元前だぞ」と。「紀元前の福岡県で、すでに語中・語尾の「はひふへほ」は「わゐうゑを」に読み替えていたんだぞ」と。だから「三諸山」(みわやま)って言うんだよって。(*省略)私もですね、母校の國學院大學の国語学の先生に怒られるわけです。「貴様(きさん)、何言いようか!」っちな感じで(笑)。
「そんなハ行転呼音がお前、奈良時代以前、紀元前にあった?馬鹿も休み休み言え!」なんて言われて。「ここに証拠あるやないですか?」って言ってもね、やっぱり国語学の先生たちも、今まで代々やって来てますからね。そういったことはやっぱり言えないと。だから私がこんなこと出すと、「お前は國學院の裏切り者だ!」なんて言われるんですね。僕は常に國學院裏切ってるんです。本当に大変な奴なんです。
そういったことで、これが三輪山であることがわかりましたね。もう一つこれが天香山であるというのがわかったのはですね、(*省略)百人一首でも有名な 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山 (万28) という有名な歌があるわけでございますね。これも例によって、持統天皇がお作りになった歌だって書いてる。これを一旦解き放ちます。歌だけで見ようじゃないかと。 だから今までは天皇御製歌、御製歌(おほみうた)っていうことでですね、持統天皇が藤原京から、あの奈良県の、あのへちゃむくれの天の香久山を見て、そこに何か、人の着物がわんさか干してあるとか、どうたらこうたらとかね。じゃあ、藤原京からその人の着物が見えんのかどうかとか、色々言ってたわけですね。アホやないか?っち感じですね、わかってしまうとですね。香春岳に戻ります。さっきも言ったように、「金・銀・銅」採れます。「鉄」も採れます。 そしてもう一つ大事なことは、さっきセメント会社に売られたって言いましたでしょう?香春岳は一ノ岳から三ノ岳まで、山自体がみんな「石灰岩」なんです。昔は草木が生えてなかったんです。今でこそ緑ですけど。するとこれ、山自体が綺麗に、「純白」に輝くわけなんです…夏が来ると、我が国はどうなるか?「緑」が生い茂るんです。夏の「緑緑」の一色の中に、天香山だけが夏の強い日差しを受けて「真っ白」に輝くわけです。
ちょっと想像してください…神々しいでしょう?異様でしょう?500メートル級の山だけ「白い」。周り、全部「緑」。この「コントラスト」をみんな忘れてた。だから、この衣は人間の衣なんかじゃないんです!当時もやっぱりすでに、神が考えられてたんです。造化の神が神の衣を、そこに白妙の衣を掛けたように、天香山だけが白く輝いていることよということで、だからこそ「春が過ぎて、夏が来たらしい」って歌えるわけですよ。 「らし」という助動詞は、根拠のある推量の助動詞。「根拠」です。もう、目の前にあるじゃないですか?香春岳、「真っ白」。あとはみんな、「緑」。だから、「あぁ夏が来たんだなぁ…」と。壮大でしょう?雄大でしょう?これが万葉集の「命」ですよ。僕、国語の教師やってきてね、これわかるまでずーっと「嘘」教えてきたんです。万葉集は「雄大だ、素朴だ」なんて言っておきながらね。「何が藤原京からあんなへちゃむくれの山に、何かこう、衣がピラピラ干してあるだけで、どこが夏が来たんじゃ?」っちな感じでね。
わかんなかったんです、本当に。わかんないことばかりだったんです。さぁ、これで完全に「天香山」、比定出来たでしょう?「三輪山」、比定出来たでしょう?ということで、この段階ですでに私は、失われた福岡県下の「倭」という国を復元したわけです。みなさんの地名研究会と全然違う手法ですね。「倭はこっちだよ」と、元々。だからやっぱり「壬申の乱」より前、最低限、「壬申の乱」より前は全部、歴代の帝、神武から天武辺りまで、全部この福岡県下のどっかいらっしゃったんだよと。
「倭の五王」も、こっちの「水沼の皇都」にいらしたんです。日本の古代史、上代史はみんな書き換えなきゃいけない。だから日本史の教科書がいかに「嘘」を教えてきたか、わかりますでしょう?戦前の神話教育も一方では良かったけど、みんな神武も教えてくれたし、神功さんも教えてくれた。しかし、場所が全部まずかった。これを全部「福岡県の歴史」だって言ってくれれば問題なかった。ここからですね、もうボロボロボロボロですね、地名のあちこちが出てくるわけなんですね。 それでまず、『越境としての古代6』に「神武は筑豊に東征した」ってのを書きました。その中で、大正9年でしたかね?発行の『鞍手郡誌』というのがありましてね。その『鞍手郡誌』にですね、色んな地名がたくさん書いてありましてね。神武がどこをどう行ったかという、細かいルートが全部書いてあったんです。その中には例の「立岩遺跡」も出てきます。立岩に神武は寄って、ここで天祖を祀ったとかですね、色んな記録が書いてあります。 更にですね、私が自分で探し出したのに、「求菩提山(くぼてさん)の縁起」があります。みなさん神武天皇が、何となく、その宇佐に上陸したってのはご存知ですよね?古田さんも神武の出発地は、筑紫・前原(まえばる)の辺りだって言いましたよね?宇佐まで廻ったって言いましたよね?これ、みなさんご存知ですね? ところがですね、『鞍手郡誌』もそうだったんですが、古田さんもそうだったんですが、そうやって福岡県をある程度、あちこちあちこち動き回るんですが、『鞍手郡誌』の編者も最終的にはですね、やっぱり瀬戸内海通して「東の大和」にやっちゃうんです。『日本書紀』の最大の「改竄」、「嘘」はここだけだったんですよ。神武は実は、瀬戸内海を渡っていない。
なぜなら彼が倭の「初代王」なんですから。「倭」が福岡県下にあったんなら、彼は「福岡県内」に留まったんです。あの香春一ノ岳の麓に宮を建てたんです、「橿原宮」。だから、神武は決して向こうに行ってない。そういったことが『日本書紀』の端々を、全部編成し直して、そこに書かれてある地名を全部読み取っていったら、「全部こっちの地名」だったんです。「熊野」から何から、全部そうだったんです。
そして日本書紀では知られていない有名な場所も、次から次にわかったわけですね。(*省略)日本書紀の中に出てきます、「天磐盾」(あまのいわたて)に登るというお話がございます。<熊野の神邑(みわのむら)に至り、且ち天磐盾に登る>という、そういう一句があるんですね。日本書紀、お読みになればわかると思いますが。それを今までは、みなさんがご存じの通り「洗脳」されてきましたように、みなさん全部向こうの熊野大社辺り思われてあるわけでしょう? あっちの熊野、和歌山の端っこの、紀伊半島の所ですよね?あそこから熊野古道というのがあって、あそこを通ったと、みなさん思われてあるわけですよね?古田さんも麗々しく行っちゃったわけです。「神武の来た道!」なんて。「大嘘」です。あれがそもそも「大間違い」です。熊野はどこか?「飯塚市」です。立岩遺跡のすぐそばに、「熊野神社」があります。そこの古い場所を「熊野の崎」って言いました。「熊野の岬」です。 だから、あそこまで海が入り込んでたんです。その高い所に建ってた熊野神社さん、その熊野神社さんの境内に行かれたらすぐわかります。神武天皇がやって来られたと。その時にあの例の土蜘蛛とか何とか連中が騒いだんで、それであれは手力雄命(たぢからおのみこと)が霊となって現れてきて、それで大きな岩をちぎっては投げ、ちぎっては投げして、賊を退治したという、まぁムチャクチャな話が書いてあるんですけどね。 でも、神武天皇は来たって書いてある。鞍手郡誌に採られたのが「射手引神社」という神社さんの神社誌なんですが、そこの中にもう、地名がもう50ぐらい並ぶんですね。「ここ行った。あそこ行った。ここ行った」と。それでじゃあ、少しずつ紹介していきますと、まず神武はですね、第一次東征の時にはですね、前原辺りを出発しまして、そして私が言いますように古遠賀湾に直接入り込んで、それで相手の長髄彦(ながすねひこ)、これはまぁ倭奴国(いぬこく)と言う国なんですけどね、あの「金印の国」なんですが。 それをやっつけようとした。しかし、第一次東征では兄ちゃんの五瀬命が、これが敵の矢に当たって負傷して、撤退してしまうわけですね。撤退して、「草香江」に戻るわけです。この草香江というのが、「草香津」ですね、これが博多にちゃんとありますね。「草香江」が。あの「住吉神社」のすぐ西側です。あれ、鎌倉時代まで「草香江」って書いてある。「草香の入江」です。神武はあそこまで戻ってくるんです。 一度負けたから筑紫に帰って来るんです。日本書紀、そう書いてないでしょう?鞍手郡誌、そう書いてあるんです。「射手引神社社伝」。負けたから草香江に戻ってきましたよと。そして宝満山、竈山(かまどやま)に入る。あれ、竈山って言いますね?竈山に神社ありますね?ところが、日本書紀は今まであれを和歌山県の和歌山市ですか?あそこの、竈山(かまやま)って読ましてましたよね?あの「竈」という字は、一字でも「かまど」って読むんです、実は。 だから竈山(かまどやま)に帰ってきたんです、宝満山。そこで五瀬命が亡くなっちゃって、かわいそうに。これも誰かに探して欲しいんですがね、五瀬命の墓、宝満山のどっかにありますよ。絶対ありますよ、間違いなければ。さぁ、そこで彼は最初に負けてしまったから、ここで5年間ですか?再軍備するんです。一生懸命。それで自分たちは日神(ひのかみ)の子孫でありながら、日に向かって戦ったから負けたんだと。
だから、今度は敵を日を背にして、つまり相手を西に置いて戦おうっていうのが神武の神策ですよね?これで第二次東征を始めるわけです。私が初めて分析したんです。最初に負けたやつが「第一次東征」だよと。で、一旦筑紫に帰る。「第二次東征」、また出てくるんです。この時の第二次東征が菟狹(うさ)の宮に入るわけです。宇佐に入って、そこから駅館川(やっかんがわ)を遡って、これも鞍手郡誌、つまり射手引神社社伝に書いてあるんですが、守実(もりざね)という所、大分県山国にあるんですがね、中津市の所に。 先週、久留米大学の講演が終わってからですね、それから一週間今日まで、ずーっと豊後の方走り回ってたんです。全部、山国まで行ってきたんです。これはまぁ、新しいお話ですが、(*省略)この神武天皇紀の所に、吉野の国樔人が出てくるわけです。「吉野の国樔人」。ご存知ですね?律令時代になっても贄物(にえもの)を捧げて(*不明)を過ごしたという部族ですがね。 この吉野の国樔人とか、阿太の養鸕(うかい)等が祖(おや)とかですね、こういう連中と会うわけですが、最初この本を出した時にはですね、その吉野の場所と、それから吉野の国樔という人々は、どこにいたか?ってわかんなかったんです。これは日本書紀が結局、順番を書き換えていたから、わかんなかったんですね。それで菟狹、宇佐に来たことはわかってます。宇佐から英彦山(ひこさん)を越える前に、実は西へ西へ向かったんですね。 今日私また、中津のホテルから久留米までやって来ましたけど、実はあの通り沿いです。あの通り沿いに神武天皇、こう西へ行くわけです。西に行った所に実は「くず」という場所があるんですね。もう、おわかりでしょう?大分県の「玖珠」(くす)です。あれが「国樔」です。で、先ほど言った守実ですね、今の山国町ですが、中津市の。あそこに実は「吉野」という字名があるんです。英彦山の南なんです。英彦山を下りてきた所。 そこに、応神紀の中にですね、<吉野宮に幸す~>という一節があるんです。そうしたらですね、神武の所に出てきた吉野の国樔人が、毎年は朝貢出来なかったけども、それからは度々、ちょくちょく来るようになったんだと書いてあるですよ。この時の都が、大芝さんや私なんかが言うように、その都が、豊前の都であれば、さっきみたいに香春の神武が始めた都ですからね、邪馬台国の都ですからね、一つの。 この近辺に、とにかくあると。その都から英彦山を越えて、吉野の離宮に入り込んだ。それが吉野宮だと。それが大分県の山国町の吉野であった時に、そこに「若八幡」という神社があるんですね。行ってきました。田舎の神社にしちゃあ、やっぱり贅沢ですよ。両サイドに石垣があるんですよ。「何、この参道?」ちな感じで。宮居は小さいです。でも前をやっぱり、山国川が流れてましてね。だから、田んぼも開けてましたし、離宮で帝が食事をされる分には充分に、やっぱりその辺りの土地の物で賄えますね。 そういう場所にありました。行って驚きました、「何だ、この石垣は?」両サイドに石垣があるんですね。多分、その所にやっぱりこう、衛兵が立ってて、すぐ簡単には通せないようになってたんでしょうね。で、地元の人がやっぱり吉野にあるから、若八幡とは言わないで、丁度近くの郵便局にいたおばさんに聞いたら、「あの、若八幡行きたいんですけど?」って言ったら、「あぁ、吉野宮のことでしょう?」
もう、おばさんが嬉しいこと言うんですね。「吉野宮」っち言うんですよ。吉野にある別所宮っち言うんです(笑)。「え!?お、お母さん今なんて言いました?」っちな感じで。「吉野宮でしょ?」って言うから、「はぁ、そうですが…」っちな感じで(笑)。だからそれで、おばさんに頼んでビデオ撮ってきたんですけどね、音声だけね。「私たちは吉野宮って呼んでます」っちな感じで。当たったんです。だから、その応神紀に書かれてある吉野宮を中心にして国樔人の場所を書いてあるんですよね、神武紀には。
で、みなさん「じゅず」、ここお寺さんだからわかりますね?「じゅず」っていう漢字、思い浮かべられます?字、どっちが先に来ても良いです(数珠/珠数)。どっちにしても「じゅず」と読んだり、「ずず」と読んだりするんです。じゃあ、あの「珠」(しゅ)という字は「ず」と読むんですよ。仏教の世界がちゃんと証明してくれてる。だからあの、「玖珠」(くす)というのは、当然神武の時代には「くじゅ」って呼ばれてたんですよ、「玖珠」(くじゅ)ですよ。
久留米の方、どうか知りませんけど、私筑豊の出身ですけどね。僕ら福岡県人って変な発音するでしょ?私、國學院大學に行って、国語学の授業の時に、先生がね、「ここに、九州出身の人おらんですか?」っちいうような感じでね、言われてね。それで、「あなたの田舎では、「先生」ってどう発音しますか?」って、わざと嫌がらせに言うんですね。「しぇんしぇ」っち言うんです。
そしたらもう、東京の同級生が「ワァーーー(拍手)」。人馬鹿にしてですね。そうですよ、このインテグラル[ʃ]の世界ですよ、ここ。「しゃ・しぃ・しゅ・しぇ・しょ」なんです。「さ・し・す・せ・そ」が。じゃ、当然「ざ・じ・ず・ぜ・ぞ」って濁った時は、「じゃ・じぃ・じゅ・じぇ・じょ」なんです。だから「くじゅ」で良いんです。だからあの近くは、玖珠郡の近くには、「九重山」(くじゅうざん)があったり、「九重」の町があったりするわけでしょ? 字が替わったって、みんな「くじゅ」じゃないですか?だから、あれが吉野の「国樔」の本拠地だったんですよ。あそこ、地形変わりようないんですね。「伐株山」(きりかぶやま)がある所、玖珠盆地。あれはもう、太古から変わらないんです。あのテーブルマウンテン。そして大宰府からは「久須評」(くすひょう)という、あの「郡評論争」の話題にもある「久須評」というのが、古くからありますよね?あれこそ多分、九州王朝の行政区域だと思いますがね。 そこだけ玖珠というのは、やっぱり歴史古いわけですよ。これで「吉野の国樔」が揃っちゃったわけです。大分県で。そこ一生懸命、暑い中走り回ったんです。ブーっと飛ばして。そしたら、そのちょうど吉野宮、山国からですね、玖珠までね、今でもちゃんと道路が川沿いに通ってるんですね。「あぁ、神武がこれ来たんかなぁ」と思いながら走ってましたけどね。あんまりよそ見してたら事故会っちゃうから、しょうがないから前向いてましたけど(笑)。
はい、また出しましたよ、「吉野=大分県中津市山国町」。「国樔=大分県玖珠郡玖珠町」です。また地名ですよ、ほら?多分信用されてないと思いますけど、これから書くんです。吉野宮は確定できたわけです。何が変わってくるんですか?「壬申の乱」は、やっぱり奈良県で起きてないんです。こっちで起きてるんです。じゃあもう一つ戻りましょう、さっきのお話です。天智の近江京、どこにあったんですか?天智の近江京?ほら…ね? 琵琶湖じゃないんですよ。あの古田さんみたいに、通説にホイホイ乗っかっちゃいかんのですよ。古遠賀湾の北の方です。今「岩瀬」(中間市)という地名があります。この前行って、確認取ってきました。大体あの辺りです。あれが天智の近江京です。ほら、「近江」という地名一つでも、こうやって出てくるんですよ。あの岩瀬辺りから山国町までだったら、当時の交通機関、つまり足ですけどね。やっぱ急行2日半ですよ。歩いて行ったら、距離から行ったら。 あそこ玖珠ってのは昔は道細いですよ。だから、天智の近江京から軍隊を派遣したって、あそこに入り込んだらもう地の利の有利で、天武・大海人皇子は簡単にはやっつけられないんです。だから良い所に逃げ込んだんです。あそこに入ったら、英彦山越えるの大変ですもん。せいぜい軍船出して、こっちから回ってきて、山国川上ろうとしたって、途中にやっぱ、ちょっと構えちゃえばもうすぐに敵、撃滅出来ますからね。 あれ、なかなかやっぱり難攻不落の所ですよ。だから「吉野宮」と思しき所に行ったら、石垣があったんで、これ城壁か?っつう感じで喜んじゃったんですね、私はね。いつ作られたか?ってのはこれからやんないきゃいけないですけどね。ただ、石は年代が測りようないんですよね…ただ、あそこはですね、大きな石がゴロゴロしてるんですよ。かつては何らかの礎石跡だったんでしょうけどね。
何か知らんけど、巨石がゴロゴロゴロゴロしてですね。何か危なくてこう、脇道逸れると、参道から逸れると歩きにくい所なんです。はい、そういったことも確認してまいりましょう。じゃあ、ちょっと話元に戻しましょう。そしたら、神功皇后の時代に戻りまして、先程の29番歌から見えてきたわけですけどもね。忍熊王の皇子をやっつけた時、これで色んな物見えてきましたけども、もう一つ見えてまいりますのがですね、景行天皇の「百磯城の大宮処」という所ですね。
さぁこれも先程言いましたように、行橋の辺りにあったのも淡海だとした時に、そこに<大津の宮に天の下知らしめしけむ~>でしょ?また「大津宮」っていうのが、琵琶湖の畔じゃないわけですよ。行橋なんですよ。行橋のやっぱ、海が入り込んでたギリギリの所、「御所ヶ谷神籠石」のすぐ下、そこが「大津」なんです。今の名前でいう、「豊津」の町なんです。これが大津なんです。そういったこともやっと見えてきましたですね。そして今度はですね、御所ヶ谷神籠石見てください。もう、「御所」って書いてあるじゃないですか? 福岡県の人は偉い。帝さんがいてはったから「御所」っち言うんです。他にどこ「御所」っち言うんですか?かつて間違いなく古代天皇、大王が御座したんです。だから「御所」。正しいんです。私ここはね、リピーターやってまして、もう何度行ったかわかんない。もうそろそろ二桁なるんじゃないですかね?いつも夏の暑い時期に、汗かきながら登って見てますけどね。一番上に「景行社」ってちゃんと地元の人置いてるんですよ、お社。「景行社」って言うんです。 だから、これが日本書紀に書かれた景行の、「行宮」(かりみや)じゃないですよ、これ。原文には、ちゃんと京都の「京」って書いてあるんですから、「都」なんです。だから、この御所ヶ谷神籠石がある一帯を、今はそこ、旧郡名で何郡て言うんですか?「京都郡」(みやこぐん)って言いますね?私も福岡県人ですから元を正せば。「何であんな所に京都郡があるんだい?」って。「何で福岡県に「京都」があるんじゃ?」ってな感じでね、小っちゃい頃思ってましたけどね。 はい、また地名出しましたよ。「京都郡」の謂れ、間違いなくここです。御所ヶ谷神籠石に景行天皇が御座した時以来、これで成務、仲哀と続いて、忍熊皇子まで続いて、忍熊皇子の時に東からやって来た神功さんに滅ぼされるんですね。それで神功さんがまた凄まじいですね。これ壊すんですね、壊すんです。ただ、壊しきれなかったんです。これ、頑丈過ぎて。だから、これだけ残ってるんです。「御所ヶ谷神籠石」。すごいもんです。 で、大事なことは柿本人麻呂は私たちと同じように、この壊れた跡を見て、さっきの29番歌詠んでるんです。<百磯城の大宮処見れば~>、「見れば」。私、東京都で国語の教員やってるって言いましたね?古典文法でいつも教えるんです。「見ば」と「見れば」は違うわけですよね?古典の時間には「未然形+ば」と、「已然形+ば」という形があるわけですよね?みなさん、古典文法苦手だったでしょう(笑)?
「走らば」と「走れば」は違うんです。「書かば」と「書けば」っていうのは古典違うんです。「書かば」とあると、「書くなら」です。「もし書くなら」です。未然形です。まだ、そうなっていない形ですから、「もし書くなら」、仮定条件なんです。それに対して「書けば」というのは古典の時間では、「書くので」、「書くから」、「書くと」、「書くといつも」って訳すんです。これを確定条件って言います。もう一回、歌見てください。こんなことにこだわるんですよ、国語教師は。
<百磯城(ももしき)の大宮処「見れば」~>でしょ?「見ば」じゃないです。「見れば」なんです。柿本人麻呂は、眼前に百磯城の大宮処を「見てる」わけです。「見て」詠ってるんです!だから荒れ果てて、荒廃してることよ]って詠うわけです。実は、あまりの荒れ果てように涙流すんです。だから、ぼやけちゃうんです。ぼやけるんですが、それをですね、さっきも言ったように、[霞立ち春日がかすんでいるからか、夏草が繁くなっているからか~っていう風に言うんですけどね。
実は涙に霞んで、もう、涙が飛び出るか、溢れながら、この歌詠ってるわけですね。「優れた文学表現」なんですよ…上代文学の先生たち、これ知らんからね。こんな基本的な古典文法知らないから…で、柿本人麻呂、また実在論言ってるわけでしょう?(*省略)私の方では従って、柿本人麻呂はですね、先程の万葉集に関係して、『古今和歌集』の仮名序、真名序に柿本人麻呂は正三位(おほきみつのくらゐ)とか云々がありましてね。 それで先程言ったように、九州王朝の王者の命令によって万葉集に関係した人物らしいからってことで、私がさっき言いましたように、「倭王武辺りの宮廷歌人」だって言ったわけです。だから、日本書紀には実際には柿本人麻呂出てこないんですよね。古田さん、簡単に言っちゃいましたけど。出てこないんです、日本書紀に柿本人麻呂。その柿本人麻呂と親交のあったと言われる人物の何人かが日本書紀出てきます。 肝心の柿本人麻呂は、「一字もない」んです。だから、私はこの歌から逆に言ったんです。「人麻呂は、5世紀の歌人だよ」と。「古田さん言うところの、九州王朝の歌人だよ。宮廷歌人だよ」って言ったんです。 https://gyazo.com/602eb3b20fdd33309ef2ec08256f61a7
彼は神功さんが4世紀末に滅ぼしたこの城跡にやって来て、御所跡にやって来て、それで完全に壊された跡を見て、<~見れば淋しも>と詠うわけです。だから私にとっては、柿本人麻呂は、これも定説と違いますでしょう?「5世紀の宮廷歌人ですよ」。「ひょっとしたら、この水沼の皇都にいらっしゃった倭王武に仕えたかも知れない宮廷歌人ですよ」と言ってるんです。わかりましたでしょ?國學院の鬼っ子(笑)。定説と全部違うわけです。 はい出しましたよ、また。景行天皇の都、「御所ヶ谷神籠石」です。比定しました。こういうことで地名がわかってくるわけですね。それでこれはですね、古川さんともね、ちょっと言い合ったんですけどね。この香春町のですね、まぁ御所ヶ谷近辺ですが、「柿下(かきした)温泉」ちいうのがあります。「柿下温泉」。これがひょっとして「かきのもと」やないか?と。その柿下温泉の所に「猿丸大夫」(さるまるだゆう)の墓があるんですね。これも各地にあるんですが。 どういうわけかですね、『古今和歌集』の成立前後の頃からですね、「人麻呂」、「人丸」だったはずの人物が、どういうわけか「猿丸」というのに貶められたという伝承が文学の世界にもあるんですね。じゃあ、「柿下猿丸」、戻せばこれ、「柿本人麻呂」じゃないか?私は「ひょっとしたらあのお墓、本物かな?」なんて考えてるんですがね。これはちょっと余談ですが、一応「柿下温泉」覚えておいてください。「柿本」の候補地です。また、地名比定です。 で、柿本人麻呂のご子孫は肥前の方に今いらっしゃいます。これも間違いないですね。これはこちらが詳しいですから、後でまたお聞きになってください。それではまた色々まいりますけども、ここでじゃあ神武の東征に戻りまして、その『鞍手郡誌』に書いてあったですね、土地の名前をですね、あれこれちょっと出してみましょう。この地図でまいりましょうね。ということで、とにかく宇佐に上陸しました神武さんはですね、その大分県側の、(*省略)さぁ、とにかくここでですね、この山国町から英彦山と求菩提山の間の低い所を抜けましてですね、求菩提山にいました、ここにですね、あの有名な八天狗の像があるんですが、これが日本書紀に出てくる「八咫烏一族」です。 「八咫烏一族」です。「烏天狗」ですね。人間ですよ。後の時代に頭が烏で、身体が人間で、背中に羽が生えてるというムチャクチャな格好になっちゃいましたけどね。これはあのインドやインドネシアで有名な「ガルーダ神」の像を真似てるんじゃないかな?という気はしております。とにかく「ガルーラ」と「烏」はどっかで繋がってるみたいです。ここにだから、かつて「インド人」がいたらしいんです。なんてこと言うとまたすぐ馬鹿にされるんですけどね。 だから天狗さんていうのが、だからどんな顔してるんですか?白人だから「赤ら顔」でしょ?で、我々日本人に比べたら鼻が圧倒的に高いわけですよ。ほら…ね?インド人、インド・アーリア系ですから、「デフォルメ」でしょ?また人のこと疑ってますね(笑)?福岡県は同じようにあっちの、前原の雷山の千如寺(せんにょじ)辺りには「清賀上人」(せいがしょうにん)ていうね、やっぱインドから来られたお坊さんの話がありますよね? これは2世紀の頃の話です。だから、もう一つ大事なことはですね、海を隔てた向こう側、釜山の近くですね、えーっとあれは「首露王」(しゅろおう)でしたか?首露王のお妃というのはやっぱり「インド」から来たお姫様ですよね?有名なお話ですね。この前ワールドカップ、サッカーやった時に、あの釜山の会場ではそのお妃がインドからやって来たというのをやってましたね。一生懸命。何か1時間か2時間くらいのイベントで。 僕、アホですから観てましたね。「あー、釜山の人みんな信用してるんだ」てな感じで(笑)。やっぱ、インドからお妃やって来たということ、向こうの人疑ってないですね。日本人だけですよ、インドからやって来たっていうの信じてないの。福岡県には証拠がいっぱいあるんですね。その清賀上人が日本で初めてツバキ油(*訂正済)を作ったから「油山」(あぶらやま)っち言うんでしょ?…どうしてコミュニケーション取れないんでしょう?… そうですよね?油山って清賀上人が初めてツバキ油(*訂正済)作ったから、「油山」ですよね?大丈夫ですよね?ほら、インド人のやっぱり形跡あるじゃないですか?英彦山にインド人入っててもおかしくないんです。そういったことで「ガルーダ神」と「烏・八咫烏」というのをくっ付けてるわけなんですがね。この山岳民族らしいんです、はい。 さぁ、そこでその求菩提山にとにかく神武は入ったみたいです。先程の吉野も行きました。国樔も行きました。その後に英彦山方面、求菩提山方面にやって来ます。で、この求菩提山の所で縁起というのがありましてね。そこのページ開いてあるんですよ。この時に神武天皇さんの故事が、ちょうどそこに書いてありましてね。その神武天皇さんがやって来て、この求菩提の山のことを「人皇嶽」(にんのうだけ)と言うようになったっち言うんです。(*省略) 彼が来てから人皇嶽と呼ばれたわけですが、それ以前は「狭野嶽」(さのだけ)って言ったんです。この日本書紀にこの「狭野」が出てくるんですよね?で、神武の若い時の名前が「狭野尊」(さののみこと)でしょ?「狭野」、ここにあったんです。これ、「狭野嶽→人皇嶽→後に求菩提山」です。はい、3つ比定しました。日本書紀中の「狭野嶽」、「狭野」。それから神武が来てから「人皇嶽」。(*省略) この『求菩提山縁起』に神武がですね、「威奴(いぬ)の邪神を撥(はら)った」という記録があるんです。それで「九州を政(おさ)めた」って書いてある。「威奴の邪神」です。字がまた面白いんですね。これですよね?「威奴」の邪神、「威奴国」(いぬこく)です。あの例の金印で有名な「漢委奴国」(かんのいぬこく)の「威奴」です。これがですね、神武天皇の時に、この八咫烏が加勢してくれたわけですよね? この邪馬台国を彼が始めたということに私してあるんですが、その邪馬台国を神功さんが滅ぼした後、この一族はかわいそうなことに「鬼」に貶められるんですね。それでみなさんはご存知のように、私はここで「天狗」という、これをやっと抜き出したわけですね。これ「狗」、漢和辞典引くと、これも「いぬ」です。「あまのいぬ族」(天狗族=天威奴族=天委奴族=天倭奴族)です。これ、ニギハヤヒの国の一族だった。そういったことが見えるわけなんでありますね。 そして、ここの威奴の一族が継体天皇の時ですね、継体天皇の時に「鬼」に貶められます。これが「鬼」になっちゃいます。その鬼のいた場所こそが、「威奴岳/威奴嶽」(いぬがたけ)です。そう書いてあります。『求菩提山縁起』に。そこの地図、「犬ヶ岳」があります。どうぞ。はい、求菩提山の近く見てください。「犬ヶ岳」ありますね?そうです、ワンちゃんの「犬ヶ岳」です。 だから、この多分、八咫烏一族が神武天皇助けたわけですから、神武が国を創った時に「褒美」貰うわけですよね?褒美貰うわけです。その八咫烏に関係してですね、その『鞍手郡誌』の中にですね、「烏尾峠」(からすおとうげ)というのが出てきます。『鞍手郡誌』にですよ。そのすぐ前に「鳥居」という地名が、福岡県の烏尾峠のすぐ近くにあります。この鳥居の「鳥」と、この烏尾峠の「烏」、これは共に「八咫烏」だっていうわけです。 これで、この福岡県下において「鳥」と言ったら「烏」なんだということがわかった瞬間に、「飛ぶ鳥の明日香」を見つけちゃったわけです。飛ぶ鳥の「鳥」というのは、「烏」です。つまり、烏が飛ぶが様に山岳を駆け巡ったから、「飛ぶ鳥」っち言うんですね。八咫烏は元々、この求菩提山にいたわけです。それで神武東征に加勢したから、「褒美」を貰うわけです。当時の褒美と言ったら「お金」じゃありません、「領地」です。 その領地の一番端っこが多分、「烏尾峠」なんだろうなって考えてるわけです。地名の謂れを解いたのは私が初めてです。「烏尾峠って多分これ、八咫烏が貰った領地の端っこだよ」って言ったんです。だから、その間に「飛ぶ鳥の明日香」があるはずだって言ったんです。それを『古今和歌集』の、
世の中は なにか常なる あすか河 きのふの淵ぞ けふは瀬になる
という歌から発見したわけですね。
また、歌からです。国語の時間にはこれ、「単なる無常観、頭の中で考えた歌だ」って言われてたんです。でも『古今和歌集』の「古」(いにしへ)の部分にある限りには、『万葉集』と同じで「目の前に起きた事実を詠っているはずだ」という、この素朴な考え方から、「そんなことが起きる川があるのかいな?」と。「奈良県にはない。じゃあ、この「飛鳥川」ってどこにあるんだ?」と。 「昨日の深い淵が、一夜明けたら、今日は浅瀬になっている。そんなことが現実に起こるんかいな?」と。まぁ、これを真面目に考え抜いてですね、それでお仲間のですね、高見大地さんというリモートセンシング得意な科学者と一緒にですね、カナダで17年間、人工衛星から地球の写真を撮って、その写真を分析してたという人ですがね。この人と一緒にやったわけなんでありますね。そうしたら、また見つかっちゃったんですよ。 そこの所、「赤村」の所ですね、「犀川」(さいがわ)という川流れてるんです。折れ曲がってから先、「今川」っち言う。本来は香春岳の麓まで流れていたんですがね。先程言いました神武が都を置いた所まで、本来この川は真っすぐ流れてたんです。今は「御禊川」(みそぎがわ)になっちゃいましたけどね、非常に小っちゃな流れになっちゃいました。本当は、堂々と流れてたんです。 だから神武記の、『古事記』の方の終わりで、當藝志美美命(たぎしみみのみこと)が綏靖なんか、あるいは神八井耳命(かむやいみみのみこと)なんかを殺そうとしたということで、お母さんの伊須気余理比売(いすけよりひめ)が 狭井河(さいがわ)よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす と歌を詠うんですよね?あの歌で、「狭井河」と「香春岳」は近いってこと言ってたんですが、実は距離があったんですよ。
「ちょっと不安だな…」ということを、向こうの会で漏らしたら、「福永さん、福永さん」て。「こう、川が実は折れ曲がったのよ」と。「地理の世界でいう「河川争奪」(かせんそうだつ)という非常に珍しい事象が起きた川なんだよ」って言ってくれたわけです。だから、ある日ある時、ここで、ものすごく「大規模な土砂崩れ」が起きた。そうです。「一夜で埋まっちゃう」んです。これだけ有名な川なんです。 ところが、赤村は「これは有史以前のお話だろう」って言ったんです。だから、私たちは神武記を追いかけて、この歌を追いかけたら、「どう考えても神武天皇から古今和歌集の間に起きてる自然現象だよ」と。「そここそが、この古今和歌集に詠われた<世の中はなにか常なるあすか河きのふの淵ぞけふは瀬になる>という場所だよ」って言ったんです。また、失われた地名を戻したんです。
飛ぶ鳥の明日香、「飛鳥」と書く飛鳥川、ここです。はい、また地名です。失われた「明日香」の里、ここです。「赤村」です。で、折れ曲がってしまったから、「今川」っち言うんですよね?地元の人。だからかつて、「みやこ町」になる以前はここ「犀川町」っていうのありましたよね?あの「犀川」です。これが古事記に詠われた「狭井川」です。だから大物主の娘も、ここ出身です。狭井川の畔ですから。 これもだから、全部「東の大和」というのが、全部こっちの「コピー」なんですね。天武天皇か、いつの時か知りませんけど、みんな天皇から文武百官、庶民に至るまで、みんな「大引っ越し」やっちゃったんです。大引っ越しやって向こうの、本来とは違う所に、自分たちがかつて住んでいた所の名前、全部移しちゃった。向こうにしかし、天皇家が移ってしまったから、いつの頃か、段々段々こっちの地名が削られていったんです。 今日の削られた地名を、また復元しようっち言うんですから、私もねぇ、やっぱ酔狂ですね。一生懸命頑張って、ジワジワジワジワ、こう、細い糸を手繰るようにして、何とか太いロープにして、「いや間違いなくここは、飛ぶ鳥の明日香だ!」とか(笑)。苦労しますよね。古田さんが出してる明日香なんて、ちっぽけでしょう?何か、どっかの土地の端っこの、変なヒョヒョヒョとした、「何が飛ぶ鳥の明日香だ?」っち。
こっち。だから「八咫烏」が背景になかったら、ダメですよ。彼らが貰った領地こそが、「飛ぶ鳥の明日香」なんです。さっき、みなさん、僕が「ガルーダ神の名残だ」って言ったら笑われましたけどね。ガルーダ神ってどんな神かご存知ですか?
あのヴェーダ神、太陽神を背負って飛ぶ鳥の神ですよ。日本で「烏」って言ったら、どんな鳥ですか?熊野さんに見られるように、日本のサッカーチーム付けてるように、何ですか、日本の「烏」って?「3本足」。太陽の神、その物ですよ。太陽の使いですよ。だから、明るい日、「明日香」なんでしょ?飛ぶ鳥の明日香なんでしょ?「烏」、関係してますでしょ?これでやっと枕詞と、それが導き出す言葉の関係、わかりましたでしょ? 「飛ぶ鳥の明日香」。これ日本で初めてですよ?都立高校の教員が言ったんですけど。全部、言い当てたんです。「鳥は、烏だよ」と。烏ってまた、「明け烏」っち言うんです。「鶏」じゃないですよ、昔は。夜明けを告げるのは、「烏」ですよ。だって、「お日様の神」なんですもん。そりゃあ、夜明け告げるのは「烏」に決まってるやないですか?あれ「鶏」って言ったのは、ずっと後ですよ。だから、「鶏が鳴く東」ってのわかったんですよ。 次に、烏の鳴き声なんです。「カァー」って思ってるでしょ?ただ中国語だと、これみんな「アァー」なんです。烏は。「雅」っていう字も、あれ実は「烏」っていう字なんです。「雅」、「唖」が使われる。中国人はあれ「アァー」って聴くんです。だから口偏に亜細亜の「亜」と書いて、烏の鳴き声なんです。ということは、ここ、飛ぶ鳥の明日香という所には、インド人だけじゃなくて、「中国人」もいたわけです。また、みなさん疑ってるでしょう?
「アァー」と聴く人たちがいたから、飛ぶ鳥の「アァー」という音と、「明るい日」という意味と、「音」と「意味」と両方から導き出すんですよ。これで失われた明日香の土地を復元したんですよ。出来たでしょ?だから、東北の方で「鶏が鳴く東(アァーずま)」なんですよ。その「鶏」という所に、「ニワトリ」って書いたから騙された。やっぱり「烏」だった。「鶏が鳴く=烏が鳴く東(アァずま)」なんです。また、人のこと馬鹿にして(笑)。
間違いありませんて。これでだから、東北の歴史と倭国の歴史が、いっぺんに解けたでしょ?全部「烏」だった。「八咫烏」だったんですよ。だから、神武さんのお話を「架空」にしちゃダメなんです。福岡県には、その地名が全部あったんです。さぁ、その所ですからね、(*省略)それで、求菩提山ですね、これからですね、彦山川をドンドンドンドンね、下って行きます。北に行きます。途中の「添田町」、これもわかりました。 そこにある「岩石山」(がんじゃくざん)、これ別名が「曾褒里」(そほり)の山っち言うんです。だから、この添田町が神武紀に出てくる「層富縣」(そほのあがた)です。はい、これも復元しました。「層富県」です、ここが。だって、「岩石山=曾褒里山」って言ったんですから。これ、英彦山の案内に書いてありました。ある日、英彦山の山の上に出かけましてね、腹が減ったから、どっかお店に入ったんですよ。 そこに添田町の観光案内がありましてね。パーッと写真集見て、それで岩石山の所見たら、「昔は曾褒里山と呼んでた」、「ハァ??」っちな感じで。簡単でしたね。層富縣、出ちゃいましたよ。はい、層富県です。「添田町」です。だからこれ、「曾褒里の町」だったんです。「曾褒里の里」だったんです。こんなこともわかって来ちゃったんですね。はい、それからですね、『鞍手郡誌』に出てくる地名はいっぱいありますが、もう「香春」はおわかりになりましたね?先程の所ですね。
この香春で戦った後にですね、えっと、ここの「勾金」(まがりかね)がありますね?途中に。52号線の字の所です。はい、「勾金」、これが安閑天皇の「勾金宮」ってことは、前から言われてます。私もそう思います。「勾金宮」です。安閑天皇、ここのどっかにいらっしゃいました。勾金宮です。はい、それからですね、これをですね、今度はずっーとまた元に戻って来ましてですね、南下しましてですね、今度は嘉麻川(かまがわ)水系の方に出ちゃいますね。 それで、山田市の所になるでしょうか、(*省略)はい、「馬見」(うまみ)。これも『鞍手郡誌』、つまり射手引神社の所に出てきます。「馬見」は神武天皇がここで献上された馬を見たから、「馬見」と云うんだそうです。地名説話です。神武天皇に関係してました。それからですね、この後、飯塚の方に行きまして、この途中に「足白」(あしじろ)という所があるはずなんですがね、足が白い「足白」。 「駒主命」(こまぬしのみこと)ですか、駒主命に献上された馬の足が白かったんで、「足白」と名付けたって言うんですね。(*省略)「足白」という地名もこの時、神武が受けた、頂いた馬の名前から来てますね。そういったことで、更に飯塚に入ります。先程言いましたように、「天磐盾」と日本書紀に出てきます所が、これが「立岩」です。その立岩の遺跡のすぐそばに、先程言った「熊野」という地名がありました。そこの「川島」の近くにありますね。 それから「鯰田」(なまずた)がありますね。これも全部、神武天皇に関わる所ですね。それからですね、これは私この前、気付かなかったんですが、200号線の所、「目尾」。目の尾と書いて「しゃかのお」と読みますね。これもあの鞍手郡誌、つまり射手引神社社伝に出てきますが、一番面白いのが「勝負谷」です。あるいは「勝負坂」ですね。これ日本書紀に出てきます、「勝負坂」。今でもあります。ある公園のすぐ下の道です。今でも車道になってます。 そこで「兄磯城」(えしき)ですか?「磯城彦」ですか?彼と戦って勝った場所がここだって書いてる。だから、神武天皇が東征した場所っていうのが、こっちではどんな戦があったかという事と一緒に全部書いてあるんですね。だからほとんど、この筑豊の地名が神武天皇の東征に関わってですね、あちこち出てくるわけなんですね。それから後はですね、飯塚から越えて、鯰田もさっき言いましたね。これも、その 射手引神社に全部出てきます。 それで、ずーっと上って行って頂いて、「長髄彦」がいたという場所が、「鳥見」と書いてありますね。「鳥見野」。これがですね、直方(のおがた)の「頓野」(とんの)なんですけど、(*省略)「頓野」という地名がありますね?これが日本書紀に出てくる「鳥見野」です。ここで最後、倭奴国の敵をやっつけて、神武は天下を統一することになってまいります。それからですね、これは神武とは直接関係なかったんですが、後の倭建命と関係しまして、これからですね、その頓野から5cm程、北に行ってください。 「笹田」(ささだ)という地名がありますね?「笹田」。ここに、『香月文書』(かつきもんじょ)にですね、倭建命から「香月君」(かつきのきみ)という名称を貰ったという豪族がおります。その豪族の名前こそが、実は「小狭田彦」(おさだひこ)って言われるんですが、実は「ささだひこ」です。これが江戸末期、(*省略)貝原益軒の養子か何かあたりが書いたのが『香月文書』なんですが、その香月文書の中に出てきますね、「小狭田彦」(ささだひこ)です。これ、「笹田=小狭田」の地です。 これもだから、古代史と深く関わります。その更にもうちょっと行った所に「香月」がありますね。この「香月」がですね、みなさんたち多分信用できないと思われますけど、これが「葛城」(かつらき)です。これ「かつらぎ」です。だから、ここに「葛城山」ってあります、本当に。その「葛城」のことを、地元の人はやっぱ「かつき」って言ってたみたいですよ。だから「香月君」です。「かつらぎ」という読み方は、やっぱりこの土地の名前が忘れられた結果みたいですね。 だから、みなさん古代史読まれる時に「かつらぎ、かつらぎ」って言ってますけど、意外と「かつき」が正しいのかも知れません。福岡県の伝承からいきますと。そういったことが見えてまいります。それからですね、神武さんはここで、完全に相手をやっつけて、それで筑紫に帰って行きますね。その途中にあるのが、これが私の生まれ故郷にあります所の「笠置山」(かさぎやま)ですね。「笠置山」。 (*省略)これがあの天神ニギハヤヒが降臨した場所ですね。みなさん、よくご存知のちょうど「天孫降臨の詔勅」といわれるところの、<此地は韓国(からくに)に向ひ笠紗の御前(みさき)にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地>とありますね。これがひょっとして笠置山の頂上で、ニギハヤヒノミコトが読み上げたのが、それじゃないか?と思われるんですね。 ニニギノミコトは明らかに博多湾岸の方に入ってるわけですから、ここであの宣言をしたのは、やっぱりニギハヤヒと考えるべきでしょうね。「笠紗」の地名というのが、ちょっと「?」ですが、これもこれから解いていきたい所です。多分、「笠置」のことでしょう。この笠置の山頂だったら間違いなく、<韓国にま来通り~>ということになっちゃいますね。この場所だと思います。これ「天神降臨」ですね。 ニギハヤヒのことを一番長ったらしくは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)とか言いますね。このニギハヤヒが降った場所が、これが垂仁16年ですから、紀元前14年ということが「天照宮」の伝承でわかっております。「天照宮」、ちょっと探しといてください。天照宮ありますね、笠置山から、北東に行った所ですね、(*省略)天照宮とあります。 この天照宮の一番最初のお宮さんは、笠置山山頂にあったんです。この笠置山のすぐ下の所、ここに千石(せんごく)キャンプ場があります。この「千石」の場所が、私が「熟田津」(にぎたづ)の歌で探し出した、「伊予の村」です。ここから鞍手郡の、鞍手町にかけて、この辺りが「伊予」です。「伊豫」です。例の「上宮法王」(聖徳太子)が湯浴みに来たという、「伊予の石湯」(いはゆ)という所ですね。 それがこの「千石峡」じゃないか?ということを言ったわけなんですね。(*省略)間違いないのは伊予「村」なんです、これ。伊予の「国」じゃないんです。だから、上宮法王の時代に伊予の「国」と伊予の「村」を、法王ともあろう人が間違えるわけがないですよね?「国」と「村」じゃ、単位が違いすぎますよね?温泉碑からいけば、伊予の村はこっちのはずなんです。だから、もっと大事なことは天武天皇の時に地震がありまして、大地震が、「筑紫大地震」が。 あれで伊予の湯は「止まった」って書いてある。松山の道後温泉、今でもジャカジャカ「湧いている」じゃないですか?こっちは「止まった」んです。だけど、土地の人に聞いたら、ここから地下水を汲み上げて沸かすと、お肌ツルツル、冬も湯冷めしない、ポカポカだと言ってますね。だからこれ、昔の温泉です。千石キャンプ場作った時に、ボーリングやって井戸掘ったんですよ。臭くて飲めなかったって。 だから今でも、この千石キャンプ場の水は上から引くんです。川から。それも全部、調査して回りました。あの下、この下のすぐ下に「所田」(ところだ)という所がありましてね。そこに今でも温泉湧いてるんです。だから、この水系に温泉あります。(*省略)はい、「所田温泉」です。これと同じ水系に、「千石」ありますんで、間違いなくかつては温泉が出てたと思います。天武天皇の頃まで。そういったことが確認されました。
それから後はですね、みなさんに教えておきたい所と言いますと、「熟田津」でしょうね。 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (万8)
というのが、鞍手町の「新北」(にぎた)ですね。鞍手町に行きまして、「中山」という所がありますね。「中山」の近くに「新北」があるはずですね。ありましたね。中山から西南に行ってください。「新」しい「北」と書いてあります。これが「熟田津=新北津」だろうということを言ったわけですね。 https://gyazo.com/bf1a837a9fb20b1da91a4f376efd7d89
ここがだから、かつての「淡海」、「古遠賀湾」であって、「熟田津」というのは、ここがかつて「津」であった時という話をしたわけです。昭和38年に九州大学の当時、山崎光夫さん、助教授だった方が、この辺り一帯をボーリング調査されて、先程別の図にあったような「古遠賀湾」という海が、「淡海」が見えたわけなんですね。そこにやっぱり、「新北」がありますね?それから今はまだ発表してませんけども、みなさんにお教えしておきますと、その新北のすぐ南に「長谷」(はせ)があります。 これが多分、「長谷の初瀬」だと思われます。これ、「九州の初瀬」です。ここにはやっぱり「長谷寺」がありまして、日本三大長谷寺の一つです。何で、鞍手の土地に日本の「三大長谷寺」、「長谷観音」があるんですか?京都にある長谷寺と同じ木から作られた仏像があるんですよ?高村光雲(物部世真古.icon訂正済)がかつて、「国宝」に指定したやつですよ?その平安仏が、今尚ここに祀られていますね。保存が良くなかったんで、今、重要文化財に落ちちゃいましたけど。あるんです、長谷寺。 ここのご住職に伺ったら、やっぱり「新北の所まで船で運んで来て、それで、こっから揚げたんだ」って簡単におっしゃいますね。3㎞先の所まで、「西川」って言うんですけど、「ボラが上ってくるんだ」と。これは昔、海だったんですね。だから、ボラ上がってくるんですね。そういう場所で、ここからですね、これがですね、私の方では魏志倭人伝の「伊都国」(いつこく)の津。つまり、帯方郡の遣いが、ここまでやって来るんです。 こっから先は、倭国の家来たちが女王の所まで行って、奏上して、また返書を貰って、ここへ帰って来て、こっから帯方郡の遣いは帰って行ったということが読み取れるわけですね。これが卑弥呼さんの時代です。神功皇后が120年後に、ここにやって来て、ここを出発して、それで末羅縣の「勝門比売」(かちとひめ)という女酋長をやっつけに出かけて行った場所が、ここだろうと思われます。 『日本書紀』の神功紀に出てきますね。それともう一つ面白いのは、この長谷の隣見てください。ここに「八尋」(やひろ)があります。これはもっと遡って、笑われるからどうしようかなぁ?と思うんですが(笑)、イザナギノミコトの「八尋殿」だと思われます。イザナギノミコトの隠居処です。イザナギの「いざな」っていうのは、「鯨魚」(いさな)だっていう可能性ありますでしょ?やっぱり、「鯨取り」に関する神様ですよね?「海の神様」ですよね? さっき言ったように、<鯨魚取り淡海~>でしょ?その「淡海」の可能性が、「ここ」(古遠賀湾)と「行橋」くらいしかない時に、丁度イザナギノミコトというのは、直方の「日若神社」、今何て言うんでしたっけ?今、「日若宮」っていうのは別の名前ですよね?あ、「多賀神社」です。「多賀神社」にちゃんと祀られてますね?イザナギノミコト。で、あの、はっきり言います、琵琶湖の畔の方は、「日若宮」という別名がありません。 だから、「多賀」に隠居したという話が『古事記』にはありまして、その「多賀宮」っていうのは、ここだと思われます。この近辺、だから、神話の時代から「濃厚な場所」なんです。ニギハヤヒも降臨した、その前にイザナギノミコトも隠居してらっしゃった、八尋殿もあった。その地名がここにもう、みんな密集してるんですね。神功皇后も、ここ出発した。すごい所ですよ。魏志倭人伝に書かれた伊都国の津も、ここらしいんです。 だから、この「淡海の概念」が、もうすっかり忘れられていたから、日本の古代史全部間違っちゃったわけなんですね。それでヤマトタケルノミコトの時代にも、ここの鞍手郡の「中山」という所、さっきもありましたよね?この「中山」に、ヤマトタケルノミコトが登られて国見をされたという伝承が、ちゃんと中山に残っているわけです。その中山の頂上にやっぱり「剣神社」があるわけです。「八剱神社」(やつるぎじんじゃ)があるわけです。 あの有名な例の「草薙劒」というのも、実はこの近くの「八剱神社」に元々祀られていた可能性が高いということが、そこの神社の伝承に、ちゃんと残ってるんですね。あの有名なお話、新羅の連中が、その草薙剣をあろうことか、ずっーと向こうの尾張宮から盗み出して、新羅に持ち帰ろうとしたけど、ここで雷がドシャーンと落ちたんで、もう肝っ玉ひしゃげて、ここに置いて行ったという伝承があるんですね。何で、ここに置いて行くんですか?草薙大刀を? 元々、「草薙剣」もここにあったんです。そういう濃密な神話から歴史時代の場所なんです。それをあろうことか、神功さんから前は「架空」だってやっちゃうから、みんな九州にあった「事実」を、みんな「消そう」とするのが今の日本史の「教科書」、それから「歴史学会」なんですよ。だから、福岡県に残る「地名」、あるいは私が今、発掘している「失われた地名」、それが全部『日本書紀』と「対応」するんです。実は。
だから、みなさんの地名研究会の使命は大きいんですよ。私以上に、地元の方が探し出してもらいたいわけです。その気になったら、『日本書紀』と対応する地名がいくらでも見つかる可能性があるんです。『日本書紀』を丹念に読み直す。歌をとにかく切り離した時にそれは出てくるわけですね。もう一つ、最後に確認したいのがですね、(*省略)もう一つ面白かったのはですね、崇神天皇紀、ここにあの例の有名な「箸墓」(はしはか)を作る時の歌っていうのがあります。 大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手遞傳(たごし)に越さば 越しかてむかも という有名な歌がありますね?この歌も、本文と切り離したら、歌の意味全然違うんです。その少し前を読みますと、とにかく、この<倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)、大物主神の妻(みめ)と為る>とありますでしょ?大物主神というのは、さっき言ったように香春の一ノ岳の可能性が高いわけですから、ここに座ます神ですから当然、倭迹迹日百襲姫命というのも、ひょっとしたら、こっちいたかも知れませんね。 それから、<仍(よ)りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山に登ります>、これが三輪山です。三輪山に登るわけですね。ここで亡くなるわけです。それで、とにかくその墓を名付けて「箸墓」というんだとありますね。問題、次です。<是の墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る>とありますね。<則ち山より墓(みはか)に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手遞傳にして運ぶ>とあります。 はい、みなさん。歌ともう一回比べてください。それから、奈良県と大阪の地形、思い出してください。ここに書いてある通り、箸墓は大坂山の石を運んで来ます。登りますか?下りますか?…問題それだけです。登りますか?下りますか?奈良県の逢坂、山から奈良の盆地、箸墓まで登りますか?下りますか?「下る」んです。歌見てください。<大坂に継ぎ「登」れる~>。記紀歌謡の学者たちが何度も言ってきました。 「これ方向合わないよ?」、「下ってくるじゃないか?」と。だから、先程言いました様に、『万葉集』と同じ様に、地の文と歌は切り離さなきゃダメです。すると、この福岡の土地には「大坂」ちゃんとあります。香春の方です。「大坂山」あります。その脇に「逢坂」という坂、あります。昔の、古代の道です。ちょっと探してみましょう。「大坂山=飯岳山(*訂正済)」ですね。香春の里から少し下った所で、はい、ありますね。「飯岳山」(大坂山)ってありますね。 ここなんです。で、<石群を手遞傳に越さば越しかてむかも>とありますね。また古典文法出ます。これは非常に大きな石を運んだらしいんです。しかも尾根道登って行くんです。大変な作業です。ピラミッド作りみたいです。で、人々苦しかった。だから、「反実仮想」の歌作った。「手伝いに渡すことが出来たらなぁ…それこそ、一メートル四方か何かの立方体の大岩を、ひょいひょいと手渡し出来たらなぁ…」
実は出来ないんです。血と汗と涙の話なんです。じゃあ、この「大坂」から、その大きな石を登せて行って作るのは一体何ですか?…「御所ヶ谷神籠石」です。「御所ヶ谷神籠石」です。じゃあ、「御所ヶ谷神籠石」は、いつ出来たんですか?崇神天皇紀です。2世紀、3世紀の可能性がある。だから僕、古田さんと大喧嘩するんです。 「何が6世紀に出来ちょるか?」ちな感じ。「歌にあろうもん!」ちゅうな感じで。卑弥呼さんと同じ時代の頃に出来てるんです、これ。歌が証明します。そういうこと言い続けてクビになっちゃったわけですがね(笑)。(*省略)後はね一つだけ、この前の会で皆さんにお話ししたのは、「神武が西暦121年、即位して邪馬台国始めましたよ」と、「その前の倭奴国滅ぼしましたよ」と、こういう話をしまして、もう一つ一番話題になっている桓霊の間の「倭国大乱」ですね。 それから『梁書』では、<霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年>とあります。「神武は筑豊に東征した」を書いた時には、まだその確信が取れなかったんですがね。もう、あの室伏ちゃんが「はよ書け、はよ書け」ってうるさいから、「今回間に合わんから、俺ほっといて出せ」っち言うんですけどね、「いやダメだ!」っち言うとる。しょうがないから出したのが6号なんですよ。その時に、これ実はやろうとしてたんです。 この「倭国の大乱」こそが、『日本書紀』の「崇神天皇紀の乱」じゃないかと。これがですね、もうそこ、年号だけ見てください。崇神天皇の5年6年の頃からとにかく、背く者、「反乱」が起きるわけです。これが治まるのが11年なんです。もうそれだけです。ここに正直言って、また歌が面白いんですね。また一つだけ読んでおきましょうか。歌の面白いのはですね、これですね。 <此の神酒(みき)は我が神酒ならず倭成す大物主の醸(か)みし神酒幾久幾久>って書いてあるじゃないですか?有名なお話です。大田田根子探し出して、大物主の神の末裔探し出して、祀らした。祀らしてやっと、乱が治まったんでしょ?だから、倭国大乱で乱をやってる連中、何者ですか?大物主神を祀らないと、納得しなかった連中って何者ですか?これ、初めて言いました。「筑紫物部氏」です。 本来は天皇の直属軍隊、これが反乱を起こしてるんです。治まるわけがないんです。それぞれが大物主神を祀ったから、やっと物部が治まったっち言うんです。海の外まで治まったって書いてある。この6年から11年の間、『梁書』の方見てみましょう。はい、霊帝の光和中だとしますと、178年から184年。大体この年数に合いますね。これもありがたいことに、我が国で初めてです。「倭国の乱、ここですよ」と。
逆に言えば、崇神天皇の5年、6年、11年。1年程度の誤差で、西暦がピタッと出てくるわけです。久留米大学の講演会でも正直、言っちゃいました。何せ室伏君は、私の説を知っておきながら、「私は神武の即位は181年だと思う」なんて平気で言うわけですね。「したい」って。「「したい」じゃ困るんだ」と。「じゃあ、倭国の大乱どうなるんだよ」と。そこまで書けなかったのは私が悪いかも知れませんけどね。
平気で干支60年ズラしちゃうんですね、あの男はね。「どこにそんな記録あるんだ?」と。人が一生懸命ね、その60年のズレがあるかも知れないから、前の60年、後ろの60年、人が確認しながら、一生懸命、文献を通してやってるのにね。向こうはただ単に「いや、私は神武の即位は181年としたい」と。「それが倭国の大乱になったんだ」。「おい、嘘こけ」っちな感じで(笑)。今日、はっきり言います。もうこれからは室伏とも大喧嘩です。
間違いないです。崇神天皇紀こそが、「倭国の大乱」です。年数ピッタリ合ってます。だから、「中国史書も正しい」。それから私が言いますよ、「古事記も正しい」、「日本書紀も正しい」。どちらがより正しいか?『日本書紀』が正しい。『古事記』が一番、嘘。なぜかというと、あれこそが、さっきの明治憲法にあるように、「万世一系」ということを頭に置いて作った史書だからです。あれは系図なんです。 諸々の神々、諸々の天皇の系譜を、全部「一本化」しようとした。あれが一番、「改竄の書」なんです。『日本書紀』はそれに対して、「一書に曰はく、一書に曰はく」って神代に書いてあるように、全ての諸家のもたらす『帝紀』が全部、書いてあるんです。だから、部分部分は全部、正しい。そして、今言ったように、歌と地の文も別けて考えさえすれば、歌は正しい。その歌から何かを追求していくと、こっちの「西の倭の国」というのが、どんどん浮かび上がってくる。 すると、上代史が今まで言われてたのと違って、全部根本からひっくり返って、全部この福岡県の東から西までの間に起こった大事件ばっかりだったという事。だから福岡県は悲しいかな、「権力の中心地」だったから、もう繰り返し巻き返し、王権奪取の戦に次ぐ戦だったんですね。あるいは、血で血を洗う、あるいは肉親同士、骨肉同士が相食むという、そういう土地柄だった。だから、こっちの人間、気が荒いんです。 遠くは朝鮮半島まで出かけて行って、戦争してね、帰って来たら国内でまた権力争いでお互いね、親子兄弟が争ったかも知れない。そんな土地柄だから、みんな気が荒い。筑豊の連中もうダメ、気が荒すぎて。おとなしい私ついて行けなかった(笑)。こんな文化的な人間がね、あの炭鉱の中でね、もう僕らが小っちゃい頃、めちゃくちゃですもんね。本当に5、6歳のガキの癖して、当時「肥後守」ってあったでしょ?あのナイフ。 あれ持って、本当に切り合ったんですからね、5、6歳で。私、今でも刺された傷、ここ残ってますけどね(笑)。そういう荒っぽい土地です。これがやっぱり「倭国兵の生き残り」ですよ。倭国兵の生き残りですよ、荒っぽいんですよ。だって、部落ちょっと越えたら、もう戦争ですもん。ガキ同士で喧嘩です。それでかわいそうなことには、朝鮮から強制連行された人たちもいましたしね。
それでもう、昔、倭国内でね、その連れて来られた朝鮮のね、子弟たちとまた争うわけですよ。それでもう、朝鮮の部落通る時は、どういう目にあうかわからんて親から聞かされましたもんね。だから福岡県はね、古代から現代に至るまで、「歴史の坩堝」(るつぼ)ですよ。本当にもう、色んな人たちが集まってる。
だから、この倭の国、「本当の倭の国」で、失われた地名を私は一生懸命復元しますけども、残された地名の中から、みなさんも何か、『日本書紀』と繋がる地名をね、どんどん発見してもらったら、この研究会はやがて、日本史をひっくり返すだけの力があるんじゃないかと思いますね。期待してます。終わります。(拍手)
<完>