草薙剣
さて、神代出雲地方では、実は盛んな龍蛇崇拝があり、稲田の女神とはもともと古来から蛇で、稲田姫と大蛇との神婚(しんこん)伝承が出雲にある。インドのナーギィとマホーラガの結婚話と共通する。この蛇神信仰、あるいは伏羲と女媧が転じて、ヤマタノオロチ、クシイナダヒメとなり、出雲神話に流れ込んでいると思われる。そう考えると、いかに古くから牛と蛇の神々が日本に伝わっていたか・・・計り知れないことになる。スサノヲという名は、古事記に「須佐之男の命」と記され、出雲の須佐郷にちなんだ名前であるという。スサノヲが大蛇を斬ったときの剣(つるぎ)は十握剣(とつかのつるぎ)というが、別名を「蛇之鹿正」(おろちのあらまさ)(書紀一第二)とか、「蛇韓鋤剣」(おろちのからさひのつるぎ)(書紀一第三)、「天蠅斫剣」(あめのははきりのつるぎ)(書紀一第四)とか呼ばれている。そこで、「あめのははきりのつるぎ」は、「はは」を斬る剣ということだ。ここで、明らかになったこと。それは、「はは」は「かか」でもあり、蛇(おろち)を意味する。剣を「さひ」といい、大蛇を「はは」と言っていた。この大蛇の麁正(おろちのあらまさ)は、石上神宮に奉祀されている。(紀)この剣が、なんであれ外国製の真名剣(まなのつるぎ)である以上、スサノヲも渡来人だったのだろう。「あめのははきりのつるぎ」は「天神が大蛇を切ったつるぎ」となる。スサノヲが出雲国の簸川(ひのかわ)の上流にいた大蛇を斬ったとき、その尻尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得た。後に、伝説上の日本武尊(やまとたけるのみこと)が駿河の野原で火攻めにあったとき、この剣で草を薙ぎ払い難を逃れた。そこで、名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)に改められた。ここに、薙はインドの神名、ナーギの音写が発見される。草薙(くさなぎ)を音で分解すると、「くさ」は、種(くさ)(もと。材料。(語らひぐさのくさ))。単純に言えば、蛇を素材に作った剣の意なのである。この蛇剣をゆらゆらと振ると、降雨をもたらす効験があるはずである。ナーギ、はもともとインドのコブラの姿をとるインドの蛇神。聖なる大河ガンジス川は、シバ神の妃パールヴァティ(ウマー)の姉、ガンガー女神が天界から下降して生誕した。このときガンガー女神はナーギに姿をしていた。つまり、蛇は降雨を呼ぶ神なのである。火攻めにされたとき、草薙剣を振ると、たちまち雨が落ちてきた。こうして日本武尊(倭建命)は難を逃れた。宇陀の戦いの後、この剣は邇芸速日命 の子、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)(事代主)から、武御雷神に渡り、瓊々杵命(大国御魂)に献上され、しばらく宮中にあったが、天照大神を伊勢に遷し祀ったとき、この草薙剣もどうじに伊勢に移った。この剣は、伝説の倭建命(ヤマトタケルノミコト)に授けられ、最後には尾張の熱田神宮に奉祀されている。三種の神器の一つとして、よく知られている。 呉越同舟の越=遠賀川流域、イザナギの遠賀郡水巻多賀山、立屋敷遺跡、遠賀郡岡垣・高倉神社=草薙剣8本コピー伝承、遠賀鞍手の八剣神社群、鞍手遠賀=クラオカミ=竜神、ヤマトタケル伝承、熱田、新北、ニギ、ナギ、ナーガ、ナーギィ、ナガスネヒコ、イザナギ、「草薙」の「なぎ」は「草を薙ぐ」ではなく、もしかして蛇竜=ヤマタノオロチのナーガ、ナーギィの意味かも知れない。金印の蛇鈕は中国南部の民族。遠賀水巻=稲作文化の発祥地、田んぼ、蛇。 仲哀天皇の正統の後継者である忍熊王が、神功軍・武内宿禰に追い詰められ、草薙剣と共に淡海に入水されたこと、安徳天皇が源氏軍に追い詰められ、壇ノ浦で草薙剣と共に入水されたことは、何か因縁めいたものを感じる。