遠賀川流域
高島さんは嘉麻市の鎌田原遺跡に触れ、「甕棺(かめかん)は立岩遺跡との共通性がある。遠賀川を通じていろんな人たちが入り込んできた場所と考えていいのでは」と話した。また、邪馬台国と遠賀川流域の古代史の関係が深いことを主張し、「遠賀川流域の歴史、古代史をあらためて見直すことは日本の国の成り立ちを考える上で重要なこと」と語った。~「筑豊は古代に関わる宝物を持っている地域。誇れるものを再度磨き上げて、発信していきたい」と話した。~遠賀川流域に六つの「国」 遠賀川河口域はかつて大きな入り江だった。1300年前の風土記には、外海を航行する船も入ってきたとの記述があり、「古遠賀湾」は交易を行う港としても恵まれた場所。山から流れてくる水で外海に比べると塩分が少ない潟湖(せきこ)ともいえ、流域は初期の稲作に適した地域だった。遠賀川沿いには朝鮮半島から渡来してきた人たちが多く来ていて、旧穂波郡(飯塚市)には中国に由来する姓が今も残っている。渡来人により稲作が発達し、地域を治める豪族も成長した。河川上流の才田・下原遺跡(嘉麻市)で土器、飯塚市の遺跡でも縄文土器などが発見されている。流域は、日本列島の稲作発祥の地と言えるかもしれない。流域には、小倉から周防灘に面したキク国、旧穂波郡のホナミ国、嘉麻市域のカマ国、旧田川郡域のタカワ国など少なくとも六つの「国」が存在し、それぞれに王がいて地域社会を統括した。カマ、ホナミ、タカワは農業を基盤に古遠賀湾を港として交易を行った。~鉄製くわ普及、上流に古墳 遠賀川沿いには、弥生時代の貝塚や立岩遺跡(飯塚市)などがある。弥生時代前期の遠賀川沿いが水田に適していたと考えられるポイントは三つある。(1)木製のくわでも耕せる沖積地(2)かんがいの水源として利用できる小さな川がある(3)食料を安定供給できる干潟の沿岸にあったことだ。川沿いでは4~6世紀の古墳も見つかっているが、古墳時代前期は河口に多く、中後期になると上流へ移っていくのが特徴だ。山の河原は小石ばかりで、木製くわでは掘れない。鉄製くわが5、6世紀に普及したことで古墳の分布は上流域に集中するようになったとみられる。 =2017/03/12付 西日本新聞朝刊=