手記.2024
2/22 “アウラのために”
 わたしは生来、美術館という環境でアウラというものを感覚したことがない。資本主義の人間らしく実用性と合理性に塗れた私は、主題を知覚すること、或いは作者の死を以って理知的に解釈することのみに芸術から悦びを享受できる、とあてもなく確信していた。だが、どこかでアウラを感じることのできる者に憧れのようなものを抱いていた。
 そうした背景のなかとあるバーでバウムガルテンを読んでいたわたしは美学という語に導かれ、マスターに問うてみた。「わたしは恥ずかしながらアウラを感じたことがなく、如何にしてそれを得ることができますでしょうか」。マスターは高らかに笑いながら彼の経験則のもとに近代人的教養の有無を語ってくれた。彼によると、私の芸術の見方が少々理知的すぎるゆえ、直感的に捉えられていない。だからこそ前提知識なしに敢えて脱-文脈化することによって、芸術作品そのものを「純粋に観ること」を可能にするのではないかということだった。確かにカントは「目的なき合目的性」-≒実践的無関心-こそが美しいものの条件であるという。カントに即するならば文脈、主題、背景、のもとに芸術をみるのは、きわめて「実践的」な関心なのだ。ハイデガーの下記言明はこの意味で理解できるであろう。
対象そのものへの実質的関係は、この「関心なしに」をとおしてこそ作動する。そのとき初めて対象が純粋な対象として現前し、そして〔対象が〕このように現前にいたることが美である
 
 そう考えると、ユダヤ系ドイツ人として米国亡命を余儀なくされた、パノフスキーが理知的に芸術を見ていた(イコノロジー)ことに合点がいく。彼自身が言うように、パノフスキーの芸術理論は、アウラの術によって民衆を掌握していたナチズムに対する無意識的反抗、即ち「根本的原理の表出」なのかもしれない。
国家・時代・階級・宗教的もしくは哲学的信条などからなる基礎的態度を現す根本的原理―無意識に一個の人格によって具体化され、一個の作品のうちに凝集される―を確認することによって把握される
 だからこそ超越論的態度をもって芸術対象に臨むことが重要なのかもしれない。
2/28 “理性の光”
 あらゆるものを理性の光で照らし可視化しようとした啓蒙主義-バーバラ・スタフォード。だが照らすことによってかえって不可視になってしまうものがあった。いまも変わらずそこにあるはずの星たちが、文明の力によって闇に葬られてしまったように。
 
 「ガリレイは、発見する天才であると同時に隠蔽する天才でもある」とフッサールがいったのもおそらくその意味で理解できるのであろう。
3/9 “死と愛の受容性”
 ジョルジュ・サンドとミュッセの恋路を描いたディアーヌ・キュリス監督の映画『年下のひと』にて、ミュッセはサンドに「今が最高に幸せだから(...)一緒に死のう」という。これを聞いた時に私は、フィリップ・アリエスの飼いならされた死を想い出さずにはいられなかった。19世紀以降の終活は、死という年度末の税務申告をいかにするか、という官僚的儀式になっているといえるだろう。ただ19世紀以前の終活とは共同体的に公的な儀式であった。同時に当事者にとって現前に立ち顕れる、極めて自然的で受容的なものだった。だからこそ現代人からしてミュッセの言葉は死を軽んじているかのようにも見えるのであろう。
 こうした受容的態度はサンドの子供やミュッセに対する愛にも表れているように思える。現代の愛がパートナーという虚像に概念を付加し、その虚像を受肉させる人間を能動的に探しまわる行為とするならば、19世紀以前の愛とは受動的に差し迫ってくる愛なのであり、現前を愛でる行為だと言えるだろう。『アンナ・カレーニナ』にも言えることであろうが、当時の子供への愛情は情欲に身を焦がす恋に近しいものを感じる。いまでは潰えたアウラに魅了され惑わされるのも、そうした受動的態度こそであるのではなかろうか。
3/10 “哲学の非人称性”
 皆、幹をみていない。哲学の理論やマニフェストは単なる表象である。それゆえ主著より往復書簡、書簡より伝記、伝記より草稿にこそ本来の有り様が描かれる。
 
 その意味で、歴史家としてのフーコーは最も人称的な哲学者と言えるだろう。またその意味で、デリダが「私が好むのは、彼らが語るのを拒絶するような事柄を聞き取ることです」としてハイデガーやカントやヘーゲルの「性生活」へ関心を示していたのであろう。
5/21 “実存の肯定Ⅰ”
 父と近隣の公園を散歩していて、ふと「感謝されること」を話していた。父の話ぶりからして、彼は感謝されることに人生の意味や実存のリアリティを得ているように感じた。なぜそれが嬉しいかと問うてみると、「なにかが肯定されたような感触がある」と。その言葉がどうもわたしの思考に反響して止まなかった。そこでわたしはひとつの着想に至ったのである。
 それは「真に実存を肯定できるのは他者しかいない」のではないか、という問いである-ここでいう「肯定」とは主観的肯定であり、なぜなら他者であれば誰彼構わず実存を肯定できるといった訳はなく、当本人にとって真に肯定に値しなければ、それは肯定として機能しているとはいえないからである。
 人生には目的が外在しない。かといってカミュのように不条理を不条理として徹底的に受容できる者は幾人いるのだろうか。かといってサルトルのように自らを自らで規定しうる者は幾人いるのだろうか。ある種の諦念や強かさを必要とするそうした教義は人を宗教へといざなう。が、啓蒙主義が蔓延した現代において啓蒙以前のように真に宗教的であれる人間は幾人いるのだろうか。我々の精神に根を下ろしたカントは、宗教の完全性を妨げ、それを斥けるための逃げ道を要請する。現代人に特定の信仰を保つため、盲目的である-或いはそれを演出する-とか、プラグマティックな言い訳をしてやり過ごすなどといった経験が全くない純然たる信徒は幾人いるのだろうか。では神に無効宣告を下した啓蒙主義の軍門に降って科学的に実存を解釈すればよいのか。―人文的に風情がないといった意見をなしにしても―確かにどの方途よりも頷きはできるかもしれないが位相が異なるような気もする。ここでいう実存とは単に理知的な実存の解釈が問題なのではなく、―ラプジャードがいうように―実存のリアリティにこそ焦点をあてるべきだからだ。では世俗化された現代でイデオロギーに身を投じればいいのか。否、それは最も実存から遠い行為であろう。なぜならそれは大いなる終着点にむけて秩序立てられつつ実践していくことであり、超越論的な形而上学的問いに最も離れた地点に位置することであるからだ。
 わたしが言いたいのは、自らの条件に左右されず実存の―再びラプジャードの言葉をかりると―「弁護士」たりうるのは己でも信仰でも真理でも理念でもなく、他者なのではないかという提起である。これはそれ以外が実存の肯定に値しないという意味ではなく、他者こそが最も広範に、そして優しく実存の肯定を授けることができるのではないか、という提起である。ここでいう他者とはレヴィナスの「絶対的に他なるもの」に近しい。
彼に対して私はなにかをなす〔=権能を及ぼす〕ことができない。たとえ私が彼を意のままにできるとしても、彼は本質的な面で私の掌握から逃れる。彼は完全には私の場所のうちにあるわけではないのである
 繰り返すが、われわれに自らを自らで律することができる者が幾人いるだろうか。そうした自存的な人間以外は「カント主義の(...)解毒剤」を、つまり「形而上学的欲望」を抱くのだ。それゆえ己が支配しない外面、つまり神や真理そして他者に実存の肯定を求めるのだ。現実主義的で実践的で非自存的であるが刹那的に生をおくることができない、そういった人々は他者からの主観的肯定によってのみ実存を獲得できるのではなかろうか。
5/23 “実存の肯定Ⅱ”
 先日の実存論において、他者が最も実存を授けることができると結論づけたが、これは実践において道半ばなものであった。なぜなら人間が実存を他者に縋る機械と成り下がる可能性を含意しているからだ。他者は、現代人が実存を獲得するにおいて最も優れている対象であると同時に恒常性に欠けている。身体知はこうした実存の瞬間的な到来の好例である。フェルナンド・ペソアはそうした状況を次のように記す。
ふいに魔法のような運命がやって来て、かねてからのわたしの失明状態に手術を施し、その効果がたちまちあらわれたかのようだった。匿名の実存だったわたしは顔をあげ、じぶんがどんなふうに実存しているかをはっきり認識した(...)。ほんとうにじぶんが実存していること、 魂が現実の存在であることをはっきり感じるとき、どういう感覚を味わうのか説明するのはすごくむずかしくて、人間の言葉でどう定義していいかわからないほどだ。長いことわたしはじぶん自身にとって他人だった―生まれてからずっと、もの心がついてからずっと。そして今日、橋の真ん中で、河に向かって身をかしげながらわたしは目醒めたのだ。いままでよりたしかなしかたで存在していると悟ることによって。けれども街はよそよそしいし、通りにも馴染めないままだ。この病を治癒する薬はない。だから橋に身もたせかけながら待つのだ。真理がわたしのもとを去り、空虚で虚構に満ちたじぶん、知的な生来のじぶんにふたたび戻ることができるのを。こんな状態はほんの一瞬しか続かず、もう過去のことになった。
 では、他者以外で実存を獲得することが困難である、現実主義的で実践的で非自存的であるが刹那的に生をおくることができない人々は永遠に足掻き続けなければならないのか。瞬間的な到来の心地よさに浸かるために地を這いずる尸にならねばならないのか。或いは否が応でもカミュのようにただ空を仰がねばならないのか。それを妨げる一つが人間の原罪性―被投性と言い換えてもよい―であるようにも思える。即ちゲマインシャフトだ。ただバベルに運命づけられたかのように「人々はあらゆる結合にも関わらず、依然として分離し続ける」。そうしたありきたりな―人間本性に反する―原初への到達しえないノスタルジーが本稿の結論ではない。むしろわたしが本稿で試みたいのは園からひき裂かれたのちになお育まれる恒常的な他者との関係である。
 そこでわたしは「居る」という行為を哲学してみたい。なぜなら他者との恒常的な関係は時間であれ空間であれ居ることを前提に開始されるからである。そして行為はその行為以上のメッセージを発することを理解しなければならない。例えばバトラーは『アセンブリ』にて、迫害される可能性のある人が道を「歩く」というだけの行為で、行為遂行的にある種の政治的メッセージを発することを論じた。
歩くことは、ここはトランスジェンダーの人々が歩く公共空間である、ここは様々な形式の衣服を身にまとった人々が、どれほどジェンダー化されていようと、あるいはどの宗教を表明していようと、暴力に脅えることなく自由に移動できる公共空間である、と述べることになるのである。
 ここで「居る」ことの行為遂行的メッセージを検討するまえに「純粋他者」という概念を導入したい。例えば、ある対象に対しての純粋他者性を汚す最たる例は関係の記号化である。われわれは関係の契約や記号化を行わないことに不安を抱く。それは無制約な他者と関係を保つに最も簡易な手段であるからだ。浮遊した対象をある地点に依拠させることによって人は判断の妥当性を検証できるゆえ、そうでないものを不安視する。また返報性が生じる贈与も他者の純度を下げる行為であり、生来の移ろいやすさに枷をするのだ。他にも、純粋他者と関係を結ぶためには無目的であらねばならない。それこそ実存の肯定のために他者と関係をもつことは純度を下げる行為そのものである。こうした「純粋他者」と「居る」ことは、他者が実存肯定的メッセージを発していることを意味するのであり、それが途絶えないことにこそ恒常的な実存肯定が発されるのである。ただ未だそれだけでは実存肯定はなしえないことを思いださなければならない。真に肯定的であるには、前稿で論じたように主観的肯定であらねばならないのだ。なぜなら実存肯定的メッセージはあくまで「純粋他者」によって行為遂行的に示されるだけであり、たとえそのメッセージが主観的肯定に値せずとも無条件に負わなければならないのである。
 
 われわれは数世紀に渡って幾度なく実存を欲し否定されてきた。でもそんなわれわれの水面下では、既に、少なくなく理想の関係が築かれていたように思える。それは「純粋他者」が「居る」こと、そしてその関係が主観的肯定に値すると同時に恒常的であるような、浮遊した縫目であることである。互いのそうした関係をもって真に無限の実存を獲得できるのだ。そしてこうした在り方は、刹那的に生を送ることができない人々に対して最も開かれているのだ。
5/29 “なぜよりよい社会をつくるべきか”
 ひとは常によいこと、よいひと、よい社会であろうとしそれを志す。よいことはなぜよいことなのか。こうした自明性の原理をサドはいとも簡単につき崩す。「人間が美徳を行うのは、そこから何らかの利益を引出すため、あるいは何らかの感謝を期待するためにすぎない(...)性来の美徳(...)を実行する奴らだって、要するに自分のいちばん気に入る感情に自分の心を委ねているという以外には、別に何の価値あることをしているわけでもないのだから、やっぱり他人と同様エゴイストであることに変わりはないのだ」。サドの毒はよく廻る。世俗的な良心を蝕み、無味乾燥な肉体を自覚させる。それはキリスト教的伝統の下支えのもと、強健に聳え立つ道徳哲学を中心から鋳溶かす酸なのであり、その効果は未だなお有効である。それは道徳哲学において、ある特殊な「還元(reduction)」を可能にした。「還元」という操作についてはラプジャードのテクストを借りたい。
還元全般の重要性は、あらたな存在物の知覚を可能にする平面を創建する点にある。還元は(...)まなざしの転換をおこなうことである。(...)こうした知覚の刷新にとって障壁となるあらゆる前提、偏見、錯覚を、平面の外に追いやろうとする第一の契機がこうして生まれてくる。還元とはまず掃除という操作なのだ。見ることを妨げるものすべてを取り除き、経験野を純化させねばならない。(...)第一にプラトンは、外観に囚われているほかの人びとには見えないもの-本質の世界-を見るために、必要な転換をおこなう人物たちを描きだした。取り除かなければならないのは、感性的な外観という変わりやすい現実であり、それがイデア界の観照を妨げる障壁になるというのだ。(...)イデアが純粋形相なのは、あらゆる他性、あらゆる劣化を免れている。(...)デカルトにおける懐疑の操作は、「われ思う」の純粋な内面性の外にあるものすべてを、経験野から取り除いて純化することを可能にする。プラトンとはちがって、あらゆる他性を取り除いた純粋な同一性形式ではなく、悪意をもって侵入してこようとする外的要素すべてを取り除いた純粋な内面性形式を探し求めているのだ。同じことは現象学的還元にもいえるだろう。いったん自然主義的な前提を取り除いたうえで、「純粋内面性の心理学」としての超越論的自我論を構成しようとするのだ。ここで同じく重要なのは、こうでもしなければ見えないままであり続けるもの-生きられた経験の本質の本源的世界-を見させるための平面を描きだすことである。
 「リベルティナージュ(libertinage)」的な還元が観せた反道徳的で快楽主義的な「本源的世界」は、近代教育をうけてきた我々に対して、その独善的な響きが若干の後退りをさせる。伝統的道徳観とリベルティナージュ的自由を秤にかけたとき、後者こそが真に道徳的であると本稿では論じたい。「でも、そんな道徳を採用していた日にゃ(...)あんまり東縛がなさすぎて、何だか怖いような気がしますけど」。快楽主義の語彙から無秩序性を彷彿した者は、上記のようなジュリエットの考えと立場を同じくするだろう。そこで我々人類のすべての根源たる「生」を暴くことで、リベルティナージュへの帰着の必然性を示し次代の連帯の在り方を提起したい。
 生ほど不条理なものはない。生まれたくて生まれたものはいない。我々は無条件に生を賜った。例え、その後どれほど幸せであったとて、どれほど経済的に富んでいたとて、被投から始まるに変わりはない。こうして求めずして途端に始まった生には不可逆性という原罪が科されている。生は恣意的に始まったにもかかわらず終わるには苦しみが伴う。無から生まれたはずなのに、その故郷へ帰化することには恐怖を憶える。敢えて盲目になり刹那的に生を演じることのできる者以外は、非存在を想起し反出生主義の思弁を募らせることを理性に強いられるだろう。ここで更に悲劇的なことは反出生主義の成就が不可能性のさなかにあることだ。それは反出生主義ゆえに一世代で潰え闇に葬られ淘汰されていくことにある。ベネターは次のようにもいう。「存在してしまうことは常に害悪であるという見解はほとんどの人の直感に反する。(...)人類絶滅は害悪の総量を大いに減少させるだろうが、人類は自分から絶滅はしないだろう。残った感覚のある存在者は苦しみ続け、感覚のある存在者が存在してしまうことは以前として害悪のままで変わらない。(...)存在してしまうことは常に害悪であるという結論を、多くの人が喜んで受け入れてくれることはないだろう。多くの人が子どもを持つのを止めることも全然ありそうにない」。こうして我々は生物学的な直感だとか淘汰だとかの理に支配されていることを再認識する。他にも、我々は誰しも生を授かったときは無意味であるはずなのに、奇しくも子供を産むことには意味を見いだせてしまう。生とはこの意味で内からは止められない不可逆な連鎖を運命づけられているのである。勿論そのために我々がすべきは、親とそのまた親といった永劫遡行的な怨嗟を吐くことにもない。我々と同じように、悲劇的に生をうけた彼らが抱いた子どもを産む意義やその自由を毀損する権利など、どこにあろうか。不条理に生が始まると同時に不可逆性を背負わされた我々をさらに虐げ抑圧する道徳など道徳的であると言えるのだろうか。
 私は摂理に蹂躙されてもなお強く必要以上に道徳的であろうとし続ける愚かな人間にカント主義の(...)解毒剤を渡したい。カミュは「人生の意義(...)においては、精緻な学識にもとづく教壇的弁証法は、良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席をゆずらねばならぬことがわかる」としたが、この一説こそ反出生主義の失敗を象徴しているだろう。反出生主義の祖であるショーペンハウアー自身が「ご馳走をいっぱいならべた食卓につきながら自殺を讃美していた」ように、「人生を拒否するにいたるほどまでに自己の論理をつらぬ」けなかったのがなによりもの証拠である。重要なのは-サディアス・メッツが批判したように-直感的に「到着したくない場所へ私たちを連れてゆく論証の列車から、適切な理由でもって降りることができるのはどの地点か」を見極めるかである。そこで私が提起するのが、不条理に始まったこの世界を、万人が人生を謳歌し情念を解放できる-と同時に秩序だった-世界につくりかえることであり、この手段こそ全人類を救済する唯一の手段に思える。悲劇的な枷とともに生まれてきた人類には、せめてもの救いとして最大限自由に生をおくる権利があるはずなのだ。即ち、もうこれ以上なにものも奪うべきではないのだ。『閨房哲学』からつぎはぐならば、「人間というものは、ただ自然の不可抗的な計画によって、この世に生まれてきたものにすぎず、(...)地球の存在によって必然的に生じた単なる一つの産物にすぎない」。それゆえ「このみじめな地球の上に誕生してしまったからには(...)」、こうしたリベルティナージュ流のプレリュードがあってはじめて生の当為を語ることができることをいま一度想いださねばならない。逆説的に人類が原初に不条理なる生を賜ったことは、同時にそれを満足にまっとうできる世界の創造が幾世紀も前から要請されていたことを意味する。この元に我々は連帯すべきであり、これこそ反出生主義的連帯なのである。
 
冒頭の問いのすべてに答えられそうにないが、少なくとも我々はよい社会にむかうべきだ。それは悲劇的な生へのせめてもの報いとしてである。そのために依拠すべき論理はリベルティナージュ(libertinage)であり、憐れな生からさらに自由を剥奪し抑圧をかけようとする伝統的道徳主義者より、よっぽど道徳的であると言えよう。
わたしがこの憐れな生を充すことができるユートピアのため、あなたがその憐れな生を充たすことができるユートピアのため、そして未来永劫、人類がかの憐れな生を満たすことができるユートピアのために我々は、せめて「よい社会」に向かうべきなのだ。
6/12 “思想における文藝運動の必然性”
シラー曰く、
君が働きかけようとする世界に、善に向かう方向を与えたまえ。そうすれば静かなリズムが、時代の中に展開していくでしょう。君がよく教え訓して、時代の思想を必然的な永遠なものに高めるならば、または君が行動するか、あるいは形成するかして、その必然的な永遠なものを時代の衝動の一対象物たらしめるならば、君は世界にその方向を与えたことになるのです。(...)君の心情の内気な静けさの中に、意気揚々とする真理を育てたまえ、それを君の中から美の中へ移し、単に思想を平伏させるだけでなく、感覚がその出現を喜んで加担するようにするのです。(...)君の原理の真剣さは、彼らを君の側から追い払うでしょうが、しかし楽しみごとの中でなら、それに耐えられるでしょう。彼らの嗜好は彼らの心よりも純潔です。(...)彼らの格言を襲撃しても無駄です。彼らの行為を弾劾しても無駄です。しかし彼らの遊惰に対しては、君の教化の手を試みることができます。気随や浮薄や粗暴さを彼らの娯楽から放逐したまえ、そうすれば、君はそれらのものを彼らの行動の中からも、ついには彼らの思考の中からも、感づかれずに追放してしまうでしょう。それらのものを見つけしだい、君は高貴な、そして偉 大な、そして知力に富んだ形式でつつみ、優秀なものの象徴で―仮象が現実に、また芸術が自然にうちかつまで―それらを四方から囲みたまえ。
個々に多様な万人に教化を試みるには嗜好に仕掛けるに限るのだ。文藝活動とはこの意味で、思想の啓蒙に普遍的な方途なのである。
7/22 “脱神話化による顛倒”
アナトール・フランス曰く
人間にその存在理由とその窮極の目的とを教えることはもろもろの宗教の力であり慈悲である。
これは「真理への意志」蔓延る科学の世紀である現代にも変わりないように思える。いくら科学の万能性が傑出したと言えども、それはなんらかの善悪を基準にせざるを得ない。
宗教対科学の図式はよくイシューにあがるが、これほど愚かな矮小化は数少ない。なぜならこの二項は全時代的に共存し、緊密な相互関係にあるからである。それは概略するなら、近世以前は宗教性が顕在的で有用性が潜在的、近代以降は宗教性が潜在的で有用性が顕在的と言えるだろう。その意味で現代も専ら宗教性は廃れていない。例えば、神経科学的幸福論に基づくエビデンスが証明された処世術及び生き方なんかは、神経快楽物質で満たされることが幸せであるとする唯物論的幸福を求める信仰のもとに有用であるにすぎない。確かにその処世術及び生き方が、唯物論的幸福を達成するにおいて真理であるが、それが特定の宗教性に決定的に依存していることは明らかだろう。
社会科学的に決定的な改良政策も真理であるにしろ、社会の進歩、人類の繁栄、平和の実現、などといった世俗化された信仰に基づく。自然は徹底的なまでに不条理で非意味であるゆえ、絶対的なる善悪は存在しえない。よって科学にその正当性を与えるは、宗教、信仰、哲学、思想に他ならない。近世以前はそれらを完全に前傾化していたが、啓蒙のプロジェクトのもと有用性は科学をとりこみ、その活躍を示すことで信仰を人類における認識の潜在的レヴェルまで貶める。しかしながら科学はそれを完全に失効するに至らなかった。現代とは寧ろそうした信仰の恒常性が顕になったことに基づく科学の失敗の世紀なのである。
ニーチェ曰く
ある判断が間違っていたとしても、それはわたしたちにとって判断そのものを否定する根拠にはならない。(...)重要なのは、判断というものがどれほどまでわたしたちの生を促進するものか、生を維持するものか、人間という種を維持するものか、おそらくは種を育てるものかということなのだ。(...)非真理が生の条件であることを認めるべきなのだ。(...)だからこのようなことを敢えてする哲学というものは、そのことだけで、すでに善悪の彼岸にあるのである。
11/14 “敗北の果実”
外界=世俗と隔絶された森のなかに佇む寄宿学校。男性を排除した楽園に漂うユートピア的な自由さと閉塞的な色調。寓意と暗喩の織りなすアザリロヴィックの童話的美学は、その美しさに孕む残虐性を、その無垢さに纏う工作の数々をまことしやかに描くのだった。多くを語らないストーリーテリングに、決して一定のラインを超えないエロティックとグロテスクさを隠し持った繊細な映像。ルシール・アザリロヴィックをみたわたしは、その手腕と映像美に圧倒され、それを友人に薦めようと試みた。
然れど、あれほどまでにわたしを感動させた映画に対し、それを形容する言葉は酷く稚拙で矮小化されたものだった。あの美しさを形容するには表現に欠けており、わたしの言葉は一つ一つ乱雑な断片を並べたてるに過ぎなかった。わたしは、なぜああも言葉に吃り、表現に欠けているのかと絶望すると同時に、そのうちで、ある種の疑念が生じたのだ。
果たして、作品を鑑賞すると同時に、その素晴らしき様を即座に言葉にできる作品とはよい作品と言えるのだろうか。鑑賞と思考の共同作業を可能にするは、それほどまでに自己から逸脱させる没頭がなされていないことの裏返しであり、自身のうち側にある美的作用の復唱に過ぎないのではなかろうか。言説の修正を迫られ、アウラに圧倒されるあの感覚。それこそが負けること。わたしのうちに生じた形容のし難さが意味する敗北とは、おそらく芸術家が最も尊ぶべきものなのであろう。即ち自己の観念を蹂躙し、破壊する作品こそ、よい作品の条件だとわたしは考える。その作用こそが、作品価値の形容のし難さへとわたしを誘うのであった。
12/6 “救済のアポリア”
ショーペンハウアーは自殺を「この悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるもの」と批判した。仮象的救済に靡くことない至高存在は、空虚な世界に意味を見いだす超人に限りなく近いように思える。確かに「神なき人間の悲惨」を共有するテオフィル・ド・ヴィオーの回心や、サン=テヴルモンの逃避行はある種の救済を成した。しかし、その先に彼らのアタラクシアは存在し得たのだろうか。それはまさに仮象的救済と言えるものではないのだろうか。
しかしたとえそれが仮象的救済にあったとしても、それを咎める本質的権利を誰も有していない。我々は望まずして生を享ける残酷な原理のもとに在る。よって我々が抱く僅かな光明をも遮断する当為など倫理的に承認されるべきはずがないだろう。ラ・ファールの死に嘆くショーリューは、酷く脆い人類に仮象的救済が必要であることを示しているであろう。
Chaulieu learns how slight is the constructive power of reason at the death of his great friend, La Fare. Reason is helpless in the face of grief: "J ’appelle à mon secours. Raison, Philosophie, Je n’en reçois, hélas! aucun soulagement. A leurs belles leçons Insensé qui se fie! Elles ne peuvent rien contre le Sentiment. J’entends que la Raison me dit que vainement Je m’afflige d’un mal qui n’a point de remede, Mais je verse des pleurs dans le même moment, Et sens qu’a ma douleur toute ma vertu cede." Only a man who tries to transcend his quality of man can imagine that it is possible to live by reason alone. This is both foolish and unnatural. Reason alone is not enough to make life bearable. Equally vital to man are the emotions, imagination, and, above all, self-deception.
ゆえに、私はこのアポリアの狭間で仮象的救済と手を結びながら、真実の救済への旅路を往きたい。実存を肯うことの叶うその日まで。
12/12 “読者の慢心”
読者とは傲慢である。自らに渡るあまねく書を、自らのために書かれたと慢心し、その価値を糾弾する。テキストの難解さはその最たる例であり、修正ならまだしも要約までをも要請する。オリジナルを既存するその愚行は、読者としての傲慢さを発端とすると言えるだろう。
読者が作者を選ぶが如く、作者は読者を選ぶ。書籍とはあまねく者に開かれたものであると同時に、ある特定の対象へと方向づけられた作品群を意味するのだ。
12/14 “人工的ないちごの香り”
暖かい日差し差しこむ海岸線の近くでうたた寝するわたしは、ある甘美な香りにつられ、心地よくも郷愁を感じる目覚めへと誘われる。
その香りが想起するは、わたしが幼少期、なによりも嫌った人工的ないちごドロップだった。機械に汚染された自然性。商品化され工学的な処置を施されたいちごの甘味。それは幼きわたしにとって矮小化そのものを意味する。然れどその香りは、どこか妖艶で、官能的な情念をわたしのうちに喚起した。それはまさに、かくも危うくて、美しい。あの近代的ロマンティズムの表象にあったのだ。
12/19 “失われた飢餓を求めて”
資本主義のブリンカーを装備して、改良主義的手立に傾倒する若かりし日々。その延長線にある理想郷を夢想するわたしは当時、渇望や飢え、生を駆り立てるあの感覚に充ち溢れていた。しかしそれらはある圏域への参与とともに、殉ずることを余儀なくされた。
旧友と出会うたびに感じるこの隔たり。あのシニシズム。それは資本主義が要請せし飢えの消失に起因していた。批判精神のうちで思弁を繰りかえす日々は、わたしから渇望という観念を剥奪し、生の動力源を削ぎ堕とすのであった。ゆえにわたしはアルトーに呼応する。
もっとも緊急なのは、文化と呼ばれるものから、飢えの力と同じくらい生き生きした力を持ついくらかの観念を引き出すことである
わたしは形而上的身体を獲得した―「文化はわれわれにとって、一つの新しい体の器官、一種の第二の呼吸ともなるべきなのである」。生得的器官ではなく、形而上的器官。即ち物理学ではなく存在論の次元で「飢えの力と同じくらい生き生きした力を持ついくらかの観念を引き出すこと」こそ、実践を志向するわたしに科せられたさだめなのかもしれない。
12/31 “ドゥルーズと輪郭 ”
定義すること。それは規定作用そのものにはじまる。被造物の散らかったこの宇宙で対象に概念を付加することで、安寧の地を創ること。混沌渦巻くこの宇宙に秩序と調和を齎すこと。それこそが、形而上学をその精神に仕組まれた我々人類の根幹をなす活動である。
しかし、そうした規定活動にはある特殊な「事態」が存在する。
ひとつの事物が他の事物から区別されるス・ディスタンゲという事態のかわりに、何らかのものが際立つ〔一方的に区別される〕という事態を想像してみよう-ところが、際立つ事物が別の事物から際立つ場合、その別の事物は、それにもかかわらず前者の際立つ事物から際立たないのである。たとえば稲妻が走るとき、あたかも、おのれから際立たないものに対しておのれの方が際立つように、稲妻は暗黒の天空から際立つが、しかしその天空をおのれと共に引きずってゆかざるをえない。背景フオン〔地、基底〕は背景であるがままに表面に出てくる、とでも言えそうである。このような、捕えがたい敵に対する闘いには、双方の側に、何か残酷なもの、そして奇怪なものすら存在する。というのも、そのような闘いにおいては、際立つものは、おのれから際立ちえない何ものかと対立し、この際立たないものは、それと縁を絶つ際立つものと縁を結び続けるからである。差異とは、一方的な区別ディスタンクシオン〔際立ち〕としての規定作用の以上のような状態なのである。それゆえ、よく「差異をつくる〔差をつける〕」という言い方がされるように、差異について、差異をつくる〔差をつける〕、差異ができる〔差ができる〕と言わなければならない。このような差異、つまり規定作用ソノモノはまた、残酷でもある。プラトン主義者たちば、《非-一》は、《一》から際立つが、その逆はなりたたない、なぜなら、《一》の方は、その《一》から逃れてゆく《非-一》から逃れることがないからだ、と語っていたし、また別の視点から、形、〔形式、形相〕は、素材〔質料〕あるいは背景から際立つが、素材や背景は形から際立つことはない、なぜなら、際立ち自体がひとつの形式であるからだ、と語っていた。
こうした非可逆な規定志向性作用において、日常的次元の好例として挙げられるは夫婦の存在論的基盤であるといえるだろう。離婚は結婚をその存在成立の条件とするが、その逆はなりたたない。離婚は結婚によって際立つのである。他者との関係はゆるやかなグラデーションで紡がれているはずが、差異の成立によって明確な境界線に導かれし輪郭が浮かびあがる。日常の断片とその総体がつくる結晶体としての存在論的基盤が、記号化された慣わしによって或る枠へと矮小化される。ゆえに「規定作用ソノモノはまた、残酷でもある」のだ。
だからこそわたしは他者との関係の定義化された輪郭線をぼかしてゆきたい。区別ディスタンクシオンのはざまに位置するあの深淵。無限を彷彿とさせるあの無規定状態。そこにこそ関係を紡ぐに最も参照とすべき試金石がころがっているのではないだろうか。