サディアス・メッツ
ベネター的反出生主義の紹介
70億人の人間が生きる、環境の面で脆弱な世界-そこに生きるひとたちのますます多くが、肉や車やいろいろなテクノロジーの産物の消費者になっている-においては、次の理由でもって反出生主義が主張されたり擁護されたりする機会が増えている。それは、ひとXをつくることの結果は、他のひとY(あるいは動物Zの場合さえも)にとって悪である、という理由だ。この種の議論からは、仮に人間がもっと少なかったとしたら、仮にたとえ人間が多くても自然の破壊の度合いが少なかったとしたら、ひとをつくることは許容される、ということが導き出される。とはいえベネターが反出生主義を後押しするのはこれとは異なる理路によってであり、彼の立場はたったいま述べたこととはまったく違った含意をもつ。ベネターにとっては「累積人口がたった1人のケースでさえ人口過剰である」のだが、その理由は、ひとXをつくることがどのような場合でも、利益と害悪を差し引きして評価するとXにとって悪になるからである。
反出生主義を認めるが死亡促進主義を認めない、ということを理解する際に決定的に重要となるのが、死はそれ自体で避けるべき悪だという命題である。たいへん興味深いことだが、生を全体として悪いものにし、それゆえそれをつくり出すことを許容されぬものにする条件は、ベネターによれば、まさにそれが終わりを持つという事実である。死は、苦痛や失望や悲哀と同じような、望ましくないものである。「誕生が悪であることの理由の一部は、それが必ず死という害悪につながるからである」。ひとをつくることが悪とされる理由の一部は人生に終わりがあることだ、という点を踏まえれば、ベネターを死亡促進主義者と見なすべきでないことは明らかである。死亡促進主義者の考えでは、私たちは、人生をできる限り早く終わらせることが、最も道徳的あるいは最も思慮深い行動たるような理由をもつ。これに対してベネターの考えでは、いったんひとがつくられてしまえば(これは不正なことなのだが)特殊な条件が無いかぎり、道徳的行為者はそのひとに与えることになる危害を最小化せねばならない。そして死は害悪であるので、通常の場合、道徳的行為者は決してそのひとを殺してはならない。日く、「私たちのうちの誰かが死ぬことは悪いことでありうるが、その死を不必要に早めることはもっと悪いことなのである」。(...)以上より、死亡促進主義を指示せずに反出生主義を指示するベネターの非対称性論証が、「消極的功利主義」-すなわち粗っぽく言えば、善の産出ではなく悪の削減のみが倫理的な重要性をもつ、という道徳理論-にはもとづかない論証だとわかる。(...)ベネターは消極的功利主義者ではない。理由のひとつは、すでに述べたように、彼はひとびとが生きる権利をもつと考えるからであり、死はそれ自体で悪だと考えるからである。また、別の理由を挙げれば、彼は、すでに存在している人間からよきものを奪うという行為を、それ自体として不正だと見なしてもいるからである。
苦痛の最小化を根幹たる教義とする消極的功利主義の彼岸は、例えば「すべて痛みなしに安楽死することによっても達成される」。が、こうした立場はベネターは拒む。とするなら彼の立場はなんと定式化されているのか。「生まれること」の悪性と「ひとをつくる」ことの悪性は如何なる土台のもとに推論されているのか。メッツは次のようにいう。
ベネターは(...)前提をていねいに定式化しておらず、むしろ次のような曖昧な一般的原理で満足している。すなわち、自分自身の利益のため行為は、それが他者へ無視できない害悪を与えるときには決して正当化されない。あるいはひとはひとをたんなる手段として扱ってはならない。
こうしたメッツの紹介をまとめるなら、ベネダーとは-よくある「消極的功利主義」とは異なり-一般的原理に基づいて生それ自体全般の悪性そして新たに産むことへの悪性を唱えたのだ。
非対称性理論
ここから遂に非対称性理論の詳細な検討にはいる。非対称性理論の対象は、存在と非存在にむけられる訳だが、この志向性についてメッツは賞賛する。
ベネターは、あるひとの生が始められるに値するかどうかを知るためには、そのひとが存在する状態と、そのひとが存在しない状態を比較する必要がある、と主張するのだが、これは理に適っている。彼の指摘することだが、生が開始されるに値するかを判断する場合、大半の論者は、その生の内部に存在するであろう善と悪しか見ない。とはいえこうしたやり方では、関連する情報すべてをカバーすることはできない。むしろ、問題の人物が存在する際の生の内部の善悪の総計と、その人物が存在しない場合のその総計とを比較せねばならないのである。
では存在と非存在のどこに「非対称」はあるのか。次のように簡潔に表現する。
それは、非存在の状態における快楽(利益)と苦痛(害悪)のそれぞれの評価の間にある。存在の状態においては、前者は善であり、後者は悪である、という対称性がある。非存在の状態の評価に関しては、苦痛の不在は善だが、快楽の不在は悪ではない、という仕方で非対称性がある。そしてこうした指摘に依拠してベネターは、存在の状態よりも非存在の方が望ましい、という命題を引き出すのである。