ベネター
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序論
主題
ベネターはまず本書の主張を端的に述べる。
この本の主旨は、存在してしまうことは常に深刻な害悪である、ということである。これは昔からある考え方だが、その根本にあるのは非常に単純な洞察である。すなわち、「ある人の人生における色々な良いことが、それがない人生よりもその人生をより良く進ませるとしても、それらの良いことがなくたってその人は何も奪われたことにはならない、その人がそもそも、生まれ存在ていなければ」という洞察である。そもそも存在していない人が何かを奪われるなんてことはあり得ないのである。しかし、生まれ存在してしまうことによって、人は、生まれて存在することのなかった人に降りかかるはずのない非常に深刻な害悪を正に被っているのである。
ただベネターの主張を読む前にひとつ留意しなければならない点がある。それは、「非存在」は可能的なものを探索する語として有用であると同時に、それを存在者より優位なものに位置づけることは斥けるべきであるという観点である。
子どもを持つという仕方で新しい人間を生み出すことは、人生の極めて重要な一部であるが、その重要さ故にそれがそもそも正当性を持つかなんてほとんど考えられもしない。事実、ほとんどの人は自分が子どもを作るべきか否かなど考えもしない。ただ単に子どもを作るのである。別の言い方をすれば、子どもができるのは、セックスの結果なのであり、人間を存在させようという決断があってのものではないということである。実際に子どもを持つという決断をしている人は、様々な理由でもってそのように決断したのかもしれないが、そうした理由に、存在することになる子どもの利害が含まれているはずはない。人は決してその子どものために子どもを持つはずはないのである。(...)善良な人々は、自分の子どもを苦しみから逃れさせるためにどんなことでもするわけだが、奇妙なことに、自分の子どもの苦しみ全てを防ぐのに保証された一つの(そして唯一の)方法は、そもそもまず第一に、その子どもを存在するようにしないことである、ということに気づいていると思われる善良な人はほとんどいない。人々がこうしたことに気づかない理由はいろいろあり、また、たとえそれに確かに気がついたとしても、人々はその理解に基づいて行為しないし、ともあれ、存在し得る子どもの利益を彼らは考慮に入れないのだ。(...)また、子どもを生み出すことによって引き起こされる害悪は、大抵の場合、その子どもにとってだけの害悪なのではない。その子どもはすぐに子作りすることにやる気を見出し、次々に同じように子作りを願う子どもを作っていくのである。つまり、子作りをするどのカップルも、苦しみを生み出す氷山の頂点にいるとみなすことができる。その人たちは自分自身の生において悪いことを経験している。そして彼らは、通例、自分の子どもやもしかしたら孫の人生における悪いことは一部しか一緒に経験しないだろうが(子どもは、普通、親より後まで生きるから)、とはいえ、その今の世代のすぐ下に、膨大な数の子孫とその彼らの悲運が潜んでいるのだ。カップルがそれぞれ三人子どもを持つと仮定すると、最初のカップルから10世代で、88,572人に達する。そこには、多くの無意味な、回避することができる苦しみがある。確かに、そうしたことへの責任が何でもかんでも全部最初のカップルにあるというわけではない。というのも、各々の世代がその血筋を存続させるかどうかの決断をしているからである。とは言っても、その人たちは次の世代へ、幾分かの責任は負っている。もし、子どもを持つのを思い留まらないのであれば、その人は自分の子孫が子どもを持つのを思い留まることを予期してはいないはずである。
出生を促進する偏見
「反出生主義者が採る見解は、その根拠が何であれ、非常に強力な出生を促進する偏見にぶつかる」。われわれの脳にこびりついたそうした支配的な言説を暴いたうえで、本論にむかおうと思う。第一に、「人間心理学や人間生物学(そしてより原始的な動物の心理学や生物学)の進化論的原因」に基づく、出生を「しない場合、その人は未発達なのだとか利己的であるという決めつけ」である。
個体としての生物、すなわち個人の成長という範例から「発達していない」という決めつけは起こる。-子どもは子どもを持たないが、大人は子どもを持つというのだ。もしも人が(まだ)子育てを始めていないのであれば、その人は完全には大人ではない、と言うのである。しかし、このことが適切な範例であるかは決して明らかではない。第一に、子どもを持つべきではないタイミングを知ることや、子どもを持たずにい続けるために自制することは、未熟ではなく成熟の証しなのである。(思春期に達した)子どもが、十分に子どもを養う用意もなしに、子どもを持つ例は無数にある。第二に、これは第一のものとも関連するが、系統発生学的に言えば、子作りへの衝動は非常に原始的である、ということが言える。もし「発達していない」ということが「原始的」というように解されるのであれば、子作りこそが発達していない行為なのであって、子作りを理性によって差し控えるようにすることこそが進化論的により現代的であり進歩的であるのだ。子作りをしない動機には、しばしば、私が上述したように、利己的関心があがるが、それは必要というわけではない。存在してしまうという害悪をもたらすのを避けるために、人が子作りをやめる場合、その人たちの動機は、利己的ではなく、利他的である。更に言えば、子どもを持つことが自身の利益のためではないと思っているならそれは全くもって自意識過剰で、利されるのが子どもであると思っているなら間違っているし、これは特に言いたいのだが、子どもは他者なのである。別の心を持っているのである。だからそう思うのは不適切なのだ。
第二に、出生促進における政治的或いは政策的介入である。
政府が介入することも稀ではない(...)特に、とはいってもそれだけではないが、出生率が下がった場合に、子作りを奨励するために介入する。(...)例えば、日本では、出生率が1.33人であるため、1億2千700万人いる人口が2050年には1億100万人にまで減少し、2100年までには6千400 万人にまで減少するだろうと懸念されている。勿論、日本政府は対策をはじめている。「少子化対策プラスワン」がそれだ。狙いは、結婚しているカップルにもう一人子どもを持ってもらうよう促すこと。また、その政策をうまくコーディネートするために、「少子化対策推進本部」が設けられた。その政策の提案の一つには、31億円の結婚仲介予算が含まれ、「独身男女のための公的資金によるパーティーやボートクルーズ、ハイキング」に使われる。更に、日本政府は、高額な不妊治療をしようとしているカップルのための金銭的援助を公約した。更に、「少子化対策プラスワン」は、子どもを支援して学校を卒業させるための教育ローンを提供するために財政資源を流用する規定を設けている。シンガポールは市民により多くの子どもを作るよう促す政策を展開した。宣伝活動だけでなく、シンガポールは、三人目の子どもを持つと貰える奨励金を導入し、育児休暇手当を払い、公設の育児施設を設けた。また、オーストラリアは5年にわたって支給配布される133億ドルの「家族政策」を発表した。オーストラリアの財務大臣によれば、もし、「あなた方が子どもを持つことができるなら、子どもを持つことは良いこと」なのだ。夫のために一人、妻のためにもう一人の子どもを持つことに加えて、その財務大臣は、オーストラリア人に対して祖国のためにもう一人の子どもを持つことも要請した。よく知られていることに、全体主義者の政治団体は軍事的な理由で人々に対して子作りを強要したり無理強いしたりするとはいかないまでも、人々に対して子作りを奨励しがちである-新しい、多世代にわたる軍人を望むために。露骨に言えば、これは大砲の餌食を求める出生促進主義なのだ。民主主義においては、長い戦争に巻き込まれているといったことでもなければ、そのように露骨ではないし、露骨である必要はない。しかし、見てきたように、露骨でないからと言って出生促進主義を全く持っていないということを意味しているわけではない。民主政治が出生率を上昇させるために公的には何も進めないにしても、私たちは民主主義が出生促進主義へと向かう固有の偏見を持っていることに注目すべきである。(たとえある種の自由主義的抑制の中にあろうとも)そうした偏見を持った多数派が幅を利かせているので、民主主義国家の集団の中のどの地域も子孫を生み出し続けようとしているが、それはその地域の人々が広がっていくこと、もしくは少なくとも今の勢力を保つということに興味を寄せ長期的に考えているからなのだ。こうしたことから、注意しなければならないことがある。民主主義国家において、子作りをしないと決心している人たちは、長期的に見れば、子作りをしようと決心している人たちよりも政治的には決して優勢ではないということだ。更に興味深いのは、どうして民主主義が移民を受け入れる以上に子どもを作ることを支持できるのかということである。子孫は当然市民権を持っているが、移民する可能性がある人々は移民先の市民権を持っていない。ここで、対立状態にある二つの民族から成り立つ分裂国家を想定してみよう。一方は子どもを作ることで国を大きくし、他方は移民によって国を大きくした。権力をっているのが誰かにもよるが、おそらく、移民によって大きくなっている方の民族は、そのうち、大きくなることを邪魔されるか、もしくは、植民政策について非難されるであろう。しかし一体何故民主主義は、単に一方の民族が移民によって国を大きくするよりはむしろ子作りをするという理由だけで、片方よりももう一方の民族の方を支持するのだろうか?その手段が子作りであれ移民であれ、同じように人口の増加は政治的利益に影響を与えやすいのだけれども、一体何故子作りは制限されず、他方、移民は制限されているのか?人によっては子作りの自由という権利が移民する権利よりも重要であると主張することでこの問いに答えようとするかもしれない。実際、法律が現実に機能する方法を厳密に記述することで答えになると思っている人もいるかもしれないが、そういった方法がそもそもあるべきなのかについて私たちは問うことができる。一人の人間を生み出すという誰かしらの自由は、友人や家族を移住させるという他の誰かしらの自由よりも侵してはならない自由である、ということは当然のことなのだろうか? 第三に、「道徳的領域」における出生促進主義である。
出生促進主義が優位であるもう一つの理由は、(政治的領域以外の)道徳高い領域においてさえも、子作りをする人たちが自分たちの価値を、子どもを持つことに強くおいているという点にある。どういうわけか、扶養家族を持っている親は非常に価値があると考えられている。例えば、もしも何かしら希少な資源があって―例えばドナーの腎臓とか―、それを受け取る可能性がある二人のうち、一人が幼い子どもの親であり、もう一方はそうではないとすれば、すべての条件が同じだったとしても、その幼子の親の方が、優先されることはよくある。一人の親を死に至らせることは、救われたいというその人の希望を阻むことを意味するだけでなく、その人の子どもたちが持つ、自分たちの親が助かって欲しいという希望までも阻むことを意味するのである。勿論その親の死がより多くの人々を害するだろうということは全くもって正しいが、それでもなおその幼い子どもの親の優先に反対して述べるべきことはある。子どもを持つことでその人の価値があがるということは、人質をとることでその人の価値があがることに似ているのかもしれない。私たちはそれを不公平だとみなして、それに従わないよう決心しても良いのだ。確かにそうすると子どもの人生はより悪くなるかもしれないが、そうした結果を防ぐのに要する犠牲を子どもを持たない人たちが支払わなければならないのは何故か?
非対称性理論
概論
まずベネターの主張において理解しなければならないのは、「存在してしまうこと」を「常に」害悪としている点である。そしてさらにそれは「必然的に害悪である」ということではなく、困難や苦痛が一時でも生まれた時点-そしてそれは誰しもがその状況に陥るし避けられないという意味-で「害悪」になるという論述である。
存在させられることは利益ではなく常に害悪である。存在してしまうことが常に害悪であると私が言うとき、それが必然的に害悪であるということを言っているのではない。後述するように私の主張は、ある人生がただ良いことだけを含んでいて全く悪いことがないような仮想的な場合には当てはまらない。そのような存在に関して私が言うのは、そうした存在は害悪でも利益でもなく、そのように在ることと決して存在しないこととの間の差はどうでもいい。そんな人生はないのだ。あらゆる人生は何らかの悪いことを含んでいる。そのような人生で存在してしまうことは、常に害悪である。(...)実際のところ、悪いことは私たちの誰にでも生じる。困難のない人生などない。飢餓に苦しむ人生を生きる無数の人々を思い浮かべるのは簡単だし、人生のほとんどを何らかの身体的な障碍を持って生きる人々を思い浮かべるのもそうだ。私たちの中にはこうした運命から逃れられる幸運な人もいるが、にもかかわらず今生きている私たちのうちの大部分が人生の途中のどこかで体調不良に苦しむ。多くの場合、そうした苦痛はひどくつらい。死の間際であってさえもである。長年にわたって生まれつきの虚弱体質に悩んでいる人もいる。私たちは皆、死に直面しているのである。
では「常に」害悪であるとはどのように理解すればよいのか。「常に」は無条件という語に置き換えられるだろう。とするなら特定の条件づけに基づいて「存在してしまうこと」の害悪さを論じることも可能であるだろう。そして奇妙なことはこの条件づけが付与されると途端に拒絶しなくなる者がいることだ。そこでベネターは次の例を挙げる。
問題は、人を存在させてQOLの低い人生を送らせることに代わる選択肢が、その人を全く存在させないことしかないという場合に生じる。(...)例えばこの問題は、将来両親になり得る人物が深刻な遺伝的障碍を負っていて、何らかの理由でその障得が彼らの子孫に遺伝するという場合に起こるだろう。選択肢は、ある一人の障得を持った子どもを存在させるか、その子どもを全く存在させないかである。またそのようなまずい状況は遺伝その他のその人の体質のせいでではなく、むしろその人の、環境のせいで起こる場合もある。赤ん坊のいる14歳の少女がいるのだが、彼女自身がまだ幼いせいで、その赤ん坊に対して何にせよ十分な機会を与えることができないという状況がそうだ。もしその少女が歳を取って子どもを育てるのにより良い境遇を得てから子どもを身ごもるのならば、その子どもは前述したのと同じ子どもではないだろう(何故なら、その子どもは別の卵子や精子から形成されただろうから)。故に、少女が14歳の時に社会的な困難を持つ子どもを存在させることに代わる選択肢は、少女がその困難を持った子どもを全く存在させないことなのであり、後にまた別の子どもを持つかどうかはそのことには関係がないのだ。存在してしまうことは常に害悪であるという主張は、大抵の人の直観に反する(しかし全ての人の直観に反するわけではない)。しかし一方で今述べたような困難のある場合に存在してしまうことは害悪であるという主張は、一般的な人々の直観にとてもよく適合している。
末尾にあるようにこれは非常に共感できる話であろう。こうした存在の害悪性が特定の条件つき、即ち常ではない形で害悪なケースである。ベネターはなぜ万人に論を拡張すると途端に拒絶感がでるのかについて「何故人々はそうした主張に反論しがちなのかもまた示したい」とする。
まとめると苦の不可避性という次元のもとに、それを微々たるものだとしても被った地点で「存在してしまうこと」が害悪性を帯びる。それゆえに「常に」存在は害悪であるというのがベネターの主張の概略であり、その論証のために非対称性理論を対象するのだ。 存在が不利であること
まずベネターが反駁を試みるのが、楽観主義者が念頭に置く快楽と苦痛の対称性である。彼らは快楽と苦痛を+と-、つまり利益と損益のせめぎあいとして考え、資本主義的に人生を捉えるのである。
楽観主義者はすぐに私の説明が不十分だと指摘するだろう。悪いことだけでなく良いことも、存在している人にのみ生じるのである。快楽、喜び、そして満足は、存在している人だけが獲得することができる。従って、とおめでたい人々は言うだろう、私たちは人生における害悪に対して人生における快楽を比較しなければならない。快楽が害悪に勝っている限り人生は生きるに値する。この見解からすれば、そのような人生に存在してしまうことは利益なのである。
こうした考えに対してベネターは即座に「こうした結論にはならない」という。そこで提唱されるのが存在と非存在における快楽と苦痛の非対称性である。
害悪(例えば、苦痛)と利益(例えば、快楽)の間には決定的な違いがあり、その違いから存在には優れている点は全くなく、存在は不利な立場にあるということが言える。非存在と比べてそうなのである。害悪と利益の典型的な例として苦痛と快楽ついて考察してみよう。まず以下に異論はないだろう。(1)苦痛が存在しているのは悪い、更に(2)快楽が存在しているのは良い。しかしながら、このような対称的な評価は、快楽と苦痛が存在していないことには当てはまるようには思われない。というのは、以下のことが真であるという強い印象が私にはあるからだ。 (3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良いのだ。その一方で (4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剝奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。 量的功利主義のように粗野に功利計算に還元してみる。一方、存在では快楽と苦痛が不可避的に発生するため、快楽有(+)と苦痛有(-)で計算できるかもしれない。他方、非存在は快楽と苦痛がないため、快楽無(±0)と苦痛無(+)で計算できるだろう-苦痛が存在しないことはよいことかは一旦括弧に入れたい。とすると、存在と非存在の非対称性或いは存在の不利がみえてくる。未だ全ての存在が害悪であると論証できていないが、この時点で非対称性と不利さは明らかになっただろう。ここでより論を補強するべくなぜ苦痛が存在しないことがよいことかを明らかにすることによって、非対称性と不利さを明らかにしたい。
ここで、どうしてその良さが誰にも享受されないのに苦痛が存在していないことが良いことであり得るのか、と問われるかもしれない。存在しない苦痛は、それがその人にとって良いことであるようなその人がいない場合、誰にとっても良いことにはなり得ないと言われるかもしれない。だが、それでは (3)を退けるやり方としては拙速過ぎる。(3)において下されている判断は、存在するもしくは存在しないとある人物の(可能的な)利害への言及でもって、なされている。この判断に対し、 (3)はこうした人が決して存在しないシナリオの一部であるから(3)は存在している人物に関しては何も言い得ない、と反論されるかもしれない。この反論は間違っている。何故なら実際に存在している人が決して存在しなかったという事実に反するケースについて(3)は述べることができるからである。存在している人の苦痛に関して(3)が言っているのは、たとえそれが今その苦痛を被っている人の不在でしか達成し得ないとしても、この苦痛が存在していなければ良いだろう、ということである。言い換えると、今現在存在している人の利害で判断されるとすれば、たとえその人がその時に存在しなくなっていても、その苦痛が存在しないことは良いことだということである。次に考えて欲しいのは、決して存在していない人の苦痛の不在に関して (3)は何を述べているのか、ということであるつまり、存在し得る人物を現実のものにはしないことで確保される苦痛の不在に関して(3)は何を述べいるのか、ということである。主張(3)が言うのは、この苦痛の不在は別の可能性において存在してしまっているだろう人の利害で判断される場合に良いことだということである。 存在してしまっているだろうその人が誰なのか私たちは知らないかもしれないが、存在してしまっているだろうその人が誰であれ、彼もしくは彼女の存在し得る利害で判断される時、彼もしくは彼女の苦痛を回避することは良いことだとは言える。 つまりここで想定されている非存在とは、非存在からみた非存在ではなく存在からみた非存在であるのだ。誰もが素朴に、痛みを感じなくなりたいな、と思ったことが一度はあるように苦痛が存在しないことを欲するのは極めて一般的な感覚であると言えるだろう。これで非存在が決して(-)にならず(+)であり続けるという意味で、存在が不利であることは明らかになっただろう。だがこの論理は勿論非存在よりも幸福であるひとがいることを否定できない。確かに存在は非存在に比べて恒常的に(+)なことなどありえないが、非存在は(+)の上限がある。存在における(+)は快楽であるからして無際限と言えるが、非存在の(+)は苦痛が存在しないこと以外にはありえない。ここから後者の天井を理解できるだろう。そこでベネターが持ち出すのは出生における義務の観点である。
苦痛を被る人々を存在させることを避けるのは義務であるが、幸福な人々を存在させる義務はない(...)。つまり、苦痛を被る人々を存在させない義務があるのだと私たちが考えるのは、そうした苦痛が存在していることは(苦痛を被っている人にとって)悪いことだろうし(苦痛が存在していないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いことだからなのだ。これに対し、幸福な人々の喜びはその人たちにとって良いだろうが(その喜びを奪われる人が誰一人として存在していないだろうという場合は)そうした喜びが存在していなくてもその人たちにとって悪いわけではないという理由で、そうした幸福な人々を存在させる義務は全くないと私たちは考えるのだ。(...)私たちには苦痛を被る人々を存在させることを避ける義務はあるが幸福な人々を存在させる義務がないのは、私たちには害悪を避けるという消極的な義務はあるが幸福をもたらさなければならないという積極的な義務は全く付随してこないからだ、ということは示唆されるだろう。従って私たちの子作りをする義務に関する諸々の判断は、他のあらゆる義務に関する諸々の判断と変わりはない。 確かに非存在より幸福であることはありうるかもしれない。が、出生段階において、そうなることは決定されていない。(+)になる可能性も(-)になる可能性も含意されている。他方、非存在は+が確定されている。それゆえ反出生なのだ。
「常に」害悪であること
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おめでたい人々は(2)が(1)よりも大きいのであれば、存在は非存在よりも良いと言う。(...)人生の質、QOLは単純に良いことから悪いことを引くだけでは決定できない(...)QOLを評価することは良いことから悪いことを引くといったことよりも遥かに複雑なことなのである。(...)図2-4が間違っているということを示すのに最良の方法がある。図2-4の理論を前述のH(健康さん)とS(病気さん)の比喩に当てはめればいいのである。図2-5を見てみよう。(2)の値が(1)の〔絶対値で〕 2倍以上であれば、SであることはHであることよりも良いだろう。(思うにこれは、(2)によって取り除かれるSの苦痛の総計が、Sが現実に被っている苦痛の総計の2倍以上である場合の話である。)だがこれが正しいわけがない。というのも、Hであることは確かに常に相対的に良いからである(そのHという人物は、決して病気には罹からないし、それ放、急速快復能力を持っていないことで不利益を被ることなんてない、といった人物なのである)。全体的なポイントは、(2)はSにとっては良いことではあるが、Hに優る利点にはならないということだ。プラスの値を(2)に割り当て「0」を(4)に割り当てることで図2-5に関して分かることは、(2)は(4)よりも利点があるということなのだが、その利点は全然明白ではない。図2-5における値の割当は間違っているとすべきだが、となると図2-4における値の割当も間違っているとすべきなのである。ここで、正しい値の割当とは何かと問われるかもしれないが、私はその問い自体に抵抗したい。何故なら、その問いは間違った問いだからである。(...)存在してしまうことには、決して存在してしまわないことと比べて不利な点があり、一方、存在することのプラスの特徴には、決して存在しないことよりも利点があるわけではない、ということをこの図は明らかにしている。シナリオBは常にシナリオAよりも良い。(...)人生のプラス面からマイナス面をただ引くだけで人生の質や価値を判断したがる人はたくさんいるだろう。(...)けれども、こうした仕方で人生の質を決定するのはあまりに単純過ぎる。人生がどのくらい良かったり悪かったりするのかは、良いことや悪いことがどのぐらいの量あるのかということだけでは決まらず、他にも考慮すべき様々な事柄がある
わたしが存在の不利さを導くために用いた数字は動画でしかないということをベネターは示している。「H(健康さん)」の優位はこうした数字に還元し単純化できない好例である。ベネターは快苦の複雑性として「考慮すべき様々な事柄」を挙げる。それは「順番」、「強度」、「人生の長さ」、「閾値」などである。
そのような考慮すべきことの一つに、良いことと悪いことが起こる順番がある。例えば、人生の前半にその人生で生じる良いことのすべてが生じ、人生の後半は回避不可能な悪いことがさんざん生じるといった人生は、良いことと悪いことがより均等に散りばめられた人生よりも遥かに悪いだろう。良いことと悪いことの総量がそれぞれの人生で変わらなかったとしてもそうだ。同様に、徐々になにかを達成したり満足したりする方向へと向かう人生は、人生の最初期の数年は晴れやかに始まるが次第に悪くなってゆくものよりも好ましい。これらどちらの人生を選択しても、良いことと悪いことの量は同じかもしれないが、その道程を見れば、後者よりも前者の人生の方が良いだろう。人生に良いことと悪いことがどのように分布しているかについては、それぞれの強度も考慮すべきである。異常なほどに強力な快楽が散りばめられているが強い分だけその快楽はほとんどめったに生じず持続もしない人生は、快楽の総量は同じで比較的強くはない快楽が生涯を通して頻繁に散りばめられている人生よりも悪いだろう。しかし、快楽や他の良いことがあまりにも広く薄く人生に散りばめられてしまうこともまたあって、そこではそうした快楽や良いことは良くも悪くもないニュートラルな状態とほとんど区別できない穏やかなものになる。そのような特徴を持つ人生は、それなりに目立った「贅沢な状態」が少しある人生よりも悪いことだろう。人生における良いことと悪いことの配分がどのように人生の質に影響を及ぼすかの三つ目は、人生の長さに由来する。確かに、人生の長さは、良いことと悪いことの量と相互に動的に影響しあうだろう。ほんの少ししか良いことがない長い人生は、かなりの量の悪いことで特徴づけられてしまっていることになるだろう。たとえ、単にあまりに長きにわたって良いことが全くないせいで、退屈という悪が生ずるのが理由であっても。また、良いことと悪いことの量が同じくらいで長さがやや違う人生を思い浮かべてもよい。良いことと悪いことの量に関係せずに、十分均等に比較的ニュートラルな出来事が散りばめられている人生もあるだろう。その場合、(そもそも人生に生き続ける価値があるのなら)より長く生きた方が良いとか、(そもそも人生に生き続ける価値がないのなら)より長く生きた方が悪いとかを、人はそれなりに判断するだろう。人生の質を価値判断するにあたって(良いことと悪いことの分布とは関係なく)更に考慮すべきことがある。人生がある一定の悪さの閾値を一度でも越えるとすれば(その悪さの量と分布も考慮に入れてのことだが)、良いことがどれほどあろうともその悪さを打ち消すことは決してできないということはほぼ間違いない。というのも、良いことの量ではその悪さに値することはないだろうから。この価値判断こそ、ドナルド(「ダックス」)・コワートが自らの人生に-少なくとも、ガス爆発のせいで身体の三分の二に大ヤケドを負った後の人生に-下したものなのだ。彼は極度の苦痛を伴う救命治療を拒絶したが、それにもかかわらず医者は、彼の意向を無視して治療を決行したのである。その結果、彼は一命を取り留め、またかなりの成功を収めたことで十分なQOLを再び手に入れた。けれども、ヤケドを負ってから手に入れた良いことなんてどれも無理やり受けた数々の治療に耐え抜くというつらさにとって代わるほど価値のあるものではないと、コワートは主張し続けたのである。ヤケドが治った後にどんなに素晴らしい良いことが起きようとも、少なくとも彼自身が行った価値判断によれば、その良いことが彼が経験した大ヤケドの悪と救命治療の悪に勝るなんてことはあり得ない、というのである。(...)これまでの考察から、人生がどれほど悪いものなのかを判断することは、悪いことから良いことを単純に引くことよりも遥かに複雑なこととならざるを得ないということが明らかになっただろう。従って、単純に(1)の価値から(2)の価値を引くことで人生がどれほど悪いものなのかを計算しようとするべきではないのである。
結論
出生促進主義の「人間好き」という自己欺瞞
まずベネターは自らを、真に「人間好き」だとする。
私が到達した様々な結論は多くの人に深刻な人間嫌い〔misanthropy〕の結論だという印象を与えるだろう。人生は不快や苦痛で満ちているし、私たちは子どもを持つのを避けるべきだし、遅くならないうちにさっさと人類が絶滅するのが最善であると私は論じてきた。これは人間を嫌っているように聞こえるかもしれない。けれども、私の議論の非常に大きな主題は、人間に適用する場合、人間好き〔philanthropy〕に由来するものであって、人間嫌いに由来するものではないことが分かる。(...)生物を存在させることは、その生を歩む存在者にとって害悪である。私の議論は、この害悪をもたらすのが誤りであるということを示唆している。害悪をもたらすことに反対するのは、害される人が嫌いだからではなく、害される人を気遣っているからである。
引用前で私がベネターを真に人間好きとしたのは、自らを人間好きと呼称する出生促進主義者こそ、苦しみという観点において人間を地獄にいざなっているからである。人間を多面的に観たとき、それが人間好きといえるかどうか私には定かではない。だが、少なくともベネターと同じ苦しみという観点においては、ベネターこそが真に「人間好き」に値するのは間違いない。だがベネターは次のようにもいう。
ベネターはこうして自身のヴィジョンの不可能性を強く確信したうえで、-自己欺瞞的に自らを「人間好き」と称する-出生促進主義者によって必然的に生じる、人類滅亡までの苦しみの歴史、を次のように皮肉って本書を締める。
それは、人間に対する何らかの悪意に触発されているとは言わないまでも、存在してしまうことへの害悪への自己欺瞞的な無関心の結果として生じている反応なのである。
/icons/hr.icon
/icons/bard.icon 浅沼光樹 :ベネター的反出生主義の思弁的実在論解釈
「ベネターの反出生主義がメイヤスーの相関主義批判のヴァリエーションの一つ、いわば〈生にかんする反相関主義〉と呼ぶべきものである」
〈強い相関主義〉を粉砕し、〈もの自体〉ないし〈絶対的なもの〉を奪還することにメイヤスーの哲学的企図はある。この企ての正当化のために導入される装置の一つが〈祖先以前性〉である。〈祖先以前性〉とは人類の出現以前 ― さらには生命の誕生以前 ― の宇宙の謂であり、〈人間のいない世界〉の別名であった。メイヤスーが注意を促すのは、現代の宇宙物理学が〈人間のいない世界〉を造作もなく考察対象としているのに、哲学的相関主義は〈人間のいない世界〉を〈後方投射〉 ― 人類の誕生以後に人間の主観によって構成され、その上で人間のいない過去へと投影されたもの ― としてしか説明できない、ということである。しかし〈もの自体〉の認識が自然科学において現に成立しているなら、哲学はその事実を認め、むしろそうした認識の可能性の条件をこそ探求すべきではあるまいか。いかにして私たちは〈もの自体〉 ― 志向性や言語のない世界 ― を〈相関主義〉に陥ることなく思考できるのか、と。 浅沼は上記のように整理したうえで「このメイヤスーの提言に導かれることによって私たちはベネターの反出生主義の正しい理解に到達しうるように思われる」と論ずる。これはなぜか。ベネターは、「快苦の非対称性」を論ずるべく「(A)すでに生まれてしまった私と(B)決して生まれることのなかった私という二つの状態を比較しなければならない」とする。なぜならその両者を真に分析しなければ、現代的に出生/反出生の是非を問うことはできないからだ。
しかしこうした問いに対して、「いずれにしても私はすでに生まれてしまっているわけだから、そのような状態Aを私が状態Bと、つまり決して私が生まれることのなかった状態と比較しようとしたところで、そのような比較はすでに生まれてしまった私の視点からおこなわれている」と反駁することができることは容易に考えられうるだろう。そしてこうした困難に対してスピノザより、永遠の相の下にみるように、とベネターは警告するのだ。ここにこそ浅沼の上記テーゼが浮上する。なぜならこの構図こそまさに相関主義に対して「祖先以前性」というパースペクティヴを提供したメイヤスーの態度と重なるからだ。つまり「すでに生まれてしまった私の視点」からは「状態B」に到達し得ないという、「生の相関主義」に対して「永遠の相の下に」というパースペクティヴを提供したのがベネターなのだ。 このメイヤスーの提言に導かれることによって私たちはベネターの反出生主義の正しい理解に到達しうるように思われる。相関主義的見地からは、円環の内部と外部を比較することはできない。外部といっても、畢竟それは相関主義的円環の内部に投影された外部でしかない以上、真に外部と呼べるものではないからである。〈永遠の相のもとで〉というベネターの要請はメイヤスーの言う〈祖先以前性〉の世界へ、すなわち、あらゆる生命の誕生以前の世界へと私たちをいざなわずにはおかない。そのかぎりにおいてベネターの反出生主義は〈生の相関主義〉を批判し、脱相関主義的な立場から新たに生の意味をとらえなおすものと見なしうるだろう。生まれてしまった状態と決して生まれることのなかった状態を比較するということは、たしかに相関主義的見地からすれば不合理でしかないが、相関主義的見地を離れ、〈永遠の相のもとで〉ながめるならばそうではない。それにもかかわらず、もしこのような比較そのものが成り立たないということをもって、ベネターの議論を棄却するならば、それは結局、生にかんする相関主義の立場に安住することにほかならないのではないか。