ジョルジュ・ミノワ
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リベルタンによる無神論
多様な言説広がる17世紀初頭
ではこうした多様化するリベルタンの伝統は如何なる文脈で発生したのか。そこでミノワが立脚するのはリチャード・ヘンリー・ポプキンによる「多くの反論を招いた逆説的な説明」である。 一六〇〇―六四〇年代の懐疑論は、ポプキンによれば、宗教改革による宗教上の危機の結果であり、エラスムス以降、プロテスタントの主観的ドグマティズムに対抗するためにカトリック思想が練り上げた回答でもあった。
16世紀、ローマ=カトリック教会を批判したルターに始まるキリスト教の改革運動は、スイスやフランスのカルヴァンの活動などによって、西ヨーロッパ全域に広がり、封建社会の崩壊という社会変革と結びついて広がった。堅牢にキリスト教圏を支配するカトリックは、プロテスタントによってその存在が揺らぐこととなる。そんな宗教改革の混乱を収束させ、カトリック教会の体制の立て直しを図るために教皇パウルス3世は1545年に、キリスト教世界の最高会議、「トリエント公会議」を開催する。当初は宗教対立を克服することを目指しプロテスタント側の参加も想定された(実際には第1回、第3回では拒否し、第2回では一部参加した)が、次第にプロテスタントを排除することとなり、単なるカトリック教会権威の復興のための会議となる。 したがって、そうした「宗教改革による宗教上の危機」、即ちカトリックの危機は皮肉にも「かえって信仰絶対主義型の宗教の強化に有利に働いた」のである。ただ、そうした契機は確かにカトリックの復興を成したが、同時に知らずのうちに自らを滅ぼす道具を開発していたのだ。それが懐疑と合理である。言い換えるなら、カトリックの教義を復興するべく、理論の深化に用いた懐疑と合理が、知らずして無神論の一途を描くこととなったのだ。
このように支配的なカトリックが混乱に陥ったことで、その権威を取り戻るべく合理と懐疑を以て再興することは、皮肉にも無神論のしるべとなった。また、そのカトリックという支配的なヘゲモニーが混乱に陥ったことは、単にそれを復興することだけでなく、そのオルタナティヴを要請することでもあった。ゆえに「混乱した知性と湧き出るような思想、それこそが1600-1640年代の文化を特徴づけるものだ」。
概略するなら、16世紀まで支配的だったカトリックは宗教改革によって、その正統性が失われた。空席となった思想の玉座を占拠するべく、―前王のカトリックと、それに反旗を翻したルター派やカルヴァン主義者は勿論のこと―ストア主義者、エピクロス主義者、懐疑論者、理神論者、無神論者、リベルタン、薔薇十字などに代表される数多の秘教的宗派らが「湧き出るよう」に競い合う「知的に混乱した時代」こそが、17世紀初頭の文化なのである。そして、カトリックの正統性の揺らぎとその復興に始まる知的文化は、カトリック教義の厳格的深化にむけて―知らずうちに反教義主義に都合がよい道具たる―合理と懐疑を生みだした。こうしてカトリックの復権という試みによって、皮肉にも啓蒙主義にむけた無神論への道が拓かれるのだ。
17世紀の無神論と護教論-メルセンヌ、コトン、ガラース
実際に17世紀の宗教家は、皮肉にもカトリックの復権という契機に基づいて「大幅に歩みを速めた無神論、不信仰の勃興を認めざるをえなかった」。
1623年にメルセンヌは、五万人もの無神論者がパリにいると警告の叫びをあげた。おそらくはあまりにもすぎた誇張だったろう。のちにはそれを彼自身訂正した。しかしこのことは多くの人が分け持つ不安を示していた。フランスには「無神論者、理神論者、リベルタン、異端者、離教者、神の御名をのろう者と濱神の言葉を口にする者、そしてその他の不敬の輩」に溢れている、と聖体会は不平をぶつけた。コタンは「人の口に上るのはもうあのリベルタンのことだけだ」、と一六二九年に書いた。一方ルネ・デュ・ポンは『精神の哲学』で、この時代の人々は「神への奉仕のために命じられることは何でもばかに」し、「宗教の第一の基礎や原理」に疑いの目を向けていると認めた。ピエール・ボーダン、ラコニス、ルブルヴィエットは神を信じない者たちの数に衝撃を受けた。ユゼスの司教グリエ猊下は、宮廷や上流社会に次のような人々が見かけられるのはありふれた光景だと証言する。「遊びでもなければ、怒りからでもなく、荒々しさが理性や自由意志を弱めてくれるので、自分たちの悪意の口実になるはずのどんな情念もなく、冷静に、意図的に、そしてなんの益がなくとも神とあらゆる宗教の反対者として姿を現そうとする断固たる欲求から、自分から進んで不敬の徒、悪者であると公言し、人が主イエス=キリストを信じているのは、自分たちにとって憎悪と揶揄と侮蔑の対象だと自慢した」。(...)裁判の増加もこうした不安を立証したようだ。一五九九年から一六一七年のあいだにパリでは不敬の告発が九件あり、そのうち七件が死罪、一六一七年から一六三六年のあいだには一八件で一六件が死罪、一六三六年から一六五〇年のあいだには二二件で一八件が死罪となった。一六三六年の王令は、不敬の蔓延と取り締まりの強化の必要性を警告した。(...)別の指標、それは不信仰を擁護する著作の増加だった。フランスでは一六〇〇年から二二年のあいだに 一一種、一六二三年から四〇年のあいだに三一種が数えられた。これ以降は、著者たちはもう問題を偽ろうとも無神論者の議論を隠そうともしなくなり、それがいたるところで流通した。一六二五年に、「無神論者と闘うために、その理屈を暴き出すためだけに無神論を知らせることを目的に無神論者の理屈を黙らせる」のはもう問題にならない。「それほど無神論者の理屈は広がっていて、それを隠すことは問題ではなく、治療と予防に力を尽くすだけだ」、とシロンは書いた。 言うまでもなく、無神論の勃興は護教論の発展に寄与する。実際、「無神論者に反駁する著作はあらゆる社会層から届けられた。神学者はもちろん、コトン、レシジュ、ガラースのようなイエズス会士、メルセンヌのような碩学、カンパネラのような修道士、さらには哲学者や英国の国璽尚書ベーコンのような政治家までもがそこに加わった。ベーコンは『随想集』で、人間を動物の地位にまで貶め、人間の品位を汚すとして無神論を糾弾した」。ミノワは、そんな「護教論者のなかでも、その著作の重要性により、またリベルタンの世界とその思想についてもたらしたきわめて重要な証言によって、三人〔メルセンヌ、ピエール・コトン、フランソワ・ガラース〕の名前が傑出していた」として、以下にて前傾した三名の神父を詳細に論じていく。第一に「信仰と科学の統合」を夢みた「一五八八年生まれのミニム修道会士」のメルセンヌを論じたい。 教会と近代科学の同盟のもっとも確固たる支持者は、リベルタンに対するもっとも執拗な敵対者のひとり、ほかならぬマラン・メルセンヌ神父であり、神父は科学と宗教をベースにした文化的全体主義を夢見ていた。科学によって神父は新しい科学、ガリレイのそれのような機械論的科学を理解していたのだが、神父によれば科学と信仰のあいだに不一致などあるはずがなかった。一六三三年になるまで、メルセンヌ神父は類まれな楽観主義を発揮した。神父によれば、すべてが聖書と一致することを示してくれれば、教会にはアリストテレスを諦めて、原子、天体や地上の運動が壊敗することを受け入れる用意があった。そのことをメルセンヌ神父は一六二三年に『創世記についてとかく取りざたされたる問題について』で、こう述べる。「神学者は、理性を欠いたいかなる権威にも屈することはない。神学者が全身全霊を込めて自らを捧げるのは、真理の至高の作り主、神だけだからである。(...)そして彼らは、地球の運動や天の不動性を受け入れ、惑星や太陽が四元素から構成されていること、あるいはさらに天が滅ぶこと、それが大気同様流動的であること、原子が偏在し、万物を構成していることを認める用意があるとさえ、わたしは言おう。それが聖書の真理と一致すると判断するならば、神学者たちは、アリストテレスから教えを受けた実体、形相、質料を捨て去ることだろう」。科学は単に知識の源泉であるばかりでなく、道徳的価値でもある。メルセンヌは科学の神秘主義である。彼によれば世界はとてつもない物理的問題であり、われわれがそのすべての解決を得るのはあの世においてである。しかしわれわれはそれを知るためにわれわれにできる限りのことを、この世でしなければならない。典型的な有徳な人生とは、科学の探究に捧げられた人生なのだ。教会には科学以上の良い同盟者はいない、とメルセンヌは断言する。彼の考えによれば、信徒たる者は「良きカトリック教徒であると同時にすぐれた数学者」でなければならなかった。(...)この統合はメルセンヌにとっては当然のことであり、教会の勝利を確固たるものとするために不可欠なものだった。おそらくはこの二つの領域を分離することのうちにメルセンヌは将来の争いの兆候を見ていたのであろうし、心からの地動説信奉者だっただけに、ガリレイ事件によって深く心を揺さぶられた。無神論とリベルタンの興隆に不安を覚え、『創世記についてとかく取りざたされたる問題について』で、彼は不敬へと導くすべての体系、ストア主義、エピクロス主義、懐疑論、理神論を攻撃した。そこでメルセンヌは魂と超自然的なものに関するパドヴァ派の議論に反論を加えた。一六二四年に『反教会狂いあるいは理神論者の四行詩』が現れたとき、メルセンヌは大部の二巻本『当代の理神論者、リベルタン、無神論者の不敬』でこれに応えた。そのなかで、メルセンヌはあらためて神の存在を証明しようと努めた。とくにジョルダーノ・ブルーノの説を攻撃して、実体性と神の内在性の統一のような概念はまっすぐに無神論に進むとした。すべての存在に同じ運命を約束されることが、そこから当然予想されるからである。翌年には、『懐疑論者やピュロンの徒を反駁する科学の真理』がこの問題にあてられた。次いで一六三四年には、政治家や哲学者たちの無神論に反駁を加えるため『神学、自然学、道徳そして数学の諸問題』で、相変わらず科学をベースにした新しい神の存在証明を練り上げた。 第二に紹介するコトン神父は、護教論者の立場でありながら、宮廷内でのリアルな無神論の勃興を詳細に描写した。
イエズス会士で、国王アンリ四世の告解師だったピエール・コトン神父がとった立場は、まったく次元が違っていた。宮廷世界に暮らしていたため、わたしたちにとってコトンはこの世紀初頭の貴族社会における信仰の堕落についての貴重な証人である。実際数年間にわたってコトンは、信仰に賛成したり反対したり議論を交わす宮廷人たちの傍らでおしゃべりや話し合いをノートに書き記し、それを『賢者たちや世の大貴族との会話における神学者』にまとめ上げた。もっともこの本が出版されたのは、著者の死のずっと後の一六八三年、ミシェル・ブトー神父の手によってだった。序文や著作の構想から、不信仰の興隆がエリートたちの間ではかなりの度合いで社会現象になっていたことが見て取れる。著者は会話が事実に基づいていることを請け負っているが、第一の対話は無神論者をとりあげ、第二の対話は多様な宗教について、続く対話は反キリスト論者、反三位一体論者をとりあげていた。著作からは、リベルタンと彼らの手口の多様性が確認でき、それはまさにとらえどころのない世界だった。彼らはずる賢いやり方を用いて、会話の節々にその議論を潜り込ませ、心のなかにこっそり疑いを持ち込んだ。狩りのことを話しているとしたら⋯⋯。それこそ彼らにとって、魂の不死と動物の知性について注意を促す好機だった。話の輪の中に若者や奥方がいたら⋯⋯。お世辞を言って、エピクロス主義者を装うのだ。聖職者がいたら⋯⋯。ずっと暗い顔をして同時にいくつもの質問をして、話し相手の足下をさらってやる。ときには自分たちの善良なる信仰に抗議の声をあげておいて、わざわざ不信仰者の役を演じ、そのおかげで包み隠さず自分たちの考えを詳しく述べることができた。コトンは、こうしたリベルタンたちの肖像のコレクションをまるごと見せてくれた。彼らは危険でもあれば、また魅力的だった。「その勇気、知性、学識そのもので相当評判だった若い貴族」がいて、「もっとも神聖な真理に対する疑い」をいたるところまき散らした。「あまり素行のよくない」ある騎士は古代ギリシア・ローマの大ファンで、ちゃんとした理由が示されなければ何も受けつけなかった。(...)これらの正統派の無神論者がすでに宮廷社会の陰ではびこっている、コトンはそう言った。 そして最後に紹介するのが「イエズス会士フランソワ・ガラース神父」である。彼は「一六〇〇年にトゥールーズのイエズス会の修練所に入ったが、激しやすく、豪放磊落、どちらかと言えばものごとをまとめられず、常日頃から大げさな物言いの人物」であり、そのガラース神父による『当代の才人たちの珍妙なる学説』と題された大部は、千頁を超えてリベルタンを反駁する書であった。その書はテオフィル・ド・ヴィオー事件の真っ最中、一六二三年八月に出版された。彼はまず「リベルタン」と「無神論者」を区分することから始め、後者を「取り返しがつかない」対象としたうえで、後者に未だ至るにない「リベルタン」に本書を贈るとする。
では無神論に未だ至らない、前傾書の対象とされる「リベルタン」とは如何なる人物なのか。彼らの「信仰箇条」或いは教義と、その心性と相反する日常を次のように表する。
即ち、ガラース神父曰く、リベルタンは無神論ではないが反キリスト的で汎神論的な性格をもち、真理でなく有用性のもとに宗教を政治的プログラムとして受容し、自らの立場を公的に表明することなく、内なる信仰の絶対的自由を謳った者たちなのだ。このようにガラースは「リベルタン」に護教論を届けるべく、「リベルタンの思想の輪郭をはっきりさせようと」試みた訳だが、これは全方位からの反感を買うこととなる。批判は、リベルタンは勿論のこと、同じキリスト教徒からも届くこととなる。そのなかでも最も象徴的なオジェ神父の言説を紹介したい。
一六二三年十月に、フランソワ・オジェ神父は、『フランソワ・ガラースの珍妙なる学説に関する審判と譴責』と題された辛辣な著作で、(...)善をなしたというよりも損害をもたらした、とガラースを非難した。第一に、リベルタンのすべての無茶苦茶や無神論者のすべての議論を千頁にもわたって、しかもフランス語で広げて見せることが有益だろうか?そこにこそ、信仰の擁護者にとっての本当の問題があったし、それはすでにカルヴァンが提起した問題でもあった。ガラース自身自分の本のなかで、信仰を持たない者たちの説を「白日の下に」さらし、「逐一」再現する必要があるだろうか、と自問していた。彼は、それはもう誰にとっても隠れのないことと説明して、この問いに肯定で答えた。この点では、リベルタンと変わらない精神状態の持ち主だったオジェは、逆にこの種の論争は学者の間で穏やかなやり方で展開されるべきであるが、ガラースの手法そのものは低い身分の読者の関心を引き、疑いを抱くことさえなしにすませてきた無神論者の議論を、彼らに知らせることになると考えた。つまり、「ガラースはあまりにも大衆的な文体とやり方で、彼の本を読めば民衆の屑までもが引き込まれるようなことを書いている」のだ。翌年第二版が出たからといって、ガラース神父の千頁の本に「民衆の屑」が殺到するなどいうことはほとんどありえない。しかし、この指摘は大きな意味を持つ。大部分の教会責任者にとって、キリスト教徒の民衆は信仰の真理を理解できないのであり、それゆえに聖職者の専門領域である神学論争からは切り離しておかなければならなかった。民衆は理解することなしに信じなければならなかったのである。オジェはそのことをもってリベルタンへの非難を正当化した。くわえて、すべての真理が口にしてよいというものた。ほとんどどこにでも無神論者がいること、彼らがまじめな議論をしていることなど、民衆は知るべきではなかった。ガラースを「ラブレー」、「神と人を愚弄する者」、「悪ふざけと冗談話の親方」だと非難しつつ、ガラースが自分の扱っている主題の高みにはふさわしくないこと、たとえば誠実で尊敬すべき著者シャロンの書物の本当の意味をまったく理解していないことをオジェは非難した。「ガラース、わが友よ、シャロンの本はあなたのそれのごとく、卑しく民衆的な精神にとっては少々高級すぎます。天体にしてもあらゆる種類の蒸気を餌にしているわけではなく、上質で卓越した著者のものであっても、われわれの精神もあらゆる種類の読書から好ましい養分はとれないのです(...)。お話しなさい、ガラース、あなたの常日頃の方たちと、マロやムラン・ド・サン=ジレといったまっとうな博士がたと。彼らからなら、セザリウスの討論集会、あの見事な手本の宝庫、ラブレーなど、あなたはとても立派な証拠を引き出せるでしょう(...)。それを読んで、あなたの良い気質をお保ちなさい。さもないと、世の人々はまったく言葉を失って笑い出すことになります。シャロンの本には手をつけずにおきなさい。誠実すぎて、あなたの本よりずっと強くてずっとまじめな人向けなのですから」。 ゆえに「高みの見物を決めこんだ」、「リベルタンがこの論争の最大の勝者だった」。なぜならこうした「カトリック教会内部の争い」は「確実に不信仰の増大に手を貸してしまった」からであった。
学識的リベルティナージュのセクト
リベルタンをその敵対者の目から見た後で、今度は彼らと直接接触するのが適当だろう。これは困難な 使命である。彼らを取り巻くそれなりの秘密厳守というやり方があったからである。彼らはほとんど書き物の跡を残さなかったし、手がかりを残さないため、その跡も往々にしてあいまいで矛盾に満ちていた。歴史記述の古典となったいくつかの注目すべき研究が、幸いこの雑多な世界の知識をすっきりさせてくれ た。シャルボネル、ビュッソン、パンタール、スピンク、ズュベール、アタン、トカンヌ、オストロヴィキー、ルクレール、そしてほかの人々のおかげで、わたしたちはリベルタン運動の諸思想、行動、主要人物の輪郭を多少なりとも描けるようになった。
第一にとりあげるは、パンタールによる「カトリック」、「プロテスタント」の伝統をひくものと、れっきとした「反キリスト教的不信仰者」である。
ルネ・パンタールの研究は、今日でも本主題に関するもっとも完全な研究の地位を保っているが、結論としてて、「アンリ四世の治世の末期もしくはルイ十三世の幼少期に、社交界の人々のあいだ、そしてさらに学識ある人々のあいだで不信仰が広がり、それがときにはほとばしり、ときには自分から姿を隠し、あるいは知られずにいた」と記している。運動の漠然とした性格のために厳密すぎる分類はできないが、それでも著者は三つの主要なカテゴリーに分けている。科学の革新によって困惑したまじめなカトリック。彼らは疑問や批判を呈して、今日わたしたちが《調査中》という状態にあった。ガッサンディ、ガファレル、ローノワ、マロル、モンコニーがそうだった。束縛を解かれたプロテスタント。彼らは、たとえ不信仰に身を任せることになろうとも自由な哲学的思索をくり広げた。ディオダーティ、プリオロー、ソルビエール、ラペイレールらである。そして、ル・ヴァイエ、ブルドロ、トゥルイエ、キエ、ノーデ、ブシャール、リュイリエといったれっきとした反キリスト教的不信仰者がいた。信仰と理性の分離の支持者ではあったが、彼らは合理主義と懐疑論のあいだで揺れ動き、そのために一貫した体系をうち立てるには至らなかった。世紀中頃まではむしろイタリアの自然主義に傾いて、超自然的なものとは性が合わなかった。 続いてはスピンクによる、順応主義者と、その多くを若者が占める過激派の区分である-本稿の冒頭で論じたようなクローズドな知的サークルに閉じこもったものは全員前者にあたる。
ジョン・ステファンソン・スピンクは、彼なりの仕方で二つの大きなグループを区別した。一方の側にはリベルタンで学識ある懐疑論者、有識者、司書、説教師たちがいて、洗練され、控え目で表向き順応主義を装っていた。他方の側にはロクロール、ロマンヴィル、オードサンス、クラマーユ、サヴァリーのような過激な自然主義者、青年貴族がいて、反抗的で、苛立ち、挑発的だった。白黒をつけたい欲求、絶対的なものへのある種の渇望に突き動かされて、彼らはときには無謀なやり方で自分たちの過激な考え、必要ならニヒリズムにいたるほど否定的な考え、そしてたいがいは猥褻な考えを声高に叫んだ。彼らが証明したこの種の激高は、社会がしだいに硬直した特徴を顕わにすることへの絶望の表れ、一種の若者特有の抗議だろうか。一六二三年の『フランシヨン滑稽物語』の冒頭で、シャルル・ソレルが語った《お知らせ》で、彼は肯定的な答えの側に立って次のように弁護した。「そもそも真理が公に明かされることが妨げられているこの時代の退廃に押されて、わたしはこのようにし、ものごとの奥底を見通すことのできない無知な者たちにはおそらく愚かな言動だらけと映る夢想で、わたしに向けられた主だった非難を包み込んでしまわなければならなかった」。シャルル・ソレルがこの本を刊行したとき、彼は二十歳を少し越えたばかりであり、若いリベルタンたちの良い見本だった。彼らの集まりには、貴族、司法官、商人、金融業者の子弟が見られた。いくぶんかは同様の集まりがジャンセニストの側にも見られた。一方は峻厳な敬神へ、他方は不信仰へと引きこもる、社会の閉塞状態に対する同一の抗議なのだろうか。問いを立てることしかできない。この若者たちにとって、世界を率いるのは運命であり、神々は人間のでっち上げだった。 若者に決起を促す一方、コトン神父が描写したように、オルレアン公率いる権力者にもリベルタンの血脈は蔓延る。
医師社会
またそうした思想は教会のなかまで及んだと言う。
最後に貴族や医師以外に、無視できない数の不信仰の聖職者、メリエの先駆者がリベルタンの列に数え上げられる。彼らは本心を偽る。「うまく立ち回って全生涯を自分では一度も持ったことがなかった信仰で満たすあやしげな聖職者。無関心で反軽信主義、彼らはまったく抑えが効かなかった。最初から良識に反するウソをつく術を身につけはしなかったが、彼らは本心を偽り、言い逃れをすることは学んだ。生涯を通じて、うわべだけの断言で人を手玉にとる狡猾な手練手管を研ぎすます。スータン〔カトリック協会の聖職者が平常着る足下までの長い服、カソックとも言う〕をまとった信仰を持たない者にとっては、なんとも奇妙な難行苦行だ」、とルネ・パンタールは書いている。例として、国王つき教戒司祭、カッサンの小修道院長のジャン=バティスト・ユーロン、ヴイルロワンの大修道院長のミシェル・ド・マロルの名をあげておこう。二人とも懐疑論者の放蕩者だった。
代表的リベルタンたち
こうした「リベルタンたちの立場の極端な多様性」を詳細にみていくべく、以降は17世紀全体のリベルタン達をひとりひとりみていく。が、その前にリベルタンらの理論的支柱となった16世紀の書を紹介したい。
ジャン・ボダンはとらえどころのない精神の持ち主で、時代のあらゆる矛盾と関わっていた。経済学者で思慮深い政治理論家であれば、同時に確固とした魔女狩りの支持者だった。寛容を奨励する合理主義的懐疑論者でもあれば、同時に無神論の敵対者でもあった。『歴史方法論』で宗教の比較研究に打ち込み、風土の違いを強調してそれぞれの違いを説明し、相対主義的な精神で不敬虔の歴史を書くことを求め、『国家論』では「少しずつではあるが、宗教への侮蔑から、無神論主義者の唾棄すべき一党が離れていった(...)、無神論主義者からは無数の親殺しの殺人、毒殺が起こった」、と述べた。ボダンがもっとも完全な形で自分の宗教思想を表したのは、『七賢人の対話』においてだった。リベルタンたちがおおいに称賛することになる、この興味をそそる本には、宗教上の七つの立場を代表する七人の賢者、カトリック、ルター派、カルヴァン主義者、ユダヤ教徒、イスラム教徒、理神論者、無関心派が登場する。彼らは仲良く暮らし、それぞれの立場の長所について議論を交わす。全員一致で、彼らは不道徳へと誘い込み、人間を動物の状態に落とす無神論を非難する。驚くべきやり方で、やはり彼らは宗教上の議論に敵意を示す。そうした議論が信仰を弱め、懐疑へと導くからだ。彼ら自身の会話がその模範なのだ。というのも、さまざまな宗教、とくにキリスト教はどんな批判からも免れないからである。キリスト教は並々ならぬ激しさでユダヤ教徒、イスラム教徒、理神論者、無関心派から悪し様に扱われる。イエスの位格が情け容赦なく異論の標的にされた。その無垢な考え方、神的本性、奇蹟の数々、サタンからの誘惑、手遅れの召命、復活は多くはケルススやユリアヌスに由来する議論で否定された。三位一体、聖霊、原罪は、理性と自然法則への挑戦と考えられた神人同形説、秘蹟、儀礼はキリスト教の陰鬱な性格とされ、すべて情け容赦のない批判のターゲットにされた。この雪崩のような攻撃を前にして、カトリックのコローニは防戦一方で崩れそうになり、「うんざりだ、いつだってまたやり直しだ」、そう叫んだ。コローニの答弁はみじめで弱々しいもので、信者たちの信仰を強めるにはなんの役にも立たなかった。コローニが《証拠》として聖書のテキストを持ち出すと、こうたずねられた。「そんな十分な証人、そしてその担保となるような権威ある人はどこにいるのかね。それからその担保だが、それにどんな不確かさの余地もないような確実堅固な信用をあたえられる保証人はいるのかね」。コローニの対話者、理神論者のトラルブは、「自分には説得力ある議論が必要であり」、すべての対立する宗教のなかで、「ものを見、何が良いか悪いか、あるいは真か偽かを判断し、知るために各人の魂のうちにかの神があたえたもう、天啓の光」、ただ理性だけを導き手にすると宣言した。無関心派のスナミーと一致して、コローニは懐疑論へと傾く。「かくも多数の宗教のうちには、二つのことしかありえない。宗教は何ものでもないというのがひとつ、あるひとつの宗教が他の宗教よりも真であるということはないというのがもうひとつである」からだと彼は言う。本書の結論は明らかに理神論的で相対主義的だ。さらにその結論はスナミーの口から語られる。どんな宗教も責めてはならず、疑いを抱いても、自分の国の宗教を行わねばならない、というものだった。彼は、無神論が社会的混乱を引き起こさないという条件で、無神論さえ認める。次世代のリベルタンは『七賢人の対話』への称賛を宣言することになるだろう。これはノーデのお気に入りの本だったし、パタンやクリスティーナ女王はそれぞれ一冊ずつ持っていた。内面の大いなる自由と結びついたこの外面の順応主義はタルマン・デ・レオーによってマレルブの言葉とされた、以下の一節に表現される。「ほかの者たちのようにわたしは生きた、ほかの者たちのようにわたしは死に、そしてわたしはほかの者たちが行く所へ行きたい」。 次に紹介するのはガッサンディとパタンである。
当代随一の碩学のひとりで、教会の要職者からはエピクロスを再興しようとしていると恐怖の眼差しで見られていた、司教座聖堂参事会員のガッサンディ(...)は、この名前を口にしただけで教会の憤激を買うには十分だった。ガッサンディにまといつくリベルタンとの評判は、イエズス会士ラパンとダニエルの邪推による告発に基づくものでしかなく、きわめて独立した哲学的立場はとってはいたにせよ、当の参事会員は誠実なキリスト教徒であった。(...)ガッサンディは、全ヨーロッパの学者との文通を通じて、あらゆる文化的革新の合流点となった。当然懐疑論者でスコラ哲学は放棄していたが、ガッサンディは一六二六年から、友人たち、特にべークマンに推奨されて、エピクロス哲学に惹かれた。ガッサンディがこの哲学に手をつけ 原子の実在と、自らを組織しながら思考を生み出すその能力に確信を持ったのは、自然学者としてだった。一六二四年に原子論に関する博士論文の口頭審査をしたことで、ジャン・ビトーとエティエンヌ・ド・クラーヴを告発したばかりだった教会当局の側と衝突する危険という困難が待ちかまえていることを、ガッサンディは百も承知だった。その際ソルボンヌは、「万物は不可分の原子から構成される」との言明を「誤っており、無礼で信仰に反する」ものとして禁じた。こうして、原子論はほとんどイタリアでしか発展することができなかった。イタリアでは、フランス人のジャン・クリゾストム・マニャンがパヴィーアで原子論を教えていた。もっともガッサンディは、神を原子とその運動の創造主とすることで、教会を味方につけるのは不可能ではないと考えた。さらにガッサンディは、エピクロス主義の枠内で神の存在の証明を目論んだ。神の観念は生得的なものではなく、またまったく経験に由来するものでもない。第一原因、至高の知性としての神は、人知が及ぶ世界を創造された。この創造、ガッサンディはそもそもそれを、教会への忠誠心から《無からの創造》という考えに同意してはいたものの、永遠の物質をもとに考えようとした。神は宇宙に秩序と調和を立てられたが 、それはある種生命ある機構体であり、拡散する感覚能力を備えていた。物体は諸々の存在に作用を及ぼす微細粒子を発散する。これらすべては、世紀末にアントワーヌ・アルノーがその例を示すことになるように、危険な帰結をはらんでいた。存命中一六四九年にエピクロスの生涯と著作を紹介する一七六八頁の大部の著作を公刊したガッサンディは、きわめて多方面からの攻撃を受けねばならなかった。イエズス会はもちろんのこと、天文学者のジャン=バティスト・モランは無神論者としてガッサンディの死刑を主張したし、デカルトは私的な書簡で自然学の問題で論争を交わした。ガッサンディは、そのエピクロス主義から神学者の目にはいかがわしく映ったが、彼の個人的な信仰はほとんど問題にされなかった。ほかの者たちは、ギー・パタンのようにもっとあいまいだった。一六五二年以来医学部長だったこの医師、懐疑的精神の持ち主だった。イエズス会の敵として、パタンは好んで民間信仰のありそうもない話を指摘し、信仰を弱体化させるプリニウス、タキトゥス、ウァロ、セネカ、キケロらの数節を収集し、魂の不死を笑いものにし、説教をバカにし、理論的に断罪するために、十六世紀の著者たちのありとあらゆる不敬を指摘した。その告白でパタンは、自分は新しいものには反対であり、目に見えるものしか信じないが、とはいえ神学では多くの信用のおけるものを受け入れる用意があると宣言した。この相当に辛辣な人物の思想をはっきりさせるのは困難であり、自由思想家との評判はいくつかのあやしげな逸話にしか基づいていなかった。 次にノーデとル・ヴァイエが紹介される。
続いて17世紀初頭リベルタンとして最後に紹介するのはヴォクラン、デ・バロー、ヴィオーである。
ロングヴィル公の説教師、フィリップ・フォルタン・ド・ラ・オゲットもまた、一六五五年の『遺言書』で子どもたちにその遵守を勧めた厳格なカトリシズムの外観の下に、自分の理神論を隠していた。一六三三年からメッツの高等法院長だったルネ・ド・シャンテクレは、やはり自国の宗教にとどまるべきだとする無関心派だった。一六〇四年にヴァンドーム公の、次いで一六〇九年に将来のルイ十三世の説教師なったヴォクラン・デ・イヴトーは敬神派の手で宮廷から追放されたが、無神論者との評判をとった。ヴォクランは、フォーブール・サン=ジェルマンの大邸宅で洗練された穏やかなエピキュリアンの暮らしを送った。「あまり神を信じていない、おまけに少年愛を行っている、と人々から非難された」、とタルマン・デ・レオーは記す。すでに見たように、敬神家の心のなかではこの二つはしばしば結びつけられた。一六四五年に、ヴォクランは「サルダナパロス〔伝説上の最後のアッシリア王、首都陥落に先立って、王妃・財宝とともに自ら焼死したと伝えられる。ドラクロワの『サルダナパロスの死』で有名〕として生きる」と歌ったソネットで、世間の顰蹙を買った。実際には、ソネットについての放蕩家たちの陰口のほうが根拠のないものだった。こうした陰口は、パドヴァでのクレモニーニのかつての弟子、ジャック・ヴァレ・デ・バローについてもまったく同様だった。実際、デ・バローは深刻なペシミズムをともなった懐疑論者で、自分の思想を数行の詩句に表していた。「大衆の誤謬を免れた精神を持つこと、玄義に払うべきあらゆる尊敬を抱き、なんの後悔もなしに、道徳的に生きる。十全たる確信のもとに現在をわがものとし、将来に恐れも希望も抱かない。いかなる場合も待つは穏やかな死のみ」バローによれば、理性はわれわれの悲惨をわれわれに知らしめることにしか役立たない。われわれにはただ唯一の展望として死があるだけで、われわれは盲目的で狂暴な自然と虚無に包まれている。「泣く、うめく、苦しむ、弱い者も強い者も、不確かな人生の運命の流るるままに、どれほど辛い道筋を棺へとわれわれは引きずられるか、貧しさ、病気、そしてそれに続く死。永遠の眠りが死の後に続く、生命から離れると、わたしは虚無に入る、ああ、痛ましきわが身の有り様よ!」。すべてが死によって終わるのだから、人生を最大限楽しむべきだ、とデ・バローは考える。だがこうした懐疑論者の大部分は放蕩とはなんの関係もなかった。一六二〇年代にきわどい詩、ポム・ド・パンの居酒屋への入り浸りでもっぱらのうわさとなり、自然の法則に従って生きることを期待したテオフィル・ド・ヴィオーでさえ、人が彼のせいにしたやりすぎすべては一度もしてはいなかった。一五九〇年にアジャン近郊のプロテスタントの一家に生まれ、放浪詩人の暮らしを送り、次いで一六一三年からカンダル伯の、一六一九年からはモンモランシー公の執事を務めた。ヴィオーは、自分が受けたプロテスタント教育の痕跡は何も残さず、詩作では自然が表す神秘的なエネルギーの存在を信じる、汎神論的で神秘主義的な自然主義者としてはっきりと姿を表す。ヴィオーによれば、人間は物質から生まれ、数あるうちの一匹のけものにすぎない。「自然以外の神を認めてはならず、自然にはまるごとゆだねねばならず、そしてキリスト数は忘れて、けだもののように万事自然に従わなければならない」。こんなふうに一六二三年〔この年ヴィオーに死刑の判決が下される〕の判事はヴィオーの思想を要約したが、彼の思想は考え抜かれた体系ではなく、幻滅し、世間の顰感を買う、漬神の激しいいら立ちが刻み込まれた作品のなかに、表れていた。テオフィル・ド・ヴイオーは騒ぎを好む小グループのメンバーのひとりとして姿を現したが、すぐにイエズス会からスケープゴートに仕立て上げられた。イエズス会は当時パリ大学に入り込もうと試み、あらゆる機会をとらえて異端やリベルタンに対する闘いにおける自分たちの熱意を証明しようとしていた。こうして一六二三年にはっきりと不敬の色合いを持つ共著、『諷刺詩人のパルナッソス山』が現れると、テオフィルと仲間の数人の逮捕が布告された。首謀者として隔離され、欠席裁判で死刑を宣告され、ヴィオーは逃亡せざるをえなかった。見つけ出され、再度判決を受け、死刑判決が追放刑に減刑されたが、その健康は入牢のために危機的状態になり、彼を見放し、ヴィオーは一六二六年に死んだ。 ブーヴとボシュエ
サント=ブーヴは、その記念碑的な歴史書『ポール・ロワイヤル』で、こう記した。「十七世紀、それなりの視点から考察すれば、この時代は直線的で途切れることのない伝統のなかの不信仰をかいま見せてくれる。ルイ十四世の治世は、あたかも不信仰によって蝕まれているかのようだ。フロンドの乱は自由奔放な者たちの群れを王に送りつけた。激しく抜け目のないエピクロス主義者、高慢な女たち、レス枢機卿たち、ドン・ジュアンの正真正銘のオリジナル、パラティーヌ大公妃、コンデ公、そして聖なる十字架のかけらを内輪で焼く陰謀を企てる医師で司祭のブルドロ、ニノン、サン=テヴルモン、サン・レアル、そしてエノー、レネ、サン=パヴァンといった詩人たち、メレ、ミトンそしてデ・バロー、デズリエール夫人、彼女のことはべールがある面でスピノザに結びつけることになるのだった(...)。若い宮廷は外に漏らしてはならない異教の悪日に溢れていた(...)。だから注意深いキリスト教徒の警告の叫びが理解できる。それにしてもまったく別の意味で驚かされるのは、偉大な治世のもっとも晴れがましい時期に司教座に席を占め、橋のど真ん中にでもいるかのようにものごとの全体を考察し、それを確固たるものとして受け入れ、下々には耳も貸さず(ボシュエこそ預言者だ!)、少なくとも声を上げて大洪水を警告もせずに、ボシュエがある種泰然自若としているようである。卓越したコンデ公やパラティーヌ大公妃の追悼演説で、ボシュエは自分が褒めたたえているのは老いさらばえてゆく英雄であるかのように装い、最初の、そして奥深い不信仰を聖なるヴェールで覆い、墓の上に勝利のテ・デウム〔国家的慶事や戦勝祝賀のために作られたカトリック教会の聖歌のひとつ、「神ニマシマス御身ヲワレラ讃エン」の意〕を響き渡らせた。とはいえ不信仰は己の道をたどり、王侯貴族から民衆へと移って行った。ルイ一四世治下では、精神の自由は上流階級や一握りの上流ブルジョワジーに限られていて、大通りの下層民は教区民にとどまり、狂信主義にいたるほどだった。カトリック同盟〔宗教戦争期のカトリック過激派組織〕からはまだそれほど隔たってはいないのだ!我慢を!」。サント=ブーヴの見取り図は大筋で妥当なものである。偉大な世紀のあの輝かしいキリスト教的な外面が、実際には密かに進められた破壊工作を隠蔽していたが、その結果は一七〇〇年代に劇的な形で姿を現した。おそらくはあまりにも長い間保守的な歴史研究者たちは、ヴァンサン・ド・ポール、パスカル、ボシュエ、マルグリット=マリー、バロックの黄金色の輝きとイエズス会の宣教に目を奪われ、太陽王の時代を十八世紀の大いなる宗教的危機に先行する華麗なキリスト教の勝利の時代としてきた。同時代人自身、たしかに、しばしば礼拝の豪華絢爛たる聖堂区でのお勤めの一体主義的外観に惑わされ、信仰の決定的勝利を断言した。それでも、である。大聖堂がテ・デウムの鐘や豪華な説教を響かせたその一方で、人に知られることもなくキリスト教の出現以来もっとも恐ろしい反宗教的告発文書を、メリエ司祭は満睦の怒りを込め、自分の司祭館で認めていたのだ。メリエの爆弾が炸裂するのは十八世紀になってからのことにすぎない。しかし一六六〇年以降不信仰はひそやかに、しかしどうにも避けようがない形で進行した。思想の展開はトリエント公会議が硬直化させた信仰をあらためて問題とするよう導く。イタリア自然主義、ガッサンディ主義の遺産を取り込み、デカルトの機械論を真理の探究に適用し、ホッブズやスピノザの破天荒の概念について議論を交わし、リシャール・シモン、ラ・ペイレールやバーネットの聖書批判の功罪を論争しながら、知的世界はしだいに聖ペトロの岩山〔ローマ・カトリック教会、ペトロがイエスにより教会の岩とされ、天国の鍵を授けられた(マタイの福音書 第十六章)ことによる〕から向きを変えてった。これらの論争の反響はリベルタン第二世代や、国王の取り巻きたちのあいだでさえも自分のエピクロス主義を隠し、自分をさらけ出すにはひたすら恩赦を待つのみといったえせ敬神家の世代にも届いた。さらに重大なのは、おそらく、民衆の信仰心のうちに亀裂が生じたことであり、宣教師の報告がそれを明らかにした。偉大な世紀は、《魂の偉大な世紀》ではない。それは、敬虔なダニエル=ロプスがその『教会史』であたえた表現だった。それはむしろうわべだけの見せかけの偉大な世紀、紛らわしい世紀であり、公式見解は文化と宗教の完全な相互浸透を宣言する一方で、はじめて文化と宗教のずれが事情に通じた者の目にはそれと分かるようになった時代だった。サント=ブーヴが言ったこととは反対に、ボシュエは信仰に反対する脅威が高まって来るのを目にし、さらに自分がまったく無力であることも感じていた。というのも、モーの鷲〔ボシュエの異名〕は合理的な精神の持ち主であり、デカルト主義者であり、その同じデカルト主義が信仰に敵対する途方もない道具になろうとしているのを、漠然としてではあったが感じていたからである。ボシュエはこの亀裂を、一六八七年五月二十一日付の手紙で、こう記す。「デカルト哲学の名のもとに、教会に対して大きな戦が準備されている(...)のが見えます。これはわたしの意見で誤解だと思いますが、一個の異端以上のものが教会の、そしてその原理の内部から生まれているのが見えるのです。そこから、われわれの父祖が守ってきた教義に向かって引き出される結論が予測されます。教会をおぞましいものにしようとし、哲学者の精神のうちに神なるものと魂の不死をうち立てるために教会が教義に期待しえたあらゆる成果を教会から失わせようとするのです。この誤解された原理のおかげで別の恐ろしい不具合がはっきりと人々の心をとらえています。明晰に理解されることは認めねばならないという口実が、ある範囲に限られてはいても、それをきわめて真実なこととして、自分はそう考える、いや自分はそうは考えないと、各人に好き勝手物言いを許しているのです。そしてたったこれだけのことを根拠に万事こう思うだとかああ思うとか言い、われわれの明晰判明な観念以外にも、きわめて本質的な真理を含まずにはおかないが、あいまいで漠然とした観念があることなど思いもよらず、それを彼らは全否定してひっくり返してしまうのです。こんなことを口実に、判断の自由が導入され、伝統を顧慮することなく無謀にも頭にあることすべてを口にするようになりました。これまでこうした行き過ぎは、わたしの意見ですが、新体系〔デカルト哲学〕における以上に現れたことはありません(...)。一言で申せば、わたしはかなりひどい間違いを犯しているか、あるいはわたしは教会に反対する一大勢力が形作られるのを目の当たりにしているのです。早めに理解し合えるようにしないと、きちんと手を打つ前にこの勢力は折を見て暴発します」。この手紙は、その人自身がデカルトの弟子だった《マールブランシュ神父のある弟子に》あてられたものだった。ボシュエは、宗教に適用されたらデカルトの方法が超自然的なものや奇蹟のようなものを消し去ってしまうことをきちんと見抜いていた。「わたしが気が向けばですが、このやり方で死者の復活も生まれつきの盲人の治癒もすべて自然に還元してあげますよ」というわけだ。ボシュエもやはり宮廷でのリベルタンの重大さを確認できる十分な立場にあで、ボシュエは彼らを非難した。「リベルタンのことはわたしには何も申されますな。彼らのことなら分かっています。毎日彼らが駄弁を弄しているを耳にしているのです。彼らのおしゃべりで気づかれることは見せかけの才能、漠然とした好奇心、あるいは率直に申し上げればまごう事なき虚栄心だけです。その底には御しがたい情念があって、それが、あまりにも大きすぎる権威から押さえつけられてしまうのではないかと恐れて、神の法の権威を攻撃し、人間精神に生来の誤謬から、幾度となくそう望んでいるうちにこの法をひっくり返せたと思ってしまうのです」。この司教によれば、リベルタンは特別な考えを持ってはいなかった。エピキュリアンとして生きることだった。「どこから、キリスト教の真理に反対し、キリスト教のただなかでこれほどあからさまにわき上がるのが目につく、リベルタンのあの群れが生まれたのでしょうか。信じることができない玄義を信じるよう持ちかけられたことにいらだったからではありません。玄義をまともに検討する労をとるなど一度もしたことがないのですから。(...)予定説の秘密が手の届かぬままでありますことを。一言で申せば、天にあってはお気に召すまま神がすべてであられ、またすべてをなされますことを願い、地にあってはあの輩が思いのままに情念を存分に満たすように神がなされることを願います」。宮廷は、神を忘れたリベルタンで溢れていた。だが生粋の無神論者はまれだ、とボシュエは言う。「まず無神論者やリベルタンがいて、ものごとは偶然によってや行き当たりばったりで、秩序もなければ監督もなく、卓越した導きもなしに進行する、と彼らは公然と口にする。(...)大地はこんな怪物などほとんど担ってはいない。偶像崇拝者さえもまた異教徒もそんな輩を憎むだろう」。 ラ・ブリュイエール、モリエール、タルマン
別の格別の証人、同時代人の欠陥についての情け容赦のない観察者、それはラ・ブリュイエールだった。『人さまざま』で《強き精神エスプリ・フォールについて》扱ったもっとも大きな章〔第十六章〕についてはあまり注意が払われて来なかったが、こうした精神の持ち主をラ・ブリュイエールは手厳しく批判した。彼らに割かれた三〇頁は、上流社会における彼らの重要度のしるしである。そしてこの側面こそ、わたしたちが留意しておくべきことなのだ。それ以外では、この高名な肖像画家の分析はあまり説得力を持たないからである。そしてその点に関する限り、ラ・ブリュイエールは素朴な信仰を地で行っている。「神がいると思うし、いないとは思わない。わたしにはそれで足りる。世界についての屁理屈はわたしには無用だ。それで神は存在する、とわたしは結論する。この結論は、わたしの本性のうちにある。その原理をわたしは子どもの頃にたいそう易々と受け入れ、それ以来さらに年をとってもごく自然なものとして守ってきたから、今更そのことに疑念を抱くまでもない。―でも、そんな原理を厄介払いする人だっておりますよ。―そんな者がいるのかどうか、これは大問題だ。しかしそうであっても、それはただ怪物がいることを証明するだけだ」。その一方で、ラ・ブリュイエールはまともな無神論の可能性など見向きもせずにこう述べる。「無神論は存在しない。いちばんその疑いが濃いとされる大貴族も自分の心のなかで神がいないと決断しなければならなくなると、途端に怠け者になる。その無気力さのおかげで、自分の魂の本性についてや真の宗教がもたらしてくれるもの、そういった重大な事柄についても彼らは無感覚、無関心になってしまう。否定もしなければ肯定もせず、要するに何も考えてはいないのだ」。ところが数行先で、ラ・ブリュイエールは宮廷にはリベルタンと偽善者の二つのタイプの不信仰者がいると断言し、後者についてこう書く。「えせ敬神家は神を信じていないか、神をあなどっているかのどちらかだ。そういう者には喜んでこう言ってあげよう。そいつは神を信じていないのだ」。この章には、この種の支離滅裂な話が溢れている。釈明など必要としない自分の素朴な信仰を宣言した後ではそうなるのだろうが、ラ・ブリュイエールはくり返し釈明し、信仰に都合のいいありったけの決まり文句、上っ面だけのまことしやかな議論を何もかも並べ立てる。彼は書いている。シャム人がわれわれを彼らの宗教に改宗させようとわが国にやって来たとしても、われわれはそんなことは笑い飛ばすだろう。ところでわれわれも、彼らの国に行って彼らにわれわれのものをもちかける。それでも彼らは笑いはしない。これこそが、われわれの宗教が真理であることの証拠ではないのか。偉大なるラ・ブリュイエールがわたしたちに見せつけてくれたのは、なんとまじめな議論の仕方だったことだろう!ごちゃ混ぜである。彼はキリスト教の都合のいいものならどんな議論でも利用した。玄義、奇蹟、儀式の美しさ、パスカルの賭け、世界の秩序、自然の驚異、社会の秩序、魂の不死、間違いないとなれば、これ見よがしのデカルト的公式でさえ利用した。「わたしは考える。だから神は存在する。わたしのうちにあって考えるもの、わたしはそれをわたし自身に負っているのではないからである。(...)すべてが物質であれば、またわたしのうちにある思考が、ほかのすべての人の場合同様、物質の諸部分の配列の結果でしかないとすれば、物質的なものを除いたほかのすべての観念をこの世に設けられたのはだれだろうか」。不信仰は、ラ・ブリュイエールによれば、われわれを違った宗教と接触させ、そうやって相対主義に手を貸す有害なやり方である旅行とともに広がった。他人の宗教からわれわれは何を知る必要があるというのだ。「ある者たちは長い旅行でついには身を持ち崩し、自分に残されていたひとかけらの宗教を失ってしまう。彼らは日々新たな礼拝、さまざまな風俗、さまざまな儀式を目にするのだ⋯⋯」。不信仰者のあいだには、世間並みにはしたくないという単なる欲求から、またほかの者は自慢癖からそうなっている者が多い。元気でいるうちはそれでも結構、だが死が近寄ってくると考えが変わる。「暴飲暴食もせず、慎み深く、控え目で、公平で、それでいて神がいないなどと口にする者がいたら、お目にかかりたいものだ。口にしても、少なくとも関心がないからだ。だがそんな奴などいはしない」。無神論者は自然学では原子論者だ、と著者は記す。「原子に依拠する者たちが真理を探ろうとほんのわずか力を出しても戸惑うさまに、わたしは驚きなどしない。(...)こんな精神の持ち主が不信仰や無関心に落ち、神や宗教を政治のために用いようとするのも当たり前だ」。この章はたしかにラ・ブリュイエールのなかで最良のものではないし、その評判も浅薄な弁護の域を出るものではなかった。とはいえそのように『人さまざま』の大部分と同じ質を保つだけの距離をとる余裕もなく、熱心ではあっても不器用にしか《強き精神》に反論できないとラ・ブリュイエールが見えたとしても、この《強き精神》がラ・ブリュイエールにはきわめて危険なものと映ったとは言えるだろう。こうした危険の印象は、そのために大論文を書くことが必要だと判断したパスカルから、ギーパタンに至るまで多くのほかの文献資料によっても確認される。パタンは一六六二年十一月十一日にこう書く。「ロクロール殿がイタリアに軍を送る良策を提案されたようです。つまり、リアンクール殿が、二万人のジャンセニストを供出され、テュレンヌ殿が二万人のユグノーを、そしてご自身は一万人の無新論者を供出されるのです」。ニコルによれば、今やプロテスタンティズム以上に重大なものがあった。「この世での重大な異端はもはやカルヴァン主義でもなければルター主義でもなく、無神論であること、そして善意の者、悪意の者、毅然とした者、優柔不断な者、引きずり込まれた者などありとあらゆるタイプの無神論者がいることをご承知いただく必要があります」。またほかの箇所では、「近年の重大な異端、それは不信仰です」と彼は書く。ライプニッツによれば、一六九六年には理神論自身が過激な無神論に追い越され、ライプニッツは「誰もが少なくとも理神論者でありますように、すなわち万事は至高の英知によって統べていることを十分に確信しますように」、と祈った。ルイ十四世の文学的栄光を支えた者たちのあいだでも、誰もがラ・ブリュイエールのような単純な信仰心を持っていたわけではなかった。自分のサロンにエピクロス派の叙情詩人を集めたラ・サブリエール夫人にあてた発言に表れているように、生涯一度も教会に足を運ばなかったラ・フォンテーヌが、どれほど汎神論的物活論の疑いをもたれたかは周知の事実である。モリエールについて言えば、シャプランの証言では一六五九年以前にルクレティウスの翻訳を企てたし、グリマレによればピュロン主義とエピクロス主義の間を飛び回っていた。モリエールの『タルチュフ』は今でも謎めいたあやしげな作品であり、欺瞞なのかそれとも敬神なのか、その本当の標的が何なのかをはっきりさせるのは難しい。その点で『ドン・ジュアン』は、聖なるもののあらゆる形態に対する人間の反抗を体現している。スガナレルはこう言う。「言っておくがね、おいらのご主人さまの中にゃ、これまでこの大地が生んだ極めつきの大悪党、ヤクザ者、犬畜生、悪魔、イスラム教徒、天国も地獄も信じない異端者、世の中を本物の野獣として生きる狼男、エピクロスの豚、人様がしてくださるキリスト教のどんな忠告にも耳を塞ぎ、おいらたちが信じることは何もかもばか話扱いする本物のサルダナパロス〔メソポタミア神話に登場する紀元前七世紀のアッシリア王。放蕩の挙句圧政に耐えかねた民衆の蜂起により宮殿ごと焼き殺された〕が住んでらっしゃるんだ」。あるいはドン・ジュアンは、質問をはぐらかすそのやり方でそう思わせておく、単なる不可知論者なのかもしれない。「スガナレル:まさか、ご主人さまは神様をまったくお信じではないとか。ドン・ジュアン:うっちゃっておけ、そんなことは。スガナレル:つまり、お信じじゃないんですな。じゃあ地獄は。ドン・ジュアン:おいっ!スガナレル:まったくご同様で。じゃあ悪魔はいかがでございますかな。ドン・ジュアン:あー、あー。スガナレル:やっぱりほとんどだめ。あの世は信じていらっしゃらない。ドン・ジュアン:はっ、はっ、はっ!」ドン・ジュアンの悪魔的美しさと偉大さは、伝統的な宗教の息詰まる重圧をはねのけ、人間としての自立を求めるある種のリベルタンと無関係なものではない。タルマン・デ・レオーから「とにかく王国で最大の濱神家の気違い」と呼ばれた、ロクロール騎士はその極端な例証である。これもタルマンによるが、「トゥールーズで彼の者同様の気違いが見つかりましたが、ロクロールは九柱戯の最中にミサを非難し、うわさでは女たちの恥部に聖体のパンを授け、犬たちに洗礼を施して結婚させ、考えつくあらん限りの不敬を行い、またそれを口にしているそうです」。その報いで、ロクロールは一六四六年二月十七日最初の逮捕に見舞われた。釈放されたものの、彼はまた破廉恥な暮らしを始めた。ヴァンサン・ド・ポールやほかの敬神家たちは、女王に彼の首を要求したし、聖職者会議は宮廷に代表団を送り制裁を求めた。一六四六年四月十五日ロクロールはバスティーユに入牢させられたが、マザランの取り巻きから声が上がった。「こんなつまらぬことで身分のある者を逮捕」させるとは。自分の裁判では神と立ち向かわなければならないことを予想して、ロクロールは反論する。「神はわたしほどたくさんの友人を高等法院にお持ちではない」。とはいえ、彼は逃亡したほうがずっと無難だと考えた。タルマンはさらにロクロールの友人、「不敬で名高い」ロマンヴィルについて語っている。彼が重病になると、彼を回心させようとやって来たフランシスコ会修道士をロクロールは鉄砲を手にして迎えた。「お引き取りください、神父殿。さもないとお生命を頂戴しますぞ。奴は犬のように生きました、だから犬のごとく死なねばならぬのです」。タルマン・デ・レオーの『寸話集』はこれと似たケースをふんだんに載せていて、悪口や誇張を差し引いても、リベルタンの伝統が、ヴァニーニの弟子のパナ男爵、平然と自ら生命を断ったリオトゥレ、クラマーユ伯とともに一六六〇年代まで続いたことを示している。クラマーユ伯はやはりヴァニーニの弟子で、「二つの宗教を和解させるには、お互い向き合ってわれわれが認めている信仰箇条を身につけ、それで満足しておけば足りる。そうしたらパリで町人どもの担保をくれてやる、それを守れば誰でも救われるのだ」、と言い切った。同様の理神論的態度がボーリュー男爵、ルネ・ドーデッサンにも見られ、彼は「八十一の宗教があるが、自分はどれも同じように良いものだと思うと言った」。タルマンは忘れることなく、ニノン・ド・ランクロ〔十七世紀の高級娼婦、サロン主人〕をそのリベルタン肖像画集に加える。ニノンは、ミオサンやアレクサンドル・デルベーヌ同様不信仰で身を滅ぼした。「宗教が幻想で、そうしたことすべてには真実などひとかけらもないことが彼女にはよく分かっていた。(...)何も信じないと告白したし、死にかけたこともあったが病気にはとても強かったこと、またただ儀礼上秘躓を受け入れているにすぎないことを自慢していた」。この最後の観察は、生涯の最後のときが新たな重要性を帯びてきたことを証言している。死に向き合う態度が不信仰の正統性に太鼓判を押すか、それとも逆に最後には舵を切って信仰の究極の勝利を画することになるかの試金石、試練だった。真理の瞬間、それを両サイドから食い入るような眼差しで、人々が窺う。ときには瀕死の者の枕元で本物の争いが起こるのに立ち会うこともあった。その賭け金は、相手陣営に抗して一点とることなのだ。タルマンは次のような例をあげる。「ブルルロワと称する老齢のリベルタンが死の間際にあったが、自分の夫の友人のひとりだったので、ノジャン=ボートリュ夫人が彼のもとに告解師を送った。《こちらにノジャン夫人が遣わされた告解師さまがおいでです》、と言われ、《やれやれ人の良いご婦人だ。なんともまったくご親切なこと。ターバンでも送ってくれていたら、頭に乗せてやったのに》、と答えた。告解師はすることは何もないと悟った」。 ピエール・ブリエ
ロクロールも再改宗し、告解している。一六六〇年に亡くなったが、彼は事実上物議をかもす初期リベルタンの最後の代表者のひとりだった。というのもこれ以降、専制秩序への回帰にともなって羽目を外した振る舞いは許されなくなり、不信仰は半ば非合法な状態に陥ったからである。一六六五年に、ロッシュマン殿はこう書いた。「火あぶりを怖れ、あらゆる法から死刑判決を受けた不敬は、まず何よりも神に反抗することも、神に戦いを仕掛けることもし続けることができなくなった。不敬にも配慮や策略が、紆余曲折が、そして始まりや悪化がある」。えせ敬神家のときが告げられた。「誰もがほかの者たち同様、きちんと告解し、聖体を拝領して死んだ」、ベールはう書いた。そしてそのなかには、司教たちにいたるまであらゆる身分の者がいた。サン=シモンによれば、オータンのえせ敬神家、ガブリエル・ド・ロケットがタルチュフのモデルにされたようだ。一六六七年に司教職に昇進すると、「いかにも愛想よく振る舞い、当世の身分あるご婦人方とも縁を持ち、あらゆる陰謀に加担する」ので、人々はロケットが何を信じていたのかはっきりとはわからなかった。別の例。ダミアン・ミトン(一六一八―一六九〇)、彼は自由思想家の一味だった。メレ騎士もそこに加わっていたが、この騎士については、マレ・マチューが『回想記』で次のように記している。「よく調べてからでないとという条件つきで、この男は神を信じていた。『霊魂不死論』なる小論を書いたが、それを友人たちに見せては耳もとで《わたしは死論の側ですが》とささやいた」。一六五〇年―一六七〇年代の非合法のリベルタンの第二波に関する証言は、一六五三年から七五年までパリでサン=テティエンヌ=デユ=モン教会の司祭を務めていたピエール・ブリエの手書き本の『回想録』が提供してくれる。一六八一年以降に作成されたこの資料のなかで、ブリエは、自分が主宰する聖堂区でどれだけの不信仰者と関わりを持ったかを語り、誰の目にも明らかなケースを引用しているが、その信憑性には歴史家が折り紙をつけた。一六六〇年頃、諮問会議のある弁護士が重病になったと知り、弁護士に秘蹟を授けようとしたが、ひどい抵抗の後でしか部屋に入れてもらえず、おまけに彼は死の間際になって司祭にこう宣言した。「《司祭様、わたしは告解をしたり、聖体の秘蹟を授かったりできる状態ではございません。あなた様は以前キリスト教についてわたしが抱いた疑問を解いてくださいましたが、人に気づかれないように、わたしは外聞をはばかってキリスト教を表向き唱えていたのです。しかし、魂の奥底ではそんなものは作り話だと思っておりましたし、こう考えるのはわたしだけではありません。わたしども、この考えを支持する者はパリでたっぷり二万人はいるからです。わたしどもは皆が知り合いで、秘密の集会を持って、互いの不信心の考えを励まし合ったのです。宗教は、架空の地獄の恐怖によって民衆を君主に隷属するよう、従属するようにつなぎとめるために作り出された虚飾に満ちた方策にすぎない、とわたしどもは信じております。正直に申しますと、わたしどもは地獄も、おまけに天国も信じてはいないからです。わたしどもが皆死ねば、死はわたしどもの味方だと信じております。おられればの話ですが、神はわたしどものことに関わりませんように、また神が後押しして、イエス=キリストに向かってわたしが吐いたあれやこれやの濱神の言葉も放っておいてくれますように。キリストのことを、モーセやマホメットと同じく詐欺師と、神がお信じくださいますように》。また彼がつけくわえて言うには、自分の無宗教の同志たちは、表沙汰にならないようにしょっちゅう告解をし、聖体を受けており、また聖堂区に通うことはしないようにしているが、自分としてはこれほど偽善者であろうとはまったく望んではいなかったし、それだから三十年か四十年前にもう告解にも聖体拝領式にも出るのをやめたとの話だった」。第二の例。不信仰で男色家の神父の例で、ブリエの講演を聴いて動揺し、彼を訪ねてきてこう打ち明けた。「《司祭様、ごらんの通り神父ではありますが、わたしは宗教を持ちません。またそれ以上に驚かれるのは、わたしを不敬の深淵に放り込んだのがわたしの神学の師、博士、教授、説教師そして本の植字工だったということです》。(...)それで彼は、自分の師匠から教えられたことを述べた。一、キリスト教は作り話にすぎず、キリスト教が何を教えるかを掘り下げるのは少数の人しかいないが、それはキリスト教がありもしない常識外れのことを教えているからである。二、とはいえ、神がいることは真実であり、神は万物の原理である。しかし神はわれわれのことには関わらない。そんなことは神の偉大さ以下のことだからである。三、われわれの魂は、本当は身体と一緒に死ぬのではなく、身体を離れるときに天に昇って、悪魔と呼ばれる聖霊と一緒にそこで暮らす。四、天国も地獄も、そして煉獄もない。五、われわれが罪だと信じる行いはすべて罪ではなく、われわれの情念の性向に由来する純粋に自然な性向である。六、もちろん原罪もなく、したがってわれわれが抱くすべての性向や情念は自然そのものと同じく無垢である。七、治安と宗教は、自分を他人の主人にしたいと望む人々の発明である」。ブリエが引用する第三のケース。パリ、次いでモンペリエの学友たちから不敬の訓練を受けた医師のバサン。ユダヤの、プロテスタントの、イスラムの宗教を試してみて、彼は「すべての宗教は夢想で、宗教のまやかしと神への怖れで臣下を容易に手なずけるための君主のしきたりにすぎないことを確信した」。バサンは断固としてすべての啓示をしりぞける。「あなたがたの聖書は正真正銘の絵空事で、退屈極まりないおびただしい話が詰まっている。いくつものくだらないことや矛盾やいくつものありそうもないこと、いくつもの考えも足りず生半可でおまけに書き方も下手な作り話がある」。バサンの信仰箇条を要約すると、こうなる。「わたしは三つの哲学箇条を信じる。第一、あらゆる作り話で最大なもの、それはキリスト教である。第二、あらゆる絵空事でいちばん古いもの、それは聖書である。第三、あらゆるペテン師とあらゆる詐欺師の最大の者、それはイエス=キリストである」。彼もまた、神がいてもわれわれには関わらず、死ぬとわれわれの魂は天に帰ると考える。これは、自然主義者の医師で神秘主義者のヤン=バプテイスタ・ファン・ヘルモント(一五七七―一六四四)から拝借した考え方だろう。これらの証言はほとんどあまりにも典型的すぎて、本当だとは信じがたい。ブリエは、護教論的意図から型にはまった典型を作り出すために潤色し、歪めてしまったのだろうか。まさしくルネ・パンタールは、そう疑った。しかしアントワーヌ・アダンによれば、これらの人物たちはたしかに実在した。ジャンヌ・フェルテは、一六六〇年一月十六日付のルイ・バサンの遺言書を発見した。これらのことからいくつかの点を記憶に留めておこう。まずこうした不信仰者の数の多さ、弁護士があげた二万人の無神論者という数をメルセンヌの六万人〔第七章で著者はその数を五万人としている、著者の記憶違いか〕、ロクロールの一万人に比較しても、相当な数である。数字はすべて気まぐれだが、無視できないグループがあったことを意味している。彼らの集まりの非合法的性格、これは一六五八年にリジュー・ド・ザカリ神父が確認している。師から弟子への不信仰の伝達。リベルタンたちの社会的・知的エリート層への帰属(弁護士、医師、聖職者)。最後にあげられるのは、真の無神論に対するよりも、さらに大きなある種の自然主義的理神論への彼らの傾きである。《無神論》の語はくわえて、敬神家たちによって乱用され、誤用され、逆の意味で使われ続けた。イエズス会士のアルドアンが『暴露された無神論者』で、この語をパスカルにまであてはめたのがそうだが、そのためにサント=ブーヴはこう言った。「他人をすべて無神論としてしか見ずに、つまりほとんど存在していないかのような神、そしてもはや自然をかき乱すことのない神をでっち上げたと非難しながら、アルドアン神父は執拗に自分の意見を述べた。無神論者だ!無神論者だ!同時代のすべての理神論者、有神論者に向かって、アルドアン神父はそう叫んだ」。 リベルタン第2世代
十七世紀後半のリベルタンたちには二人の師匠、エピクロスとルクレティウスがいた。彼らはガッサンディを介して二人を称賛した。ディーニュの司教座聖堂参事会員〔ガッサンディ〕の後も、エピクロス主義だった伝播者が聖職者だったことは注目に値する。シャルル・コタン司祭は、『テオクレトスあるいは世界の諸原理に関する真の哲学』でエピクロスへの讃辞を歌い上げた。他方一六五〇年には、マロル神父がルクレティウスの『事物の本性について』の翻訳を提出した。ただし散文でであり、原子の永遠 性についての称賛の調子をもってはいるが、慎重を期した注記をつけてだった。一六六九年にはフランシスコ会修道士ル・グランが、『霊的なるエピクロス』でこのギリシア哲学者を厳格な徳のモデルに仕立て上げ、それをカルヴァン派の牧師デュ・ロンデルが一六七九年に出した『エピクロスの生涯』でまねた。 一六八五年には、デ・クテュールの男爵、ジャック・パランが見てくれだけの純真さに訴えて、ルクレティウスの新訳を出した。この古代ローマの詩人の自然学を全面的に是認して、キリスト教の慎ましい信仰があれば唯物論のもっとも見事な体系も十分時代遅れにできる、とパランは断言する。彼は、ほんの形だけ神を残しておいて、自足し、完璧に組織され、いかなる外部からの干渉もなしに機能する宇宙に神を向き合わせた。 エピクロスやルクレティウスとともに、ガッサンディも新たな人望を集めた。彼を有名にしたのが、世界霊魂についての考察を織り交ぜ、一六七五年から七七年にかけて医師のベルニエが刊行した八巻の『ガッサンディ哲学網要(?)』だった。同様に熱烈ガッサンディ主義者だったのは、詩人のクロード=エマニュエル・シャペル(一六二六―七八)で、シャペルのおかげでベルニエは、唯物論に傾きかけた放蕩者だったが、「自分たちが卑しくも下劣でもまったくない」ことを思い出させられた。さらに正統派として、ミニム会修道士エマニュエル・メニャンがいた。彼はトゥールーズで自分の修道会の管区長になる以前は、一六三六年から五〇年までローマで教鞭をとった。メニャンによれば、自然と思考には深い統一があり、物質世界は目に見えない段階によって霊的世界に溶け込むが、この段階は諸存在の階梯からなるシステムでもあった。 詩的精神の持ち主にとって、自然と思考の統一は相当に魅惑的な考えだったし、それに対してデカルトの二元論はその厳格な理知主義から無味乾燥なものに見られかねなかった。おそらくはこうした理由からであろう、ラ・フォンテーヌをはじめとする当時の詩人の大多数はエピクロス派でもあれば、ガッサンディ派でもあった。彼らはまた理神論者であり、それは内面で想像力が理性と競い合っている多くの思想家も同様だった。こうしてあの興味をそそられる元フランシスコ会修道士、カルヴァン主義に移ってジュネーヴに居を定めた、ガブリエル・ド・フォワニィは一六七六年に『南方大陸紹介』〔オーストラリア大陸〕を刊行した。これは一種の無政府主義的ユートピアで、そこで人々はまったく自由に暮らし、未知なるもの、「偉大なる全体」を崇拝する。すべてを知っているので、それは口にもされず、祈ってもいけないものだった。この本のおかげでひどい厄介ごとが起こり、フォワニィは一六八三年にふたたびフランスに帰り、カトリックに戻った。 時代はユートピア譚に富んでいた。中世ではこの種の文学が不在だったのに対して、十七世紀でその数は三〇以上、十八世紀では七〇を数えた。これらのユートピア譚は、もちろん現実世界への異議申し立てだった。トマソ・カンパネッラの『太陽の都』(一六〇二年)からフェヌロンの『テレマックの冒険』(一六九九年)ま で、ユートピア譚は国家の絶対主義を前にした逃避欲求の証しだった。その大半を占めるのは政治的・社会的批判だったが、宗教批判もまたしばしば顔を出した。もっともはっきりした特徴は、敵対的で不寛容な啓示宗教が、そこでは自然についての一体化された考え方のなかで、宇宙的な理神論に取って替えられていることである。二つの例をとりあげて、この点を説明しよう。 一六五七年にシラノ・ド・ベルジュラックの『月の諸国諸帝国』が、 一六六二にその対幅『太陽の諸国諸帝国』が現れた。前著では月の哲学者が、宇宙は生命であり、創造なしに存在し、永遠の原子で構成された広大な存在であると説明する。われわれの感覚を生み出すのは物体からの微細物質の放出であり、純粋知性は原子の運動の産物である。あらゆる観念は感覚より生ずる。おそらくはガッサンディ、シャペル、マロル、ロオーのもとに通い、カンパネラを介してイタリアの自然主義、同様にテレージオの感覚論哲学を知っていたシラノは、ある種宇宙規模の汎心論のなかで、霊魂から生命をあたえられた世界を構想した。二番目の著作は、自然の単一性、もっとも厳密な一元論を主張している。シラノは、カンパネラの『太陽の都』から大きな影響を受けたが、そこでは、理神論者の太陽人たちが太陽を神の「姿、顔、生きた彫像」として崇め、バラモン教〔仏教以前の古代インドの民俗宗教〕の宗教観念を模範 としていた。一六六二年には『シラノ・ド・ベルジュラック新著作集』が出版されたが、それは一六五五年に亡くなったシラノがガッサンディ主義の世界を採り入れていたことを示していた。 あらゆる宗教思想に反旗を翻す者として、シラノはまさしくれっきとした無神論者だったように思われる。「シラノはほとんどキリスト教徒ではなかったのと同様、ほとんど異教徒でもなかった。彼の著作には宗教感情の一片の痕跡もない。彼はキリスト教を自然の宗教で置き換えることもしなかった」、とジョ ン・ステファンソン・スピンクは書いた。シラノの劇作や詩作も彼のために確固たるリベルタンとの評判を築き上げた。とくに、一六五四年に上演された『アグリッピーヌの死』がそうだった。作中で「人間が作ってやったのに、人間を作らなかったこの神々」との台詞が聞かれ、魂の不死が否定される。「生きている、生きるが故に。死ぬ、何ものでないが故に。 なぜに心ならずもあたえられた光明を失わねばならぬのか、それが失われた後に、何を悔やむことができるのか。 存在しなかったとき、わたしは不幸だったのか。 死の一時後に、消え失せたわれらが魂は、 ひととき生の一時前に、そうだったものとなる」。 諷刺詩『衒学者反駁』と書簡『四旬節反駁』で、シラノはあいまいだった思想を解き放ち、パスカルに先駆けて、賭けの思想を手にし、逆の決着をつける。いわく、神が存在するなら、どんな手だてを尽くしてもわれわれを救うだろう。 一六七五年に一冊の空想譚『セヴァライト人物語』〔英語版のタイトルは『セヴァライト人あるいはセヴァランビ人物語 (The History of the Seravaites or Sevarambi)〕がロンドンで、そのフランス語版[『セヴァランブ人物語』が一六七七年に匿名で刊行された。その著者はフランス人、ドニ・ヴェラ(あるいはヴェラース)、南仏アレスのプロテスタントの家庭に生まれ、兵士だったが弁護士になり、一六六五年にイギリスに渡り、そこでロックをしばしば訪れ、次いで一六七二年にオランダに移り、最後には一六七四年にパリに戻り、知識人社会と交友を結んだ。セヴァランブ人が住むヴェラースの空想の国では、人々は太陽崇拝を実践しているが、それは賢者スコロメナスから次のように説明される。世界は永遠で無限、そこでは物質と精神が統一している。ひとりひとりの精神は、偉大なる全体から放出され、その死まで身体を活かし、その後でほかの者に移る。偉大なる全体あるいは至高存在はその僕、太陽の姿で崇拝される。宗教は自然に対する人間の感謝を表すいくつかの儀式に縮小され、教義は含まない。賢者スコロメナスはくわえてひとりひとりの告解が狂信主義と偏見を伴うことで、どれほど人類に害を及ぼすかを説明する。 ヴェラースの空想譚はまた、詐欺師オミガスについての思い切った物語を詳細に述べる。オミガスは自分から太陽の子と名乗り、奇蹟を行い、片輪者を治癒すると称し、自分の顔を輝かすことができた。オミガスには小グループの弟子たちや女たちが従ったが、それは彼がとても二枚目だったからだ。オミガスの物語は明らかにイエスのそれだったし、すべての《預言者》を警戒しなければならないことを示した。ドニ・ヴェラースはリベルタンであり、たしかに無神論に近かった。彼は、アカデミー・ピュテアン 〔創設者にちなみ《デュピュイの書斎》《アカデミー・デュピュイ》と呼ばれた、パリで催された学者の集まり〕を受け継いだ半ば秘密の集まりに通った。このリベルタン第二世代たちは、アンリ・ジュステル、ラ・サブリエール夫人、そしてショーリュー神父の家に集まった。神父はタンプル騎士団から家を一軒借り、その使用はヴァンドーム兄弟の次男の裁量に任せた。ほぼ三十年近くのあいだ、シャペル、マレジュー、ラ・フォンテーヌ、ニノン・ド・ランクロ、騎士でもあったブイヨン公爵の奥方、ド・シャトーヌフ、クルタン、セルヴィヤンらの神父たち、フォワ公、ラ・ファール、微税請負人のソンナン、ジャン=バティスト・ルソーそしてやがてはヴォルテールといった、詩人やエピクロス派の貴族たちがそこで顔を合わせた。社会的には、サークルは拡大した。大貴族、医師そして聖職者がつねに数えられた。だがさらに数を増す法服貴族、法曹家、利に賢いブルジョワ、微税諸負人、投機家が加わった。これらの人々は控え目だったが、幾人かの例外はあった。ブロの男爵で卑猥な詩人クロード・ド・ショーヴィニー、『女神たちの淫売屋』の著者で『神と人間の大逆罪』を書いて処刑された哀れな男、クロード・ル・プテ、一六八三年の改宗までゴシップの種をまき散らした女装趣味のショワジー神父。この両性具有の神父は、バレス公爵夫人からもお声がかかったし、その評判は神学校以来知れ渡っていた。この例は、身分ある人物に対するときには聖職者採用時の道徳規準がかなり柔軟でありえたことを示している。この時期のリベルタンたちは、多くの者が詩、エッセイ、歴史書を書いたが、その文書を支配する基調は、穏和で悲観論的なエピクロス主義だった。たとえばショーリュー神父によれば、こんなふうだった。 「死はひとえに人の世の果て、 苦悩も富みも後は追わぬ。 そは確かな安らぎの地、われらが禍の終り。 そは永久の休息の始まり」。 リニエールの領主、フランソワ・パイヨはシャンソンやエピグラムの書き手だったが、「盲滅法にエピクロスの助言に追従し、(...)あまりにも盲滅法に自然を信じすぎる」、とボワローから非難された。国王諮問官、ジャン・ドエノーは自分の無神論を隠さなかったが、セネカの『トロイアの女たち』の次の一節を慎重に訳している。「すべてがわれらのうちで尽き果てる、われらが没するそのときに。 死は何ものも残さず、死そのものも何ものでもない。われらが長らえるわずかのときも ほんの一時のことにすぎぬ」。 同様のメランコリック諦観が女性にもあった。フランソワ・パイヨの愛人、モンベル夫人、そして分けてもデズリエール夫人。夫人は本物の女学者で、ガッサンディを研究し、不信仰とうわさされ、自分の娘に洗礼を授けたのは娘が二十八歳の年になってからだった。デズリエール夫人の穏やかな不敬の夫人の敬虔主義を思い出させずにはおかない。終局の死を待ちながら、情念に左右されることなく生きねばならない。その理由を、デズリエール夫人はその詩「花々」に記す。 「一度わたしどもがこの世にあることをやめてしまえば、 愛らしい花々よ、これが永久の別れとなりましょう」。 両極端は、やはりサン=テヴルモンにおいても結び会う。多くの点でアンチ・パスカルだった彼も、そうとはいえパスカル同様の憂慮を表した。若い士官だった頃ガッサンディの哲学から影響を受け、エピクロス主義者、悦楽の宣伝者となり、快楽、優雅さ、洗練さを追求した。だが彼のなかには根本的に悲しく悲観的なものがあった。パスカル同様、サン=テヴルモンも人生における気晴らしが重要であることを認 めるが、パスカルとは逆に気晴らしが必要で、それが救いになるのはわれわれの悲惨から、われわれの虚 無から逃れるためである。サン=テヴルモンはそれに動じないようになりたかった。それがものを考えない幸せだった。 結論部