シャルル・ソレル
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前書き
シャルル・ソレルはこの序文に敢えて特権的な価値を与える(前書きの末尾を、本まとめの冒頭に引用するのはやぶさかだがどうか許してほしい)。
私はここで、非常に時宜にかなったこととして自分の作品には序文をつけゆことがきわめて必要で、我々の名誉にとって重要な多くの特殊事情を世の人々に知らせねばならないといわねばならない。しかしながら作者がどんな精神を具えているかを示すのは本の残りの部分全部の中よりもむしろ序文であるのを知らないで、一向に好奇心がないので絶対にその特殊事情を読まない人々がいる。ある日、私はこういった気質の一人の愚か者に、何故、その特殊事情を読まないのかを尋ねた。すると彼はそんな特殊事情なんてみんな似たり寄ったりだから、障害に一つ読めば、それで沢山だと信じると私に答えた。内容も標題と同じく似かよっていると彼は思いこんでいた。私の著作を手にされる方々は、もしいくらか私の著作を評価して私の恩を施してくださろうと望まれるならば、どうかこんな風にはなさらないように。
こうした前書きの末尾をもつテクストゆえ、詳細にそのディティールまで検討していきたい。第一に、本書の主題は、「人々が知らず知らずの内に陥っている悪徳を人々」に示すことであるとソレルはしたうえで、大衆への絶望を次のように語る。
人々が知らず知らずの内に陥っている悪徳を人々に示してやりたいという欲望を起こさなければ、私は決してこんな作品をご覧に入れなかっただろう。しかしながら私はこんなことをしても無駄ではないかと恐れている。というのは大部分の人々はすこぶる愚鈍なので、これらすべては彼らの悪い気質を改めさせるためよりも、むしろ彼らに気晴らしを提供するために描かれたのだと信じるだろうことを恐れるからである。彼らの愚かさ加減といったら、実にひどいので、誰かに欺された人とか、何か愚行を犯した人の話を聞いても、彼らの同胞たちの獣性やそれに劣らぬ彼らの獣性を考えて、それに涙せねばならぬ代わりに、彼らは笑い出すのである。
ゆえに「眼の前に色ガラスを置いた人たちが事物をその固有の色で見ることができないように、くもった判断を持って私の著作を読むほとんどすべての人たちは、私の意見について彼らが評価すべきであるのとまったく異なった評価を下すであろう」。ソレルは悪徳を非難することを志すが、彼曰くそれは「容易」である。しかし、同時にそれには「餌」が必要だという。
世の人々を引きつけるためには、何か餌を用いなければならない(...)。若い水薬をより巧く飲み込ませるために、上に砂糖を入れる薬剤師を私は見習わなければならない。見掛けが取りつきにくい諷刺詩はその標題だけでそれを読むことから人々を遠ざけるだろう。同じようにして、外から見掛けたところでは自由と悦楽に溢れているように見えるが、しかしながらその中にはいると、思い掛けない時に厳しい検閲官や一分の隙もない告発者や厳格な裁判官を見出す立派な城をお見せすると私はいうであろう。
そこでソレルは自らを伝統的な「作家」、「夢想家」と並べたうえで、秀でた手法によって奏でられたものだと論ずる。ソレル曰く「ここで述べるのはわが国の古い夢想家たちの誰の脳髄にもかつて浮かんだことのない哲理」であるのだ。その違いはどこに現れるのか、ソレルは彼ら(「わが国の作家たち」)をさして、次のようにいう。
彼らは再三再四いわれたことのある無数の空しいことについて話して興じるが、真実の核心にまではいり込まない。私は真っ直ぐに最高善と確固たる徳に近づこうと努める。他の者たちは私ほど早くそこに到達するつもりは毛頭ない。というのは、彼らはさまざまな姿勢フィギュアをして踊りながらのようにして行き、すっかり疲れてしまうので、途中で卒倒してしまうだろうからである。それにひきかえて私はしっかりした足どりで、ペースを崩さずに歩いて、つねにひたすら前進する。 こうした差は主に文筆に現れる。
私は一日に、印刷して三十二ページ以上を書いたが、しかしそれも絶えず他の事を考えて気をそらされ、ほとんど完全にそちらに専念してしまうところだった。時々、私はうとうとして、半ば眠っていて、私の右手が動いている以外、他は動いていなかった。そんな時、私が何か有益な事をしていたとすれば、それは慣れによってでしかないと考えていただいてよい。なおまた私はわざわざ自分の書いたものを読み返したり、訂正したりはほとんどしなかった。というのは、いかなる理由で私はこの無関心を差し控えたであろうか。いい本を書いたからといって、名誉を受けはしないし、受けたとしても、名誉なんてあまりにも空しくて、私を魅了しない。だから私の良心的な誠実さに従って私が告白している無関心によって、私が骨折りを惜しまず私の精神をその極限の成果に達せしめたいと願っている作品が正当にいかなる地位を保ち得るのか、容易に知ることができる。しかし私がそんな作品に専念できるのは、確実なことではない。というのは、すでに申し上げたように、わが国の作たちが執着している無益な観察が私は大嫌いだからである。彼らに追随することは絶対に私の意言ではなかった。それに私は彼らの気質とはひどく隔っているので、私が受けるべきでない肩書を名乗らなければ、彼らは私を列に加えてくれないだろう。彼らの魂は不埒にも彼らの文筆に役立っているが、私は私の文筆が私の魂に役立ってほしい。
即ち、伝統的な作家は名誉や肩書きに惹かれ、道中の表現や言い回しに拘り-換言するなら、まさに「さまざまな姿勢フィギュアをして踊りながら」、真実への道半ばで途絶えることとなる。が、ソレルはそうした拘りを廃し、真っ直ぐ真実へと向かうことで「誰の脳髄にもかつて浮かんだことのない哲理」に辿り着くかとが可能なのだ。そうした在り方は、「わざわざ自分の書いたものを読み返したり、訂正したりはほとんどしなかった」ソレルの文筆に現れている。このようにディティールに拘り、アウトラインを蔑ろにする伝統的作家は名誉を獲得し、アウトラインに拘り、ディティールを限りなく捨象するソレルは真実を獲得する意味で「彼らの魂は不埒にも彼らの文筆に役立っているが、私は私の文筆が私の魂に役立ってほしい」のである。