手記.2024
2/22 “アウラのために”
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わたしは生来、美術館という環境でアウラというものを感覚したことがない。資本主義の人間らしく実用性と合理性に塗れた私は、主題を知覚すること、或いは作者の死を以って理知的に解釈することのみに芸術から悦びを享受できる、とあてもなく確信していた。だが、どこかでアウラを感じることのできる者に憧れのようなものを抱いていた。 そうした背景のなかとあるバーでバウムガルテンを読んでいたわたしは美学という語に導かれ、マスターに問うてみた。「わたしは恥ずかしながらアウラを感じたことがなく、如何にしてそれを得ることができますでしょうか」。マスターは高らかに笑いながら彼の経験則のもとに近代人的教養の有無を語ってくれた。彼によると、私の芸術の見方が少々理知的すぎるゆえ、直感的に捉えられていない。だからこそ前提知識なしに敢えて脱-文脈化することによって、芸術作品そのものを「純粋に観ること」を可能にするのではないかということだった。確かにカントは「目的なき合目的性」-≒実践的無関心-こそが美しいものの条件であるという。カントに即するならば文脈、主題、背景、のもとに芸術をみるのは、きわめて「実践的」な関心なのだ。ハイデガーの下記言明はこの意味で理解できるであろう。
そう考えると、ユダヤ系ドイツ人として米国亡命を余儀なくされた、パノフスキーが理知的に芸術を見ていた(イコノロジー)ことに合点がいく。彼自身が言うように、パノフスキーの芸術理論は、アウラの術によって民衆を掌握していたナチズムに対する無意識的反抗、即ち「根本的原理の表出」なのかもしれない。
だからこそ超越論的態度をもって芸術対象に臨むことが重要なのかもしれない。 2/28 “啓蒙主義の限界”
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あらゆるものを理性の光で照らし可視化しようとした啓蒙主義-バーバラ・スタフォード。だが照らすことによってかえって不可視になってしまうものがあった。いまも変わらずそこにあるはずの星たちが、文明の力によって闇に葬られてしまったように。
3/9 “死と愛の受容性”
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ジョルジュ・サンドとミュッセの恋路を描いたディアーヌ・キュリス監督の映画『年下のひと』にて、ミュッセはサンドに「今が最高に幸せだから(...)一緒に死のう」という。これを聞いた時に私は、フィリップ・アリエスの飼いならされた死を想い出さずにはいられなかった。19世紀以降の終活は、死という年度末の税務申告をいかにするか、という官僚的儀式になっているといえるだろう。ただ19世紀以前の終活とは共同体的に公的な儀式であった。同時に当事者にとって現前に立ち顕れる、極めて自然的で受容的なものだった。だからこそ現代人からしてミュッセの言葉は死を軽んじているかのようにも見えるのであろう。
こうした受容的態度はサンドの子供やミュッセに対する愛にも表れているように思える。現代の愛がパートナーという虚像に概念を付加し、その虚像を受肉させる人間を能動的に探しまわる行為とするならば、19世紀以前の愛とは受動的に差し迫ってくる愛なのであり、現前を愛でる行為だと言えるだろう。『アンナ・カレーニナ』にも言えることであろうが、当時の子供への愛情は情欲に身を焦がす恋に近しいものを感じる。いまでは潰えたアウラに魅了され惑わされるのも、そうした受動的態度こそであるのではなかろうか。
3/10 “哲学の非人称性”
皆、幹をみていない。哲学の理論やマニフェストは単なる表象である。それゆえ主著より往復書簡、書簡より伝記、伝記より草稿にこそ本来の有り様が描かれる。
5/21 “実存の肯定Ⅰ”
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父と近隣の公園を散歩していて、ふと「感謝されること」を話していた。父の話ぶりからして、彼は感謝されることに人生の意味や実存のリアリティを得ているように感じた。なぜそれが嬉しいかと問うてみると、「なにかが肯定されたような感触がある」と。その言葉がどうもわたしの思考に反響して止まなかった。そこでわたしはひとつの着想に至ったのである。
それは「真に実存を肯定できるのは他者しかいない」のではないか、という問いである-ここでいう「肯定」とは主観的肯定であり、なぜなら他者であれば誰彼構わず実存を肯定できるといった訳はなく、当本人にとって真に肯定に値しなければ、それは肯定として機能しているとはいえないからである。
人生には目的が外在しない。かといってカミュのように不条理を不条理として徹底的に受容できる者は幾人いるのだろうか。かといってサルトルのように自らを自らで規定しうる者は幾人いるのだろうか。ある種の諦念や強かさを必要とするそうした教義は人を宗教へといざなう。が、啓蒙主義が蔓延した現代において啓蒙以前のように真に宗教的であれる人間は幾人いるのだろうか。我々の精神に根を下ろしたカントは、宗教の完全性を妨げ、それを斥けるための逃げ道を要請する。現代人に特定の信仰を保つため、盲目的である-或いはそれを演出する-とか、プラグマティックな言い訳をしてやり過ごすなどといった経験が全くない純然たる信徒は幾人いるのだろうか。では神に無効宣告を下した啓蒙主義の軍門に降って科学的に実存を解釈すればよいのか。―人文的に風情がないといった意見をなしにしても―確かにどの方途よりも頷きはできるかもしれないが位相が異なるような気もする。ここでいう実存とは単に理知的な実存の解釈が問題なのではなく、―ラプジャードがいうように―実存のリアリティにこそ焦点をあてるべきだからだ。では世俗化された現代でイデオロギーに身を投じればいいのか。否、それは最も実存から遠い行為であろう。なぜならそれは大いなる終着点にむけて秩序立てられつつ実践していくことであり、超越論的な形而上学的問いに最も離れた地点に位置することであるからだ。
わたしが言いたいのは、自らの条件に左右されず実存の―再びラプジャードの言葉をかりると―「弁護士」たりうるのは己でも信仰でも真理でも理念でもなく、他者なのではないかという提起である。これはそれ以外が実存の肯定に値しないという意味ではなく、他者こそが最も広範に、そして優しく実存の肯定を授けることができるのではないか、という提起である。ここでいう他者とはレヴィナスの「絶対的に他なるもの」に近しい。 繰り返すが、われわれに自らを自らで律することができる者が幾人いるだろうか。そうした自存的な人間以外は「カント主義の(...)解毒剤」を、つまり「形而上学的欲望」を抱くのだ。それゆえ己が支配しない外面、つまり神や真理そして他者に実存の肯定を求めるのだ。現実主義的で実践的で非自存的であるが刹那的に生をおくることができない、そういった人々は他者からの主観的肯定によってのみ実存を獲得できるのではなかろうか。 5/23 “実存の肯定Ⅱ”
先日の実存論において、他者が最も実存を授けることができると結論づけたが、これは実践において道半ばなものであった。なぜなら人間が実存を他者に縋る機械と成り下がる可能性を含意しているからだ。他者は、現代人が実存を獲得するにおいて最も優れている対象であると同時に恒常性に欠けている。身体知はこうした実存の瞬間的な到来の好例である。フェルナンド・ペソアはそうした状況を次のように記す。
では、他者以外で実存を獲得することが困難である、現実主義的で実践的で非自存的であるが刹那的に生をおくることができない人々は永遠に足掻き続けなければならないのか。瞬間的な到来の心地よさに浸かるために地を這いずる尸にならねばならないのか。或いは否が応でもカミュのようにただ空を仰がねばならないのか。それを妨げる一つが人間の原罪性―被投性と言い換えてもよい―であるようにも思える。即ちゲマインシャフトだ。ただバベルに運命づけられたかのように「人々はあらゆる結合にも関わらず、依然として分離し続ける」。そうしたありきたりな―人間本性に反する―原初への到達しえないノスタルジーが本稿の結論ではない。むしろわたしが本稿で試みたいのは園からひき裂かれたのちになお育まれる恒常的な他者との関係である。
そこでわたしは「居る」という行為を哲学してみたい。なぜなら他者との恒常的な関係は時間であれ空間であれ居ることを前提に開始されるからである。そして行為はその行為以上のメッセージを発することを理解しなければならない。例えばバトラーは『アセンブリ』にて、迫害される可能性のある人が道を「歩く」というだけの行為で、行為遂行的にある種の政治的メッセージを発することを論じた。 ここで「居る」ことの行為遂行的メッセージを検討するまえに「純粋他者」という概念を導入したい。例えば、ある対象に対しての純粋他者性を汚す最たる例は関係の記号化である。われわれは関係の契約や記号化を行わないことに不安を抱く。それは無制約な他者と関係を保つに最も簡易な手段であるからだ。浮遊した対象をある地点に依拠させることによって人は判断の妥当性を検証できるゆえ、そうでないものを不安視する。また返報性が生じる贈与も他者の純度を下げる行為であり、生来の移ろいやすさに枷をするのだ。他にも、純粋他者と関係を結ぶためには無目的であらねばならない。それこそ実存の肯定のために他者と関係をもつことは純度を下げる行為そのものである。こうした「純粋他者」と「居る」ことは、他者が実存肯定的メッセージを発していることを意味するのであり、それが途絶えないことにこそ恒常的な実存肯定が発されるのである。ただ未だそれだけでは実存肯定はなしえないことを思いださなければならない。真に肯定的であるには、前稿で論じたように主観的肯定であらねばならないのだ。なぜなら実存肯定的メッセージはあくまで「純粋他者」によって行為遂行的に示されるだけであり、たとえそのメッセージが主観的肯定に値せずとも無条件に負わなければならないのである。
われわれは数世紀に渡って幾度なく実存を欲し否定されてきた。でもそんなわれわれの水面下では、既に、少なくなく理想の関係が築かれていたように思える。それは「純粋他者」が「居る」こと、そしてその関係が主観的肯定に値すると同時に恒常的であるような、浮遊した縫目であることである。互いのそうした関係をもって真に無限の実存を獲得できるのだ。そしてこうした在り方は、刹那的に生を送ることができない人々に対して最も開かれているのだ。
5/29 “なぜよりよい社会をつくるべきか”
「リベルティナージュ(libertinage)」的な還元が観せた反道徳的で快楽主義的な「本源的世界」は、近代教育をうけてきた我々に対して、その独善的な響きが若干の後退りをさせる。伝統的道徳観とリベルティナージュ的自由を秤にかけたとき、後者こそが真に道徳的であると本稿では論じたい。「でも、そんな道徳を採用していた日にゃ(...)あんまり東縛がなさすぎて、何だか怖いような気がしますけど」。快楽主義の語彙から無秩序性を彷彿した者は、上記のようなジュリエットの考えと立場を同じくするだろう。そこで我々人類のすべての根源たる「生」を暴くことで、リベルティナージュへの帰着の必然性を示し次代の連帯の在り方を提起したい。
冒頭の問いのすべてに答えられそうにないが、少なくとも我々はよい社会にむかうべきだ。それは悲劇的な生へのせめてもの報いとしてである。そのために依拠すべき論理はリベルティナージュ(libertinage)であり、憐れな生からさらに自由を剥奪し抑圧をかけようとする伝統的道徳主義者より、よっぽど道徳的であると言えよう。
わたしがこの憐れな生を充すことができるユートピアのため、あなたがその憐れな生を充たすことができるユートピアのため、そして未来永劫、人類がかの憐れな生を満たすことができるユートピアのために我々は、せめて「よい社会」に向かうべきなのだ。
6/12 “思想における文藝運動の必然性”
シラー曰く、
個々に多様な万人に教化を試みるには嗜好に仕掛けるに限るのだ。文藝活動とはこの意味で、思想の啓蒙に普遍的な方途なのである。
7/22 “脱神話化による顛倒”
これは「真理への意志」蔓延る科学の世紀である現代にも変わりないように思える。いくら科学の万能性が傑出したと言えども、それはなんらかの善悪を基準にせざるを得ない。
宗教対科学の図式はよくイシューにあがるが、これほど愚かな矮小化は数少ない。なぜならこの二項は全時代的に共存し、緊密な相互関係にあるからである。それは概略するなら、近世以前は宗教性が顕在的で有用性が潜在的、近代以降は宗教性が潜在的で有用性が顕在的と言えるだろう。その意味で現代も専ら宗教性は廃れていない。例えば、神経科学的幸福論に基づくエビデンスが証明された処世術及び生き方なんかは、神経快楽物質で満たされることが幸せであるとする唯物論的幸福を求める信仰のもとに有用であるにすぎない。確かにその処世術及び生き方が、唯物論的幸福を達成するにおいて真理であるが、それが特定の宗教性に決定的に依存していることは明らかだろう。
社会科学的に決定的な改良政策も真理であるにしろ、社会の進歩、人類の繁栄、平和の実現、などといった世俗化された信仰に基づく。自然は徹底的なまでに不条理で非意味であるゆえ、絶対的なる善悪は存在しえない。よって科学にその正当性を与えるは、宗教、信仰、哲学、思想に他ならない。近世以前はそれらを完全に前傾化していたが、啓蒙のプロジェクトのもと有用性は科学をとりこみ、その活躍を示すことで信仰を人類における認識の潜在的レヴェルまで貶める。しかしながら科学はそれを完全に失効するに至らなかった。現代とは寧ろそうした信仰の恒常性が顕になったことに基づく科学の失敗の世紀なのである。
11/14 “敗北の果実”
外界=世俗と隔絶された森のなかに佇む寄宿学校。男性を排除した楽園に漂うユートピア的な自由さと閉塞的な色調。寓意と暗喩の織りなすアザリロヴィックの童話的美学は、その美しさに孕む残虐性を、その無垢さに纏う工作の数々をまことしやかに描くのだった。多くを語らないストーリーテリングに、決して一定のラインを超えないエロティックとグロテスクさを隠し持った繊細な映像。ルシール・アザリロヴィックをみたわたしは、その手腕と映像美に圧倒され、それを友人に薦めようと試みた。
然れど、あれほどまでにわたしを感動させた映画に対し、それを形容する言葉は酷く稚拙で矮小化されたものだった。あの美しさを形容するには表現に欠けており、わたしの言葉は一つ一つ乱雑な断片を並べたてるに過ぎなかった。わたしは、なぜああも言葉に吃り、表現に欠けているのかと絶望すると同時に、そのうちで、ある種の疑念が生じたのだ。
果たして、作品を鑑賞すると同時に、その素晴らしき様を即座に言葉にできる作品とはよい作品と言えるのだろうか。鑑賞と思考の共同作業を可能にするは、それほどまでに自己から逸脱させる没頭がなされていないことの裏返しであり、自身のうち側にある美的作用の復唱に過ぎないのではなかろうか。言説の修正を迫られ、アウラに圧倒されるあの感覚。それこそが負けること。わたしのうちに生じた形容のし難さが意味する敗北とは、おそらく芸術家が最も尊ぶべきものなのであろう。即ち自己の観念を蹂躙し、破壊する作品こそ、よい作品の条件だとわたしは考える。その作用こそが、作品価値の形容のし難さへとわたしを誘うのであった。
12/6 “救済のアポリア”
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しかしたとえそれが仮象的救済にあったとしても、それを咎める本質的権利を誰も有していない。我々は望まずして生を享ける残酷な原理のもとに在る。よって我々が抱く僅かな光明をも遮断する当為など倫理的に承認されるべきはずがないだろう。ラ・ファールの死に嘆くショーリューは、酷く脆い人類に仮象的救済が必要であることを示しているであろう。 Chaulieu learns how slight is the constructive power of reason at the death of his great friend, La Fare. Reason is helpless in the face of grief: "J ’appelle à mon secours. Raison, Philosophie, Je n’en reçois, hélas! aucun soulagement. A leurs belles leçons Insensé qui se fie! Elles ne peuvent rien contre le Sentiment. J’entends que la Raison me dit que vainement Je m’afflige d’un mal qui n’a point de remede, Mais je verse des pleurs dans le même moment, Et sens qu’a ma douleur toute ma vertu cede." Only a man who tries to transcend his quality of man can imagine that it is possible to live by reason alone. This is both foolish and unnatural. Reason alone is not enough to make life bearable. Equally vital to man are the emotions, imagination, and, above all, self-deception.
ゆえに、私はこのアポリアの狭間で仮象的救済と手を結びながら、真実の救済への旅路を往きたい。実存を肯うことの叶うその日まで。
12/12 “読者の慢心”
読者とは傲慢である。自らに渡るあまねく書を、自らのために書かれたと慢心し、その価値を糾弾する。テキストの難解さはその最たる例であり、修正ならまだしも要約までをも要請する。オリジナルを既存するその愚行は、読者としての傲慢さを発端とすると言えるだろう。
読者が作者を選ぶが如く、作者は読者を選ぶ。書籍とはあまねく者に開かれたものであると同時に、ある特定の対象へと方向づけられた作品群を意味するのだ。
12/14 “人工的ないちごの香り”
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暖かい日差し差しこむ海岸線の近くでうたた寝するわたしは、ある甘美な香りにつられ、心地よくも郷愁を感じる目覚めへと誘われる。
その香りが想起するは、わたしが幼少期、なによりも嫌った人工的ないちごドロップだった。機械に汚染された自然性。商品化され工学的な処置を施されたいちごの甘味。それは幼きわたしにとって矮小化そのものを意味する。然れどその香りは、どこか妖艶で、官能的な情念をわたしのうちに喚起した。それはまさに、かくも危うくて、美しい。あの近代的ロマンティズムの表象にあったのだ。
12/19 “失われた飢餓を求めて”
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資本主義のブリンカーを装備して、改良主義的手立に傾倒する若かりし日々。その延長線にある理想郷を夢想するわたしは当時、渇望や飢え、生を駆り立てるあの感覚に充ち溢れていた。しかしそれらはある圏域への参与とともに、殉ずることを余儀なくされた。
旧友と出会うたびに感じるこの隔たり。あのシニシズム。それは資本主義が要請せし飢えの消失に起因していた。批判精神のうちで思弁を繰りかえす日々は、わたしから渇望という観念を剥奪し、生の動力源を削ぎ堕とすのであった。ゆえにわたしはアルトーに呼応する。