シラー
崇高論 : https://dl.ndl.go.jp/pid/1335790/1/47
1782『ラウラに寄せる幻想曲』
日の光に浮かぶ塵と塵が結びあって / 愛のハーモニーを奏でる、/ 天球と天球を結び合わすのは愛、/ 諸宇宙が存続するのも愛があればこそ。/ 宇宙の時計仕掛けから愛を奪えば─ / 大宇宙は崩壊して雲散霧消し、 / 君らの世界は轟音をたてながら崩壊する、/ 泣きたまえ、天文学者たち、その大崩壊を!
1786『哲学書簡』
この自由で、高いところへ向かおうとする精神は、死すべき肉体という固く変わらぬ時計仕掛けに編み込まれている。精神はこの肉体のもつ低劣な欲求に混ぜ合わされ、そのちっぽけな運命の軛に繋がれている。
1793『ケルナー宛書館』
社交ダンス的美
私は、美しい社会の理想として、多くの複雑なターンで形づくられながら、巧みに踊られた英国式ダンス以上にふさわしいイメージを知りません。バルコニーの観客は、交錯する無限に多様な動きを目にするのですが、その動きは、決定的に、しかし気ままに方向を変えながら、けっして互いに衝突ずるごとがないのです。すべてがこのように整えられているために、各々の踊り手は、他の人が来るときにはもうその場を空け渡していています。すべてが互いにとても巧みに、しかしわざとらしくなく適合しているために、誰もが思うがままにしているように見えるのに、けっして他の人を遮ることがないのです。そうしたダンスは、個人的に主張される自己自身の自由と、尊重された他者の自由との、完全な象徴なのです。
1791年に病に倒れ、財政的にも困窮していたシラーに対し、デンマークの王子フリードリヒ・クリスティアン・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=アウグステンブルク公は、3年間に渡って年間1000ターラーを給付した。シラーはアウグステンブルク公に対する感謝の証として、自らの芸術哲学を公にする前に書簡の形で書き送ることを約束し、1793年6月13日に第1信を送るとこから始まった。それゆえ本書は「美と芸術について私の調べえたところを、一連の手紙にしてあなたに差しあげることをお許し願えることと思います」から始める。この意味でディルタイはシラーを、人間社会における芸術家の機能の意義を認めた最初の人であり、創造的芸術家の自覚と誇りを無限に昂揚せしめるあらゆることが、ことごとく彼の中から出発している、と論じている。
1795『人間の美的教育について』
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「自然国家家(der Naturstaat)」から「倫理的国家(der sittliche Staat)」へ、「肉体的人間」(der physische Mensch)から「道徳的人間」(der moralische[Mensch])への改良には、何らかの中間項が必要となる。シラーによれば、それこそが「芸術」(die schöne Kunst)の「美的教育」なのだ。
第一信
まずシラーは「美と芸術」についての「魅力と価値」を下記のように論じる。
これはわれわれの幸福の最上の部分に直接に結びついていると同時に、人間の天性の中にある道徳的な気高さと密接な関連をもっているところのものです。
そしてシラーは「私の考えは、豊富な世才とか読書から得たものというよりも、自分自身との単一な交際によって得たもの」として「これから述べる主張の拠りどころの大部分が、カントの原理であること、それを私はここで隠しだてしようとは思いません」とする。つまりシラーの理論はカントに依拠したフッサール的な作業によって成し得た、人間の実存を解き明かす理論なのである。
知性が内的感性の対象となったものを、自分自身のものにしようとするには、まずそれを破壊してかからなければならないことです。分析を術とする化学者と同様に、哲学者もまた分解してみてはじめて結合をさとり、芸術を拷問にかけてみてはじめてそれが自発的な自然の作品であることを知るのです。(...)美しい肉体を概念の中でこま切れにして、見すぼらしい言葉の骸骨の中に、その潑剌とした精神をしまい込まなければならないのです。(...)それゆえにあなたも、これから先の研究が、その問題を知性に近づけようとするとき、そのために感性から遠ざけられるようなぐあいになっても、どうかよろしくお許し願いたく、道徳的経験について語られるところは、さらにいっそう高い程度で、美の現われについて語られてるはずです。
これは第三書簡を読めば理解できよう。上記でいう感性と知性は、自然的「現実」と道義的「形式」の二項に対応できる。つまり「知性に近づける」とは道義的形式(=道徳的経験)の側に近づけるという意味であり、―美をもって「自然的国家(現実)」を、より高度な「道義的国家(イデア)」に達するように、美はその二項の均衡であるからして―そうすることで「いっそう高い程度で、美の現われについて語」ることが可能になるのだ。
第二信
著者が本書を綴ったときは、フランス革命直後であり「政治的自由」を最も問われた時代であった。そうした時代であるからこそ、政治の問題から距離のあるように見える美の問題にあえてとりくむことの是非を論ずる。
芸術は自由の娘であり、物体が必要とするものからでなく、精神にとって必須なものからの指図を受けたがるものであるからです(...)自由にまでたどりつく道が美である
だがシラーの思いに反し、物質への欲望や有用性が支配的になり、芸術の意義が認められない時代背景にあることを次のように論ずる。
役立つことが、時代の大きな偶像で、すべて力あるものは、これをよろこび、すべて才能あるものは、これに仕えなければならなくなっています。この粗雑な秤の上では、芸術の精神的功績などは、なんの重みももちません。いっさいの激励も奪いとられて、芸術は世紀の騒がしい市場から姿を消していきます。
だからこそシラーはデンマークの王子フリードリヒ・クリスティアン・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=アウグステンブルク公に向けて「政治的問題を経験の中で解決するためには、美的問題を通ってその道に出なければならないこと、なぜならば、自由にまでたどりつく道が美であることを知って欲しいのです」と愬えたのだ。
第三信
シラーはまず人間像を二つに区別する。それが「自然的必然性」(物的、形而下的、肉体的)が支配的な人間と、「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)が支配的な人間である。これはまさに革命時代(十八世紀フランス)に象徴的である。後々「自然的必然性」に偏重主義的な未開人と、「道徳的必然性」に偏重主義的な野蛮人に区分するが、これは十八世紀フランスを支配した二つの極、即ち快楽主義と啓蒙主義と対応するだろう。
人間をまさに人間たらしめるものは、いつまでも粗野な自然がつくりだしたままのものにとどまっていず、自然が前もってつれて歩いてくれた道を、逆に理性によって後戻りをし、必要から強制される仕事を、自由な選択による仕事につくりかえ、そして自然的 physisch (物的、形面下的、肉体的) 必然性を道徳的必然性に高める能力にあるのです。人間は官能的な仮眠から我にかえり、自分を人間として認め、自分の周囲を見まわして、自分を―国家の中に見いだすのです。人間がその自由によってこの地位を選べるようになるまでは、欲望の強制が、人間をそこに投げこんでいたのです。人間が理性の法則に従って動けるまでは、必要が粗野な自然律によって、いっさいを処理していたのです。
こうした「粗野な自然律」或いは「自然的必然性」が支配的な状態を「盲目的な必然性」と言い換えた上で、それらによる「野卑な性質」を「高貴なもの」に塗り替えるのが「美」なのである(この意味で"己の美学"という語をシラー的に解釈するなら、「粗野な自然律」に基づく人間本性を新たなる姿に規定することこそ自身を秩序づける美学だと言えるだろう)。
自分は人間であるからという一つの権利をもって、彼は盲目的な必然性の支配から脱しようとするのです。彼は自由によってその手から、その他の多くの点からも別れようと―一例をあげれば、性愛の欲望が押しあげる野卑な性質を、道義性によって拭い消し、美によってそれを高貴なものにしようとするのです。
ここでこの構図を国家論に発展させる。では「自然的国家」から「道義的国家」への改造には何が必要か。そこでシラーは「自然的人間は実在的で、道義的人間は未確定」であるとしたうえで、「人間が自分の意志で、しっかりと法則に身を託す時間をもたないうちに、理性がその足もとから自然の様子を引きさらってしまうことになる」と改良主義的見解を展開する。
自然的社会は、イデアの中で道徳的社会が形成されつつあるうちは、時間の中で一瞬も休止しないように、そして人間の品位のために、その生存が危険におちいることのないように、大きな考慮を払わなければなりません。技術者が時計の機械を修繕しようとするときは、歯車をもどしてからかかるものです。しかし国家という生きている時計の機械は、時を打たせながら修理しなければならないので、大切な点は、まわっている歯車をその回転中に取り替えることです。
つまり「道義的国家」に至るためには歯車を止めてはならぬのであり、それゆえに「自然的」なものと「道徳的」なものの両者を媒介する「第三の性格」としての「美」を用いて、緩やかに改良すべきだと論ずるのだ。なぜなら「美」とは次の引用にあるように、「前述の二者と近親」であると同時に、それらを「目に見えない道義の感覚的な担保として」結びつけ「一本の道に開」くことが可能であるからだ。
われわれは、社会を持続させるためには、社会を自立させてくれる一本の支柱を、解消しようとする自然国家の中から、捜し出さなければならないのです。この支柱は、利己的で暴力的で、社会の維持よりも破壊を目ざしているような人間の、自然的性格の中には見いだされないし、同じようにまた、その道徳的性格の中にも見いだされません。(...)それですから問題は、自然的性格から専横さを、道徳的性格から自由さを分離することにあります。―大事なことは、前者を法則(理性による)と一致させ、後者を制約(物質による)から自立させることです。―要するに、あのものを物質から幾分でも遠くへ離し、このものを物質にいくらかでも近づけるようにすることで、―ある第三の性格を生みだすことです。この第三の性格は、前述の二者と近親ですが、粗野な力の支配までを一本の道にひらいてしまうし、道徳的な性格を、その発展を妨げることなく、むしろ目に見えない道義の感覚的な担保としてしまうのです。
また本書簡では次のような言い回しが存在する。つまり現実(=自然)と形式(=道徳)のあいだの均衡、その「最も完全な均衡」こそが「美の最高の理想」なのである。だからこそシラーは冒頭で「これはわれわれの幸福の最上の部分に直接に結びついていると同時に、人間の天性の中にある道徳的な気高さと密接な関連をもっているところのものです」と論ずるのだ(ちなみに次簡ではこの「衝動の相互作用」について詳しく論ずる)。
ここまでわれわれは、二つの対立する衝動の相互作用から、そして二つの対立する原理の綜合Verbindung〔結合〕から、いかにして美というものが生じてくるかをみてきた。したがって美の最高の理想というのは、現実と形式とのあいだの均衡、考えられるかぎり最も完全な均衡のうちにこそ存するのである。
第四信
すべて個人的な人間は、天分と使命のうえから、純粋な理想的人間を自分のうちにもっているといいえますが、その不変の統一体と、あらゆる変転の中にある自分とを一致させることが、生存の上に課せられた大きな問題です。
ここで指しているのも「自然的必然性」(物的、形而下的、肉体的)と「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)の話である。つまり自らが理想とするイデアの「不変の統一体」、即ち完全に「道徳的必然性」のもとに行為する「理想的人間」と、自然律と道徳律が入り乱れた流転的な「自分」。こうした二項があり、後者を前者に固定させる、言い換えるなら「一致させることが、生存の上に課せられた大きな問題」なのだ。
それを代表するものが、各人の主観の多様性がそこで自分を統合しようとする客観的な、いわば規準となる形式であるところの国家なのです。(...)統一を要求するのは理性です。自然は多様性を求めているので、人間はこの二つの立法機関から、それぞれに要求をうけているわけです。(...)道義的性格が自然的性格を犠牲にしなければ自分を主張できないような場合は、必ずどこかまだ教養不足なところのあることを示しています。それゆえ、ただ多様性の排気によって統一を生みだすことのできるような憲法は、まだまだ不完全至極なものといわなければなりません。国家というものは、単に客観的なまた発生的なものばかりではなく、個々人の中にある主観的なまた特殊的な性格をも尊敬すべきで、道義の不可視の領域をひろめながら、現象の領域をさびれさせないようなものでなければなりません。(...)国家は、部分が全体のイデエにまで高められているかぎり、実在しうるのです。国家は国民の駒のうちにある純粋な客観的人間性に対する代表ですから、国民が自分自身に対してもつのと同じ関係を、彼らに対して守ことはできますし、そしてまた彼らの主観的人間性を、それが客観的なものに高められている程度に応じて、尊敬することもできるわけです。
上記から詳細な国家論の描写にはいる。先程論じた「理想的人間」や「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)が支配的な人間とは、イデアという語が用いられるように、自らの「うち」にある「客観的」なものであることをまずは留意せなばならない。その自分の「うち」の、「客観的人間性」の代表的なものが「国家」なのであり、それゆえ理性に要求されて「理想的人間」を目指した者は「国家」を規準とするのである。そうした意味で国家が提示する「客観的人間性」が、「自然」に根差す「多様性」を排他せずに「客観的なものに高め」ることを(=反理性偏重主義)、重要視するのであり、またその文脈で国民の「主観的人間性を、それが客観的なものに高められている程度に応じて」、国家のレヴェルが計れる(=尊敬できる)と述べるのである。その意味で次のように結論づけるのである。
このように理性が、その道徳的統一を自然的社会の中にもちこもうとするとき、自然の多様性を傷つけるようなことがあってはなりません。自然がその多様性を、社会の道徳的構成の中で保持しようとつとめるとき、それによって道徳的統一を破壊しないようにしなければなりません。
第五信
三信で論じた「第三の性格」の要請に照らして同時代の社会と人間のあり方が批判される。まさに本信の冒頭はそれを象徴するテーゼである。
今日の時代―現在起こっている諸事件―それが私たちに示しているものが、はたしてこの性格でしょうか?
そこでひきあいにだされるのが、「野蛮人」と「未開人」である。それは四信の最後に、教養なき人間として紹介される。「人間は、自分自身と二重の方法で対立しているようです。つまり感情で原理を支配してかかる場合の未開人(Wilder)としてか、あるいは原理が感情を破壊する場合の野蛮人(Barbar)としてです。(...)しかし教養ある人間は、自然を自分の友とし、その専横を抑制しながら、その自由を尊んでいます」(ここだけ小栗孝則訳ではなく石原達二訳を使用)。雑に還元するなら、理性偏重主義が野蛮人(Barbar)であり、動物的な方が未開人(Wilder)である。
今日この時代の演劇の中で写しだされている姿は、なんという有様でしょう!ここには野蛮化、かしこには虚脱、―人間退廃の二つの極端が二ついっしょに、一つの時期の中に集中しています。一段と低級な多数の階級の中には、野卑な無法な衝動が現われ出ていて、市民的秩序の紐帯がゆるめばすぐに身を脱し、制しがたい狂暴さを表わして、動物的な満足に向かって走り出しています。
ここで指している「人間退廃の二つの極端」が先程紹介した「野蛮人」と「未開人」である。「野蛮化」が「野蛮人」なのは字義通りであるが「虚脱」が「未開人」なのは、その次の「市民的秩序の紐帯がゆるめばすぐに身を脱し、制しがたい狂暴さを表わして、動物的な満足に向かって走り出しています」にかかっている。この二極がシラーの時期に集中しているのである。本信の末尾に「われわれの見るところの時代精神は、背理と粗暴との間を、不自然とただ単なる自然との間を、迷信と道徳的な無信仰との間を動揺しています」とあるのは、まさに二極での揺れを象徴している。「不自然」とは「野蛮人」であり、「ただ単なる自然」が「未開人」であることからもわかるだろう。
自然児からは、彼が道を踏みはずすと狂人が生まれ出ますし、(...)理性の啓蒙―、これを洗練された階級の人たちが自慢にするのは、べつにさしつかえないことですが、全体からみて、これが思念の高貴化に影響をあたえたことはほとんどなく、むしろ腐敗を格言的に証拠立てているようなものです。
第六信
野蛮的或いは未開的な近代人に対して、ギリシア人を対置する。そして彼らを近代人の「模範」とまで高め評する。
ギリシア人(...)は、技芸のあらゆる魅力とあらゆる品位とに結びつきながら、しかも、私たちの場合のように、それらの犠牲になっていないのです。ギリシア人が私たちを凌駕しているのは、現代には縁遠くなった素朴さばかりではありません。彼らは、私たちがなにかにつけて自分らの風習の反自然性に対する慰めとしている上述の長所の点で、私たちの競争者であると同時に、ときには私たちの模範でさえあるのです。形態に満ちていると同時に蘊蓄に富み、思索しつつ同時に形成し、繊細であると同時に精力的で、空想の若々しさと理性の男らしさとが一つになって、すばらしい人間となっているのです。
またシラーは近代の離散的性格にも批判を投じる。第四信で「国家というものは、単に客観的なまた発生的なものばかりではなく、個々人の中にある主観的なまた特殊的な性格をも尊敬すべき」及び「国家は、部分が全体のイデエにまで高められているかぎり、実在しうる」とあるように、シラーは国家に個と全体の調和を求める。これは下記引用を見る限り「ギリシア国家」が、その模範たりえることがわかるだろう。しかし近代というのは理性に任せて分解が為され、機械的な断片の集合になっているとするのだ。
理性は、人間の天性を分解し、それらを自分のすばらしい神々の世界に拡大して、そのまま投げちらしていますが、しかしそれは粉々に引きちぎるのでなく、さまざまに混ぜ合わしてのことです。実際ギリシアのどの神の中にも、完全な人間は欠けていないのです。私たち近代人の場合は、なんという違いでしょう!私たちの場合にも、種の像が個の中に拡大されて、別々に投げ出されてはいます、―しかしそれは断片の形で、変化のある混合の形でなく、したがって種族の総体性を拾い集めるためには、個体から個体へと訊ねまわらなければならないのです。(...)ギリシア国家の―個々がみな自主的な生活をたのしみながら、いざとなれば、全体になることのできる―あのポリープ的性質は、いまはただ一個の精巧な時計仕掛けに―数かぎりなく無数の、しかも生命のない部分部分のつなぎ合わせがつくる、全体で一個の機械的生活に―その席をゆずっているのです。国家と教会、法律と風習とは引き裂かれ、快楽は労働から、手段は目的から、離されています。永遠にただ全体の一個の小さな断片に縛りつけられたまま、人間自体もただ断片として、自分をつくりあげているのです。永遠にただ自分が乗りまわす車輪の単調なひびきを耳にするだけで、人間は決して自分の存在の協和性を発展させていませんし、また自分の天性の中にある人間性を明瞭に刻印するかわりに、ただ自分の職業、自分の知識の複製品となっているだけです。しかも部分をわずかに全体に結びつけている零細な取るに足らない接合物さえが、自発的に彼らの示す形式に頼らず (もっともあのような精巧で、明るさの嫌いな時計仕掛けを彼らの勝手にさせられましょうか?)、―細心な几帳面さをもって彼らを、彼らの自由な見解を拘束することになる法式どおりに動かしているのです。
シラーによれば、こうして断片化が進行した社会には国家という機能が個にとって不要のものとなり崩壊の一途を辿るという(下記言明は、恐らく合理化の結果としてのフランス革命、即ち次期国王アウグステンブルク公に向けて王政国家の崩壊の理由を示唆していると言えるだろう)。
こうして実際に個々の具体的生活はだんだんと、全体の抽象がその貧弱な生存をつなぎとめているために、すり減らされてしまい、そして永遠に国家というものが、その人民にとって無縁なものになっていくのです。なぜなら感情は、どこにも国家というものを見ないからです。余儀なく統治する側は、人民の多様性を等級別によって弱め、使い古しの演技を通して見るよりほかに人間を見ることができず、 結局は、人間を単なる理性の作り物と混同しているうちに、その姿をまったく眼界から見失ってしまうのです。(...)少しも楽にしてくれない公約をいつまでも国家が持ちつづけていることに倦み果てたあげく、既成社会は(いままでにすでに多くのョーロッパの国家の運命が示しているように)道徳的な自然状態の中に崩潰してしまい、そこでの団体的な力は、ただ単に一党派だけに限られ、それを必要とするものからは憎まれたり背かれたりし、それがなくても困らないものからだけ尊重されているのです。
ただそれは原体制の真っ向からの批判ではないことを理解しなければならない。シラーは「現代の人々が、単位としてみても、知性の秤にかけてみても、昔の最善の人の前で立派に主張できる長所をもつこと」を認めているし「種族としては、実に有利なものを持っている」とする。そのうえで更にシラーは「個々人は、その本質のこのような細分化によって何も得るものは無かったにせよ、人類という種は、これ以外の仕方では進歩し得なかったであろう、ということを私はあえて申し上げたいのです」として、機械的国家の到来は進歩に必然的な歩みと理解するのである。
ギリシア人(...)が、もっと高い発達に向かって進もうとしたならば、ちょうど私たちと同じように、その本性の総体性(totalität)を放棄して、真理を別々に分けられた道のうえで追求しなければならなかったと思います。人間の中にある多種多様の素質を発展させるには、それらを互いに対立させておく以外の方法はなかったのです。このいろいろの力のアンタゴニズム(対敵作用)は文化の大きな器具です。しかしそれはただ単なる器具です。なぜならば、これが続いているあいだはまさに人は文化への途上にあるからです。 しかし、人間の中では個々の力が孤立し、そして勝手に一つの法を立ててわがもの顔に振舞っているために、つい事物の真理と衝突を起こし、やむなく、ふだんは惰性から安閑と外面的な現象に満足している常識を、対象の奥底深く押しこめてしまうのです。(...)力の行使における一方性は、必ず個人を誤謬に導くものですが、しかし種族を真理へ導こうとはしているのです。私たちが自分の精神の全精力を一つの焦点に集め、そして自分の全本性をただ一つの力の中に収縮することによって、はじめて私たちはその個々の力に、いわば翼をつけ、自然が定めたかに見える垣を巧妙に飛び越えるのです。
Totalitätは小栗は相対性と訳すが、上記では石原訳ベースで援用
即ち、シラーによれば合理は「真理へ導く」と同時に「真理は(...)多くの殉教者つくっていくでしょう」とするのだ。合理は恩寵をもたらしたことを理解したうえで、シラーはそのためだからと言って全体性或いは調和を失ってはならないと強く訴えるのである。そしてそのために美或いは芸術を再建すべきだとシラーは王子に説くのだ。
しかし、いったい人間はなにかある目的のために、自分自身の身仕舞いを忘れてもいいものでしょうか?自然がその目的のために、私たちから完全性を―私たちのために理性が、その目的のために規定したものを―響い取ってもいいのでしょぅか?要するに個々の力の発達が、やむなくその総体性を犠牲にするということが間違いなのです。あるいは、たとい自然の法則が、現に非常な努力をそれに払っていようとも、技術によって破壊された私たちの天性の総体性を、あるより高い技芸に再建することは、私たちの手に一任されていることなのです。
第七信
「第三の道」として美或いは芸術を以て総体性を再建することを論ずる前に、それを試みることは国家には可能であるかという問いに対してシラーは次のように答える。
この作用を国家の手に期待すべきでしょうか?それは駄目です。なぜならば、現にいまあるような 国家がその禍をひき起こしているからです。また理性が、イデエにまかしきっているような国家は、こうしたよりよい人間性を打ち建てることはできず、むしろ自分自身をまずその上に築きあげなければなりません。
第八信
第九信
個人「の中にある多様性を、理想とする統一性に服従させる」ため、「国家が手渡してくれないある道具を捜しださなければなりませんし、またいっさいの政治的腐敗のもとにあっても、つねに純粋で澄み切っている泉をひらかなければなりません」としてシラーは美に達する。
いまこそ私は、これまでの自分のいっさいの考察がめざしてきた主点に達しました。その道具とは美の芸術です。その泉は、美の芸術の不滅な典型の中にひらかれているものです。
シラーはそのもとにドイツ流の息苦しさを感じさせる芸術家の当為論を展開する。それは普遍のみを追いかけんとする芸術家の在り方を説いている。シラーはその意味で芸術家「にとって時間というものはないのです」として、時代に呑み込まれることを徹底的に斥ける。
もちろん芸術家も時代の子であります。しかし同時に彼が、その教え子であったり、ましてその寵児であったりすることは、彼にとって悪いことです。(...)しかし芸術家は、四方八方から自分をとりまいてくる時代の退廃から、どうしたら身が守れるのでしょうか?それは、その時代の批判を度外視すればいいのです。彼はつねに目を上げて、自分の品位と法則とを眺めればよいので、目を低くして、幸福をみたり希望をみたりしてはならないのです。意味のないせわしさ―ほんの東の間の瞬間の中に、その足跡をしるしたがる活躍とか、あせりたつ熱狂― 時代の取るにたらない所産に無条件の尺度を合わせようとする熱中さにはとらわれず、そうした現実的なものの領分のことは、そこに土着している分別にまかせておけばよいのです。しかし彼は、可能なものと必然なものとの結合から、理想を生みだすように努めなければいけません。そしてこれを仮装と真実の中に明瞭に刻印し、これを自分の想像力の遊戯の中と実行の厳格さの中に彫りこみ、これをすべての感覚的なまた精神的な形式の中に明瞭に刻印し、そしてこれを黙々と不滅の時の中へ投げ入れるべきです。
そしてシラーは万人を導く力をそこに見る。嗜好にアクセスできる芸術にこそ、唯一あらゆる教えから同時代の者を解放する方途となるのである。
君が働きかけようとする世界に、善に向かう方向を与えたまえ。そうすれば静かなリズムが、時代の中に展開していくでしょう。君がよく教え訓して、時代の思想を必然的な永遠なものに高めるならば、または君が行動するか、あるいは形成するかして、その必然的な永遠なものを時代の衝動の一対象物たらしめるならば、君は世界にその方向を与えたことになるのです。(...)君の心情の内気な静けさの中に、意気揚々とする真理を育てたまえ、それを君の中から美の中へ移し、単に思想を平伏させるだけでなく、感覚がその出現を喜んで加担するようにするのです。(...)君の世紀とともに生きたまえ、しかしその産物であってはならない。君の同時代の人々につくしたまえ、しかし彼らの必要とするものをしてやるので、彼らに褒められることをしてはならない。彼らの罪を罪とせず、彼らの罰は気高い忍従の心でわかち合い、彼らにとってはあってもなくても同じように困る軛のもとに、君は自由な心で身を屈したまえ、毅然とした勇気によって、彼らの幸福を排斥しながら、君は自分の臆病さが彼らの苦痛に屈したものでないことを、 よく教えてやるのです。(...)彼らの喝采は、その品位を通したものを求めたまえ、しかし彼らの幸福は勘定の中に入れてはなりません。そうすれば、前の場合には、君自身のもつ高尚さが彼らのものを呼びおこし、後の場合にも、彼らの品位のないことが君の目的を無にすることもないでしょう。 君の原理の真剣さは、彼らを君の側から追い払うでしょうが、しかし楽しみごとの中でなら、それに耐えられるでしょう。彼らの嗜好は彼らの心よりも純潔です。(...)彼らの格言を襲撃しても無駄です。彼らの行為を弾劾しても無駄です。しかし彼らの遊惰に対しては、君の教化の手を試みることができます。気随や浮薄や粗暴さを彼らの娯楽から放逐したまえ、そうすれば、君はそれらのものを彼らの行動の中からも、ついには彼らの思考の中からも、感づかれずに追放してしまうでしょう。それらのものを見つけしだい、君は高貴な、そして偉 大な、そして知力に富んだ形式でつつみ、優秀なものの象徴で―仮象が現実に、また芸術が自然にうちかつまで―それらを四方から囲みたまえ。
個々に多様な思考をもつ万人に特定の教化を施すには、誰もが抗いがたい遊惰・嗜好・娯楽に仕掛けることが最も効果的なのであり、その意味で美の芸術が国家教育に必要なのである。「道徳的統一を自然的社会の中にもちこもうとするとき、自然の多様性を傷つけるようなことがあってはなりません。自然がその多様性を、社会の道徳的構成の中で保持しようとつとめるとき、それによって道徳的統一を破壊しないようにしなければなりません」、というように万人の「自然的」な個人の多様性を保ちながら彼らを道徳的人間に導くには、嗜好にアクセスする美的教育しかないのである(例えば自由の教義が国家の道徳性として重要なのであれば、音楽や絵画や詩などを以て美的に感化される形で自由を教えることにのみ、その国家が目指す道徳的国家への道が残されているのだ)。
第十信(以下:石原訳ベース)
すなわち、人間は自己の使命から二つの相対立する方向へ逸脱しうるものであり、我々の時代はまさに実際、この二つの邪道へと迷いこんでおり、(...)我々の時代はこの二重の迷妄から美によって引戻されねばなりません。
これが第五信から第九信までの概略である。美は野蛮人や未開人など如何なる邪道な者をも特定の方向に導くことが可能である。「しかしどのようにして美的陶冶はこの二つの相対立する疾患に対応するとともに、二つの相矛盾する性格をみずからのうちに統合することができるでしょうか」。が、ここでシラーは「美に対する感情を育てれば道徳の教化に役立つ」というありきたりな主張をするわけではない。そして寧ろ道徳と美は相反することを主張する。そこで例証するのは「芸術が栄え、趣味が支配したどの時代においても、人間性はほとんど決って堕落」していることだ。
アテネとスパルタがその独立性を確保し、各々の制度の法に対する尊敬の念が基礎としてはたらいていたあいだは、趣味はまだ成熟しておらず、芸術はまだ幼年時代にありました。そして美は心を支配するまでにはなかなか達していませんでした。(...)ペリクレスやアレキサンダー大王のもとで芸術の黄金時代がやって来て、趣味が広く一般に支配するようになったとき、ギリシャはもはや力と自由を失っていました。雄弁が真実を偽造し、智慧をソクラテスの口のなかで、徳をフォキオンの生活のなかで侮辱したのです。ローマ人は、御存知のように内乱によってその力を費消しつくし、そしてその性格の剛直に対してギリシャ芸術が勝ち誇るのを見るよりも早く、東洋的奢侈によって女々しくなり、幸福なる君主のくびきの下に身を屈しなければなりませんでした。アラビア人においても、その文化の曙光が現れたのは、その戦闘精神のエネルギーがアッバス朝の玉笏の下で衰えてからのことです。近イタリアで美術が出現したのは、ロンバルディアのみごとな同盟が崩れ、フィレンツェがメディチ家の支配下に服し、あの勇ましきすべての都市にみちていた独立不羈の精神が不名誉な服従に道を譲るに至った後のことでした。このうえ近代国家の例をまだ思い出してみるのはほとんど余計なことで、その美的洗練はその独立性の衰退と比例しておりました。過去の世界のどこへ眼をむけようと、趣味と自由とは互に避けあい、美は英雄的な徳の没落した後ではじめて支配権を握るという事実を我々は見出すのです。
ペリクレス、アレキサンダー大王、アッバス朝、メディチ家のもとで芸術の台頭が起こったのは、「都市にみちていた独立不羈の精神が不名誉な服従に道を譲る」ことによって誘因され、その意味で「美は英雄的な徳の没落した後ではじめて支配権を握るという事実を我々は見出すのです」。こうした理由をもって「高度で偉大な普遍性をもった美的陶冶が、政治的自由や市民的徳性と手を携え、また美的習慣が善い習慣と、振舞の洗練性がその真実性と手を携えて歩んだというただ一つの例さえあげることができない」と結論づけるのだ。
では美的陶冶は民を道徳的に強化させることは不可能であるのか。そこで重要なのは、さきほど例を挙げた歴史的即ち経験的「美」と「経験以外にその源泉をもつ美の概念」の異なる性質を理解することにある。確かに「現実性」に基づく前者の「美」のもとに教化を志向するならば失敗に終わるかもしれないが、シラーは後者の「美」をもとに教化を試みることでそれを可能的なものに昇華するのだ。
一言にして言えば、美は人間性の必然的条件として示されなければなりません。我々はこうした人間の個別的で変転きわまりない現象的なものから離れて、絶対的なもの、永続的なものを見出し、一切の偶然的制約を捨て去って人間存在の必然的条件を我がものにするよう努めなければなりません。このような先験的な道はしばらくのあいだ、我々を親しみ深い現象の領域と生き生きした事物の現存の世界から遠ざけ、抽象概念の不毛な野にとどまらせることになりますが、我々はゆるぎない認識の確固不抜の基盤を求めなければならないのであり、現実性をあえて越え出ていかない者は、決して真理を我がものにすることはできないでしょう。
概略するならシラーが美的陶冶を以て道徳に導かんとする「美」とは、「純粋な理性概念」、「抽象の道」、「先験的な道」として「現実性」を越える「美」のことを指すのである。それゆえ、例証したトレードオフな道徳と美の歴史を指して「美の影響力に関してこれまでの経験が教えたことだけを頼っているならば、人間の真の陶冶にとってそれほど危険な感情を育成することは、そんな気に乗ることではありますまい。(...)しかしながら、経験はおそらくこういう問題を決定する裁判所ではありますまい」とするのだ。
第十一信
本信からはシラーの人間論に入る。シラーは本性を「人格」と「状態」を区分し、前者に静的で後者に動的な性格を与える。そしてこの性格が無矛盾であるには、両者が混ざり合ってはならないことを説明する。
永続的なものは人間の人格とよばれ、変転するものは人間の状態とよばれます。我々が必然的な存在者〔神〕のなかでは同一不二のものと考える、この人格と状態―自己とその規定性―は、有限の存在者〔人間〕においてはいつも二つに分かれています。いくら人格が不動でも状態は変り、いくら状態が変っても人格は不動です。(...)有限な存在者としての人間においては、人格と状態とは分れているのですから、状態が人格にもとづくことも、人格が状態にもとづくこともできません。もし後者の場合だったら、人格は変化せねばならず、前者の場合だったら、状態は不動のはずです。
ここから始まるのはデカルト=カント的図式である。存在は絶対的及び必然的な原則から始まらなければならない。ゆえに人格こそが「自己自身の根拠」なのである。
我々が存在するのは、思考し、意欲し、感じるからではありません。また我々が思考し、意欲し、感じるのは、存在するからではありません。我々は存在するがゆえに存在するのであり、また我々の外になにか他のものが存在するがゆえに感じ、思考し、意欲するのです。したがって、人格は自己自身の根拠でなければなりません。というのも、永続的なものは変化から出てくることはできないからです。それで我々は第一のものとして、絶対的で自己自身のうちに基礎をもつ存在の理念、すなわち自由をもつことになりましょう。(...)我々は第二のものとして、一切の依存的存在ないし生成の条件、すなわち時間をもつことになりましょう。「時間は一切の生成の条件である」というのは、同一律的命題です。なぜなら、それは「継起は結果として生じるものの条件である」というにすぎないからです。永遠に不動の自我において、そしてただそこにおいてのみ自己を示す人格は、生成すること、時間のなかで始まることはできません。なぜなら、かえって逆に時間がそのなかで始まり、不動のものが変異の根拠にならなければならないからです。
これは第一信での言及、そして後に続く「人間はこれを空間においては自分の外にあるものとして、また時間においては自分のなかで変化するものとして」とあるように、超越論的感性論であると言えよう。シラーは、こうしたカント的自我のもとに「相対立」する「二つの根本法則」を紹介する。「第一は絶対的実在性にむかう」ような「感性的衝動」で、「第二は絶対的形式性にむかう」ような「形式衝動」である(衝動の定義は一二信で行われる)。シラーはそのアンビバレントな例として花をあげる。
不動のものが変移の根拠にならなければならない(...)花が咲き、そして萎む、と言うとき、我々は花をこの変化における永続的なものとするのであり、二つの状態〔咲くと萎む〕がそこにおいて表される、いわば一つの人格を花に付与しているわけです。
つまり咲く或いは萎むといった状態が変化しようと、それが花であることに変わらない。それは咲く或いは萎むといった状態が、花という人格に根拠をもつということを示すのであり、即ち「不動のものが変移の根拠」になっているのである。我々はこうして咲く或いは萎むといった状態を「絶対的実在性」として経験しながら、そこに花という人格を抽象概念を当嵌める「絶対的形式性」にむかうのだ。ポール・ド・マン曰く「形式への欲望、形式への衝動とは、一般性を切望すること、すなわち絶対的なもの、法則を切望することであり、できるかぎり広い範囲を包含しようとするような時間的構造をもっています」。
第一二信
我々の内なる必然的なものを現実化し、我々の外なる現実的なものを必然性の法則に従わせるという、この二重の課題を果たすために、我々は二つの相対立する力によって突き動かされます。この力はその目的の実現にむかって我々を駆りたてるのですから、衝動とよぶのがふさわしいでしょう。この衝動の第一のものは、感性的衝動と私が名づけようと思うもので、人間の身体的存在、すなわちその感性的本性に発し、(...)人間性の完成を不可能にするものもやはりこの衝動にほかなりません。それはより高く志向する精神を断ちがたき鎖で感性界につなぎとめ、抽象概念を無限への自由な飛翔から現存世界の制約へとよび戻すのです。次に、二番目の衝動は形式衝動と名づけることができるもので、これは人間の絶対的存在、すなわちその理性的本性から発し、人間を自由にし、その現象の多様性を調和させ、状態の変化にかかわらずその人格を確保することに努めるのです。
換言するなら、感性的及び身体的に「現存世界」へつなぎとめるのが「感性的衝動」であり、理性的及び精神的に「抽象概念」への無限な飛翔へと導くものが「形式衝動」であるのだ。その具体例として音楽をあげる。
時間中に存在するものはすべて継起的ですから、何かが存在するということは、その他の一切のものが締出されるということにほかなりません。楽器で一つの音を聴くとすれば、可能的に与えられるすべての音のうちこの唯一の音が現実的であるということです。人間は現存するものをそれゆえこの衝動だけがもっぱら活動するときは、必然的に最高の限定が現存するわけです。
「楽器で一つの音を聴く」ということは、その他の音が「締出される」ことであり、「すべての音のうちこの唯一の音が現実的」なのであって、その意味で一時的であるにしても「感性的衝動」は「必然的に最高の限定」を及ぼすのだ。ポール・ド・マン曰く「感性的な衝動とは瞬間の直接的な魅惑に身を任せることであり、したがってそれ以外のすべてのものを締め出してしまうという、瞬間に固有の性質をもっています」。一方、「形式衝動」は音一般を明らかにすることが可能であり、この意味で「第一の衝動が単に事例をつくるにすぎないとすれば、第二の衝動は法則を与えます」とするのだ。
第一三信
一見したところの二つの衝動の傾向は、一方が変化へ、他方が不変へとむかうことによってこれ以上相対立するものもないように見えます。にもかかわらず、、人間性の概念を汲みつくすのはこの二つの衝動であり、両者を媒介しうるような第三の根本衝動などはまったく考えられない概念です。ではこの本源的で徹底的な対立によって完全に廃棄されてしまったように見える人間性の統一を、どのようにして再建したらよいのでしょうか。
第一四信
そこでシラーは「人間性の統一」を再建する「遊戯衝動」を提案する。
「人間は自己の実在性を犠牲にして形式を求めてはならず、また形式を犠牲にして実在性を求めてもなりません(...)。」(...)十全な意味で人間であるということは、この二つの衝動のうち一方だけを、あるいは一つずつを順々に満足させるにとどまるかぎりでは、決して知ることができません。(...)しかしもし彼がこの二様の経験を同時にする場合、つまりおのれの自由を自覚するとともにおのれの現存を感受する(...)場合が経験のなかに出現しうるとすれば、それは人間のなかに一つの新しい衝動を目覚めさせることになるでしょう。前述の二つの衝動は人間のなかで協働しているのですから、一つ一つして見れば、この衝動はその各々と対立しており、新しい衝動と言ってもよいでしょう。感性的衝動は、変化が存在し、時間がないようをもつことを欲し、形式衝動は、時間が廃棄され、いかなる変化もないことを欲します。したがって、両者が結合してはたらくこの衝動(私が名称の意味を説明するまで、遊戯衝動とよぶことをさしあたりお許しください)―この遊戯衝動は、時を時のなかで廃棄し、生成を絶対的存在に、変化を同一性に結びつけうるようにむけられるもの、ということになりましょう。
ここで言われる「遊戯衝動」は、「根本衝動」でないことを理解しなければならない。あくまで「根本衝動」である「感性的衝動」と「形式衝動」の「結合」によってうまれる二次的衝動が「遊戯衝動」であるのだ。
感性的衝動はその主体からすべての自己活動性と自由を締出し、形式衝動はその主体からすべての依存性と受動を締出します。しかし自由を排除するものは自然的必然性であり、受動を排除するものは道徳的必然性です。したがって両衝動ともに、一方は自然法則によって、他方は理性の法則によって心に強制を加えます。(...)感性的衝動は自然的であらざるをえず、形式衝動は道徳的であらざるをえない
即ち、第三信での「自然的必然性」(物的、形而下的、肉体的)と「道徳的必然性」(心的、形而上的、精神的)とそれを結ぶ「第三の性格」としての「美」はそれぞれ、「感性的衝動」、「形式衝動」、「遊戯衝動」に対応するのだ。そして両衝動は、人間を駆り立てる意味で双方向から「心に強制」を加える。「遊戯衝動」はこれらを昇華する。
両衝動がそのなかで結合している遊戯衝動は、心を道徳的かつ自然的に同時に強制することになるでしょう。ところが遊戯衝動は一切の偶然性を廃棄しますから、一切の強制をもまた廃棄し、人間を自然的にも道徳的にも自由にするはずです。
一五信
あまり気の乗らない道を通ってあなたをお連れしましたが、目的地にだんだん近づいてきました。いましばらくともに歩みを進めることに御同意下さい。そうすれば、ますます自由な視野が開け、魅力的な展望がおそらく途中の労苦を忘れさせてくれるでしょう。
第一に本信では、感性的衝動を詳細に検討する。
一般的概念において表現される感性的衝動の対象は、最も広い意味での生命(Leben)といわれます。これは感覚における一切の質量的存在、一切の直接的現存を意味する概念です。(...)我々が人間の形態について思考するだけならば、その形態は生命がなく、単なる抽象にすぎません。我々が人間の生命を単に感じているだけならば、その生命は形態がなく、単なる印象にすぎません。その形式が我々の感覚のなかで生きており、またその生命が我々の知性のなかで形づくられることによってのみ、それは生ける形態なのです。
よって、形式衝動には生命が存在しないと言い換えられるだろう。啓蒙思想家は理性を人間性の回復だと論ずることからも、先見的な合理性への批判及び反省を行っていることがわかる。初信にて、フランス革命時に蔓延る野蛮人(理性の信奉者たる啓蒙思想家)と未開人(快楽に隷属されたリベルタン)に対する批判を試みたように、その意味でシラーは均衡を求めた。
形式衝動と素材消耗とのあいだに共通なもの、すなわち遊戯衝動が存在しなければならない。というのも、現実性と形式との統一、偶然性と必然性との統一、受動と自由との統一、このことだけが人間性の概念を完全なものにするのですから。(...)どちらか一方の衝動がもっぱら活動するというのは、人間の本性を未完成なものにしてしまい、そこに一つの制限を置くことになります。(...)御存知の通り、我々はもっぱら物質でもなく、またもっぱら精神というわけでもありません。したがって人間性の感性としての美は、経験の証拠にもあまりに忠実でありすぎる鋭敏な観察者が主張するような、また時代の趣味がそれへと引下る傾向にあるような、単なる生命ではありえず、一方また経験からあまりに遠かった思弁的な哲学者や、その説明においてあまりに芸術の要求に引きずられる傾向のある哲学的芸術家によって判断されるような、単なる形態でもありえません。(...)「美しいものは単なる生命でも、単なる形態でもなく、人間に対し絶対的形式性と絶対的実在性という二重の法則を授けることによって生ける形態、すなわち美でなければならない」と。したがって理性はまた、こういう要求をかかげるのです。「人間は美ともっぱら遊ぶべきであり、また美とだけ遊ぶべきである」と。
ここで第六信で「ギリシア国家の―個々がみな自主的な生活をたのしみながら、いざとなれば、全体になることのできる―あのポリープ的性質は、いまはただ一個の精巧な時計仕掛けに―数かぎりなく無数の、しかも生命のない部分部分のつなぎ合わせがつくる、全体で一個の機械的生活に―その席をゆずっているのです」としたように、ギリシャがその体現であると論ずる。
ギリシャ人(...)は地上でおこなわられるべきことをオリュンポスの山へ移したのです。彼らは天上の真理に導かれて、死すべき者の頬にしわを刻む辛苦労働も、空虚な外面を磨く虚しい快楽も、ともに至福な神々の額から拭い去り、永遠に満ち垂れる神々をあらゆる目的、義務、配慮の束縛から解放し、無為と無頓着とを神々の地位の羨むべき運命といたしました。それは最も自由にして最も崇高な存在に与えられた単に人間的な名前にすぎません。自然法則の物質的強制も道徳法則の精神的強制も、二つの世界を同時に包含する必然性という、より高度な概念のなかでともに消滅しました。そしてこの二つの必然性の統一から、真の自由がはじめて輝き出るのでした。(...)しかし我々は天上的な慈仁にやすらかに身を捧げる一方で、天上の自足性は我々を脅して尻込みさせます。全き形態、完全に閉じられた創造は自己自身のなかにやすらい、住まい、あたかも空間の彼岸にいるかのように、譲歩も抵抗もありません。そこには力と戦うべき力はなく、時間性が入りこむ隙間もありません。一方で押えがたく捉えられ、引きつけられ、他方で遠くに隔てられ、我々は最高の休止と最高の活動の状態に同時に置かれます。そしてそこに、あの不可思議な感動が生じるのです。それを表現するのに、悟性はいかなる概念もなく、言葉はいかなる名もありません。
まさに、遊ぶこととは「最高の休止と最高の活動の状態に同時に置かれ」ることだと言える。この二重の形式が混在する「不可思議な感動」こそ美を齎す遊戯衝動を象徴するのであろう。よって前傾されたテクストは、「我々は相対立する二つの衝動の交互作用と相対立する二つの原理の結合とから、美が生じるのを見ました」として次信が始まるように、美のダイナミクスを見事に表現したものであると言えるだろう。
一六信
しかしここに生じる誤謬は「高度な概念」として昇華アウフヘーベンされたものとして美を想定することである。ポール・ド・マンが遊びを戯れと言い換え「戯れとはすなわち、弁証法的な衝突が生起しないようにするのに必要な空間のことなのです」とするように、振り子の如く感性と形式の「平衡」を為すのが美なのである。
我々は相対立する二つの衝動の交互作用と相対立する二つの原理の結合とから、美が生じるのを見ました。したがって、美の最高の理想は実在性と形式との最も完全な結合と平衡のなかに求められることになるでしょう。しかしこの平衡はつねに、現実界では完全には到達できない理念にとどまります。現実においては、一方の要素がどうしてもいつも他方の要素より過重になってしまうのです。それで、経験の成し遂げうる最高のものでも、実在性のほうが重くなったり、形式のほうが重くなったりして、両原理のあいだが動揺するでありましょう。
こうして存立する感性と形式の「平衡はただ一つのもの」であるが、対照的にで「理念における美はどこまでも不可分の一者ですが、これに対して経験における美は、平衡が動揺して二様の仕方で(...)二重の存在とな」るとして、経験的美の類型化を行う。そこで提案されるは融和的或いは融解的美と、緊張的或いは精力的美である。
厳密な必然性をもって、美には融和的な作用と緊張的な作用とが同時に期待されるということが帰結します。すなわち、感性的衝動と形式衝動をともにその限界内にとどめるためには融和的作用が、そして両衝動が各各の力を保持するためには緊張的作用が必要なのです。しかし美のこの二つの作用は理念から見れば、まったく唯一不二のものでなければなりません。それは両性質を一様に緊張させることによって融和させるべきであり、両性質を一様に融和させることによって緊張させるべきなのです。(...)したがって、理想-美においては単に観念において区別されるにすぎないものが、経験の美においては現実存在において異るのです。理想-美は不可分、単一ではありますが、異った関係のもとでは、融解的性格としても精力的性格としても示されます。一方、経験においては融解的な美と精力的な美というものが実際に存在するわけです。
では融和的或いは融解的美と、緊張的或いは精力的美とはなんたるか。シラー曰く双方が軌を一にするは、感性と形式の平衡である。しかし平衡には二つの方途が存在するのだ。それこそが感性と形式の平衡を、両者の緊張関係をもって為すことと両者の融和をもってなすことである。それゆえにシラーは「質料か形式のどちらかの強制のもとに置かれている人間に対しては、融解的な美が必要です。なぜなら、彼は調和や優美を感受する以前から、すでにとうに大きなものや力によって動かされているからです。趣味に耽溺している人間に対しては、精力的な美が必要です。なぜなら、彼は未開の状態からもちこしてきた力を洗練性の状態のなかであまりにも軽率に見失いがちだからです」と結論づけるのだ。
融解的な美が人間にある程度の柔弱と衰弱をもたらすのを防ぎえないと同様に、精力的な美はある程度の粗野と硬さの残滓を払拭できません。なぜなら、後者の美の作用は心を自然的にも道徳的にも緊張させ、その弾力を増加させるところにあるために、気質や性格の抵抗によって印象の受容力が容易に減じられ、繊細な人間性でも生硬な性質にだけふさわしいような抑圧を蒙ったり、心性の崇高さには熱情の恐るべき噴出がつきものなのです。したがってまた、規則と形式の時代には、自然は支配されると同様しばしば抑圧され、克服されると同様しばしば傷つけられるのが見出されるでしょう。一方、融解的な美の作用は心を自然的にも道徳的にも融和するところにあるのですから、同様に容易に、感情の力までが欲求の暴力によって抑えこまれ、また性格も情熱にだけふさわしいような力の消耗を蒙るということになります。したがって、いわゆる洗練された時代には、しばしば柔軟は柔弱に、平坦は浅薄に、正確は味気なさに、自由は恣意に、軽快は浮薄に、やすらいは無感覚に退化してしまい、また最も軽蔑すべき戯画がこの上なく立派な人間性と隣合せになっているのがよく見られるのです。それで、質料か形式のどちらかの強制のもとに置かれている人間に対しては、融解的な美が必要です。なぜなら、彼は調和や優美を感受する以前から、すでにとうに大きなものや力によって動かされているからです。趣味に耽溺している人間に対しては、精力的な美が必要です。なぜなら、彼は未開の状態からもちこしてきた力を洗練性の状態のなかであまりにも軽率に見失いがちだからです。
そうしてシラーが帰結するは、経験的美の二極を、唯一なる理念的美の「なかへ解消」することと、感性と形式の統一こそが本研究の主題であるとするのだ。
このようなわけで、私は研究の歩みにおいて、美的観点において自然が人間とともにとった道をまた私の道ともして、美の種概念から類概念へと昇っていくことにしましょう。私は融解的な美の緊張した人間への作用と精力的な美の弛緩した人間への作用とを吟味し、最終的には、相対立する二つの美の種を理想-美の統一のなかへ解消するとともに、あの二つの相対立する人間性の形式を理想・人間の統一のもとに没入させるでありましょう。
一七信
一六信にて論じられた美を成すための方途と対照的に、本信では「理念の国から現実の舞台へと降りたって、人間を一定の状況下、つまり本源的に人間という単なる概念からではなく、外的環境や彼の自由の偶然的使用から出てくるもろもろの制限下において、人間を捉」えることで、美の欠落がいかにして生じるかを紐解く。
人間性の理念が人間においてたとえいかに多様な形で制限を受けるにしても、全体としてはただ二つの相対立する片寄りが起るにすぎないことを、その内容がすでに我々に教えています。すなわち、人間の完全性が感性的な力と精神的な力の一致しあう勢力のなかにあるとすれば、人間がその完全性を失うのは、一致の不足によるか、あるいは勢力の不足によるかのいずれかです。
感性と形式のどちらか一方の欠如による平衡の崩壊、或いは双方の欠如によって生じる緊張関係の不足。ひいては荒れ狂う緊張関係の衝突による一致の不足、すなわち分離状態によって、「美の理想的な完全性」は瓦解するのだ。そして経験的美の二極とはまさにそれぞれを美へと引き戻すダイナミクスなのである。それでは前信で提起された理念的美とはなんたるか。
理念的美が可能にするは、経験的美における融和的=融解的美と緊張的=精力的美の総合的なダイナミクスである。すなわち、唯一なる理念的美は経験的美の二極の作用を兼ね備える。
二つの相対立する制約は―これがいまや証明されなければならない点なのですが―美によって廃棄されることになるでしょう。この美は、緊張した人間には調和を、そして弛緩した人間には勢力をふたたび依復させ、このようにして、その本性に従って制限された状態を絶対的な状態に戻し、人間を自己自身において完成した全体にするのです。
すなわち、理念的美は―「緊張した人間」に「融和的な作用」を齎し、「弛緩した人間」に「緊張的な作用」を齎すことが可能なのだ。よって理念的美は二つの経験的美を廃棄する。それは言い換えれば自由である。
感性によって一方的に支配された人間、すなわち感性的に緊張した人間は、形式によって解放され、自由になるのであり、法則によって一方的に支配された人間、すなわち精神的に緊張した人間は、質料によって解放され、自由になります。
一八信
美によって、感性的人間は形式と思索とへ導かれます。また美によって、精神的人間は質料へと連れ戻され、感性界がふたたび与えられます。このことから、質料と形式、受動と能動とのあいだに中間的な状態がなければならず、美は我我をこの中間的状態に置くものである、ということが帰結されるように見えます。
しかしこの中間的状態とは果たしてなんだろうか。なぜなら自然=感性的な対象は「経験によって」、また道徳的=精神的対象は「理性によって、それぞれ直接に確実です」。ただ美にとってそれはなんだろうか。
質料と形式、受動と能動、感覚と思考とのあいだの深淵は無限であり、決してなにものによっても媒介できない(...)これこそ美に関する全問題が最終的にかかっている肝腎かなめの点であり、この問題の満足のいくような解決に成功すれば、美学の全迷路を通り抜ける導きの糸を同時に発見したことになるのです。
ここで十七信の主題へと回帰する。下記でシラーが唱えるは、二つの経験的美を唯一なる理念的美の「なかへ解消」することで、経験的美を廃棄することそのものであると言えよう。
美は、互に相対していて決して一つになりえない二つの状態を互に結びつける、と言われます。この対立から我々は出発しなければなりません。我々はそれをまったく純粋、厳密なかたちで捉え、認識し、二つの状態がはっきりと分たれるようにしておかなければなりません。そうでないと、我々は混合することはあっても、統一することはありません。第二に、この二つの相対立する状態を美が結びつけ、それゆえこの対立を廃棄すると言われます。二つの状態は互にどこまでも対立しあうのですから、この状態を結びつけるには、それを廃棄することによるほかないのです。それゆえ我々の第二の仕事はこの結合を完全なものにして、それを純粋、完璧に遂行し、二つの状態が第三のもののなかにまったく消滅し、全体のなかにいかなる分裂の跡も残らないようにすることです。そうでないと、我々は別々のものにしてしまうことはあっても、統一することはありません。
そしてそれこそが従来の美学者の失敗であると言える。
哲学の世界で美の概念についてかつて交され、一部、今日に至るも交されている論争の原因は、十分に厳密な区別を立てないで研究をはじめたか、まったく純粋な統一まで研究を貫徹しなかったかのどちらかによるのです。美というこの対象を反省する際に、感情の導きに盲目的に自己をゆだねてしまう、前の場合に展する哲学者たちは、感覚的印象の総体になんら個別的なものを区別しないので、美についていかなる概念にも到達できません。一方、もっぱら悟性の指導を仰ぐ他の哲学者たちは、美の総体に部分だけを見て、精神と物質とはその完全な統一のなかにあっても、どこまでも別になってしまっているために、美についての概念に到達できません。前者は、感情のなかに結びつけられているものを分離すべき場合に、か動的な、つまり作用する力としての美を廃棄してしまうことを恐れます。後者は、各性のなかに分れているものを結びつけようとする場合に、論理的な、つまり概念としての美を廃棄してしまうことを恐れます。前者は美を作用するがままに考えようとし、後者はそれを考えられるがままに作用させようとするわけです。それでどちらも真理を捉え損うことになりますーすなわち、前者はその限られた思考能力で無限の自然と張りあおうとするために。後者はその思考法則で無限の自然を制限しょうとするために。一方はあまりに厳格な美の解剖によってその自由がひわれることを恐れ、他方はあまりに大胆な統一によってその概念の規定性が損われることを恐れます。しかし前者は、美の本質を自由に置く点ではまったく正当ではありますが、その自由が無法則性ではなく法則の調和であり、恣意ではなく最高の内的必然性であることを願慮しておりません。後者は、同等の権利をもって美に要求しうる規定性が一定の実在性の排去ではなく、すべての実在性の包合であり、それゆえ限定ではなく無限性であることを願慮しておりません。もしも数々が、皆性の前では分れている二つの美の要素から出発しながらも、やがてそれを通じて大が感覚にはたらきかけ、そのなかでは例の二つの状態はまったく消滅してしまうような純粋な美的統一にまで上ってゆくならば、両陣営の人々がともにつまずいた障害をうまく避けることができるでありましょう。
一九信
いまや人間の感覚が刺載され、無数の可能的規定のなかからただ一つの実在性が得られなければなりません。一つの表象が彼のなかに生じなければなりません。(...)空間中に一つの形態を描こうとすれば、我々は限りなき空間を限定しなければなりません。時間中に一つの変化を表しようとすれば、我々は時間を分割しなければなりません。してみれば、我々は制限によってのみ実在性に達し、否定ないし排除によってのみ音定ないし現実的定立に達し、我々の自由な規定可能性の廃棄によってのみ規定性に達することになるのです。(...)空間中に一つの場所を規定する以前には、我々にとってそもそも空間は存在しません。しかし絶対的空間がなければ、我々が場所を規定するということもないでしょう。時間についても同様です。我々が瞬間をもつ前には、我々にとって時間はありません。しかし永遠の時がなければ、我々が瞬間の表象をもつこともないはずです。したがって我々は、もちろん部分によってのみ全体へ、限界によってのみ無限界へと到達するのですが、他面においてはまた、全体によってのみ部分へ、無限界によってのみ限界へと到達するのです。
一つの実在性、一つの表象を以て初めて我々は全体へ至るが、同時に一つの実在性、一つの表象は全体の裡に存在する。ゆえに部分と全体、限定と無限は、相互的な媒介或いは互いの存在に準拠することでそれぞれが存立し得るのである。では途端に始まったシラー形而上学講義は如何にして美学と軌を一にするのか。
さて、美が人間にとって感覚から思考への移行の道をひらくということが主張されましたが、このことは、美によって感覚と思考、受動と能動とを分つ裂目が埋められうるかのように理解してはなりません。この裂目は無限です。そして新しい、独立の能力の介在がなければ、個別的なものは永遠に普遍的なものになることはできず、偶然的なものは決して必然的なものになりえません。思想とは、こういう絶対的能力の直接的行為です。これは自己を表現するのに感覚の誘因を必要としますが、その表現それ自身は感覚にいささかも依存せず、むしろ感覚との対立によってのみ自己を示します。それが行為する際に有する独立性は、一切の異質なはたらきかけを排除します。美が人間を質料から形式へ、感覚から法則へ、制限的存在から絶対的存在へと導く手段となりうるのは、思考の手助けをするからなのではなく(そんなことは明らかに矛盾です)、それが思考力に自分自身の法則に従って自己を表現するための自由を与えるからにほかなりません。
「自己を表現するのに感覚の誘因を必要としますが、その表現それ自身は感覚にいささかも依存せず、むしろ感覚との対立によってのみ自己を示します」とは、一つの実在性ひいては一つの表象を以て初めて我々は時空間の無限性を知覚するように、感覚が第一に「思想」を誘因するのだ。しかし一つの実在性、一つの表象を獲得した「思想」が感覚に依存する必要はなく、むしろ無限のうちに自己を樹立する際の対比的な参照点に過ぎないのだろう。ゆえに自然的必然性と道徳的必然性は自由の糧なのだ。換言するならば、中間的状態に広がる無限性とその上に立脚される自由を獲得するためには、感性的衝動或いは形式衝動という一つの実在性ひいては一つの表象が必要なのだ。よって第一信にてシラーは云う。「自由にまでたどりつく道が美である」。ここまで理解することで本信の冒頭が理解できよう。
人間というものには、受動的規定可能性と能動的規定可能性という二つの異った状態が区別され、また受動的規定と能動的規定という同様に二つの状態が区別されます。
即ち受動的規定が「感覚の誘因」であり、二つの衝動である。その中間的状態に存在する「判断するとか思考するとか」いったものが思想であり、それこそ能動的規定なのであろう。そして能動的規定に基づく自己表現を可能にするためには自由が必要なのであり、自由には美が、そして美は二つの必然性による受動的規定によって獲得されるのだ。即ち「有限的精神は受動によってしか能動的にはならず、制限によってしが絶対に到達せず、素材を受取ることによってのみ行動し、形成するものです」と帰結するのだ。
ここで我々は、いま問題にしているのが有限的精神であって無限的精神ではないということを注意しなくてはなりません。有限的精神は受動によってしか能動的にはならず、制限によってしが絶対に到達せず、素材を受取ることによってのみ行動し、形成するものです。そのような精神は形式または絶対への衝動に質料または制限への衝動を結びつけるのであって、後の衝動はそれ自身条件をなしており、それなくしては前の衝動をもつことも満足させることもできないのです。(...)我々の外なる必然性が、我々の状態、すなわち時間のなかの我々の存在を、感覚を介して規定します。感性的術動は生命の経験とともに(個体の始まりとともに)目覚め、理性的衝動は法則の経験とともに(人格性の始まりとともに)目覚めます。そしてこの両者が存在するようになってはじめて、彼の人間性がつくられるのです。このことが起るまでは、彼のなかのすべては必然性の法則に従って生じます。しかしいまや、自然の手は彼を見捨て、自然が彼のなかに置き、明示したあの人間性を主張するのは、彼身の問題になります。つまり、二つの相対立する根本術動が彼のなかにはたらきはじめるや否や、両者の強制力は失われ、二つの必然性の対立は自由の源泉となるのです。
二十信
自由は、人間が完全で、彼の両方の根本衛動を展開させる場合にはじめて、そのはたらきを始めるのです。したがって、人間が不完全で、両衝動の一方が締出されたりするかぎりでは、自由は女如せざるをえず、そして人間にその完全性を返してくれる、ありとあらゆるものによって恢復できなければなりません。さて、人類全体においても、個々の人間においても、人間がまだ完全ではなく、両衝動の一方だけがもっぱら活動するという時機が現実に示されます。御存知のように、人間は単なる生命に始まって形式に終るものであり、人格より前に個体であり、制約から無限へとむかうものです。それで、感覚が意識に先行するために、感性的衝動が理性的衝動より以前にはたらくのであり、この感性的衝動の先行性という点に、人間の自由の全歴史を解く鍵があるのです。
人間が種としてる個体としても、単なる生命から形相へ、個人から人格へ、制約から無限へと向かう際には、感覚が意識に、感性的衝動が理性的衝動に先行する。ゆえにそれこそが空虚な状況に、受動的規定がなされる始点を意味すると同時に、「自由の全歴史を解く鍵」を意味するのだ。
人間は直接に感覚から思考へ移行することはできません。一つの限定が一方で廃棄されることによってのみ、それに対立する限定が入りこむことができるのですから、人間は一歩後戻りをしなければなりません。それで彼は受動を自己活動に、受動的規定を能動的規定に代えるために、さしあたり一切の規定から解放されて、単なる規定可能性の状態を閲歴しなければなりません。つまり、なにかが彼の感覚に印象を与える前に、なんらかの仕方で自分がかつていた単なる無規定性というあの消極的状態へと戻らなければなないのです。しかしこの状態は、内容的にはまったく空虚なものでした。それで、この状態から直接なにか種極的なものが出てこなければならないのですから、いまや、おなじ無規定性とおなじ無制限の規定可能性とが、できるだけ大きな内容と結びつくということが問題となるわけです。人間が感覚から受取る規定は、実在性を失ってはならないために、保持されねばなりません。が同時に、それが制限であるかぎり、無制限の規定可能性が生れるべきであるために、廃棄されねばなりません。してみれば、問題は状態の規定を破壊すると同時に保持するということになります。そしてこのことは、この規定に他の規定を対抗させることによってのみ可能です。秤の皿はからのとき釣合っていますが、ひとしい重量のときもまた釣合うのです。
即ち人間の自由の全歴史とは、空虚な無限性或いは無規定性に始まり、第一段階にて感性的衝動の先行性によって受動的規定が為され、第二段階にて理性的規定が浮上し、第三段階にてそれらが均衡を成し「ひとしい重量」となることで「感覚と思考とのあいだの深淵」に広がる無限なる美及び自由を獲得する一連を意味するのだ。それゆえに、美への到達は、無限性への回帰を意味する。まさにシラーはそれを「なにかが彼の感覚に印象を与える前に、なんらかの仕方で自分がかつていた単なる無規定性というあの消極的状態へと戻らなければなないのです」と表したのである。
したがって心は、感性と理性とが同時に活動的である一種の中間的気分によって、感覚から思考へと移行することになります。しかしまさにそれゆえに、両者の規定力は相殺しあい、対抗によって否定が実現するのです。心が自然的にも道徳的にも強制されないが、それにもかかわらず両様のかたちで活動しているという、この中間的な気分は、すぐれて自由な気分とよぶに値します。そして感性的規定の状態を自然的状態、理性的規定の状態を論理的ならびに道徳的状態と名づけるとすれば、実在的で能動的な規定可能性のこの状態は、美的状態とよばれなければなりません。
二一信
ここにきてシラーは空虚な無限性と美的な無限性の差異について論ずる
規定可能性に二様の状態があり、規定にも二様の状態があります。いまや私はこの命題を明らかにすることができます。心はおよそなにも規定されていないかぎり、規定可能的です。しかしそれが排他的に規定されていないかぎり、すなわち、その規定において制限を受けていないかぎり、同様にまた規定可能的です。前者は単なる無規定です(それは実在性がないために制限がありません)。後者は美的規定可能性です(それはすべての実在性を結びつけるために制限がありません)。(...)美的規定可能性と単なる無規定性とは、ともに一定の存在を排除するという唯一点で出会って、他のすべての点では無と総体のように、すなわち無限に異っています。したがって、欠如からくる無規定性は空虚な無限性として表象されますが、その真の対をなす美的な規定自由性は充実した無限性と見なければなりません。
規定可能性には「単なる無規定」と「美的規定可能性」があり、前者は一切の実在性をくが故に制約がなく、後者は全ての実在性を結びつけるが故に制約がない。よって、前者は空虚な無限性と表象されるのに対して、後者の美的な規定自由性は、満たされた無限性とみなされるのだ。そしてそれは無規定ゆえに両者は無の性格を有する。
してみれば、美的状態(...)は無なのです。それゆえ、美やそれが々の心を誘う気分が認識や心性についてはまったく無関心で役に立たないと説く人々は、完全に正しいと認めなければなりません。(...)したがって美的陶治によっては、人間の人格的価値ないしその尊厳は、それが人間自身にのみ依存しうるかぎりでは、まだまったく無規定であり、それが到達しえたものといっては、人間がしたいことを自分からするということを本性上可能にしたということ―つまり、人間があるべきところのものであるという自由が人間に完全に返されたということ以上ではありません。
即ち、無規定ゆえに自由なのであり、それは空虚な状態の自由とは異なり、自然と道徳のもとにありながら可能になる自由なのだ。言い換えるなら、自由の高次元での回復こそ、美的無規定性の本懐なのである。
しかしまさにそのことによって、ある無限なものが達成されるのです。なぜなら、まさにこの自由は、感覚の場合には自然の一方的な強制によって、また思考の場合には理性の排他的立法によって、人間から奪い去られてしまったのだということを想起するなら、我々は美的気分において人間に与え返されるこの能力を最高の贈物、すなわち人間性の贈物と見なければなりますまい。人間は素質的にはもちろん、この人間性を彼が陥る各々の規定的状態以前にすでに所有しています。しかし実際には、彼は自分の陥る各々の規定的状態とともにそれを失ってしまいます。そしてこの人間性こそは、彼が対立する状態へと移行しうるかぎり、つねに新たに美的生命によって与え返されなければなりません。してみれば、美を我々の第二の創り主とよぶのは、詩的表現として許されるばかりでなく、哲学的にも正しいのです。というのも、美は単に人間性を可能にするだけで、我々がそれをどれほど実現しようとするかは我々の自由意志に任すとはいえ、この点でまさに我々の根源的な創り主、自然と相通じるものがあるからです。この自然も同様に人間性に対する能力を我々に与えただけで、その使用については我々独自の意志決定に任せているのですから。
二二信
このようなわけで、美的気分はある点では、つまり個別的で特定の作用に注目するかぎりでは、無と見なければなりませんが、別の観点からすれば、つまり一切の制限の不在とそのなかに共通にはたらいている力の総和に注目するかぎりでは、最高の実在の状態と見ることができます。したがって、美的状態を認識や道徳性に関して最も有益なものと説く人々も同様に正しいと言うことができます。彼らが正しいというのは、人間性の全体に及ぶ気分は、能力上、その個々の表現もすべて必然的に包含しなければならないからですし、また人間性の全体から一切の制限を除去する気分は、必然的にこの制限をその個々の表現からもすべて除去しなければならないからです。それは人間性の一定のはたらきを排他的に保護するということがないからこそ、どのはたらきにも隔てなく恩恵をほどこすのです。またそれはすべてのものの可能性の根拠であるからこそ、どのはたらきにもとりわけ恩恵をほどとすということもないのです。その他の行為はどれも心に対してなんらかの特別な適合性を与えますが、そのためにまた特別な制限を置くことになります。美的行為だけが無制限のものへと導くのです。我々が経験する他のすべての状態は、先行の状態を我々に指示し、またその解のためには、それに続く状態が必要です。美的状態だけはそれ自身において全体です。というのも、それはその起源と継続の条件をすべて自分のなかに結びつけてもっているからです。この状態においてのみ、我々はあたかも時間から切り離されたように感じます。そして我々の人間性は、あたかも外力のはたらきかけによる中断を経験したことがないかのように、純粋に完全に表現されるのです。直接的な感覚のなかで我々の感官にこびるものは、すべての印象に対して我々の弱く移ろいやすい心を開いてくれますが、同時にその分だけ、奮励努力にむかう力を減殺します。我々の思考力を緊張させ、抽象的思考を誘うものは、我々の精神を強化して抵抗力をつけますが、同時にその分だけ精神を頑なにし、そして独立性の強化に役立つに比例して感覚性を奪ってしまいます。それゆえにまた、どちらの場合も最終的には涸渇に終るのです。けだし、素材はながく形成力なしではすみませんし、力はながく形づくるべき素材なしにはすみませんから。これに対し、真正の美の享受に浸っている場合は、そのような瞬間において我々は受動的な力に対しても能動的な力に対しても同程度に主人なのであり、また同程度に容易に、真剣事にも遊びにも、静止にも活動にも、譲歩にも抵抗にも、抽象的思考にも直観にもむかうでありましょう。力と活潑さに結びついた精神の、このような高度の落着きと自由こそ、真正の芸術作品が我々を解き放ってくれる気分なのです。
自然状態は、「すべての印象に対して我々の弱く移ろいやすい心を開いてくれますが、同時にその分だけ、奮励努力にむかう力を減殺」する。道徳状態は「我々の思考力を緊張させ、抽象的思考を誘うものは、我々の精神を強化して抵抗力をつけますが、同時にその分だけ精神を頑なにし、そして独立性の強化に役立つに比例して感覚性を奪ってしま」う。この不完全なあり方を超克するものこそ美的状態なのであり、美的状態へと至るとき私たちは、受動的な力に対しても能動的な力に対しても同程度にその支配者であり、真剣な事柄にも遊びにも、抽象的思考にも直観にも、同程度に容易に向かう。このような「力と活潑さに結びついた精神の、このような高度の落着きと自由」こそ、「真正の芸術作品」が私たちに与えてくれる美的な気分なのである。
そこから真正の芸術作品とはなんたるかを語る。
真の美しい芸術作品では、内容は無で、形式がすべてでなければなりません。(...)見る者、聞く者の心はまったく自由で、傷つけられることがあってはなりません。(...)情感に訴える芸術(悲壮のように)も決して異論の対象とはなりません。なぜなら、第一にそれは特殊な目的(悲壮なもの)に役立つのですから、まったくの自由芸術というわけではありません。また次に、芸術を真に知る人なら、芸術作品はこの種のものでも、それが最高の感動の嵐においても心の自由を守れば守るほど一層完全なものであるということを否定しはしないでしょうから。情熱の芸術というものはあります。しかし情熱的な芸術というのは矛盾です。なぜなら、美の必然的効果は情熱からの自由だからです。また教育的(教訓的)ないし改善的(道徳的)芸術という概念も矛盾しています。なぜなら、心に特定の傾向を与えるなどということより美の概念に反するものもありませんから。しかし芸術作品が単にその内容によって効果を与える場合、必ずしもそれがその作品の無形式ということの証明になるとはかぎりません。それが判断する者における形式の久知からくることも同様によくあることが証明できます。判断する者が緊張しすぎたり、あるいは弛緩しすぎたりすれば、つまり、単に悟性とともにとか、単に感覚とともにとか受取るのに慣れてしまえば、彼はどんなみごとな全体においても単に部分だけに、またどんな美しい形式においても単に質料だけにしがみつくにすぎないでしょう。彼は生まの要素を感受することができるだけなので、芸術を楽しむ前に作品の美的組織を破壊してしまい、巨匠が限りないわざで全体の調和のなかに消し去った個別的なものをわざわざほじくり出してしまうのです。芸術に対する彼の関心は、もっぱら道徳的なものか、自然的なものです。本来あるべき姿の美的なものではありません。こういう読者は真面目で悲壮な詩を説教のように享受し、素朴な詩や滑稽な詩を酒のように享受します。そしてたとえ数世主の詩(クロップシュトック)のようなものであろうと、悲劇や叙事詩などから教育を求めるほど無趣味ならば、彼らはアナクレオンやカトゥルスの詩にきっと憤慨するにちがいありません。
アナクレオンはギリシャの詩人、カトゥルスはローマの詩人で、ともに酒や女など人生の快楽を歌いあげた。「悲劇や叙事詩などから教育を求めるほど無趣味な」道徳徒が彼らを憤慨するは、彼らの真反対に位置する過激なエピキュリズムにあるだろう。しかし、シラーはカントの目的なき合目的性。即ち実践的無関心状態において存する美こそ真なる美であると謳う立場と意を共にするゆえ彼らの解釈を拒む。またそれは感官に支配される古典的美学と異なり、むしろそれから解放するものだともする。よって、シラーの言う「真正の芸術作品」とは美的状態に同じ中間状態であると同時に、中身を排した最も純粋な形式性を有した芸術作品にあるのだ。
二三信
私は提示した命題を実際の芸術やその作品の判断に適用するために、一時中断した研究の糸をふたたび取上げることにいたします。感覚の受動的状態から思考や意志の能動的状態への移行は、ほかならぬ美的自由という中間の状態によって起るものであり、またこの状態は、それ自身においては我々の理解や心性に対してなにごとかを決定する―つまり、我々の知的、道徳的価値を問題にする―ものでは全然ないとはいえ、我々が一定の理解や心性に到達しうるための必然的条件なのです。一言にして言えば、感性的人間を理性的にするには、あらかじめ彼を美的にする以外に道はありません。
「しかしこのような媒介がはたして本当に不可なのだろうか、とあなたは反論されるかもしれません。真理と義務は、感性的人間においてすでに自分だけで、また自分自身によってでもその入口を見つけることができるのではないか、と」。などとその反駁を想定し、シラーは次のように応答する。
真理と義務とはその規定力をもっぱら自分自身から引出しうるばかりでなく、まったくそうすべきなのであって、もしも私の主張がそれに反する考えに与するかのような外見を呈するとすれば、これほど私の主張と矛盾するものもない、と。美が悟性と意志に対してどんな結果を及ぼすものでもなく、思考と決断の仕事にいささかも関与することもなく、両者に対して単に能力を授けるものにすぎず、この能力の実際の使用については、まったくなにごとも規定するわけではないということは明白に論証されたところです。(...)真理とは、現実性、すなわち事物の感覚的存在のように外から受取ることのできるようなものではありません。それは、思考力が能動的にみずからの自由において生み出すものであり、この能動性、この自由こそまさに、我々が感性的人間に欠けていると欺くものにほかなりません。感性的人間はすでに(自然的に)規定されており、そのためもはや自由な規定可能性をもちません。彼は受動的規定を能動的規定に変えるに先だって、この失われた規定可能性をまず取戻さなくてはなりません。しかし彼はいままで所有していた受動的規定を失うか、これから移行すべき能動的規定をすでに自己のうちに保有するか以外にはそれを取戻すととはできません。もし彼が単に受動的規定を失うにすぎないとすれば、彼は同時にそれとともに能動的規定の可能性をもまた失うことになるでしょう。というのは、思想は身体を必要とし、形式は質料においてのみ現実のものとなりうるからです。してみれば、彼は能動的規定を自分のなかに保有していることになり、受動的かつ能動的に同時に規定されているわけであり、つまり美的にならねばならないのです。したがって、美的な気分によって理性の能動性はすでに感性の分野にまで開かれているのであり、感覚の力はすでにその固有の限界の内部において破れており、自然的人間は高められ、いまや精神的人間がそこから自由の法則にしたがって成長していくばかりになっているのです。
真理と義務を負うには「その規定力」をうちから錬成するべく、「規定可能性」を取戻すべきにある。そして「規定可能性」を取戻すにはそれを失うことが求められ、それは「空虚な無限性」と「美的な無限性」の分水嶺を意味する。しかし、前者を選ぶことは「能動的規定の可能性をもまた失うことになるでしょう」。よって「感性的人間を理性的にするには、あらかじめ彼を美的にする以外に道はありません」とシラーは帰結するのだ。しかるに、美的陶冶。即ち美的教育の必要性を訴える。
それゆえ美的状態から論理的状態および道徳的状態へ(美から真理と義務へ)の歩みは、自然的状態から美的状態へ(単なる盲目的生命から形式へ)の歩みよりもはるかに容易です。(...)したがって、人間をその単なる自然的生命においてさえも形式に従わせ、美的領域が達しうるかぎり彼を美的にするということこそが、陶治の最も重要な課題であります。けだし、道徳的状態が育成されるのは自然的状態からではなく、ただ美的状態だけからなのですから。(...)自然的生命という随意な分野においてもすでに、人間はその道徳的生活を開始しなければなりません。その受動のなかにも自発性を、その感性的制限の内部においても理性の自由をはたらかせはじめなければなりません。その性向にもすでに自己の意志の法則を課さねばなりません。こんな言い方を許していただけるなら、人間は自由という聖地で物質という恐しい敵と戦うことから解放されるために、物質自身の領域内でその戦いを遊び楽しまなければならないのです。(...)このことはほかならぬ美的陶冶によっておこなわれるのであって、それは自然法則によっても理性法則によっても束縛することのできない人間の恣意をすべて美の法則に従わせ、みずから外的生命に与えた形式のなかにすでに内的生命を開示するものなのです
二四信
シラーは二十信で説明された人間の三段階を改めて、「人間は、物理的状態においてはただ自然の力だけを受動します。美的状態においてはその力から解放されます。そして道徳的状態においては、それを支配します」と区別し、道徳的状態への通過儀礼は義務として科されるとい云う。
このようにして、三つの異った発展の契機ないし段階が区別されます。それらは個人でも人類全体でもその使命の全範囲を果すべきならば、必然的にまた一定の順序で通過しなければなりません。外的事物の影響とか人間の自由な恣意にもとづく偶然的原因で、個々の段階の時期は長くなったり短くなったりすることはありえますが、どの時期も完全に飛び越すということはできず、通過する順序もまた、自然によっても意志によっても変更することはできません。人間は自然的な状態においては、単に自然の力だけを受けます。彼はこの力を美的状態においては免れ、道徳的状態においては支配します。
では果たしてシラーにとって自然的な状態はなんたるか。シラーはその第一段階「理性なき動物」であるとして、つぶさに描写する。
美が自由な喜びを誘い、安らかな形式が粗野な生命を和げる前には、人間とは一体なんでありましょうか。その目的は単調きわまりなく、その判断は変転きわまりなく、自己自身であることなしに利己的、自由であることなしに無拘束、規則に縫うことなしに奴隷です。この時期においては、人間にとって世界は単に運命であって、まだ対象ではありません。すべてのものは、彼に存在があてがわれるかぎりでのみ、彼にとっての存在となるにすぎません。彼に与えたり、彼から奪ったりしないものは、彼にとっては全然存在しないのです。彼が一連の存在者のなかで自分自身を個々きれぎれのものとして見出すように、彼の前に横たわる現象もすべて個々きれぎれに存在します。存在するすべてのものは、彼にとって瞬間の厳命によってあるのです。すべての変化は彼にとってまったく新しい創造です。なぜなら、彼のなかに必然的なものが欠けているとともに、彼の外にも変感する形態を一つの世界へと結びつけ、個体は逃げても法則を現場にしっかりと結びつける必然性というものが大けているからです。自然の豊かな多様性は空しく彼の感覚のそばを素通りするばかりです。その素晴らしい充満のなかに、彼はただ自分の獲物を見るだけです。その力と偉大さのなかに、自分の敵を見るだけです。彼は対象に突進して、それを欲望をもって自分のなかに取りこもうとするか、あるいは対象に破壊的な力で押し迫られ、嫌悪をもってそれを避けようとするかのどちらかです。どちらの場合にも、彼の感性界への関係は直接的な接触であり、絶えずその圧迫の不安におののき、有無を言わせぬ欲求に追いたてられ、彼には衰弱以外に休息はなく、欲望を汲みつくす以外に限界はないのです。(...)彼は自分の人間としての尊厳を知らず、まして他人のなかでのそれを敬うこともなく、また自分の粗野な欲望を知って、自分に似ているように見えるすべての被造物のもつそれを恐れます。彼は自己のなかに他者を見ることはなく、ただ他者のなかに自己を見るだけです。そして社会は彼を類的存在にひろげることなく、ますます狭いその個体のなかへと閉じこめてしまいます。恵深い自然が質料の重荷を彼の曇らされた感覚から取除き、反省が彼自身を他の物と区別させ、そして意識の反映のなかでついに対象が姿を現すに至るまでは、彼はこのような息苦しい制限のなかで暗黒の生活をさまようのです。
自然状態へ出来する現象は「絶えずその圧迫と不安におのの」く結果となり、「有無を言わせぬ欲求に追いたてられ」ることで欲望に要請された存在としか関係を結ばない断片の宇宙に住まい、他者に映る受動的規定によって自らを定義し、相対的な諸関係の只中で暗澹な生活をおくる。これがシラーの定義する自然状態なのだ。よって自然状態「にとって世界は単に運命であって、まだ対象では」ないのであった。
人間のなかに理性が最初に出現しても、そのことはまだ人間性の始まりではありません。人間性は彼の自由によってはじめて決せられるでしょう。そして理性はまず第一に彼の感覚的依存を無際限にするところから始めます。この現象はまだその重要性と普遍性にふさわしく明らかにされていないように私には思われます。御存知のように、理性は絶対者(自己自身によって根拠づけられ、かつ必然的なもの)の要求によって人間のなかにその本性を示すものです。そしてこの要求は彼の自然的生命の個別的な状態においては十分に実現できませんから、自然的なものを完全に捨てて、制限された現実性から理念へと登高するよう彼を強制します。しかしこうした要求の真意が、彼を時間の制約から免れさせて感性界から理想界へと登高させるというところにあるにしても、それが(この感性優位の時代にはほとんど避けがたい)誤解によって自然的生活へと向けられ、人間をそこから解放するどころか、恐るべき奴隷状態へと突き落すということもありえます。そして事実またそのとおりの状態なのです。人間は前方へ、無制限の未米へ向って進もうとして、想像力の翼をはばたかせ、単なる動物性が閉じこもっている現在の狭い制約を捨て去ります。ところが、目眩く想像力の前に無限なるものがたち現れる一方で、彼の心はまだ個別的なもののなかに住み、瞬間に仕えることを止めていませんでした。絶対への衝動は彼をその動物性の只中で驚かせます―そしてこの暗黒の状態においては、彼のすべての努力は単に物質的なもの、時間的なものへと向い、またもっぱら自己の個体に制限されているために、彼はこの要求によって自己の個体から離脱するどころか、それを無際限に拡張し、形式ではなく、潤れることのない質料を求め、不変的なものではなく、いつまでも持続する変化や自己の時間的存在の絶対的確保を求めて努力するにすぎません。思考と行動面に適用されることによって彼を真理と道徳へと導くべきあの衝動は、いまや彼の受動と感覚面に関係づけられて、無制限の欲求、絶対的欲望以外のなにものも生み出しません。かくして、彼が精神の領域で得る最初の果実は心配と恐術です。どちらも理性の作用によるもので、感性のではありません。しかしそれはその対象を捉え損い、その定言命令を直接に質量に適用してしまう理性の作用なのです。この樹木のならせる果実はすべて、無制約な幸福の体系であって、今日あるいは全生涯、あるいは全永遠―それで別にそれ以上尊厳が増すわけでもありませんが―をその対象とするでありましょう。単に生存や幸福のためだけに生存や幸福が際限もなく持続するというのは、単なる欲望の理想であり、単に絶対的なものめがけて努力する動物性によって提示される欲求にすぎません。したがって、こういう種類の理性の表現によって、自己の人間性のためになにか得るところがあるわけでもなく、彼は動物の幸福な制限性だけを失ってしまうのです。彼が動物に対してもつ利点と言えば、遠くへの努力のために―しかも無際限の遠さのなかで現在とは別のなにかを求めるというわけでもなしに―現在の所有を失うという、羨ましくもないものにすぎません。しかし理性がその対象において捉え損うことなく、また間において迷うこともないとしても、感性はまだ長いあいだ、答を傷るでしょう。人間がその性を用いて周囲の現象を原因と目的で結びつけはじめるや否や、理性はその概念に従って絶対的な結合、無制約的根拠へと突進します。そういう要求が目覚めうるためには、人間はすでに感性を乗り越えているのでなければなりません。しかし感性は逃げていく者を連れ戻すために、まさにこの要求を利用するのです。つまりここにこそ、人間が感性界を完全に捨て去って純粋な理念の領域へと飛翔しなければならぬと言われる点があるのでしょう。というのも、悟性はいつまでも制限されたものの内部にとどまりつづけ、最終的なものに出会うことなしに永遠に問いつづけるのですから。しかしここに語られる人間はまだそんな抽象力はありませんから、彼が感覚的な認識領域のなかで見出さず、またそれを恵えて純粋理性のなかにはまだ探し求めないものを、感覚的な認識領域のもとにある彼の感情領域のなかに探し求め、それを見かけ上見出すでしょう。感性は彼の固有の根拠となって自己自身に法則を与えるようなものはなにも示しませんが、いかなる根拠も知らず、いかなる法則をも願慮しないものを彼に示します。それで、彼は問いかける悟性を最終的な内的根拠によって安心させることができないので、無根拠の概念で悟性を少くとも黙らせ、そして物質の盲目的強制の内部にとどまるのです。なにしろ彼は理性の崇高な強制を捉えることなどまだできはしないのですから。感性は自己の利益より他の目的を知らず、また駆りたてられるのに盲目的偶然以外の原因を感じませんから、当然、人間は感性の利益をその行為の規定者にし、盲目的側然を世界の支配者にするのです。人間のなかの神聖なもの、すなわち道徳法則でさえも、感性におけるその最初の出現においては、こういう欺瞞を免れません。それは単に命じるのみで、人間の感性的な自己愛の関心にさからって語るのですから、彼がこの自己愛を外的なものと見て、理性の声こそ真の自己と見るところまでいかないときは、それが人間にとって外的なものと見えるのは当然です。それゆえ彼は、理性が与えてくれる無限の解放ではなくて、課せられる東縛を感じるだけです。立法者の威厳を自分のなかに感じるどころか、単に奴僕の東と力弱い反抗を感じるだけです。感性的衝動は彼の経験のなかでは道徳的衝動よりも先行するために、彼は必然性の法則に時間における始まり、すなわち実証的な源果を与え、そして最も不幸な誤りによって自分のなかの不変なもの、永遊なものを過ぎ去りゆくものの性にしてしまうのです。彼は、正、不正の概念がそれ自身において永遠に妥当するものではなく、意志によってもちこまれた約束事と見るようになってしまいます。人間が個々の自然現象の説明において自然を越えて、その外に、その内的合法則性のなかでのみ見出されるものを探すように、道徳的なものの説明において理性を越えて、その道程で神性を求めることにより自己の人間性をとり逃がしてしまうのです。人間性を捨て去ることによって贈われた宗教が、そのような由来にふさわしいおぞましき姿を示したり、永遠によって東紗されるととのなかった法則を、人間がやはり絶対的に永達にかたって拘束するものとは考えないとしても少しも不思議ではありません。彼の相手にするのは神聖な存在者ではなく、単に力の強い存在者にすぎません。したがって人間が神を崇める心も、自分を卑しいものにする恐怖なのであって、彼自身の評価によって自分を高める畏徴ではありません。人間がその理想とする使命からのこのように多様な逸脱は、無思慮から迷安へ、意志の久知から意志の腐敗へと、いくつもの段階を経過するもので、それらすべてがおなじ時代に起りうるということはありませんが、しかしそのすべてにおいて生命の衝動が形式衝動を支配しているのですから、全部が自然的状態の結果にちがいありません。理性が人間にまだ少しも語りかけることなく、自然的なものが盲目的必然性で彼を支配している場合にせよ、あるいは理性が感性からまだ十分に純化されておらず、道徳的なものがまだ自然的なものに奉仕している場合にせよ、いずれにせよ人間を支配する唯一の原理は物質的なものであり、人間は、少くともその最終的傾向から言えば、感性的存在者なのです。唯一の相違は、前の場合では、彼は理性なき動物であり、後の場合では理性的動物であるということだけです。しかし彼はそのどちらであってもなりません。彼は人間であるべきなのです。自然が彼を独占的に支配してはならず、また理性が彼を条件付きで支配してもなりません。どちらの立法も互にまったく独立的で、しかもまったく一致しなければならないのです。
二五信
最初の自然的状態にある人間は、感性界を単に受動的に受入れ、感覚するだけであるかぎり、彼もまたこの世界と一体であり、また彼自身が単なる世界なのですから、彼にとってまだいかなる世界もありません。彼がその美的状態において世界を自分の外に立て、あるいは観察するときはじめて、自己の人格性が世界から分離し、また彼が世界と一体であることを止めるために、一つの世界が彼に現れるのです。
自然状態とは世界と未分化な存在であり、世界そのものであり、所与を享受する存在にある。しかし美的状態を以て自由を獲得した時、自らを打ちたて新たな世界が創造されるのである。よって美的な無限性とは、被造物の世界から画された者の前に広がる、自らの世界の「規定可能性」を示しているのである。
観察(反省)は人間をとり巻く宇宙に対する彼の最初の自由な関係です。欲望がその対象を直接捉えるとすれば、観察はその対象を遠くへ置き、人間を感情の昂奮から逃れさせることによって、まさにそれを自己の真の失われることのない所有物にします。単なる感覚の状態では人間を未分割の力で支配した自然の必然性が、彼の反省においてその力を止め、意識の散乱する光が収斂し、無限なるものの写しである形式が移ろいゆく地の上に反映することによって、感覚のなかに瞬間の平和が訪れ、永遠の変転者である時そのものも立ち止るのです。人間のなかに光が生れると、彼の外にもまた、もはや夜はありません。彼の内部が静まると、宇宙における嵐も和ぎ、自然の相争う力は永続的な境界のあいだでやすらうのです。してみれば、太古の詩が人間の内面におけるこの大事件を外部世界の革命として語り、時の掟に勝つ思考をクロノスの国を亡ぼすゼウスの形象で表しているのも決して不思議ではありません。
大地の象徴ガイア―原初神たるガイアの意味する大地は天をも内包した世界そのものであり、文字通りの大地とは違う存在である―に始まり、時間の神クロノスに終わる〈前ゼウス神話〉は、全宇宙を統べる絶対神の物語の終幕を意味する。未分化の統一された世界にゼウス・ポセイドン・ハデスで境界を定め、世界を画す行為はまさに、世界と一体にある自然状態の人間が美的状態を以て世界から自らを分離し、一つの世界を獲得するアレゴリーなのである。そうしたのちに獲得される精神の安寧を暗に示し、「内部が静まると、宇宙における嵐も和ぎ、自然の相争う力は永続的な境界のあいだでやすらうのです」とするのであった。
自然を単に感覚するだけのときは自然の奴隷であった人間は、それを考えることによってその立法者となります。以前は単に力として彼を支配したものが、いまや彼の規響する眼差しのもとで対象になります。彼にとって対象となるものは、彼に力をふるうことはできません。なぜなら、対象であるためには、それは彼の力を蒙らなければならないからです。彼が物質に形式を与えているあいだ、またそのかぎりでは、彼はその作用を傷つけられることはありません。なぜなら、人間の自由を奪うもの以外はどんなものも精神を傷つけることはできず、彼は無形のものに形を与えることによってみずからの自由を証明するのですから。単に質量が重く形なく支配し、不確かな境界のあいだにぽんやりした輪郭が動揺しているようなところでは恐怖が支配します。自然のどんな恐しいものも人間がそれに形式を与え、それをみずからの対象に変えることができれば、彼はそれにうち克つのです。彼がみずからの独立性を現象としての自然に対して主張しはじめると、同時に自己の尊厳を力としての自然に対しても主張することになり、気高い自由の力で神々に対して立ちあがります。神々は彼の表象となることによって、彼の少年時代、不安におののかせた幽霊の仮面を投げ捨て、彼自身の姿を見せて彼を驚かせます。猫獣の盲目的な強さで世界を支配する、東洋人の神的な怪物は、ギリシャ人の空想では人間に親しい領域に集合し、ティタン族の国は亡び、無限の力は無限の形式によって制御されるのです。
即ち、人間は美的状態を以て自らの世界の神となることで、万物を「対象」化し、自然の「無限の力は」対象化=形式化されることで、自然は「無限の形式によって制御される」のだ。よってフーコーがカント論にて「一九世紀の人間は、人類の中に受肉した神なのです」と云うは、シラーの美的状態を形容する最たるテーゼなのだろう。ただシラーが求めるは単に世界から自らを隔絶することに終わらない。なぜなら美と、彼が絶えず繰りかえしてきたように感覚に、物質的世界にも属するものであるからに他ならない。
しかし単に物質的な世界の出口から精神世界への移りゆきを求めるあいだに、私はすでに私の想像力の自由な飛期によって精神世界の真只中に飛びこんでしまいました。我々が求めている美は、すでに我々の背後にあるのです。我々は単なる生命から直接、純粋な形態や純粋な対象へと飛び越えるあいだに、この美を飛び越してしまったのです。このような飛躍は人間の性質にふさわしくありません。そして人間の性質に合った歩みを保つには、我々はもう一度、感性界へと戻らなければなりません。美はもちろん自由な観照の産物です。それによって我々は理念の世界へと入っていきます―しかしここで注意すべきは、真理認識の場合とは異って、それによって感性的な世界を捨て去るわけではないということです。(...)美の表象からこうした感覚能力への関係を切り離そうとすることは、まったく空しい企てでありましょう。したがって我々は、一方を他方の結果と考えるだけでは十分ではなく、両方を同時に相互的に結果であり、原因であると見なければなりません。認識に対する喜びでは、我々は能動から受動への移行を難なく見分けて、後者が入りこめば前者が終るということを明瞭に認めることができます。これに反して美に対する喜びでは、能動と受動とのあいだにそのような過程は見分けられず、ここでは反省が感情と完全に融合してしまうので、我々は形式を直接、感じると倍じるのです。(...)そして美はまさにこの両者であるゆえに、受動が能動を、質料が形式を、制限が無限を決して排除することはなく、それゆえ人間の必然的で自然的な依存性によってその道徳的自由が廃棄されるものではないということの決定的な証明として役立つのであります。美はこのことを証明します。(...)かくして、道徳的自由が感覚的依存と両立することができ、人間は精神として自己を示すために物質から逃げる必要がないという事例が美によって与えられたからには、我々は感覚的依存から道徳的自由への移行の道を見出しても困惑する必要はなくなりました。(...)一言で言えば、人間が美から能力上すでにそのなかにふくまれている真理へといかに移行するかということは、もはや問題ではありえず、いかにして人間が通常の現実性から美的現実性へと、また単なる生活感情から美の感情へと進んでいくかということが問題になるのです。
二六信
私がこれまでの書簡において展開しましたように、美的気分は最初に自由を生み出すものですから、それは自由から生れたものではなく、それゆえまた道徳的起源をもつものでもないということは容易に知られるところです。それは自然の贈物にちがいありません。ひとり偶然の恩寵のみが自然的状態の束縛を解き、未開人を美へと導くのです。
乏しい自然が人間から生気をすべて奪い取ってしまう場合や、浪費的な自然が人間に固有な努力をすべて免じてしまう場合には、―つまり、鈍い感性がなんの欲求をも感じない場合や激しい欲望が飽くことを知らない場合には―美の萌芽はどちらもあまり育たないでしょう。
人間が穴居住民のように洞穴に隠れ住んで、いつもひとりぼっちで人間性を自己の外に見出すことのない場合でも、また遊牧民族のように大群をなして渡り歩き、いつも集団で人間性を自己の内に見出すことのない場合でもだめで、自分の小屋のなかで静かに自己に対し、また外へ出れば全種族と語るというような場合にのみ、美の愛らしきつぼみが開くでありましょう。軽やかなエーテルがそのかすかな接触ごとに感覚を目覚めさせ、豊かな素材を力強い熱意が生気づけるところー盲目的質量の領域が生命なき被造物においてさえすでに破壊され、勝ち誇る形式が最も低い自然物をも高尚にするところー喜ばしい諸関係と祝福された地域において、活動のみが享受を、享受のみが活動を導き、生命そのもののなかから聖なる秩序が浮きあがり、そして秩序の法則から生命が育っていくところー/想像力が永遠に現実かられ去り、それにもかかわらず自然の単純性からそれることのないところーそういうところにおいてのみ、感覚と精神、受容力と形成力とが、美の魂であり人間性の条件をなす幸福な釣合いのなかで育つでありましょう。では未開人のもとで人間性が生れてくるのを示すものは、一体どのような現象でしょうか。我々がどれほど広く歴史を尋ねても、それは動物的な奴隷状態から脱してきたすべての民族においてまったく同一です。すなわち、仮象への喜び、製節と海戯への暗好です。最高の愚鈍と撮高の知性とは、ともに実在的なものだけを求め、単なる仮象には全然無感覚であるという点で、互に一種の親近性をもっています。前者は感官における対象の直接的現存によってのみそのやすらいを破られるのであり、後者は経験の事実へその概念を遡及させることによってのみやすらいを見出します。一言で言えば、愚鈍は現実を越えて自己を高めていくことはできず、知性は真理以下に立ち止ったままでいることはできません。したがって、実在性の要求と現実的なものへの依存が単なる欠如の結果であるかぎり、実在性に対する無関心と仮象への関心は人間性の真の拡張であり、陶治に対する決定的な一歩です。第一にそれは外的な自由の証になります。なぜなら、必要が命じ、欲望が駆りたてるかぎりでは、想像力は現実的なものに固く縛りつけられているからです。欲望が静まるときにはじめて、想像力はその葬放な能力を発するものです。しかしそれはまた内的自由の証でもあります。なぜなら、それは外的質料に依存せずに自分自身の力で自分を動かすとともに、押し迫る質料を自分から離しておくだけの勢いをもつ力を我々に見せてくれるからです。物の実在性はその(物の)産物です。しかし物の仮象は人間の産物です。そして仮象を楽しむ心は、単に受取るだけのものを喜ばず、それがなす[室ものを喜ぶのです。ここで語っているのは、現実や真理とは区別される美的仮のことであって、それらを混同する論理的仮象ではないこと!それゆえ、仮象を仮象であるからこそ愛するのであって、なにかよりよい別のものと考えるわけではないことは自明でありましょう。論理的仮象は単なる虚像であるのに対し、美的仮象だけが遊戯です。この種の仮象を示認することは決して真理を損うものではありません。なぜなら、真理の唯一の害され方である、仮象の真理への転嫁がおこなわれる危険がまったくないのですから。この種の仮象を軽することは、その本質がまさにこの仮象であるすべての芸術を軽蔑することにほかなりません。しかしながら、実在性に対する知性の熱意がゆき過ぎて不寛容になり、美しい仮象の技術をすべて、それが仮象であるからといって排斥するということがよくあります。しかしこのことは、知性が上述の類似性を想起するときにのみ起るのです。美しい仮象の必然的な限界については、もう一度改めて論じる機会があるでしょう。の感官を人間に与えた自然それ自身です。目と耳では、押し迫る質料がすでに感官から遠ざけられ、動物的感官においては直接に接触する対象は、我々から隔離されています。我々が目で見るものは、現々が直接に感覚すかものとはちがいます。なぜなら、知性が光を越えて対象に飛んでいくからです。触覚の対象は我々が受取る力です。目や耳の対象は我々が生み出す形式です。人間がまだ未開人のあいだは、彼は感触の感覚を楽しむだけで、この時期には仮象の感覚はそれに奉仕するにすぎません。彼は見ることにまで高まることが全然ないか、そうでなくてもそれに満足できないかのいずれかです。彼が目で楽しみはじめるようになり、見ることが彼にとって独立的な価値をもつようになると、彼はすでに美的に自由なのであり、遊戯衛動が育ったのです。う仮象に喜びを見出す遊戯動がはたらきはじめると、仮象を独自のものとして扱う模倣的な形成衝動もまたそれに伴ってはたらくようになります。人間が仮象を現実から、形式を物体から区別するようになるや否や、彼はまたそうした現実を自分から引離すことができるのです。けだし彼はそれらを区別することによって、すでにそのことをやっているわけですから。それゆえ模倣芸術の能力は形式一般の能力とともに与えられます。この芸術に対する衝動はまた別の柔質にもとづいているのですが、ここでは取扱う必要はないでしょう。芸術術動の育つのが早いか遅いかは、ひとえに人間が単なる仮象にとどまることができる、その愛着の度合にかかっているのでしょう。すべての現実的存在は外力としての自然に由来しますが、すべての仮象はもともと表する主体としての人間に由来するのですから、人間が存在者から仮象を取戻し、それをみずからの法則によって支配しょうとするとき、彼は自分の絶対的な所有権を使用するにすぎません。彼は自然が切り離したものをなんとかまとめて考えることができるようになれば、それを拘束されぬ自由で結びあわすことができるし、自然が結びつけたものを知性のなかで分離することができるようになりさえすれば、それを切り離すことができます。彼が自分の領域を物の存在、すなわち自然の領域から分つ境界に注目するようになりさえすれば、彼自身の固有の法則より神聖なものはここにはないということになります。支配者としての人間のこの権利を、彼は依象の投術において行使します。そして彼がここで我のものと汝のものとをきびしく区別すればするほど、また形態を存在者から注意深く分離して、この形態に独立性を与えることができればできるほど、彼は単に美の領域を拡張するばかりでなく、真理の境界さえも守護することになるのです。なぜなら、彼は現実を仮像から同時に解放することなしには、仮を現実から純化することができないからです。しかし人間がこの至上権をもつのは、まったく象の世界、つまり実在性を失いた想像力の領域においてだけであり、しかも彼が理論的なものにおいてはその実在について発言するのを誠実にさしひかえ、また実践的なものにおいては、それによって実在を与えることを断念するかぎりにおいてだけです。このことからおわかりのように、詩人は自分の理想に実在性を与えたり、それによって一定の実在を目指すとすれば、同様に自分の限界からはみ出してしまうのです。なぜなら、このことは詩人の権利を踏み越えて、理想によって経験の領域を捉え、単なる可能性によって現実の存在を規定しようとするか、あるいは詩人の権利を地棄して、経験に理想の領域を提えさせ、可能性を現実性の条件に限定してしまうか以外、実行することができないからです。仮象が正当である(実在性への要求には一切はっきりと縁を切る)かぎり、そして独立的である(実在性の助力は一切受けない)かぎり、それは美的です。それが傷って実在性を装ったり、また不純にもそのはたらきのために実在性の助けを必要としたりすると、それは物質的な目的に対する卑小な道具に成り下り、精神の自由のためになにも示すことができません。しかし我々が美しい仮象を見出す対象は、もし我々のそれに対する判断が実在性を全然願慮することがないならば、実在性を父くということはなんら必要ではありません。というのは、この実在性を顧慮するかぎりでのみ、それは美的仮象でなくなってしまうにすぎないからです。生きている女性の美は、同様に美しく描かれただけの女性と較べて、もちろんおなじょうに、さらに幾分かは一層我々の気に入るでありましょう。しかし生きている女性が描かれただけのものより一層我々の気に入るかぎり、それはもはや独立的仮象として気に入るのではありません。それはもはや純粋な美的感情として気に入るのではありません。この感情にとっては、生きているものも単なる現象として、現実的なものも単なる観念として気に入ることが許されるだけです。しかしもとより、仮象において生命なしですますことより、生きているもののなかにさえ純粋な仮象を感受することのほうがはるかに高度の美的陶治を必要とするということは言うまでもありません。個々の人間、あるいは民族全体においても、正当で独立的な仮象が見られるところでは、精神や趣味やそれに関係あるもののさまざまの卓越性があることを推し測ることができますーそこには、理想が現実の生活を支配するのが見られ、また名誉が所有に対し、思考が享楽に対し、不死の夢が生存に対し凱歌をあげるのが見られるでしょう。そこでは、公けの声が唯一恐るべきもので、オリーブの冠(。]が紫袍(性。よりも教われるでしょう。偽りの貧しい仮象へと逃げこむのは無力と倒錯だけです。そして個々の人間にしても、民族全体にしても、「仮象によって実在を助けるか、あるいは実在によって(美的)仮象を助ける」ー二つの場合がよく結びつくのですが1者は、その道徳的無価値と同時にその美的無能力を証示するのです。したがって、「どの程度まで仮象は道徳的世界において存在することが許されるか」という間に対しては、答は次のように簡単です。「それが美的仮であるかぎり、すなわち、実在の代りになろうとも欲せず、実在性によって代理される必要もないような仮像であるかぎり。」美的仮象は道徳の真実性を決して危うくすることはありえません。もし危うくするように見えたら、その仮象が美的なものではないということを示すのはむずかしくないでしょう。たとえば、一般的な礼儀作法の形式にすぎない請合いを個人的な好意のしるしと取り、錯覚だとわかったとき不平を鳴らすのは、美しい交際における門外漢だけがすることです。しかしまた、礼儀正しさを見せるために偽りを利用し、気に入られるために媚びたりするのも、美しい交際に無能な人間のやることです。前者には独立的仮象に対する感覚にまだ大けており、そのため仮を真実だけによって意味を与えてしまうのであり、後者には実在性〔みが8+】がけており、仮象によって実在性に代えたがるのです。つまらぬ時局評論家が、世の中から堅固なところがなくなってしまい、仮象よりも実在するものがなおざりにされていると歎くのを聞くのは、耳にたこができるほどです。私はこうした批難に対して時代を弁護するつもりは毛頭ありませんが、これらのきびしい道徳の裁判官が断罪する対象の範囲の広さからすでに、彼らが単に借りの仮ばかりでなく、正当な仮象まで悪く取っているという事実がはっきりわかります。しかも彼らが美になんらかの好意を示している例外的な場合でさえも、独立的仮象よりはむしろ貧しい仮象に向けられているのです。彼らは真実を隠し、現実に取って代ろうとする偽りの仮装を攻撃するだけではありません。空虚を埋め、貧しさを覆う有益な仮象に対しても、平凡な現実を高尚にする理想的仮象に対しても憤慨するのです。道徳の誤りが彼らのきびしい正義感を傷つけるのはもっともです。しかし残念なことに、彼らはこう
補論『美の諸形式の使用にさいする必然的な諸限界にかんして』
知性というのは秩序、すなわち合目的性を喜ぶが、しかし空想力(ファンタジー)・想像力(イマジネーション)は無秩序を楽しむ
ゲーテ
1799/5『ディレッタンティズムについて』