from のら研スナップショット
これは何か
現時点ののらてつ研究所内ページを俯瞰するもの
対象:このページの作成日時以前に作成したページ(189pages)およびその中に貼られたリンク
UserCSS関連などは除く
旧題:●タグとして用いているリンクの一覧
#構造ノート ある話題についてページと文脈をまとめたもの
分類タグ
#情報・知識の扱いを考える 自分のために情報・知識を整理して活用する手法について
#言葉にする営みを考える 言語化、文章化、思考、思索、知的生産について
ミニブログからブログにカムバック|のらてつ|note
Twitterは自由なのに、自由に語れるわけではないということについて。
自分の考えを言語化して発信するということは元来好きなはずなのに、それが一応自由に出来る場で、実のところ自由には発信できなかったのです。なぜなら、単純な話、「共通の話題について共感し合う場」にそういったことは馴染まないからです。
どういう話か
「この書き込みは相応しいだろうか」と考える癖がついてしまっている
それはある程度人として当たり前の確認だとは思うが
非常識なことを言わないということ
答えが出ない時に困る
noteは別々の時期に二度トライしたのだけれど、「書くことを目的化しない」と繰り返し自分に言い聞かせながら結局書くことを目的に書いていたために、外からの突発的なストレス(ある種の事件・事故)によって呆気なく継続が困難になってしまった。それを二度やったので、さすがに少し学びを得た。
ずっと、「考えていることや言いたいことはあるが、どう振る舞って表現していくべきかわからない」という状態で過ごしてきた。しかし、客観的な正解として導き出したものを継続するのは容易でないという実感がある…… せっかく正解を考えても、それがそもそも実践不可能ならあまり意味がない。
noteの再開/膨張する"意識"を宥める|のらてつ|note
noteで何をしたかったのか。
noteを始めた当初は、noteを書く過程を理想的な形に整備することによって自分を律し、書くことや考えることについて己を積極的に成長させようと目論んでいました。
一歩先行く自分を演じようとしていた。
そのような謂わば「背伸び」は、言い換えれば「自分以上の何かを演じること」であり、演じているうちに実際の自分が何歩か(あるいは何十歩か、何百歩か)後れて追いついていくことを自分に期待するものです。
一発で決まればかっこいいけど大事なことは何度書いてもいいよね|のらてつ|note
文章を書いて発表するということには色々なハードルがあると思いますが、私の中で足枷になってきたもののひとつが「大事なことは一発で全部伝えなきゃ」という気持ちです。
文章だってバージョンアップしていいはず
芸術作品だって、一度発表したのと同じ構図・同じモチーフで再び創作するということはよくあることです。
2021年にブログに投稿した記事を全部読み返した
背伸びや下心の痛々しさは感じなかった
以前は自分の痛々しさに耐えられなくて読み返すことができなかった
文章として読みにくい箇所があちこちあった
抽象的に雰囲気を書こうとしてしまって自分でも何を書こうとしたのか思い出せない箇所がある
from 一度に注力できる場の数が少ない件
公開している場所について
更新頻度が落ちてきたときのもやもや
何を書いたら良いんだっけ、どういうテンションで書き込めば良いんだっけ、という迷いが居心地の悪さになっている
長く空けた別荘に久々に来てもどう過ごせばいいかわからない、みたいな(別荘なるものに縁があったことはないです)
公開するアウトプットについて。(私個人の問題です)
🤔
どういう読み手にどう読まれたいかを前提条件として考えないと自分の書いたものに「なんか変だな」という気持ちを抱いてしまう
誰に言ってんだろう?という
ブログでも「誰に言ってるのか」問題についてちょっと書いた
セルフプロデュースをせずに結果的にセルフプロデュースしているのと同じという状態になりたい。
別の界隈では、その界隈に誠実になるということだけで自分の居場所を得られた。で、自分が尊敬している人たちもそういう真摯な態度によって居場所を作っているような気がする。しかし、noteにしろSNSにしろYouTubeにしろ、なんとなく「セルフプロデュースしなきゃ生きていけねえぜ」の圧力が強い。
のらてつ(@Foam_Crab)/2021年06月10日 - Twilog
(/unnamedcampについて)三ヶ月くらい前のページに言及したところ、更新順で上位に上がったことで意見交換が生まれたようで、なんか嬉しい。
正直なところ、今まさにhotっぽいページ以外のページに書き込むのは(言語化されていない文脈を共有できていないという気持ちもあり)ちょっとした躊躇いがあったのですが、えいやと書いてみようと思いました。そういうことを気に病まなくていいための場な気もしており。 QT https://twitter.com/rashita2/status/1402827170536247297
from Thinking out loud 001(2021/06/05)
そういえば、小説を書くとするとこれくらいの要素で何千字、とかいうのを計算して誤差1割に収めるとか結構やっていたけど(寄稿するときとか)、そうでない文章だとどのくらいでどうなるかとか全くわからないな。「すごく書いた」と思って4000~6000字くらいかなという感じはするが…。(そしてその量になると読むのが大変になってくるのはわかる)
前提
「思考のログ」とは、ここでは例えばScrapboxに「考えた順」にどんどん書き込んでいるようなものを指す
読み物として合理的な組み立てになるようには編集されていないもの
内容自体は飛躍や省略がないよう十分丁寧に書き込まれているものとする
以下は自分自身のそのような種類のページを眺めて読み手の気持ちを想像して書いている
Noratetsu Lab: 情報整理と執筆作業は「有機度」が異なるせいでひとつのツールに同居させられない
これは自己分析を試みているだけの文章です。
私はどうも書く「場」の力を借りないとうまく書けないらしい。
具体的にどういうことに困っているかというと、
ブログにしろnoteにしろその「場」の投稿画面を開かないといまいち文章が思い浮かばない。
"自己解決して通り過ぎてしまったもの"、自分はもう通り過ぎたからそれについて「客観的に見ても初歩的なこと」という認識で片付けてしまうが、他人にとってはそうではないということがある。が、それを書くのは少し難しい。まさに今通り過ぎようとしている、という間に書いてしまうのが一番楽だろう。
旧題:美しい文章を書くには「身を守らない」こと
rashita2:ついつい細かいことを書きたくなる気持ちと、本文に大量に引用をつっこみたくなる気持ちを抑える。その「書きたさ」はだいたい防衛的な反応にすぎない。
「誤解されないように」「変な攻撃されないように」と先回りして書きたくなる。つまり相手の口を封じておきたい。「努力次第で減らせる(かもしれない)ストレス源」を減らすために、ものすごい労力を使ってしまうことがある。
「面白い」とは「(主に自分を大きく見せかけるための)作為がないこと」であり、逆にそれだけを守って自分の美意識に忠実にいれば面白くなるはずだ、と信じることを忘れないようにしたい。(まどろっこしい言い方になっているのは仕様です。)
関連:▽美しい文章は完全武装をしていない
Aさんの文章を読んだというとき、Aさんの話には本筋というものがあり、それを概ね理解したが、それはそれとしてその他に私の中に本筋として別の話が発生した、となった場合に「引用」とか「感想」としてどこまで許容されるか?ということをよく思う。
簡単な解決としては「本筋がこれであることは理解しました」と示してから「それはそれとして」を始めるのが一番無難で相手にとっても気分が下がりにくい手順だろうとは思うけれども。
「言語化」は得意だが「文章化」はそれほど得意ではないというギャップ。「言語化」は「それがどうであるか」という「対象が主語」の思考だが、「文章化」は「ということが相手に伝わるか」という「読み手が主語(=言語化対象は目的語)」の思考。
プレバト俳句を見ていて思うのは、「伝わる」というのは「自分の中のイメージを一定以上の正確さで再現できるように言葉を選び出す」という試みの結果のものであり、そのプロセスの中に「読み手をこうしたい」は必ずしも要らないということ……
「こうだったのだ」という気づき、気づくということ自体は「それまでなかったが、今生まれた」ことではあるけど、「こうだった」という現象はずっと前からあったわけで、気づいて飲み込んだ瞬間に「前から当然のようにそうだったこと」に変わってしまって人に向けて語ろうとか思わなくなってしまう。
憧れは胸に秘めていてもしょうがない気がしてきた。秘めているとそれについて言及するのが憚られるかのような気がして変に不自由になってしまう。
#表現の枷を考える
@Foam_Crab
/thinkandcreateteck/第九十六回:Tak.さんとノウハウ本の書き方について
https://anchor.fm/rashita/episodes/Tak-e1d6rej
(感想というより自分語りなので「関連」ということにしておく)
自分が知的生産的なものに関心を抱いた原点
外山滋比古『思考の整理学』
のらてつ(@Foam_Crab)/2021年12月25日 - Twilog
書く場所に応じて自分の中のスイッチがカチカチ切り替わっているなというのを強く感じる。
頭の中にあるイメージは一緒であって、自分としてはアイデンティティが保たれているのだけれど、自分用のメモとScrapboxとTwitterとブログと(あるいは小説と)で表現が全く違うものになるし、それは感覚としては「変えている」のではなく「変わっている」。
人と会って話をするのが億劫だと前から思っていた
なぜ億劫なのだろうかと疑問だった
「疲れるから」かと思ったが、それは親しみを感じない相手の時であって、疲れない相手でも会話は常に億劫
つまり「空気を読んでしまうから」「脳内反省会を始めてしまうから」とは別の理由がある
ふと「嬉しいことを共有したいと思ったことがないな」と気がついた
about
/unnamedcamp/Unnamed Campにページ作成のガイドがほしいので、傾向を整理したい
🤔
Unnamed Campのページ群を軽く分析してみて感じたこと
ページの粒度がのらてつ研究所と微妙に違う
が、いまいち表れるように作れていないのでもやもやしている(と解った)
経緯・前提
ちょっと前から何回も「なんか良い感じに使えていない」と思うということを繰り返している
(だいたいThinking out loudや#雑感内に書いてるのでページ化されていない)
関連(自分用のリストアップ)
※私の場合(うまくいく人はうまくいくと思います)
理由
自分にとって自然な成り行きならわざわざ「しようと思う」と言うまでもなくやり始めている
敢えて「しようと思う」と宣言するのは、「した方が良さそう」という判断はついているものの、放っておくとやらない可能性があるから
放っておくとやらないようなものは宣言したところで結局やらない
※虞=おそれ(字数節約のため漢字で記載)
文意
前に不快感を覚えた言動について、また同様のことを相手がやるのではないかという推測をする
その推測に過剰に意識を向けてしまい心が乱れる
どうして意識を割いてしまうのか
※「主体性」と書いていたがちょっと違うので「主役性」と無理に言い換えた(他にドンピシャな表現がありそうでならないけどパッと思いつかない)
クリエイトよりカスタマイズの方がむしろ主役として生きている感覚になる
イチから自分で作る(例えば物語を創る)ということもしていないわけではないが、そういう創造が気持ちとして主人公的かと言うとそうでもない
「自分仕様」であることより、「世の中で通用するものかどうか」が気になってしまうからかも
波と空白がある。
2010~2014年頃 ライフハックと情報管理にはまる
2015~2019年前半 全然違う事物にフォーカスしており全く関心なし
2019後半~2020年 書く人間になりたいがために関心を戻す
2021年 真面目に関心が高いのが現在
のらてつ(@Foam_Crab)/2021年06月09日 - Twilog
哲学者・評論家の引用大好きマンとバトルしたことが複数あり(それぞれ違う相手)、バトルっていうかツッコミ入れたら猛然と怒られて徹底的にお前みたいなやつはクソだみたいに言われたので、人の言葉の援用が好きな人のことは苦手です。
前提
情報を本当に自分に馴染む形で管理することを目指す
「リスト」の形式が好きじゃない(何度かツイートした)
のらてつ(@Foam_Crab)/2021年10月13日 - Twilog
最近の気付きは「本当は断片化したくなかった」と「本当は断片化したかった」です。
私の頭の中が。
状態
全体像が掴めていない、という点では「ごちゃごちゃになっている」というのと似たようなものだが
しかし多分ごちゃごちゃはしてない
焦点を当てれば整理できる
のらてつ(@Foam_Crab)/2021年07月15日 - Twilog
「継続できない」ということがものすごく巨大なコンプレックスになっている。
「継続できないんだよなあと思う」ということは延々継続しているわけですが…(鬱)
でも一切継続していないわけではなく、むしろ継続しているから「より望ましい継続の仕方」ができないことを不本意に思っているのだとも思える。
前提
自分の中に「全力で生きなければならない」という「ネバナラナイ」がある
全力で生きるとかできてないのでずっと不出来だなと思っている
漠然と不活性な感じがして、不活性だから自分は駄目だという思いがある
今言語化に至ったのだが、これはなんかおかしい気がする
前提・経緯・注意書き
大前提
私は読書が嫌です(「取り込む」ことはしたいが「本の形になっているものを読む」が大変に億劫)
読書の進みに必要なことをちょっと見出した
※自分の発想の転換に「おおっ」と思ったという話であり、こうするといいよと勧めるものでは一切ありません
のらてつ(@Foam_Crab)/2021年08月14日 - Twilog
Kakauの操作感は明らかに初めてのものだけど、操作して出来上がるものには既視感があって、なんだろうなあと思っていたけどシンプルに「昔Wordでやっていたこと」だった。Wordとの比較的な話を何度か見ていたのに今気がついた。
がある
「アナログノートツール」ってレトロニムにも程があるけど良い言い方がぱっと思いつかなかった
書いて使うもの(文字や図が書かれるもの)の意
具体的に
ルーズリーフ
前提
書きすぎてしまうので良くないと思っている
蓄積できる形に直すのが大変である
Twitterに書き込む際の良いこと
反応できる話題が次々目に入る
経緯
issacさんのツイート
自分はどうだろう🤔
の場合は読み返せるものと読み返せないものがある
読み返せないもの
特に誰かに考慮してもらいたいわけでもないめちゃくちゃ個人的なあれなんですけど、横文字が大変に苦手なので、横文字の表現にハードルを感じることがある。(「ハードル」のような名詞には困難を感じないのだが。)
漢字の一字一字が持つ意味合いや雰囲気に頼って認識しているからアルファベットとかカタカナとか表音文字の羅列で表現された内容の理解がうまくいかない。年々じわじわと生きづらくなっているのを感じる。
経緯
価値観がわかる15の質問に答えてみるの中の質問
および/sta/価値観がわかる15の質問の回答例から多様性を知る
を元にぼんやり思ったこと
🤔
です・ます調は距離が近過ぎるのかもしれない|のらてつ|note
「です・ます調」=敬体且つ話し言葉
生身の人間であると意識する
顔の存在感
話者の距離が近い感じ
【Obsidian】ノートの三分類―構造・結論・覚書①|のらてつ|note
【Obsidian】ノートの三分類―構造・結論・覚書②実践編|のらてつ|note
0. 日誌ノート(とりあえず書く場)
1. 構造ノート(問題意識に基づいて文脈を作る場)
#ド下手問題
「手帳術」に憧れるけどぶっちゃけそれがやりたいわけではない気がする皆様|のらてつ|note
自分の手帳に対するスタンス
行動の起点、つまり「手帳や手帳術を見る」「手帳を買ったり手帳術を取り入れたりする」「断念する」の動機となっているものが、常に「なんとなく」なんですよね。
フォーマットにハマれない
タイトルでカッコつけると失敗するかもしれない|のらてつ|note
自分でつけた記事タイトルにぞわぞわした。
客観的に見て「痛い」と感じるようなタイトルであるかどうかはわかりません。ただひとつ言えることは、自分で「うわっ」と思うものは、自分の等身大ではない言葉だったということです。
なぜか。
たとえ、投稿者の胸中など知らぬ他人からすれば別にどうということのないありふれた文言だとしても、自分自身は「カッコつけたやつだ」ということをわかっていて、時間が経ったり心境が変わったりした後に見直すとその背伸びが気になるのです。
読んだ本を忘れない5つのメモ|のらてつ|note
1. 事実として重要なことを図化する
2. 著者のメッセージを一文で書く
3. 自分が感銘を受けた文章を抜き書きする
4. 読みながら思いついたことを書く
読んだ本を忘れない5つのメモ|のらてつ|noteより一部抜粋
人に言われなくとも、私たちは本によって様々な読み方を自然にしています。例えば速読も、方法を詳細に教わらなくたって本屋で立ち読みしている時はだいたい速読になっています。「ぱらぱらめくって引っかかるキーワードの周りだけじっくり読む」、という速読のキモは、「ぱらぱら飛ばして読まざるを得ない」という状況下にいれば普通に実践していることですよね。
Notionから学んだこと――情報管理の五形態|のらてつ|note
一時期Notionをかじっていました。
ツールとしての破格の利便性も然ることながら、データベースというものの意味合いについての学びが私の中で巨大だった
DatabaseのView5種
①Table(所謂データベース)