ニックランドと新反動主義
民主主義という名の大衆迎合的なシステム兼イデオロギーの否定、そして独立した小都市国家が乱立する政治システムこそが最善であるという結論 都市国家は企業的な競争理念によって運営され、住民は自由に所属する都市国家を選択することで都市国家の間で競争が発生するようにする。つまり、都市国家を運営する者は住民の要求に応え満足させるインセンティブが発生
共同体内でひとたび暴力が発生すれば、それは復讐の連鎖となって共同体を最終的に絶滅に追いやる。この「相互的暴力」の伝染を防ぐために共同体がとる解決策が 供犠 というシステムである。共同体の全員が満場一致で成員の一人を身代わりとして、すなわち 贖罪 の 生贄 として共同体から追放する。この共同体の内部から暴力を浄化する供犠という儀式を通じて、共同体に安定と秩序がもたらされる。この暴力を追放する暴力は「創設的暴力」 『世の初めから隠されていること』では、模倣(ミメーシス) の観点から暴力のメカニズムが考察されている。人間は、他者の欲望を模倣する生き物である。というのも、欲望とは、 畢竟するに他者の欲望だからだ。たとえば、あなたが何か高価な宝石を欲望するとき、それは宝石そのものが美しいから欲するのではなく、皆がその宝石を欲しがっているから欲するのだ。こうした欲望の模倣と連鎖は、不可避的に苛烈な競争と暴力の連鎖を生み出す。ジラールに従えば、人間の欲望とは、究極的には死へと向かう欲望 人々を「畜群」へと訓育していく大組織をニーチェは痛烈に批判しているが、この精神は、国家を否定して自由を重んじるリバタリアンとも通ずるところがあるという。 またニーチェは、平等主義を信奉する心理の根底にはルサンチマンがあると指摘している。「毒ぐもタランチュラ」という寓意を用いてニーチェが指摘するところによれば、隠れた復讐心を持つタランチュラは、権力にありつくことができないという嫉妬心から、「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」 「超人」とはすなわち、国家に対抗する力量をもった崇高な精神的存在である。(中略) 言いかえれば超人は、規律訓練や徳育によって自らの欲望を抑制するのではなく、欲望を無際限に肯定し、そして祝福しなければならない。従来、肉欲と支配欲と我欲の三つは、各人が抑圧すべき悪しき欲求であるとみなされてきたが、ニーチェはこれらの欲求が、超人の理想において肯定しうることを示している。超人は、我欲をもって、巨大な組織(国家) に抵抗する意志を示す存在である。ニーチェは超人のもつ「創造力としての自由」を擁護するために、人間を凡庸なものへとおとしめる国家装置を批判した 資本主義は資本の蓄積を前提に成り立つのに、完全競争下ではすべての収益が消滅する。だから起業家ならこう肝に銘じるべきだ。永続的な価値を創造してそれを取り込むためには、差別化のないコモディティ・ビジネスを行ってはならない ダークウェブという空間は、ある意味で『主権ある個人』が幻視してみせた国家なき後のポスト・アポカリプス的世界にもっとも近いかもしれない、国家でも大企業でもなく、プログラミング・コードと暗号化技術で武装した個人 国家からの「イグジット」、政治からの「イグジット」、競争からの「イグジット」……等々。ティールにとっての主権ある個人とは、荒廃した弱肉強食の世界から超越=イグジットした、それらを統べる支配者のことだ。競争のフィールドから超越し、新世界の空白地帯に王国を築き上げること。 9・11 という経験は西洋近代の遺産である「啓蒙」というプログラムの完全な失効を決定づけるものであった、という見方を示した。イスラムという西洋近代の「外部」からの出現者に対抗するためには、アメリカもまた西洋近代を基礎づける諸々の時代遅れの価値観を根底から解体しなければならない 17 世紀後半以降、つまり啓蒙の時代以降、西洋はヒューマニズムという普遍的かつ偽善的な価値観のもと人間の根源的なあり方を覆い隠してきた。その根源的なあり方とは、人間に潜在する暴力性と悪徳である(もちろんこれはジラールの教えでもある)。ティールからすれば、オサマ・ビンラディンとは、モダニズムが抑圧してきたものの文字通り暴力的な回帰なのだった。そして、この西洋の「外部」からの暴力の洪水=テロリズムが、我々を健忘症的な眠りから叩き起こすだろう、何かのあやまちから「啓蒙」と名付けられたこの深い眠り リベラル左派の信奉する自由とは、精神的自由や政治的自由のようないわゆる人格的自由であるからである。そのような人格的自由を説く一方で、リベラル左派は市場経済に関しては、経済活動への介入や財の平等的再分配を要求するのが一般的で、ここにリバタリアニズムとのもっとも大きな思想的差異がある。リバタリアニズムとは、一言でいえば人格的自由だけでなく経済的自由の尊重をも説く思想 国家は人々の自己所有権を侵害することは避けられない。たとえば、福祉システムに代表される富を個人から個人へと強制的に移転させる財の再分配は、個人の自己所有権に対する侵害を含まざるを得ないという理由から退けられる。このように、ノージックは自由の権利を政治哲学のすべての領域の根幹に置く。とはいえ、たとえばジョナサン・ウルフが批判するように、ノージックの「自己所有権」は見方によっては極端に形式的、もっと言えば無内容である 国家の介入に基づく金融政策の破綻だった。そして、その破綻を補塡するためにさらなる国家の介入を招くという悪循環。加速度的に積み上がっていく国家の負債……。 このような国家の金融政策と市場の泥沼的関係性は、元を辿れば1930年代のニューディール政策に端を発するとティールは推測する。ニューディール政策では、1929年に起きた大恐慌からの立て直しを図るため、国家の大規模な介入による福祉国家化──社会民主主義が目指された。だがこのことは結局、自由市場を尊重するリバタリアン的信念が「政治」の次元に回収されてしまう ヤーヴィンは主権(sovereignty) を「独立的に確保された所有権」、または「根源的な所有権」と定義する。この主権の定義は明らかにリバタリアニズムにおける自己所有権が念頭に置かれている 土地や財産の所有は、この主権の定義に照らせば、せいぜい二義的にしか「根源的な所有権」が達成されていないとする。なぜなら、それは常に剝奪されたり差し押さえられたりする可能性があるからだ。事実、近代以降「根源的な所有権」は世界にほとんど存在したことがないのだ、とまでヤーヴィンは言い切る。ここでヤーヴィンが想定している主権──根源的(絶対的) な所有権──の理念的なあり方とは、もちろん専制である。つまるところ、ヤーヴィンは完全な自己所有権の達成を一種の独裁制に見出している フナルグル的な専制のモデルを、全体主義から区別して対称的主権(symmetric sovereignty) と呼ぶ。というのも、通常言われている全体主義と異なり、そこでは主権の所有についても他の所有についてと同じ原理が「対称的に」適用されるからである。「所有権の範囲は確保された実際の力によって定義される」という同じ原理が「根源的な所有権にも二次的な所有権にも適用される」。それゆえ、ヤーヴィンが言う意味での「主権」は、他から脅かされることのない絶対的な力でなければ、自己矛盾に陥ることに ヤーヴィンの思想とは大雑把に言えば、さしずめピーターテイルの「自由と民主主義はもはや両立しない」というテーゼを、「自由にとって民主主義は悪である」と読み替え、かつそれを徹底的あるいは愚直なまでに推し進めようとする 人々は現在の政権に不満があれば、実際に声を上げ(たとえばデモ活動)、そして選挙における投票行為を通じて現状を良い方向に改革していくことを目指すことができる。だがリバタリアンからすれば、それらは単なる騒音と空疎な馬鹿騒ぎでしかない。投票は単なる大衆による人気コンテストにすぎないし、その結果くだらない法案が可決されて少数者(つまり我々リバタリアン) の自由がいたずらに圧殺される。政治家は 贈賄 にかまけ、ポピュリズムは際限なく肥大化していく。それに比例して、国家もまた肥大化の一途を辿るだろう。彼らにとって民主主義とは、大衆の 蒙昧 と悪徳と憤りを集合的にまとめ上げて無理やり包括=統合させた、あらかじめ崩壊が約束された腐敗臭漂うシステム リバタリアンは「イグジット」というコンセプトを対置させる。民主主義の制度のもとで愚直に「声」を張り上げるのではなく、黙ってその制度から立ち去って、新しいフロンティアを開拓していく。これこそが、リバタリアンが選択すべきもっとも賢明なプログラムとなるだろう。第一章でも触れた「seasteading(海上入植)」計画の主導者であり、また経済学者ミルトン・フリードマンの孫であるパトリ・フリードマン イグジット」の向こう側、それこそが新官房学である。 新官房学は、先に見てきた対称的主権の概念と「自由なイグジット(free exit)」の概念を総合させたものと見なすことができる。ヤーヴィンに従えば、新官房学の下では、国家は企業のように運営されるべきであるとみなされる。まず国家は一人のCEOを投票によって選出する。選ばれたCEOには主権、つまり国家に対する一切の所有権が与えられる。すなわち、CEOは専制君主として振る舞う権利を持つ。ただし、ここでの支配者と被支配者の関係性は、CEOとシェアホルダーの関係性とほぼ同義とみなされていることに注意しよう。つまり、CEO的な君主が相対するのは、国民というより自社の株主 国家゠企業(gov-corp) の利潤を最大化するように努めなければならない。というのも、CEOが国家゠企業の運営に失敗した場合、国民゠シェアホルダーはそのCEOが治める国家゠企業から去り、別のCEOが治める国家゠企業に自由に移住していくだろうから。つまり、いわば企業間競争のようなものが国家間で発生しているわけだ。これらの点から、国家゠企業は都市国家のような、なるべく小規模の形態が望ましいとされる。新官房学における国家゠企業は、民主主義的な「ヴォイス」ではなく、声なき「イグジット」という概念をベースにデザイン 新官房学というタームの元となっている官房学とは、 17 ~ 18 世紀の神聖ローマ帝国やプロイセンにおいて発展した、経済の行政・管理に関する学問のことで、封建主義下における経世論として領邦君主によって重宝されていた。背景としては、 17 世紀以降の諸領邦が陥っていた、宮廷の 衒 示 的消費などによる財政危機がある。そこで、収支監査の徹底、国税・国債制度の確立、鉱山業や林業における産業開発といった改革、また伝統的貴族の行政手腕ではなく商人の力を重視することによって、これらの財政危機の打開 「不幸な意識」とはヘーゲルが『精神現象学』の中で用いた言葉である。ヘーゲルは自己意識の発展段階を記述していく中で、自己のみで完結している自己充足的な自己意識の段階から、自己の中に「他」が入り込んでくる段階への変遷を記述している。完全性を志向する自己意識が内部に 止揚 できない「他」を抱え込むことで、矛盾と分裂に苦しむ。いわば自己意識の最初の挫折ともいえる宿命的な段階こそが「不幸な意識」である。しかも、この矛盾は感覚としてのみ知覚され、決して概念化して捉えることはできない。いかにすれば西洋は自己の特権と優越性を失わずに一方的なグローバリゼーションを維持することができるのか? ということである。かくして「不幸な意識」は、啓蒙というダブルバインドに引き裂かれて身動きが取れなくなる。新反動主義者にとっての啓蒙とは、聖書における「主は与え、主は奪う」 新反動主義は神を持ち出すことをあらかじめ自身に封じていた(または封じられていた) からこそ、単なる復古的でない、未来志向の反動という、逆説的かつ奇形的な思想となった、あるいはならざるを得なかった。より具体的には、ヤーヴィンは神の代わりに宇宙人やスティーブ・ジョブズを持ち出さなければならなかった。あるいは、未来のとある一点に現れるであろう超知性的な人工知能による支配といった、神なき千年王国のビジョンが要請されなければならなかった テクノロジーと資本のポジティブ・フィードバック・プロセス──非‐人間的な「ダークな意志(dark will)」が、近代というグローバル体制を溶解させるにまで高まる一点、それこそがシンギュラリティであり、またそれを推し進めようとする思想こそが加速主義と呼ばれる当のものに他ならない。ランドが参照するのは、この書物の中で概念化されている「脱領土化(Deterritorialization)」と「再領土化(Reterritorialization)」という二項対立である。ここでは概略的な説明に留めるが、脱領土化とは資本主義や分裂症に見られる解体と分散化のプロセス、より具体的に言えば、資本主義であれば資本や土地の流動化とそれに伴う国民国家や家族制度の解体 再領土化とは、つまるところ総合のプロセスであり、たとえば資本の再分配に基づく福祉資本主義などは、一旦脱領土化したプロセスをもう一度国家のシステムの内に再領土化する試みと捉えることができるだろう。言い換えれば、脱領土化と再領土化がバランスよく相互反復されることによって、現代のグローバルな資本主義国家システムが維持されている。以上がドゥルーズ&ガタリによる大まかな論旨 レヴィ゠ストロースに始まる構造主義は、人類学や神話学にソシュール言語学の方法を適用し、人間社会は主体の意志に依らない無意識のレベルの「構造」によって規定されていると論じた。フーコーは『言葉と物』の中で、人々の知の枠組みは各時代に固有のエピステーメーと呼ばれる知的マトリクスによって規定されると説いた。彼らの反゠人間中心主義のエートスは、ジークムント・フロイトが創始した精神分析にまで遡ることができる グレートフィルター仮説に従えば、フェルミのパラドックスはあるひとつのフィルターの存在を仮定することで解決される。それは知的生命体がある一定の文明を築いたときに不可避的に訪れるとされる、何らかの原因によって文明を崩壊に導くフィルターである。文明を崩壊に至らせる要因については様々考えられる。たとえば、大規模な気候変動(人新世の議論を思い出すこと)、遺伝子的な突然変異、疫病のパンデミック、核などのテクノロジーに端を発するものから、いわゆる「太陽嵐」と呼ばれる太陽のコロナ質量放出、さらには小惑星の衝突といった天文学的カタストロフにいたるまで、私たちは常に「絶滅」のリスク こうしたAIの進化に伴う一方向的な「抽象化」の作用を、ランドは「始原的な抽象作用」と呼んでいるのである。AIが実行する数千万回という再帰的な自己言及──フィードバック・ループ。それがある閾値を超えると、人間という楔を解き放ち、それ自身が自律性と呼ぶべきものを獲得する。ランドに従えば、AIが碁に勝つのは、人間がそれについて知っていると考えるものすべてを徹底的に除去することによってである。 ドゥルーズ&ガタリドゥルーズ=ガタリにおける器官なき身体とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度゠ゼロであり、その意味において死のモデルなのだ。器官なき身体を志向することは、生の果てなき脱領土化、あるいは脱コード化を推し進めることを意味する。生から制約や抑圧を取り払い(脱コード化)、別の生(別の性、別の人種、等々) に成ること、それは別の側面から言えば、生成変化のたびに死の経験を営むということでもある。そして、そうした生の流れの脱領土&脱コード化の果てに、現実の死が訪れる。すなわち、生物としての物理的な死 資本主義は既存のあらゆるコード──資本、文化、宗教、国民国家、家族、封建制度、等々の際限なき脱領土化によって拡大してきたことは先にも述べた。その意味では、今や地球全体がグローバルな資本主義機械の内部で器官なき身体を目指していると言えるかもしれない。ならば、資本主義のプロセスを極限まで推し進めることで〈外部〉に突き抜けることを試みる加速主義は、言い換えれば死の欲動を際限なくドライヴさせる試みに他ならないだろう。ランドの哲学が死と一致するかのように見えるのはこの地点において 「予言の自己成就」に見られる、後期資本主義に内在する再帰的なシステムは、現実と潜在的なものとが切り離しがたく結びついていることを教えてくれる。 念のため付け加えておくならば、ハイパースティションはポストモダニズム的なテクスト相対主義とは真っ向から対立する。
ランドによればカント以降、あるいは啓蒙の時代以降、同じ理由からモノは私たちの認識に従属されてしまっている。そこにあっては、他者性も外部性も主体の内部に包摂/同化される。つまり、他者は常にすでに「私たちにとっての」他者に過ぎないものとされる。ランドの 90 年代の思想は、資本主義のアンチ・ヒューマンな力を限界まで推し進めることでカント主義的な近代の体制を溶解(メルトダウン) させるという点に賭けられていた 加速主義とは政治的な異端である。というのも、資本主義に対する唯一のラディカルな政治的応答は、抵抗することでも、批判することでも、あるいは資本主義が自身の矛盾によって崩壊していくのを待つことでもない、と主張するからである。それどころかむしろ、資本主義における根絶化、疎外化、脱コード化、抽象化の傾向を加速させよ、と主張 現在のテクノロジーはネオリベラリズム資本主義のもとで生産性極大化のために使役化されている。私たちはテクノロジーが何を成しうるのかをまだ知らない。だから、私たちはテクノロジーを来るべきポスト資本主義に向けて「転用」しなければならないのだ。それは、やがて到来すべきポスト資本主義のあり方を規定する。重要なのは、テクノロジーの発展を明確なビジョンのもとコントロール可能な形で加速させることであり、そのためにこそ新たな「政治」が必要 資本主義に代わるオルタナティブな社会を想像することすらできない現在の閉塞した社会状況を「資本主義リアリズム」と呼んでいる。フィッシャーは哲学者スラヴォイ・ジジェクのものとされる「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」というフレーズを引いているが、それはまさしく現在支配的 たとえば鬱病などは個人の脳気質的な問題に還元されてしまい、周囲の労働環境や社会構造は考慮されない。そこでの精神の病はどこまでも個人の問題、つまり自己責任という新自由主義的な倫理に回収されてしまい、それが翻ってメランコリーをさらに深刻化させる。こうした資本主義リアリズムが支配化した社会に見られるストレスと無力感の悪循環──この事態に対して為す術がないという諦め──をフィッシャーは「再帰的無能感」 記号や広告や商品など、後期資本主義における情報のオーバーフローによって現実は置き換えられた。現実の体験とシミュレーションを区別すること自体が不可能であり、また無意味であるような認識論的地平、すなわち現実性の完全な喪失をボードリヤールは論じているのである。 ところが、ボードリヤールとは異なり『マトリックス』はシミュラークルの世界──AIが管理統御する仮想現実──から脱出し「現実という砂漠」にアクセスすることが可能であるように描かれる。もちろん、モーフィアスが与えるレッドピルを飲むことによって、である。このレッドピルというガジェットの導入によって、『マトリックス』はシミュラークルの物語から真実/偽、または現実/虚構という古典的な二項対立の物語に転化 ミレニアル世代にとって、「未来」はもはや「喪失」に他ならないのだ。こうした社会不安と比例するかのように、人々の間で過去への憧憬やノスタルジアが広がっているとバウマンは指摘する。レトロトピアは、未来ではなく過去へユートピアを求める心性に根ざして
アメリカの若い世代は自分たちの過去の記憶に純粋なノスタルジアを感じることができなくなっている。その代わり、日本という他者──自分たちが経験したものではない時代と場所の記憶に、ある種の新鮮で穢れていないノスタルジアを求めているのだという。シティポップの全盛時代である 80 年代といえば、日本はバブル景気に湧き、アメリカには安価な日本製品が大量に流入してくるなど、日本のプレゼンスが否応にも高まっていた時期に当たる。シティポップが内蔵していた楽観的で多幸的なビジョンは日本においては 90 年代以降説得力を失った。だが、その楽観的で多幸的なビジョンが現在のアメリカという地で需要されている。存在したかも定かでない時と場所への郷愁と期待感。 ニーチェは「神の死」を宣告し、世界はあらゆる神聖な価値も人間的な価値も失った虚無の深淵の中に転げ落ちていくと予言した。こうした神なきニヒリズムの世界に現れるのは、最後の人間=終末の人間である。彼らは「一切は空しい、むしろ受動的に消え去ることだ! 虚無への意志よりもむしろ意志の虚無だ!」と呟く。しかし、この価値の失効とニヒリズムの只中で、最後の人間を超えた彼方に、ニヒリズムを乗り越えてすべての価値転換を行う人間、〈超人〉が現れる。完成されたニヒリズムはニヒリズム自体によって克服さ