ドゥルーズ=ガタリ
ドゥールズ:世界は差異でできている。世界は時間的であって、すべては運動のただなかにある ドゥルーズ&ガタリドゥルーズ=ガタリにおける器官なき身体とは、その上にあらゆる生の力場が形成される強度゠ゼロであり、その意味において死のモデルなのだ。器官なき身体を志向することは、生の果てなき脱領土化、あるいは脱コード化を推し進めることを意味する。生から制約や抑圧を取り払い(脱コード化)、別の生(別の性、別の人種、等々) に成ること、それは別の側面から言えば、生成変化のたびに死の経験を営むということでもある。そして、そうした生の流れの脱領土&脱コード化の果てに、現実の死が訪れる。すなわち、生物としての物理的な死 現代資本主義において「脱領土化」という「解体」のプロセスと、「再領土化」という「統合」のプロセスを指摘したが、「加速主義は、前者の脱領土化のプロセスのみを徹底的――「特異点」――に至るまで推し進めようとする」
基本的に加速主義は、ドゥルーズ=ガタリ的な表現では脱領土化、脱コード化を押し進めるということです。ドゥルーズ+ガダリによれば資本主義はこれまでの共同体を破壊して脱領土化を進めていくものであり、そこで今までの自分の主体性が結びついていたような領土あるいはコードが破壊されたときに、人は再領土化をしたくなります。それが反動的だという ドゥルーズ=ガタリによれば、資本主義は常にその暴走を抑えるための公理系とペアで働きますが、まさにその近代的な人間の理念に基づくところの、弱者を救済したり、富を再配分したりといったレギュレーターが、公理系として資本主義のなかで作動しています。ですから今日、近代の人間的諸価値をもう一度問い直すという動きは、資本主義の公理系を外す動きとしても解釈できることになります 加速主義という語そのものは、〈資本主義を徹底的に推し進めることのみが、資本主義からの出口に通じる〉という「ポスト六八年」の理論的立場を批判的に名指すために案出されたものである( 5)。とりわけ、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』(一九七二年) のなかでマルクスを再活性化するためにニーチェを引きつつ記した「過程を加速すること」という一節は、九〇年代以降に噴流し、のちに分岐・流行・偏流していくことになる ドゥルーズ=ガタリが力説していたように、資本主義は本来、「流れの脱コード化または脱領土化と、流れの暴力的かつ人工的再領土化という二重の運動」にもとづくものであるため、前者の解放的な潜勢力が後者の「再領土化」によって絶えず阻まれことになるという面を無視することはできない( 7)。このようにドゥルーズとガタリが資本主義の反動的な側面をつねに視野に入れていたにもかかわらず、先に引いた『アンチ・オイディプス』の一節に含まれている資本主義の「脱領土化の運動」は、九〇年代に入ってからランドによって当初の文脈から遊離したかたちで、一面的かつ極端な解釈を施されて、奪用されるようになる。ランドはその一連の扇情的なエッセイを通じて、資本主義が行使する絶対的な脱領土化の破壊力を解放のための力にほかならないものとして讃美し、歓迎した ドゥルーズの哲学には、このように、生の閉塞とその不可避性にさいなまれつつ、それらを打破する可能的なものを希求するという側面があり
ドゥルーズは、先に確認した可能的なものの希求を言い表すものとして、繰り返し ―― その都度、微妙に文言が異なるのだが ―― **「可能的なものを、さもなくば私は窒息してしまう」**というフレーズを用い、これをキルケゴールに帰しているのだが、『意味の論理学』(一九六九年) では、このフレーズは、ウイリアム・ジェイムズの「可能性の酸素」というフレーズとともに、明確に批判対象として引き合い 世界における耐えがたい何か」(IT 221/237) が問題とされる。 耐えがたいものとは、もはや重大な不正ではなく、日常的平凡さの永続的状態である。人間は、 それ自身が、人間がそのなかで耐えがたいものを感じ、身動きが取れないと感じる 可能性を欠くということは、あなたにとって、すべてが必然的なものになってしまったか、あるいは、すべてが陳腐なものになってしまったかということである
可能性がないということは、すべてが必然的になり、陳腐になるということであり、それはドゥルーズが「耐えがたいもの」と呼ぶものと合致する。絶望する者とは、すべてが必然である者