シャンタル・ジャケ
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パラグラフ
序論
嗅覚は五感のうちで最も低位な対象として扱われる。
人間はしばしば第六感を夢見るが、そのくせ第四感までに甘んじているようである。耳が聴こえない場合や目が見えない場合、一般的にこれらは障がいとして理解されているが、無嗅症はその例ではなく、嗅覚の問題としてのその名前まで忘れられている。鼻を失い、サンクトベテルブルクの道々を探しさまようコワリョーフ少佐の災難は、隣欄よりも嘲笑をかうのだ。半信半疑、好奇心で寄り集まる人々は、何がおこっているかを見ても、もらい泣きはしない。味覚と触覚にしても、視覚と聴覚に比べれば感覚としての地位は低いが、それでも嗅覚よりは高い。従来、真ん中の位置を与えられてはいるが、嗅覚は一般的には、五感中で間違いなく最下位のものなのである。
哲学における嗅覚も同様である。
文学は
その証拠に、この能力に重点を置いた哲学の著書は見当たらない。テオプラストスは古代に『匂い論』を書いたが、これは例外にあたり、そもそも現在読まれているのだろうか。嗅覚と嗅覚の器官に多少触れる哲学論は、せいぜい幾つか見られる程度である。パスカルがクレオパトラの臭を引き合いに出したのは有名な話であるし、コンディヤックの彫像の覚醒を導くバラの香りもよく知られている。が、これくらいが一般的に知られた哲学命題である。多くの場合、哲学においてこれ以外は参照されず、また、そこでの考えは大して展開されない。もしあえて挙げるとすれば、文学と詩の分野であり、思い当たるままに幾つかの珠玉を挙げれば、シラノ・ド・ベルジュラックの長台詞、ボードレールの「コレスポンダンス」、もっと最近ではジュースキントの『香水』が一般的に思い起こされる。知識人なら、スターンのトリストラム・シャンディとその身に対する滑稽な瞑想なり、ユイスマン作の『さかしま』の主人公で、ノイローゼになったデ・ゼッサントの嗅覚の実験なり、またはイタロ・カルヴィーノの『ジャガーの太陽の下で』(Sous le soleiljaguar)の中で、感覚をめぐる一連の物語の最初である「名前、鼻」なりを挙げるだろう。それでもリストは長くはなく、鼻は良くて文学の対象であり、おおかた笑わせるための駄酒落か、もしくは様々な共感覚を生みだす美的興味に過ぎない。 しかし今日、何かが変わってきているように見える。というのも、物理学、生物学、そして人文学でも、嗅覚、匂い、香りについての研究が次々と進められているのだ。歴史学者のアラン・コルバンは、一九八二年発行の『においの歴史』という著作によって、嗅覚の沈黙を破るのに大いに貢献したと自負している。一八世紀と一九世紀の嗅覚と社会の想像力についての研究の中で、彼は現在の環境の無菌化につながった大規模な消臭事業の軌跡を辿っている。この、汚臭に対する嫌悪そして浄化の歴史には、良い香りのするブルジョワと、垢を落として消毒する必要のあるプロレタリアとの社会の軋轢とその表象がよく描かれている。コルバンはこうして新規の研究分野の道を拓き、新しい学問の対象を正当化した。人類学者、社会学者、そして情報伝達科学の研究者たちは彼に追随した。このことは、単著であれ共著であれ、往々にして複数の分野にわたる多数の著作が出ていることで分かる。フランスのみではなく外国でもそれはいえ、コンスタンス・クラッセンの『感覚の力』(Worldof senses)と、デイビッド・ハウスとアントニー・シノットとの共著である、『アローマ』(Aroma, The cultural history of smell)などは参照される資料の一つとなっている。この熱は心理学者と精神療法医の間だけでなく、精神生物学ではブノワ・シャール、神経学ではアンドレ・ホレイ(Andre Holley)といった研究者の間にも広がっている。もっと最近では、二〇〇四年に二人のアメリカ人が、嗅覚に関する研究で生理学と医学分野でノーベル賞を受賞したばかりである。心理学と微生物学を修めたリンダ・R・バック(Linda R. Buck)と、同僚の生化学のリチャード・アクセル(RichardAxel)は、遺伝子及び分子の段階での匂いにおける知覚、識別と記憶の仕組みを解明し、それによって、それまでほとんど知られていなかった嗅覚系の働きを明らかにした。長い間忘れられ、または無視されてきた嗅覚は今や一躍、思いもかけなかった人気の的となっているのだ。芸術家と調香師も遅れをとっていない。ディオールとロッシャの有名な香水のクリエーターであるエドモン・ルドニッカ(Eamond Roudnitska)が、著書の『問われる美学』(Esthetique en question)において、真実の嗅覚美を造ろうと果敢な挑戦をしているのがよい例である。この本で彼が試みているのは、カントのモデルを嗅覚に移行し、それに基づいた美の哲学を香水の制作者に教えるのと、哲学者たちに香水の成分とその特有の問題について気づかせて、その考察がより深く、知識に裏付けられたものになるようにすることである。 哲学者であり歴史学者でもあるアニック・ル・ゲレ(AnnickLe Guerer)であり、彼女は主に時代を通しての匂いの力と、なぜ哲学者と精神分析者は匂いに対して懐疑的であったのかを模索した。この著作は社会学者、人類学者、そして香水のクリエーターの間で大変な評判となったが、哲学の世界ではあるべき反応がなく、その結果この分野の研究が稀で、懐疑の壁に突き当たることとなってしまった。(...)コンスタンス・クラッセンは、西洋においては視覚が特に重要視されているのに準じて、視覚と目に見えるものについての学術研究は、研究所でまじめに取り扱われるのに対し、嗅覚を分析しようとする試みは必ず軽々しく扱われ、裏付けに欠けると思われる可能性があると述べている。(...)この意味で、五感への賛辞を謳い上げるミシェル・セールと、『草薬の芸術』(LArt de joui)で「鼻の軽蔑者たち」を批判し、嗅覚を擁護する唯物主義の哲学者の流れをくむと宣言して、批評におけるイニシアチブをとったミッシェル・オンフレイの二人は敬意に値する。それでも匂いと嗅覚は彼らの研究の中では副次的なものにとどまり、主な調査の的となりうる対象ではない。『五感』(Cingsens)の著者であるセールが、実際には四感しか扱ってないという点を指摘してもいいのだ。嗅覚を重要視はするものの、ミッシェル・セールは一度たりともそれに独立した位置を与えず、「テーブル」(tables)の章で、味覚と切り離せないものにしている。触覚は「ヴェール」(voiles)、聴覚は「ボックス」(boites)、視覚は「探訪」(visites)、と、他の感覚はそれぞれ共感覚的な舞台正面を飾っているのに、鼻のための個別の章はなく、「テーブル」の最後に出演しているだけなのだ。 確かにすべての感覚がそれぞれ作用して、ある対象が全体的に捉えられるのだから、その働きを別々に分析するのは難しく、的を射ていないとも言える。が、それならなぜ嗅覚と味覚に与えられないものが、視覚、聴覚もしくは触覚に与えられていいものか。匂いと味はお互いに強く結びついていて、香りと芳香という言葉は嗅覚と味覚両方に関係するくらいであり、無嗅症はよく味覚の損失を伴うが、それでもいつも混同していいというものではない。お互いに干渉しあってはいても、嗅覚組織は味覚組織とは生理学的に別のものだ。匂いなら呼吸器官経由、味覚に関連する芳香なら後鼻孔(retronasale)経由で匂いの分子を採知する感覚神経によって感じとられる。匂いの分子と味の分子は同一の物ではなく、すべての香りと芳香が味わえるわけではない。味覚とは一緒には出来ない鼻の特性は存在するのだ。こうして見ると、ミッシェル・セールは視覚の優位性を問題視し、すべての感覚にそのあるべき位置を返そうとしているが、その試みの中でさえ、バルサム(訳注:植物から分泌される芳香性の脂)と甘松香について筆致に勢いはつくものの、皇は味と食卓美術のおまけにすぎず、そこから決して完璧には逃れ得ないのだ。そうすると、嗅覚の純粋な美は存在し得ず、嗅覚は哲学の一分野としての対象にはなりえないと結論づけるべきであろうか。そこで、ハーモニーと音楽についてや、絵画と目に見えるものについての研究は数多くされているのに、それに対応するような嗅覚についての哲学的思考が存在しないのは、単なる先入観のせいなのか、外的で周然に生じた原因に基づくのか、それとも匂いに特有の性質によるものなのか知る必要がある。
匂いの芸術
香水の芸術化における認識論的障害
香りの即時性
香りの再現性について
しかして、香りの物理的性格は否定できない。味覚、触覚と同じく嗅覚に関する対象は、現代において芸術と判定されない。ヘーゲルはまさにこうした触覚的美学を非芸術であると批判する。その意味で現代の芸術観とはもっぱらヘーゲル的芸術観なのであり、美しい匂い、味、感触などと言われ思い浮かばない者は、自らの芸術観念が如何にヘーゲル的に歪められているかがわかるだろう。それを超克するべくジャケはヘーゲルの美学観をとりあげる。
確かに調香師の技とは、化学的な体系によるものであることは間違いない。しかし、それはイデアに秩序づけられた方法論に過ぎないのである。
香水には精神が宿り、それは香水瓶を通して渡ってゆく。精神の外交官は、化学的な手続きによってより精巧に、そして再現可能な方途となるのだ。それは公式、楽譜、レシピのように作者のイデアを幾度なく再現=表象する。
香水ではなく香水瓶
したがってまた香水の芸術は、香水瓶の芸術でもある。なぜなら、入れ物は中身を表し、香りを連想させ、それを嗅ぎたいという欲望を引き起こさなければならないからだ。香水は大概、その品質そのものが判断される前にまず最初に香水瓶から送られるメッセージによって表現される。大規模な宣伝では香りを直接嗅がせたりサンプルを送るなどということはできない。それゆえ香水の広告はまずは香水瓶の見た目で勝負し、そこで香水の匂いの質を示唆し、消費者にその購買を促さなければならない。したがって香水瓶の芸術は香水の芸術とは絶対に切り離せないものなのだ。
現代の非芸術なる香水市場
調香師の作品が独自性に富み発明的で、権利としては真実の芸術作品を構成しているにしても、事実としては結局のところその商業上の使命から逃れられず、その結果香りの芸術家と独自的な創造というものを周囲に認められる地位のものとするための宣言は未だなされていない。真実の芸術として推進しようという努力にも関わらず、エドモン・ルドニツカが望んでいた香水の美学は、香水の製造とその使途にからんだ理由により計画途上のままである。自然物よりずっと安くつく合成物の発見による香水産業の工業化に引き続いて、エッセンスの製作の考え方に大きな変化が訪れた。匂いの新しい分子の研究は大規模な工業グループ傘下の研究所で行われ、その経営的かつ商業的必需性にしたがっている。独立を保っているシャネル化粧品を除いては、香水の主なブランドは国際的グループに属し、自分自身ではもうその香りは作らず、製作会社に任せている。これらのブランドを買収するグループは香水が専門ではなく、嗅覚美学についての一貫した政策も長期にわたる眺望もなしに、即時の収益性のみを目指している。それにより、もし期待された通りの利益が得られなければ、さっさと買うか売るかしてしまう企業の戦略の変化によって、方針と研究が非常に不安定なものとなっている。香水の創造者を雇う制作会社はマーケテイングにしたがっており、香りの構想は、受ける注文によって左右されている。このように「宴」の行動の自由は狭められ、その創造性には手綱がかけられる。というのも、彼らは金銭帳簿に従い、顧客の要求、値段、標的とされている客層によっての製品のイメージにしたがって香水を作成するための方針会議にも服従しているからだ。したがって、なるべく多くの人間、もしくは標的となっている顧客に気に入られるような製品を市場に出すため、できるだけその欲求、その世界観、その生活様式に合うように努力する結果、美しい香水の探求は後回しとなる。独創的で特異であるどころか、香水は往々にしてヒット間違いなしの香りに少々手を加えただけのコピーであり、なるべく多くの人間を引きつけ市場を占有するために、ありきたりで無難なものとなる傾向がある。ある香水が売り出されるには、まずその品質に頼るのではなく、大々的な広告の助けでなされるのだ。香水の世界的な売り出しは、巨大な広告の予算によっている。一九九五年のカルバン・クラインの《CK One》を売り出すのにはおよそ一億ドルかかった。アニック・ル・ゲレが一九九九年にインタビューしたジャン=ピエール・プチディディエによれば、「ある香水の販売値段の八〇%以上が広告とマーケティングに占められている。香水の中で何か匂いがするもの、香りの元となる成分は大体二%しかない。したがって、それが二%しか占めない以上、八〇フランでオードトワレを買うとすると、一・六フランということだ。香りをつける生産物が一・六フラン分だとすると、あたりまえのことだが、値段の張る生産物を入れるわけにはいかない。薔薇でもジャスミンでもなく、安い合成生産物ということだ」。こういった条件では、香水の品質にそれが反映され、芸術的創造については殆ど問題にもならない。この視点からいけば、LVMHの香水と化粧の社長であるパトリック・コエルが表明した製品製作の規則は非常に雄弁である。「コンセプトのはっきりした単純な考えを練り上げ、次いでそれを反映するような名前を見つけ、そして独特の瓶とパッケージを創造し、適切な発表のためのキャンペーンを促進し、そして最後に香水液を作るのである。私は故意に香水の創造を後に回す」。確かに、フレデリック・マル、オリヴィア・ギャコベッチといった、独立した創造者の内、何人かは香水の芸術にとっては破滅的行為であるこの傾向に立ち向かおうとしているが、彼らは非常に少人数である。香水工業がグローバル化して正道を踏み外した影響は、フレグランスの創造にだけでなく、その評価の仕方にも感じられる。嗜好の判断は大々的な促進キャンペーンによって形成されていて、全く自由には行われていない。このようにアニック・ル・ゲレは、マーケティングによる操作の力は「「目隠し」で行われるテストでは、「アルページュ」が「シャネルのNo.5」より好まれるが、この二つの香水のそれぞれの位置がマーケティングの影響を受けると、つまりその名前とともに見せられると、反対になる」。ということを述べている。したがって、香水のオーラは往々にして、不純な想像力と、広告によって徐々に注入されて規格化された幻想を含み、その結果、判断は最初から目隠しされているのである。それでもなお、商業的な攻勢をかわすための努力が実るとしても、純粋な嗅覚芸術の組成は、香水の目的に関連した障害に打ちあたるのだ。嗅覚的な作品は、カントの言葉を借りれば、目的なき合目的性ではなく、装飾品、誘惑の道具としての香りの使途に従属しているのだ。
ユイスマン