コンスタンス・クラッセン
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視覚の時代たる近代
クラッセンは「西洋社会において嗅覚が凋落し、視覚が隆盛した」ことを第一に強く訴える。
近代初頭以来、西洋文化において嗅覚の地位が凋落したことは多くの学者が論じている。アラン・コルバンはフランスにおける嗅覚の社会史のなかで、「嗅覚は[十八世紀以降]たえず貶められてきた」と書いている。E・T・ホールは近代西洋の嗅覚の貧困を次のように強調している。「脱臭剤を使って公共の場から匂いを排除するあまり、ほかでは類を見ないほど退屈で単調な香りの世界となった」。(...)この嗅覚の後退は視覚の隆盛と入れ替わったように思われる。啓蒙時代以降、視覚と視覚イメージの価値が上昇してきたことは、とりわけミシェル・フーコー、ウォルター・オング、ドナルド・ロウがその著作のなかでくわしく論じている。たとえば、ロウが『中産階級の知覚の歴史』のなかで書いているところによれば、十七世紀後半から十八世紀にかけて「活版印刷文化、視覚の優位、空間表現の秩序などで成り立つあたらしい知覚領域は、今までの(非視覚的感覚が強調されていた)知覚領域をはるかに凌いでいた」。
そうした視覚優位の時代に欠落した内面の感性的側面をオングを引用し、唱える。
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ギリシアと匂い
古代の哲学者は、香りについてさまざまな理論をたて、いろいろと考えを述べている。紀元前四世紀プラトンは、匂いは水よりも薄く空気よりも濃く、形成の途上にあるという性質を持つと書いた。この両義的な性質により、匂いは名づけることも難しく、分類も困難である。プラトンの弟子のアリストテレスもやはり、匂いは区別しにくく、色などに比べて定義がむつかしいと書いている。 哲学者はまず、使い匂いと不快な匂いを区別した。ルクレティウスは、快い匂いおよび快い感覚はなめらかな分子からでき、不快な匂いおよび感覚はざらざらした分子でできていると考え、「感覚を魅了するかたちにはつねになめらかなものがあるのに対し、荒く不快なかたちはすべてざらついたものをうちに含むからである」と書いている。ということは、感覚の印象のうちには、触れることがあるわけである。紀元二世紀のギリシャの医者ガレノスは、匂いによって脳の反応が違うから、匂いを感じるのは鼻ではなくて脳なのだとし、熱い・冷たい・乾いた・濡れたの四つに匂いを分けた。 古代ギリシャ・ローマ人は、熱い・冷たい・乾いた・濡れたの四つの性質を感覚の基本とする体液説を奉じており、匂いもその枠のなかで理解していた。それによると、甘くてスパイシーな匂いは、熱くて乾いており、腐ったような匂いは、冷たく濡れている。だから、アラビアのような乾いて熱いところは質のよい香料の産地とされ、冷たく濡れた海などというのは嫌な臭いしかしないことになる。前に述べたように、熱い太陽は芳香に結びついていたし、熱を持たない月は悪い臭いと結びつけられていた。気持ちのよい匂いあるいは不快な臭いは、宇宙の秩序の一部であった。
キリスト教と匂い
新しいキリスト教世界に現れたもっとも強力な嗅覚概念は「聖性の香り」である。前章で見たように、古代の神々はその芳香によって自らの存在を知らせ、香ぐわしいアンブロシアを与えて人間たちに神性を授けると考えられていたが、キリスト教徒も、神秘的な芳香が聖霊の存在の徴しであると考えた。キリスト教徒の場合、この芳香はさらに聖人の聖性の徴しともされた。古代のアンブロシアは感覚的・官能的な充足と密接に結びついていたが、キリスト教の聖性の香りははっきりと霊的な正しさの徴しだった。
初期キリスト教時代には「救はるる者にも亡ぶる者にも、我らは神に対してキリストの香ばしき馨なり」(コリント後書2:15)という聖パウロの言葉どおり、司祭はみな「香ばしき馨」を発すると思われていた。この信仰は祭日に司祭が身につけたバラの花輪の香り、それに司祭がよく香に包まれていたことによって強められたろうが、聖性の香りは稀にみる霊格の高い人物に特に結びつけられるようになった。早い例は、五世紀の僧シメオン・スティリテス伝にみられる。
この時代の修道は極端な苦行が特徴で、片足で立ち続けたり、太陽を凝視する荒行をしたが、シメオンが選んだ行は、世俗の誘惑を避け天上に近くあろうとして、高い柱を立てそのてっぺんで暮らすことで、当時はよく行われたものだった。そのシメオンが熱を出して苦しみ始めると、たぐいなき香りが柱を包み、幾日か後シメオンが亡くなるまで日増しにその香りは強くなったという。神性とこの世ならぬ芳香の結びつきをかたくじていた信徒には、この香りは議論の余地なく恩籠の徴しであった。
このような話は西洋の聖人伝説にはたくさんある。十三世紀のステインフェルトの聖ヘルマンの息はとてもよい香りがし、香ぐわしい花園に住んででもいるかのようだったといわれ、十七世紀のノートルダム・デュ・ロースの聖ベネディクタの身体や衣はすばらしく神的な香りがしたという。ベネディクタが触れるものにはすべてこの香りが移り、法悦にいたるとさらにその香りを強めたそうだ。
こうした聖性の香りは、聖人の死にさいしてあらわれることがもっとも多く、聖パトリックが死んだとき、甘い芳香が部屋いっぱいに満ちわたったというし、ブルターニュの聖ュベールが死んだときは、ブルターニュ全体が芳香に包まれたという!十二世紀に亡くなった聖イジドールの遺体が四十年後墓から出されたとき、遺体は少しも損なわれておらず、うっとりするような香りを放ち、それから四五〇年後さらに立派な墓に移したときも同様だった。聖人の遺体の芳香は、ふつうの死体の屍臭ときわだった対照をなす。中世では多くの人間が死の匂いになじんでいたことを考えると、なおさらである。金持ちの遺体は香料やハーブを添えて埋葬されることもあったが、当座の間屍の腐乱をくい止めることができただけだった。聖人の遺体が芳香を放ったことを記述したものは疑惑に先手を打ち、香料や香膏などは一切使われなかったと断っている。聖性の香りは、死の腐敗から人間を解き放つ神の力をあからさまに示したのである。聖性の香りは、心の腐敗や堕落の臭いとも対照的で、「神にたいしてよい香りを持つ者と、悪臭を放つ者とがいる」と十四世紀の神学者ジョン・ウィクリフは書いている。最悪の臭いは言うまでもなく悪魔の発するもので、むせかえる硫黄の臭いがした。罪はその程度に応じてすべていやな臭いがするとされた。 聖性の香りは宗教から政治の世界まで広がっていったが、教会と国が密接な同盟関係にあった近世以前のヨーロッパでは、驚くにはあたらない。王権は神に授けられたものとされ、その徴しに玉は聖油を塗った。シェイクスピアは『リチャード二世』でこう書いている。「荒海の水を使い尽くしても/王の聖油を洗い落とすことはできず、/世俗の物どもの息では/神みずからの選び給いし代理人を退位さすことあたわぬ」ふつうの人間の息は神が選んだ支配者の聖なるエッセンスの敵ではない、というわけだ。世俗の息が神権国家にたいして吹きかけられれば、それはいやな臭いであったろう。国への反逆は罪と同じく、悪臭を放った。反逆者も魔女や異端者とおなじょうに火あぶりに処されたが、それには罪の悪臭を知らせるという目的もあった。イギリスでは反逆者は、まず内臓を抜き、それを本人の目の前で焼いた。まわりを取り囲む民衆とともに、犯罪者本人にも自分の邪悪な本質を、その臭いによって知らせるために。このように近代以前の西洋では、匂いと道徳の結びつきがそのまま受け止められ、人々はさまざまな強い匂いに取り囲まれていただけでなく、ふわりとしたよい香りが神の恩寵でもあり得、硫黄の匂いが永遠の劫罰をほのめかすというような、強力な匂いの意味の世界に生きていたのである。