ルクレティウス
『事物の本性について』
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一巻
恐ろしい形相を示して、上方から人類を威しつつ、天空の所々に首を見せていた重苦しい宗教の下に圧迫されて、人間の生活が、誰れの目にも明らかに、見苦しくも地上を腹ばっていた時に、初めてギリシア人の、死すべき一介の人間(エピクロス)が、不敵にもこれに反抗して、目を上げた。彼こそは、これに反抗してたった最初の人である。神々のことを語る神話も、電光も、脅迫の雷鳴を以てする天空も、彼をおさえつけるわけにはゆかず、むしろ、かえって彼の精神の烈々たる気頭をますます、かきたてることとなり、その結果、人間として初めて自然の門のかたい「かんぬき」を破りのぞこうと望ませるようになった。従って、彼の精神の活力は、何ものといえども征服むきるものなく、世界の製、火ともえる壁をうちとえて遠く前進し、想像と思索とによって、あらゆる無限の世界をふみ歩いた。その結果、彼が勝利者として我々のために、もたらしてくれたものは、次の点を明らかにしてくれたことである。即ち、何が出生しうるものであるか、何が出生しえざるものであるか、要するに、おのおのの物には、如何にしてその能力に一定の限度がもうけられているか、また深く根さした限界があるか、の点を明らかにしてくれたととである。このために、宗教の方がおさえつけられ、足の下にふみにじられてしまい、勝利は我々を天と対等なものにしてくれるに至った。
二巻
悲惨な人類を肯うすべ
おお悲惨な人の精神よ、おお盲いたる心! 比の加何にも短い一生が、なんたる人生の暗黒の中に、何と大きな危険の中に、過ごされて行くことだろう!自然が自分に向って怒鳴っているのが判らないのか、外でもない、肉体から苦痛を取り去れ、精神をして悩みや恐怖を脱して、歓喜の情にひたらしめよ、と?
そこで悲惨な魂へうちがわから苦痛を取り除く術として、アタラクシアを訴える。
従って、肉体にとって必要なものは僅少にすぎなく、それも、それぞれの苦痛を取りのぞいてくれるものでさえあればいいのだ、ということがわかる。また、よしんば豪奢な臥台を幾つもならべることができ、時には満足を覚えることがあろうとも、たとえ夜毎の酒宴を明るく照らすために、燈火を右手にささげている青年たちの立像が、幾多金色燦然として家中に飾られているようなことはなくとも、客間が銀に光り、金に輝くようなことがなくとも、または鏡板をはめこみ、黄金を張った天井が、手琴の響を返えしていなくとも、これ自然そのものが要求するところのものではない。これとは違い、柔い芝草の上に、小川のほとりに、高い樹の枝をひろげた下に、殊に天候がほほ笑みかけ、一年の季節が緑の草に花をむすばせ、露を含ませる頃に、仲間をつどい、長々と横たわり、費用はかけずに、楽しく体を休めることは出来るのだから。それに、色あざやかな、綴錦や、赤い紫の織物の上に、身を横たえている方が、貧者の毛布にくるまって寝ていなければならない場合よりは、〔病気の高熱のとれ方がより早いわけではない。
然れど、ルクレティウスの詩学には快楽を徹底化したある種の禁欲主義ともいえるエピクロスとは異なり、赦しがその核として存する。
であるから、財宝も、高貴な生れも、又名家の誉れも、われわれの肉体にとってすら何の益にもならない以上、われわれの精神にとってもまた利するところは全くなしと断せざるをえない。軍隊が多数の予備隊や騎兵の大軍に固められて、一様に武装し、一つ心となって、原一面に模擬戦を行う意気健たる様を見たからとて、また艦隊が気負い立って散開するところを見たからとて、君の宗教心〔迷信]があわてて君の心を抜けて行くようなことは万が一にもない以上、又死の恐怖が心を去って、君の心の憂いが解け、淡々たる心持になるわけでもない以上。
ルクレティウスにはあくまで悲劇的実存が理論の中枢に位置づけられているのであり、エピクロスの教理とはそれを救う最も傑出した手立てなのであり、しかしそれはあくまで手法論的領野を超越しない。そこにこそルクレティウスの革新性がある。それは再びアタラクシアの当為へと誘うつぎの文書にも表れている。
ところで、このようなことは笑止千万な、他愛もない真似ごとにすぎないことだと思えるならば、また人間の恐怖とか、心につきまとう憂いとかは、武器の音や、野蛮な刃物を恐れることではないとすれば、又王者や、世の権力者の中に混っても大胆に振る舞えるとすれば、黄金の光とか、紫服の華やかな輝きを尊ぶ念を持たないとすれば、これすべて理性の賜物であることは疑う余地のないことであろう。ことに人生がすべて、暗黒の中で苦悶している時には、なおさらのととである。というのは、例えば、子供が眼の見えない暗闇の中では、生えて何でも恐がるように、われわれは住々少しも恐るべきいわれのないことに、自屋恐れをなしている!それも、子供が暗闇の中で、今にも起るかと想像しては、恐がるものとくらべて少しも恐がるべきいわれのないととに。であるから、心のこの恐怖、即ち、暗黒は払い去る必要があるが、太陽の光や白昼の光線に従って払い去るのではなく、自然の姿と法則と[をきわめること]によって払い去らなければならない。
三簡
かくも大いなる暗黒の中から、かくも燦然たる光明をかかげ得て、生命の喜びを明らかにしてくれたる、おおギリシアの民の名誉〔なるエピクロス]よ、私はあなたの跡を追おうとする者である。そして、あなたの残した足跡の上に、私の足跡を今印しようとする者である。私があなたを模倣しようと念する所以のものは、あなたと競おうと思うが故ではなく、むしろただあなたを愛するが故に外ならない。いかで燕が白鳥と競おうか?又いかで小羊が四肢を懐わし、力強い馬の勢に向って競走し得ようか?父よ、あなたは真理の発見者であり、父らしい教えを我々に授けて下さる。卓抜せる人よ、あなたの書物から、例えば蜜蜂が花咲く小径に甘きを悉くすするように、我々もこれと同じく、あなたの黄金の言葉を、恒久的生命を、常に得るに価いする黄金の言葉を、吸い取る者である。
即ち、神の如き叡智から迸り出するあなたの理論が、万象の本質を宣言し始めるや否や、忽ちにして精神の[迷信的]恐怖は飛び失せ、天空の壁は開き、私には全空間にわたって活動の起っているのが見えて来るからである。神々の力が、又神々の平穏なる住居が明らかになって来る-風もゆるがすことなく、雲が雨を降らして濡らすこともなく、烈しい寒気の為に凝結した雪が白く降って兆すこともなく、ただ常に雲なき空-光を広く放ってほほ笑む空-の包んでいるその神々の住居が。それは自然がすべてのものを供給し、何一つとして、又如何なる時にも、決して〔神々の〕心の平和を乱すととのない処である。ととろで、他面、冥府アケロンなどは何処にもないことが明白となって来る。下方、我々の足の下に、空間の中で如何なることが起ろうとも、悉く明らかに観察ができて、地も妨げとはならない。であるから、この為に生ずる一種神聖なる喜悦が私を捉え、又戦慄が私を捉える。これ、ひとえにあなたの力によって、自然が斯くも明らかにされ、くまなく姿を露呈するに至ったからである。
人間の生活をその根底から動揺せしめ、黒き死を以てすべてを覆いつくし、澄んだ清らかな喜びを残そうとしないかの冥府の恐怖は、早速これを払拭しなければならないと思われる。この冥府の恐怖こそは人を誘って、或いは恥を忘れしめ、或いは友情の絆を断たしめ、要するに誠実をくつがえしめるものである。例えば、これまで人は祖国を裏切り、愛する親を裏切ったことがあるが、これ冥府を避けんと努めて犯したことである。又、人は死の下界よりはむしろ病気とか不名誉な生活とかの方をこそ恐るべきであると唱えたり、魂の本質は血液よりなるとか、ともすれば気まぐれな言を弄して、空気よりなることが判ると唱えたり、又我々の理論を不必要なりと唱えてはいるものの、次のような点をみれば、彼等は事実そのものを立証しようというよりは、むしろすべて虚栄の為にかような高言を吐くのだということが判るであろう。このような、〔ことを云っている〕人々でも、不名誉な罪でも犯して、祖国を追放され、人々の眼から遠く離れて放逐され、つまり、ありとあらゆる苦労をなめても、それでも生きて行こうとしているのだから。そして彼らの隣むべきことには、何処の地へ行こうとも、祖先の為に犠牲を捧げたり、黒い家畜を殺して犠牲に供したり、死者の亡霊に供物を捧げたり、苦しい境に在ればいよいよ熱心に心を宗教に傾倒のだから。この故に、人を見るのには、危機に陥った際に限る、逆境にあってその人物如何を見るに限る。即ち、かような時にこそ始めて真実の声が心の底から出るものであり、又仮面ははがれ、真価のみが残るからである。
死はかようなことを除いてくれるが故に、又これらの不幸を蒙る人の存在を絶ってしまうが故に、我々は死後何も恐るべきものがないと信じてよい。又、存在していない者が不幸になり得る筈はなく、又永遠の死が、死すべき命を奪ってしまえば、以前嘗つて生まれたことがあぅたということは全く何の差異もないことになるであろう。であるから、人が誰れか己れ自身を嘆き、死後自分は埋される肉体と共に驚って行くか、〔火葬の〕火によるか、野獣に害われるかして消滅するようになるのかと魔くのを見たならば、かかる人は真実を云っているのではないと知ってよいし、又死後は誰れにも感党は残らないと信ずると云っていようか、心の底には或る隠れた悩みの間を彩めているのだと知ってよい。かかる人間は、思うに、自分の口外していることを充発に自覚しているのではなく、〔死ねば〕自分が生命から完全に離れ、脱出するのだとは信ぜず、ただ無智な為に自分自身の或る幾らかのものが残存するのだと思っているのである。即ち、誰れでも生きている内に未来のことを空想し、死ねば鳥や獣が自分の肉体を食いちきるであろうと思っては自分自身を憐れんでいるからなのだ。自分というものを死体と区別して考えることなく、投げすてられた死体と自分自身とを充分に引離して考えることなく、自分自身を死体だと想像し、傍に立って自分の感覚を働かして死体に接しているのである。この故に、自分が死すべきものとして生れ出て来たことを嘆くのだ。
更に又、よく人々のすることであるが、[食事台に]横臥して、酒杯を手にとり、額には花冠をかざしては、心の底からこう云う「あわれな人間にとっては、この楽しみもはかないものだ。忽ち過ぎ去ってしまう。そして後では決して再び呼び戻すことはできない」と。あたかも、悲惨なことには、焼ごてのような咽の渇きに苦しめられたり、或いは何かその外の物への渇望に捉えられるというような不幸が、何よりも彼らの死後の大きな不幸ででもあるかのように。「〔死んでしまえば〕もはや家庭が君を喜び迎えてくれることもなくなるであろうし、一番大切な妻も、可愛いい子供達も、先を争って駈けつけて接吻をかち得ようとすることもなくなるであるうし、君の心に無言の喜びを充すこともなくなるであろう。君はもはや、繁栄の中に暮すことも、君の財産を守ることもできなくなるであろう。可哀そうに」彼らは云う「たった一日の恐ろしい日が、生の報いを悉く奪ってしまうのだ」と。ところが、このことに関連して「これらのものを渇望する念ももはや君を捉えることがなくなるであろう」とまでは云おうとしない。〔又、人を弔って〕「実に君は、死の為に眠りに就いているが、このまま将来いつまでも、如何なる悲しい苦しみからも免れていられるのだ。然し、我々は君が恐ろしい火葬堆の上で焼かれて灰になって行くのを、傍に立って、飽くことを知らないまでに嘆いたものだ。この永遠の悲しみはいつまでも我々の胸から除かれることはないであろう」と〔云う者がある。〕このようなことを云う人には、こう訊いて見る必要がある。即ち、すべてが眠りと休息に帰するのならは、何でいつまでも悲嘆にくれて痩せ衰えるほどの悲痛があるのか、と。何故ならば、精神も肉体も共に眠りに陥って安らかになってしまう以上、誰も自分自身をも、又生命をも求めようとする気はさらに起る筈はないのだから。我々を領する眠りが永遠であろうとかまわない。自分自身を恋う気が我々を動かすことは全くないのだから。ところが、人が眠りから醒めて我に帰える時というのは、肉体の全般に拡がっているあの原子が決して感覚運動を離れ去っているのではないことである。であるから、死は我々にとって、なおのこと大したことではないということになるし我々が取るに足りないことだと考えていることよりも、更に取るに足りないことがあるとすれば、死は正にそれである。即ち、死の結果としては素材〔原子〕の量には、これより一層大きな飛散が起きるということであって、一度生命のこの冷い中断にとらえられた者は、決して眼ざめて起き上らないというだけのことである。
なお又、もし万物の本質が突然声を発して、我々の内の誰かに向って、「おお死すべき人間よ、何だってお前は余りに痛々しい悲嘆にそのようにひたるのだ?何だって、お前は死を嘆き悲しむのだ?今は過去となったお前の以前の生活がお前にとって喜ばしいものであったとすれば、又お前の幸福がいわば穴のあいた器の中へでもかき集めたもののように流れ抜けてしまって、満足を得ることなしに失ってしまったというのならばとにかく、そうでない限り、ちょうど宴の客のように生命という御馳走に満足して、何故満足した心持で平穏な休息を求めようとはしないのか?馬鹿者め。又、お前が亭けたものが徒らに流れ消え失せたとして、嫌な一生だったとしたならば、何だって更に多くを加えたいと望むのか?-むしろ生命、即ち、苦難に終りを告げようとはせずに、ただ不幸のうちに再び失い、満足を覚えずに消え失せるようなものを望もうとするのか?これ以外には、お前の満足するようなことは何も俺には案出することも考え出すこともできない。何事も万事は同じことなのだ。たとえお前の肉体が年齢故に衰弱しないとしても、お前の手足が弱り切って衰えてしまわないとしても、たとえお前が生き続けて、全世代を生き延びたとしたところで、又、たとえお前は決して死ぬことがないということになっているとしたところで、万事は同じことではないか」とこう云って叱ったとしたならば、一体我々は何と答えられようか。自然が非難するのは至極もだ、真実を弁している、と云う以外我々には何とも答うべき言葉がないではないか?ところで、もしここで年老けて弱った老人が死を悲しみ、度を過して嘆くとしたならば、自然は更に声を大きくして、一層烈しい言葉を用いて叱っても無理はないであろう。「こんなことで涙を流すのはやめろ、馬鹿者め、嘆きを鎮めろ。人生の恵みは恐く草楽した末の衰弱ではないか。然し、お前は常に、ない物を欲しがり、持っている物を蔑むが故に、お前の人生は完りするに至らず、満足に思うことなく過ぎてしまったのだ。そして、お前が満足を感じ、現世に満ち足りて引揚げることができない内に、思いがけなく死がお前の頭上にせまって来てしまったのだ。然し、もうお前の年齢に似合わしくないことは皆捨ててしまえ。そして心を安らかにして、さあ、威厳ある者らしく立ち去るがいい。そうでなくてはならぬ」と。自然が云うととは、蓋し正当であろう。叱るのも、責めるのも先もだ。何故ならば、古いものは絶えず新しいものに押しのけられ、一つのものから別のものが生み出されなければならないのだから。然し、誰れも下界く、即ち、異感の中へやられるわけではない。後から来る世代が成長する為には、素材が必要なのである。後から来るその世代にしても、一生を完うすればすべて君の後に続いて行くことになり、従って、君より先に生れ出た人間の世代が既に亡び去ったと同じように、又亡びて行くであろう。かくして、絶え間なく一つのものから他の別なものが生れ出てやむことなく、生命は誰れにも独占的に与えられるものではなくして、すべての者の使用に任せられるものなのだ。
又、世に伝えられて、冥府に在ると云われていることは、すべて此の我々の世に在ることなのだ。物語りに伝えられているような、タンタルスが悲惨にも、空中にぶら下っている巨大な岩を恐れて、空な恐怖に戦いているなどということはありはしない。むしろ、此の人生において、神々を恐れる理由のない恐怖が、死すべき人間どもを圧迫しているのであって、人々は誰れに当るかも知れない偶然の落下を恐れているに過ぎない。ティテュオスが冥府に横たわっているのを鳥が襲って、その巨大な胸から何か食いち切ろうと、永久に捜しているなどということのあり得ないのは確かだ。その巨大なる体を拡げれば如何に広大であろうと、手足を伸ばせば九ユーゲラ〔面積単位〕はおろか、全世界をおおうほどであろうとも、永遠にティテュオスも苦痛を忍び得る筈もなし、自分の体から〔鳥共に]いつまでも餌を与えて行き得るものではない。とはいえ、〔この世にも]我々のティテュオスが現にいるのだ。愛欲に捕われて横たわっているところを鳥がつつき荒している1つまり、不安な恐怖が食いちぎっているか、又はその他別な欲のために、愛いが傷つけ荒しているのだ。シシューポスも亦この世に、我々の眼の前に現にいる。即ち、国民から〔儀仗リクトルの〕権仗ファスケースや残忍な斧を得ようと渇望しては、いつも得そこない、失意のうちに引きさがって行く者のことだ。何故ならば、空疎なことであり、しかも決して達成し難い権力を得たがって、その努力に絶え間なく甚しい苦労を忍ぶことは、これ、取りもなおさず急な山に石を-頂上から直ぐ再び転落し、平らな平地へち落ちようとする石を-営々と押し揚げることに外ならないからである。次に、不満の心を常に抱いて、善いことに決して満足も自足も感じないのは-一年の季節が廻り来って、収穫や種々なる恵みをもたらし、我々を養ってくれても、我々は決して人生の恵みに満足しないのは、思うに、これとりもなおさず、世に伝えられる〔ダナウスの〕若い娘達が〔下界で〕底に穴のあいた容器に水を入れ、決して充つることのないことを行っていると云われていることに外ならないであろう。ケルベロスも、又「狂暴フリアエ」も、光の欠乏も...又咽から恐ろしい火を吐くタルタルスも、かようなものは何処にもあるわけはないし、全く存在し得る筈のものでもない。然しながら、この人生においては不正行為に対して罰の恐怖があり、罪が著しければ著しさに応じて著しい罰も、罪のつぐないもある。即ち、牢獄とか、「岩」から突き落される恐ろしい刑とか、鞭とか、拷問とか、土牢とか、瀝青を浴せかけられることとか、赤く焼いた板とか、焼き鏝とかである。ところで、かようなものが仮りにもしなかったとしても、悪事を犯したという自覚は先ず恐怖を起し、黄を加え、皆を以て脅し、その間には不幸がいつ果てるやらも、罰がいつ尽きるやらも判らず、これらが死後には更に一層烈しくなるかも知れないと恐れている。要するに、愚者にとってはこの世の生活がとりもなおさず冥府の生活となるのだ。
次のようなことも亦君は時折君自身に向って云うこともあり得るであろう。「愚者よ、お前よりは優れていて、幾多の功績をたてたかの善きアンクスも彼の眼から光明を失ったではないか。それから、多くの民族を支配した多くの王者や、世の権力者もたおれて行った。かつては、大海を横断して通路を設け、路をつけて軍隊に海を進軍せしめ、塩辛い海上を徒歩で渡ることを教え、騎兵隊を伴い波の騒ぐのを尻眼に傲然とかまえていたかの人〔ペルシア王クセルクセース〕でさえも亦、光明を奪われて、死んで行く体から魂を失ってしまったではないか。戦いの霹靂、カルターゴーの恐怖〔と謳われた〕スキーピオー家の子〔スキーピオー〕も亦、あたかも身分最も卑しい奴隷と同様に、骨を大地に委ねてしまった。それのみか、更に学問上の発見者も、美の発明者もそうであった。更に、ヘリコーン山の娘達〔詩神〕の仲間〔詩人達〕もそうだ。殊にこれら詩人の内随一のホメロスは、正者であったが、他の者と同じりに陥って、安らかに寝ている。又、デモクリトスも円熟せる老齢の為に、彼の後世に伝えらるべき精神活動が衰えはじめたと知るや、彼自身の意志から首を死に提供してしまった。その才智においては人類を超越し、登る太陽があらゆる星を消すほどに優れたエピクロスでさえも、生命の光明が進路を完うするや、死んで行ったではないか。お前は、それでも、逡巡するのか、死ぬということに不服なのか?お前にとっては生存は現に今でさえ既に死と殆んど同然ではないか-生きていて、物を見ているにも拘らず。お前は生の大部分を眠りのうちに空費し、眼を開いているのにをかき、夢見ることをやめず、空虚なる不安に精神をいらだたせ、無数の心痛の為に八方から圧迫を受け、不幸にも丸で酔いどれのように心の動揺に駆られて漂い迷っては、お前自身にどういう誤りがあるかも時にわきまえないではないか」と。
人々は精神の中に重荷があるということを、又その重荷の為に自分は疲れ切っているのだということを、明らかに自覚してはいるらしいが、それと同じに彼らがもし、それが発生するのは如何なる原因に由るのか、一体不幸のかくも大きないわば塊りが心の中に生ずる原因は何か、という点をも究めることができたとしたならば、我々が一般に見かけるように、人夫自分の欲するところを知ることなく、住家を変えれば重荷を除くことができるかも知れないと、絶えず場処を変えて生活するような生活の仕方は決してしないであろうに。家にいては退屈に耐えられないとて、大きな邸宅を出て外へ行く者もある。かと思うと、直ぐ帰って来る。外へ出ても依然として気分が良くはならないからである。馬〔をつないで馬車〕を駆り、大急ぎで田舎屋敷へ、まるで火事にあっている家へ緊急な援助にでも行くかのように、出掛けて行くかと思うと、田舎屋敷の敷居をまたくや否や忽ち知伸をしたり、或いは深い眠りに陥ったり、忘却を求めたり、さては又、急に都に行きたくなって帰ってみたりする。このように、誰れでも皆自分自身から逃れようとする-たが、勿論のこと、自分自身を逃れることは到底出来ることではなく、逃れられない自分自身は嫌でも却ってつきまとって来るものたが-又、それのみか自分自身を厭うようにさえなるが、これは自身病人のくせに病気の原因を突きとめないからである。この病原さえよく見抜けるならば、人は誰しも直ちに俗務をなげうって、先す万象の本質を究めようと努めるようになるであろう。何故ならば、死すべき人間にとって死後持続すべき時はすべて如何なる状態にあるかは、これ永久に亘る問題であって、ほんの一時的な問題ではないからである。
第五巻
誰かよく、力強い精神を以て万象の宏大さにふさわしい、又この発見にふさわしい詩を綴り得る者があろうか?或いは、己が智力を以て、かくも偉大なる発見をなしとげ、探求し得たことを我々に宝として残して行ったかの人〔エピクロス〕の功績にふさわしい称護の辞を編み得るほど、言葉を駆使する力ある者が、誰かあるであろうか?一人として、思うに、死すべき人間の体を以って生れた者にはあるまい。実に、既に認知された万象のこの偉大さそのものが要求するままに云わなければならないとすれば、彼こそは正に、生れ貴きメンミウスよ、彼こそは正に神であった。今「叡智」と称されている人生の理性的な見解を始めて発見し、且つその学芸によって人生をかくも烈しい荒波より、かくも深い暗黒より救い出し、このような平穏の中に、又かくも明らかな光明の中に据えるに至ったかの人〔エピクロス〕とそは正に神と称すべきである。他の人々の手になった、昔の神わざの諸発見と較べてみたまえ。例えば、ケレースは死すべき人間の為に穀物を教えてくれたと云われ、リーベルは葡萄の欄に生る酒という液体を教えてくれたと伝えられている。とはいえ、これらの物を知いたとて、人生は依然として人生であったであろう。或る民族は今なお〔これらなくして〕暮していると伝え聞くように。しかしながら、正しい活き方は清浄なる精神なくしては不可能であろう。それ故にこそ彼〔エピクロス〕はいやが上にも神たるにふさわしい者と思われる。彼によって偉大なる諸民族間に述べひろげられた人生の喜ばしい慰安は、今に至るも精神を慰めてくれるからである。ところで、ヘラクレスの功業がこれに匹敵すると考えたら、君は真の理性からおよそ遠く離れる者と云うべきだ。即ち、あの子のネメアにおける大きく開いた口が、又恐ろしいアルカディアの野猪が、我々に今どれほどの害を加えられようか。又、クレータ島の牛が、又レルナの毒気たる、毒蛇の群に囲まれたヒュドラに何ができようか。三つの体を有するゲーリュオーンの三つの胸の力に何ができるか。又、ステュムパーロス(の通れない沼地)に住む(銅の翼を持った怪鳥共)が、又ビストラの地やイスマラ山の近くで、トラーキア人のディオメーデースの、算から火を吹く馬が、我々にどれほどの禍をなし得ようか。我々の誰も行ったことのない、文異邦人も敢えて行く勇気の出ない大西洋の岸、厳しい海に近く、水の精へスペリデス達の輝く黄金の林檎を守って、機の幹に巻きついている眼の鋭い、恐しいあの体巨大な蛇とても、何の危害を働き得ようか。その他との種の〔ヘルクレースの手に掛って〕亡された怪物共が、たとえもし征伐されなかったとして、生きていたところで、何の禍が行えようか。何もできないに違いない。今なお大地は森林に、大いなる山嶽に、深い林に、かくも多数の野獣に満ちあふれ、不安な恐怖に充ちてはいるが、かような場所を避ける力を我々は大概持っている。ししかしながら、精神を清掃してなかったならば、我々は否でも応でも、何たる闘争に、又危険に遭わねばならないことであろう!如何に烈しい心労が、又それに次いで如何に大きな恐怖が、欲にかき廻される人間を打ち砕くことだろう!傲慢は、賤しさは、破恥は、どうであろうか?如何なる悲惨事をひき起すことだろう! 沢や怠情はどうであろうか?してみれば、これらのものを悉く征服し、武器を用いることなく、言葉を以てこれらのものを精神より駆逐し去ったかの人とそは神々の列に伍するにふさわしいと考えて然るべきではなかろうか。殊に、彼はよく神のように立派に不死の神々について大いに論じ、万象の本質を言葉によって明らかにするを常としていたからには、なお更のことである。