エピクロス
序
人はだれでも、まだ若いからといって、知恵の愛求(哲学の研究)を延び延びにしてはらならず、また、年取ったからといって、知恵の愛求に俗むことがあってはならない。なぜなら、なにびとも、霊魂の健康を得るためには、早すぎるも遅すぎるもないからである。まだ知恵を愛求する時期ではないだの、もうその時期が過ぎ去っているだのという人は、あたから、幸福を得るのに、また時期が来ていないだの、もはや時期ではないだのという人と同様である。それゆえ、若いものも、年老いているものも、ともに、知恵を愛求せねばならない。年老いたものは、老いてもなお、過去を感謝することによって、善いことどもに恵まれて若々しくいられるように、若いものはまた、未来を恐れないことによって、若くてしかも同時に老年の心境にいられるように。そこでわれわれは、幸福をもたらすものどもに思いを致さねばならない、幸福が得られていれば、われわれはすべてを所有しているのだし、幸福が欠けているなら、それを所有するために、われわれは全力を尽すのだから。 死
死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。それゆえに、死は恐ろしいと言い、死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいのである、と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。だが、多くの人々は、死を、あるときは、もろもろの悪いもののうちの最大なものとして忌避し、あるときはまた、この生における〈もろもろの悪いもの〉からの休息として〈むなしく願っている。しかし、知者は、生を逃れようとすることもなく〉、生のなくなることを恐れもしない。なぜなら、かれ(知者)にとっては、生は何らの煩らいともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われてもいないからである。あたかも、食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、日にいれて最も快いものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、最も快い時間を楽しむのである。 また反出生主義を以下のように批判する。
だが、はるかに悪いのは、こう言う人である、すなわち、生まれないのが善いのだ、「だが、生まれたからにはできるだけ速やかにハデスの門をくぐること」と言う人である。というのは、もし確信してこう主張しているのなら、かれはなぜさっさと、この生から去ってゆかないのか。かたく心をきめさえすれば、こんなことはかれにはすぐにもできることなのだから。
正義と不正
自然の正は、互に加害したり加害されたりしないようにとの相互利益のための約定である。
一生物のうちで、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことのできないものどもにとっては、正も不正もないのである。このことは、互に加害したり加害されたりしないことにかんする契約を結ぶことができないか、もしくは、結ぶことを欲しない人間種族の場合でも、同様である。
正義は、それ自体で存する或るものではない、それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通のさいに、互に加害したり加害されたりしないことにかんして結ばれる一種の契約である。
不正は、それ自体では悪ではない。むしろそれは、そうした行為を処罰する任にある人々によって発覚されはしないかという気がかりから生じる恐怖の結果として、悪なのである。