アラン・コルバン
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5章
香水の誕生
公的空閑を害する糞尿的臭いをかきけすために発明された芳香剤は、しだいに私的空間へと輸入される。
糞尿的臭いに対する非寛容が呼びさまされただけでなく、当時しだいに厳密に、しかも正確に規範化されつつあった礼儀作法の精神において、私的な見繕いの社会的機能もまた強調されるようになる。
しかしそれは礼儀作法に留まらない。現代的化粧観が礼儀作法から自己表現のナルシズムへと転化したが如く、香水は嗅覚的な自己表現への萌芽をみせた。
香水の新しい使用法は、社会のエリートのあいだで、身繕いのしきたりが刷新されたのと一致している。くりかえしていえば、きつい香水という覆いによってかえって自己の不潔さを人に教えてしまう愚は犯すべきでないということである。むしろ逆に、自己の独自性を示す体臭がおのずと漂いでるようにするほうが好ましい。その人の魅力を、明らかな調和によって強調できるのは、念入りに選び抜かれた、ある種の植物性の匂いだけである。姿見(セルフ・ルッキング・グラス)の普及にともなって、女性のあいだで、自分の香気を呼吸し、調整しようという関心が高まってくる。デリケートな匂いの心理的・社会的機能が新しい流行を正当化する。「私たちが自分自身を好きになるためには、なにがしかの努力をしなければなりません」と香水屋のデジャンは植物性の香水の使用法について書いている。「これをしておけば、私たちは人の集まりのなかでも陽気でいることができます。そしてそのおかげでほかの人からも好かれるようになるでしょう。社会はこうして出来上がっていくのです。もし不幸にも、自分自身のことが好きでなかったら、いったい、私たちはだれに好かれるでしょうか」。こうした指摘は、つとにロジェ・シャルチェが初等教育の教科書にかんして力説したように、ある最も重要な変化が起きつつあったことを確証していあ。すなわち、ある種の礼儀作法、とりわけ他人が不快に感ずるのを避けるための礼儀作法の規範が、同じく自己愛的な満足を目的とする一群の衛生学的な教えのほうにむかってゆっくりと歩み寄っていったことである。女は自分の匂いが他人にかがれることを望む。つまりこうした形で自己表現の意志を明らかにするのである。女は、こういった肉体の躍動への慎ましやかなほのめかしによって、またこうした艶の探求によって、夢と欲望のある種のアウラを創りだす。たんなる匂いの寄せ集めから嗅覚的な自己表現への変化が徐々に輪郭を取り始める。
追憶させる香水
香水の歴史
恐怖政治のもとでは、香りは政治的立場をあらわしていた。香水は、新しい名称を授けられて、党派のしるしとなっていた。サムソンのポマードをつけることは、愛国の土たる信念の表明であった。「シャツやハンカチに百合の香水や女王の水をふくませるのは、粛清をたたえギロチンをたたえることであった」とクレーも書いている。テルミトールの後になると、ミュスカダンたちが香水をふんぷんとさせて、反動的立場をかざした。一八三〇年革命の折にも、同じように香りが政治と結びついて、「立憲玉政石鹸テボン・コンスティテュシヨネル」とか、「栄光の三日石鹸サボン・デ・トロワ・ジュルネ」とかいったしものがはやることになるだろう。
むすび