年表
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筑紫、豊の王権争い
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ニギハヤヒ(天照大神)、豐葦原瑞穂國の 笠置山 に降臨。饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。( 天神降臨 )天物部八十氏が筑豊の山や海を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。 (『先代旧事本紀』から 天香語山命 が、倭奴国王かと推定。) 神武東征前史:神武天皇の生誕地(山都町の 斗塩 )および東征の出発地(山鹿市の 日向/吾平 ) お佐賀の大室屋 (吉野ケ里遺跡) 陥落。鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。(日向 ⇒ 筑紫)
倭面上国王帥升、後漢の安帝に 生口(食肉用奴隷)一六〇人 を献ず。 (この倭面上国王は、天孫本紀に云う 天忍人命 か。)この頃から倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶える。*. 『生口』という名の島『 生口島 (いくちじま)』が瀬戸内海にある。 冬十月、磐余彦尊(神武天皇)、諸皇子と 第一次東征 開始。十一月、 岡水門 に至り軍備を整える。*.神武東征:筑紫(西)⇒ 豊国(東)を征服 3年間、竈門山(宝満山)の高千穂の宮で再軍備。(乙卯~丁巳の3年間、翌年が戊午) 春二月、第二次東征( 豊国北伐 )開始。 「日を背にして戦う神策」 を実行に移す。( 西に向かって討つ )速吸之門 に至り、 珍彦(椎根津彦) の案内とする。 菟狹(安心院妻垣神社) に至り、一柱騰宮に入る。数ヶ月、 狹野嶽(求菩提山) に通い、頭大天狗( 豊前坊 )及び八咫烏(求菩堤山八天狗)族と同盟を結ぶ。この間、 吉野の国樔 (玖珠)部らを巡撫。 六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
八月、菟田縣の血戦に勝つ。
十一月、彦山川水系を南下し嘉麻川水系に入る。
「十有一月の癸亥の朔己巳に、皇師大きに拳りて、磯城彦を攻めむとす。」= 立岩丘陵 の激戦。
片島 に上陸。熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。天磐盾( 立岩神社 )に登り、天孫に祈願する。
十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む(戦いの場所は、 鳥見(頓野) :鳥美野の戦い)。 苦戦を強いられたが辛勝し、長髄彦を殺す。「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髄彦を撃つ。」
金印を受けた倭奴国の滅亡。
*.長髄彦(饒速日の義弟に当たる)は、年代が合わず、『 饒速日の系譜 』で天忍人命?、天忍男命?かと推定。饒速日の別の末裔、瀛津世襲命は神武に帰順したようだ。
春二月、「諸將に命じて士卒を練ぶ。」倭奴国の残存勢力の掃討。
*. 宮若市 の「犬鳴(犬鳴山、犬鳴川、犬鳴峠)」の地名は、倭奴国の王族が殺された土地。
三月、香春岳一ノ岳の東南、 橿原の地 に邸宅の建造を命じる。一旦、陸路で筑紫の 宝満山 (玉依姫命の零位を 祭る)へ 凱旋する。
大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃に迎える。天神(饒速日)の血統を入れる。 辛酉年の春正月、神武天皇、橿原宮で即位する。倭(やまと)王朝(邪馬臺國)の成立。 二月、論功行賞。「頭八咫烏、亦賞の例に入る。」
求菩提山・英彦山から彦山川水系に沿って、今日の田川郡赤村より 烏尾峠 辺りまでの 飛ぶ鳥の明日香の地の領有を 認められたらしい。
春三月、神武天皇、崩御。享年67歳。( 神武天皇の没年 についての記述。)
夏四月、手研耳命、即位。倭(やまと)国(旧倭奴国)を巡行する。「 豊秋津島倭 (とよあきつしまやまと)」という号を始めた。
畝尾山東北陵 に埋葬された。(畝尾山=香春岳 一ノ岳の東北の位置にあたる陵)
太歳己卯、神渟名川耳尊、 手研耳命 を殺害し王位を奪う。
太歳庚辰、神渟名川耳尊(綏靖天皇)即位。葛城に都す。 *.葛城=かつき 、葛城高丘宮( 杉守神社 ) 夏四月、神八井耳命、薨ず。畝尾山の北に葬る。
綏靖天皇の没年は定かではないが、倭の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に葬る。田川市糒の 天神山古墳 の1基か
「魏志倭人伝:其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。」の記述は、
神武即位(121年)~崇神崩御(198年)の77年間にあたり、 倭国大乱 (桓帝・霊帝の治世の間( 146年 - 189年 )、
後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)等)の記述も中国史書にある。(この時期の墓が、 宮原遺跡で日本最古の前方後円墳か?) 戊寅十二月、崇神天皇、崩御。(古事記より)
(196~220 建安年間) 卑弥呼 共立か。(魏志 韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀より) 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国)および亶州(推定 東鯷国 )を求む」、 (三国志呉書「孫権伝」黄竜二年より)
魏使邪馬薹(やまと)國に至る。(正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国。)
正始4年、卑弥呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗ら8人を送り、生口と布を献上。掖邪狗らを率善中郎将とした。 正始6年、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始8年、倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わし狗奴国と交戦状態を説く。 太守は塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
正始9年、卑弥呼以て死す。(狗奴国との戦いに敗れて自決させられた。)
墓の記述は、「 大作冢、徑百餘歩 」とある。
更に男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。
泰始2年、卑弥呼の宗女臺與年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・ 青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。
(中略)
邪馬台国、神功天皇(皇后)に滅ぼされる。「水沼の皇都」が築かれ遷都。これを「新・邪馬台国」と名づけた。
神功天皇の没年と推測したのは、『 吉山旧記 』の「仁徳天皇七十八年(三九〇)三月十一日薨去」の記事。 宇治天皇三年が、三九〇年の後の『 万葉集七番歌 』の左注にある「戊申年」のあたる。
5世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃、「 東西五月行 」の成立 「武」の次の「哲」が、筑紫君磐井に当たるようである。豊国の継体天皇と争って敗れ、王権は豊国に戻る。 (筑紫国が倭国本朝、豊国が倭国東朝となった)
推古天皇三年七月に、崇峻四年(五九一)冬十一月、二萬餘の軍が筑紫に派遣された軍隊が豊国へ帰ってくる。 開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。 これは、裴世清が筑紫国の阿毎多利思比孤を訪れた後に秦王国(豊国)を訪れたという『隋書』俀國傳の記事と呼応する。 上宮法皇の崩御によって、筑紫年号の法興は丗二年(六二二)で終わる。この上宮法皇が筑紫君の阿毎多利思比孤の晩年の 称号であろう。
秋九月庚午朔壬辰、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。 冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道に閲す。(この菟道の場所が、香春町の 阿曽隈社 ) 福岡県鞍手郡鞍手町中山の 八剱神社 に同じ伝承があり、草薙の劒はこの宮に保存されていたとの言い伝えがある。 朱鳥元年九月丙午(九日)に、天皇の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。