2019年8月のアイデアライン
2019/8/1
思いついたこと、書きたいこと、書くべきこと。この三つによってアイデアの選定がやりやすくなる
原稿から大きな文脈を形成する
Scrivenerの原稿を貯めていく。ワンテーマ。Evernoteはアーカイブなので編集可能ではない。
Scrapboxで、企画案ノートに、アイディアメモを追記していく
2019/8/2
ガチで気持ち悪い。
2019/8/3
マクロ・ミクロ、楽観・悲観、のマトリクス。
人によってハードルの高さが違う
アイビー・リーのリストは6個だけど、それは別に5個でもいいし、なんなら1個でもいい。でもってぶっちゃけ1個もできていなくたって、それで何かが否定されるわけでもない。
勘違いされるくらいなら、無理にわかりやすくしようとしない
「今ここ」の声(パロール)としてのつぶやき、エクリチュールとしてさまざまにRT(接木)されるされるつぶやき。その引き裂かれ。
すべての思いつきはDraftである
「すべては断片である」のパラフレーズなわけだ。問題は、断片としての性質が異なること。
2019/8/5
昨日は一日メモを取らなかった
カレーの美味しい和菓子屋
価値ある文章を紡ぐこと
「やること」の管理
アウトライナー、マインドマップ、マンダラート、三極発想法
タスクシュートの研究
信頼戦略
こちらから信頼する
2019/8/6
outside
一部分はみ出ていること
2019/8/7
あなたの管理したいものはなんですか?
デイリーの切り替え、月次の切り替え
残っていくもの
切り捨てられるもの
家元には近づくな
2019/8/8
男に二言はない
性の役割に依拠する
あるいは照れ隠し
元気なときにやるべきことをやる
断片の彼方
ツイートもメモもないとその日を再生できない
民王
体が入れ替わると表現する
意識が入れ替わるとは表現しない
読むだけで何かができるようになる本は存在するか
技術書であるかのように思想書を書く
2019/8/9
作業の行為が遠いほど、後でまとめてやろうとしてしまう
優先順位は恣意的な決定で、切り口にメモを文脈付けるのも恣意的な決定
それがなければ話は進まない
org-modeのdraft.orgには、「書きかけ」のものを置いておく? それとも断片的なメモを紐付ける大きな文脈を?
2019/8/10
混じり合う場所としてのタスク管理
本をどの程度の真剣さで読むか
2019/8/11
他人のできていないことが気になる人は、自分への攻撃もよく行う
他者への眼差し、自己への眼差し
名前が思い出せないときの脳内
ゆずれないことを一つ持つことが本当の自由
B'z ギターキッズラプソディ
束縛されないことが自由じゃない
他に選択がないようなものごとを保持すること
選びようがない→自由がない
かのように見えることを、むしろ積極的に肯定し、受け入れること
人の助言をうまく使うには、真に受けるのではなく、その助言について自分なりに考えてみるのがよいかと。
「真に受ける」(あるいは鵜呑みにする)というのは、ときに「聞き流す」のとほとんど変わりない場合がある。
その瞬間は納得していても、自分の理解の構造に変化が生まれていないので、結局はそのまま流れていってしまう。
もちろん、それはそれで構わなかったりする。現代で流れる情報をいちいち咀嚼していったら、まず間違いなくパンクする。その意味でスルーは策でもある。
言葉の曖昧さと、思考の曖昧さ
主語の欠落は、「誰にとって」という具体性の欠如につながりやすい。
最初に思いつくある思考から、「より具体的に考えてみる」「より抽象的に考えてみる」という方向。さらに「自分の思考に反証してみる」という方向。多元的に、自在に視点を動かしていく。
たぶん、そういうことを「当たり前」なこととして要請するのは、知的マッチョな態度なのだろう。
ある種の批判の退屈さは、その批判性が自身に向いていない場合に発生するのかもしれない。
知識は増えているが、学べていない状況、というのがありそう。もう少し言えば、断片的な知識は増えているが、それが自分の理解に統合されていない、という状況。
自分の解釈を疑う(「もしかしたら、私の理解が間違っているかもしれないんですが」)というのは、いかに発生するのだろうか。
片方でものすごく真剣に、もう片方で素晴らしく適当に、検討する
シェイクはどこで収束フェイズに入るのか
これについてしばらく考えていたのだけども、おそらく「コンテンツ」それ自身ではその決定はできないのではないだろうか。外部者(たとえば著者)の恣意的な決定や、あるいは偶然性による切断みたいなものが必要なのではないか。
その通りだと思います。ただし恣意的な決断はその時点でのコンテンツの影響を受けるし、偶然性による切断によって生じた断面はその時点でのコンテンツの状況そのものでもある。
たしかにそうですね。コンテンツと独立的ではありえない。コンテンツのみで決まることはないが、かといってコンテンツと無縁に決定されることもない(あるいは決定がコンテンツに影響を与えないわけでもない)。
真のボトムアップによるリニアなアウトプット生成は可能か
2019/8/12
org-modeとUlyssesをつなぐ
普段とは違うことをやってみる
想像もしない自分がいくらでも出てくる
平均と制度と個人
レッテルと個人と市民
自分のことをすべて好きになるのは不自然
確率論的自己啓発
メタファーとしてとても面白い。
しかし、ランダムエンカウント型のRPGを私たちが楽しんでいる、という事実もある
2019/8/13
問い立てが歪んでいると、どこにもいけない
異世界物の軸
呼び出される形
元の世界に復帰
強さの獲得の仕方
うまくいかなかった、という話はブログでは書きにくい
ある一つの方法論ですべてを包括しようとすることに拒否感を感じる。
文字を読んでいれば読者なのではなく、テクストの企みに対して意識的であれ無意識的であれ感能力を持っている状態が読者だからです。
確率論にさらされた自分
分人と自分
食べ過ぎにはアラートがならないし、情報の取りすぎも同様
Never Ending Listエターナルリスト
2019/8/14
結城先生のメモの話と通じる?
Twitterはホームグラウンドではない
カードとその操作
教育とは
2019/8/15
ユーザーはどんどん慣れていく
自己啓発に嵌り込む弊害は金銭的な損失だけではない
「タスク管理と知的生産の技術の統合」(仮)
2019/8/17
on time,on budget,on plan
騙される方が悪いと言う理屈
クッキー資本主義
設備投資の重要性
その先に何を買うのか
人と植物の共存
人工肉はどこに位置するのか
読書は、頭の一部を他人に貸すこと
かどをとる
自分磨きしすぎ
角を取るつもりでせっせと磨いていたら、いつのまにか中身まで削り取っちゃうかもしれない。
Lesson:過去(少なくとも一ヶ月以上前)に書いた文章を読み返し、それに手を加えてみましょう。
ネットワークビジネス的なものとか怪しい自己啓発とかもそうだけど、「何かしなければいけないと思うが、それが何かはわからない」という漠然とした不安感に、「こうすれば、こうなります」と単純な解法を示すのは実に「効く」のだろう。
漠然とした不安感と対峙し、それを受容するのではないから、ずっと「こうすれば、こうなります」に依拠し続けることになる。
共感の時代では、共感を妨げるものすべてが「嫌がらせ」となる。
そこでは、「正しいもの」を決定する競争は行われず、それぞれにある「正しさ」(≒心地よさ)からいかに踏み出さないか(あるいは踏み込まないか)が重視される。
規範について。ある規範を絶対的な基準として受け入れるのではなく、あくまで暫定的な(自分で選択した、あるいはたまたま授与された)基準として認識する。カギ括弧つきの規範。
規範の弊害を認識したときに、その絶対的な解体に進むのではなく、ある種の規範性の必要を認めた上で、それを限定的(あるいは保留的・半決断的)に受け入れる。いつでも変えられるような、しかしそれを認めている間は、守り続けるような規範。
の規範には、計画・目標・管理システムなどを代入してもいい。目標なら『「目標」の研究』が、管理システムなら #やるおわ がその問題にリーチしている。 考えを進めていくために、適切な問いを立てること。あるいは問いを、適切な形に問い直すこと。
ある一つの方法論ですべてを包括しようとする手つきに拒否感を感じるが、しかし、そうした手つきだからと単に拒絶するならば、メタ的に同じ構造に陥ることになる。
原因の推定が間違ってるなら、その対策には効果がないわけで、結論ありきの印象論で進めるのは筋が悪い。
何かが悪いとして、その問題を指摘して溜飲を下げるのは個人の自由だが、それがソーシャルメディアに乗ってくるとややこしいことになる。
自動作成されるプレイリストにはあまり興味はないけど、たとえば100曲あってそのうち60曲くらいが自分の定番で固定されていて、残り40曲がそれぞれ異なる速度で入れ替えられていくような機能があったらちょっと使ってみたい気はする。
「空気」に水を差すのではなく、煙たがられることでそれを攪拌していく。そういう在り方。
特に答えがあるわけではないが、おりにふれて「面白さとはなんだろうな」ということについて考える。
どこかでトップダウンから視点が必要になってくることと、パターナリズムについて。
スタートするときのハードルよりも、継続するためのコストを意識する
前者は勢いで押し倒せるけど、後者はそうはいかない。
ちなみに、継続というのは、たとえばメンテナンスとか最新情報のキャッチアップの必要性とか、そういうことも含みます。
財産の分布がベル型カーブにならないのは、それが蓄積するからで、しかもそのことによってより増えるからでしょうね。能力も、その高さによって機会の分配が均等にはならないからだと思われ。
過度の一般化(あるいは過度の特殊化)というのは、ある「物語」の構造を支えるために要請されるのだろう。
「不要なものを捨てる」というやり方ではうまくいかない人がいるから、「ときめき」という指標が開発されたのだろう。
たとえば、この書き出し方(記述のスタイル)って、どういうのがいいだろうな、とたまに考える。箇条書きか、文章か。箇条書きにしても、そのトピックだけを書いておくのか、「〜〜について、○○の不安を持っている」のようなものか。
他の人が読んで面白いかどうかはわからないけど、自分は読んでて面白いというのがR-styleです。
人は固有に異なる存在だから、コミュニケーションの具体的な方法を画一的に規定するのはそもそも無理がある。というか、場面場面でアドリブ的に方法を創造していくことが求められるのではないか。
トレードオフが見えない。
少しずつ改善する。無限の欲求
2019/8/18
2019/8/19
姿なき主への祈り
あらゆるものがブラック化した社会
あらゆるものが広告で無料になる世界
2019/8/20
思いつきを日ごとにログとして残す
ブンゲイファイトクラブ
2019/8/21
メモもはかどる3ブロック・デイリーリスト
todoistでメモを取る
2019/8/22
書き取ることは容易い
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない
You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.
前例が必要なのにそれを最初に作るときに非難される
レシートは捨てられる、着想メモは捨てがたい
認知と感情の防衛
人間の認知の弱点が研究されている以上、防護策を持たないとセキュリティーホールにつけ込まれ続ける。
大人になることに慣れていない
2019/8/23
タスク管理を一から理解し直す
情報を一つの思いつきのストリームとして捉え、その再編過程としてタスク管理や知的生産の技術を位置づける。
2019/8/24
シミュラクラ現象
自分が話している内容について、いやそれは違うなと同時に気がつくこと。このことを「自由意思はない」と述べる人たちは、どのように位置づけるのだろうか。
「問題は、それが呪詛だということではない。そのような呪詛の根っこみたいなのを誰しもが抱えているってことだ」
あまりにも距離がある理想に触れることで、目の前にある現実が色あせてしまうこと。
「無駄な〜〜をなくす」という言説には、いつも一定の疑義が思い浮かぶ。
inboxという概念が導入されると、リストとメモは峻別されることになる。また、リストの純化とツールの最適化もそこに関わってくる。
#何のためにブログ書いてますか という問い
意見の凡庸さと即時的・攻撃的な反応の近親さ。
ラマチャンドランの幻肢の切断「手術」による幻肢痛の解除、というエピソードをよく思い出す。認識の否定ではなく、身体イメージの操作を通して感覚を変えていく。
心がけとか、ちょっとしたアドバイスとか、「それは違います。本当はこうです」のような正論では、変えられないものがありうる、ということ。
ブラウザの拡張機能とかで、Twitterにアクセスするたびに、「SNSは過度に時間を消費する危険性があります。ご利用は用法・用量に注意ください」とか表示させるのはどうか。
まさにそのような反応を引き起こすからこそのエコーチャンバーなのではないか→"つまりそういう意見は目に触れないようにすること" ツイッターに起きている「騒がしい街宣車効果」 “極端な人たち”をミュートすべきかブロックすべきか
つまり、単に同質性が高まるだけでなく、そのことによって意見が先鋭化し、それが聞くに堪えないものになるから、分断が進んでしまう。それが「室」であり「バブル」であり「島」という言葉が示すものではないか。
Scrapboxに親しんでみて感じたのは、「自分が理想だと思っている環境が、実はそんなに快適ではない可能性がある」ということ。
「ぼくのかんがえたさいきょうの〜〜」というのは、複雑怪奇なものになりがちで、運用上の課題を抱える可能性が高い。
問題点を指摘するときに、代替案がセットでないと却下するというのは、視野が狭まってしまう可能性があるけども、代替案を一緒に考えようとしない人は進行上いったん外れてもらう判断はありうるのではないだろうか。
「こっち側」と「あっち側」はたぶん対称ではなくて、「こっち側」いるときは、こっち側にいるとすら感じられないのだろう。
短い語りだと、その人が知っている話(≒あるある話)として認識されやすくなる、というのはあるかもしれない。
「勝ち組」の次は「上級国民」か。ひっくり返せない固定という閉塞感の強まりが感じられるな。
「つい」人の心が反応してしまうことを利用して、人を動かす知見を授けてくれる人をあんまりフォローしたくないな、という気持ちはある。なにせ、自分がその「つい」に引っ張られているかもしれないわけだし。
「自分」とは、「自分らしさ」への固着ではなく、いつでもそこから逸脱できる可能性のことではないか。ある種の余剰。
フーコー アルシーブ(アーカイブ)
言語を表出させるものとしての権力
エノンセ
フーコーが提出した概念。
断片からの創造の断片に近しい。
2019/8/25
無知が罪なら
知らない事が罪だというなれば知るという事は罰だ
2019/8/27
2019/8/28
2019/8/30
stocktaking
棚卸しのこと。
頭の中の空間にはいろいろな概念がごちゃごちゃに共存している
これを文章に書きあらわそうとすると、おのずと順番に並べることになる
空間的存在を時間的存在に転換した、ことになる
空間を時間化することが書く行為である
2019/8/31
明言されない言説
もちろん、誰かのことを食い物にする人は「私はあなたのことを食い物にしますよ」と事前に宣言したりはしないわけだ。この世界には欠落した宣言がある。試験問題のように文章にすべての手がかりがあるわけではない。私たちはそれを踏まえて情報摂取した方がいい。
基準の高さと別の何かの低さ
インプットをぶっ込み、混沌を作り出す。そこから新たな秩序を組み上げる。決して漸近的ではないあゆみ。
「行ったり来たり」が自分の主幹なので、なんであれ「行ったまま」的なものには違和を覚えてしまう。
たとえば、20年前の十代後半から二十代頭にかけてよく聴いていた歌の歌詞を今あらためてじっくり読み返してみると、いろいろ思うものが見つかる。