結城メルマガYMM386感想
いや、もちろん膝ポンという瞬間もありますよ。ただ、ていねいに振り返ってみると、理解したというのには「幅」があるようですね。
理解度、完成度、閾値。
しかしながら、現実問題としては、著者と編集者とのあいだの決めごと次第になるでしょう。たとえば、用字用語の統一などで、編集者が著者に断らずに文章を直すことは特に不思議なことではありませんし、よく行われることです。用字用語の統一をしますよ、という断りが明示的にない場合もあるかもしれませんが、著者校などで結果的には確認することになります。
著者の中には、編集者にまかせる度合いが大きい人もいるようだし、小さい人もいるようだ。
ちなみに、私は(編集者さんに)大きく手を入れられることがあまりない。だから、セルフパブリッシングが(比較的楽に)できているのかもしれない。とは言え、その状態(完成稿)に持っていくためにすさまじい時間がかかっているし、それで締め切りに遅れることもしばしばなのだが。
数学や英語を勉強する価値やおもしろさに気付いてもらうにはどうすればよいでしょうか。
ときどき思うのだけども、「この仕事の面白さを知ってもらいたい」みたいなことが行きすぎると、他人をコントロールすることにつながってしまう(そして、その大半はうまくいかず過剰な反発を引き起こす)。他人の心は操作できないと認識し(できたらできたで、ぞっとする)、その上で何ができるかを考えるのが建設的ではあろう。
相手と深く突っ込んだ話をするというのは、深い海に一緒に潜るのに似ています。
面白いたとえだ。
議論をしていて、たとえば自分の発言の矛盾点を相手に指摘されるだけで「こいつ、マウント取りに来たな」と考える人がいます。こういう考えを持つ人がいた場合には「きちんと対話する」を目指すのはなかなか難しいでしょうね。
こういう傾向を持つ人は、相手の発言の矛盾点を指摘するとき、きっと攻撃的な口調になるのだろう。
自分の行動は、自分の考えの鏡