結城メルマガYMM385の感想
理想の書店
家から近い
学術書・文芸書の棚がある
哲学書とスピリチュアルのコーナーが離れている
検索機がある
カフェは必要?
椅子は必要?
メガネをかけた美しい店員さんがいれば、極上。
最近私は、学校で勉強していて「自分では理解できている」と思っているけれど「本当は理解できていないのではないか」と思うようになりました。
たいへん素晴らしい疑問で、どのようなきっかけでそう思うようになったのかが興味ある
「ナラティブ」を書く
書籍について
最近は、本を書いているときに(あるいは本を書き始めるときに)、概要をまとめるだけでなく、「この本はどんな本なのか」ということを文章で書き下ろすことが多い。ときにそれは、自分で書く、いまだ書かれていない本への、書評、という形になることもある。
とりあえず、そういう文章を一度書き下ろしてみると、どこに向かおうとしているのかが見通せるようになる。
これからの自分のテーマについて
同じように、最近「これからの自分のテーマ」について、文章を書き起こしている。普段なら箇条書きで済ませるところだが、自分の思索の流れを、アウトラインを使いながら整理し、それを文章化している。
文章化しておくと、たぶん「長持ち」する。
しっかり書かれた本が、時代を超越するのと同じように。
何かを書くときに「前回よりもうまく……」「新しいことに……」のように感じるのは、あなたとまったく同じです。そしてイライラするのも同じです。
「前回よりもうまく……」「新しいことに……」は、私も感じる。しかし、イライラしたことはない。
もちろん、悩んでいないわけではない。というか、本を書いているときはずっとずっとずっと考え続けている。漫画とかで、「もういいよ、やめてあげて、でないと」みたいに暴力を振るう人間を止めに入るシーンがあるが、それと同じ程度には考えている。
でも、イライラはしない。
というか、それ以外の場面でも、基本的にイライラするということがない。
だから上記の「イライラ」がどのようなものであるのかを、自分はうまくイメージできない。
ただ、イライラとは違った心のストレスを感じている可能性はある。
それは、イライラよりも可視化(というか認識)されにくいので、むしろ厄介かもしれない。