固定化された形式の意義
日本人が手紙をかかなくなったのは、内容第一主義のかんがえかたと、どこかでつながっているにちがいない。内容本位で、形式を否定してしまったから、みんな手紙をかけなくなってしまったのだ。むかしは形式がしっかりときまっていた。形式はややわずらわしく、おぼえるのに手間はかかったが、おぼえてしまえばだれでもが、自分のつたえたいとおもう内容をのべることができた。まったく無内容でも、手紙をだすこと自体に意味があるというような手紙さえも、りっぱにかけたのである。 ところが、形式が否定されてしまうと、こんどは各々の責任において、いきいきした名文をかかねばならなくなったのだ。
ここでは手紙について言及されているが、知識・情報の共有という観点にまで広げてみる。
しかるべきフォーマットがあれば、書き手は、自分の伝えたい情報をそのフォーマットに載せるだけで「文章」が完成する。その文章は、各々の人の味わい(あるいはVoice)みたいなものは大きく欠損しているかもしれないが、たしかにそこには情報がある。少なくとも、フォーマットに悩みすぎてアウトプットがまったく生まれない、という状況よりははるかにマシだと言えるだろう。
この点は、Scrapboxの(というよりも橋本商会の)問題意識に通底する。
概念について思考し、文章表出に親しみ、文を練り上げられる人だけが、情報発信において強者になりうるならば、その果実は非常に小さいものになるのではないか。文章を書くのがへたくそでも、あるいは苦手でも、他の人に情報をそっと提出できる環境もあった方がいいのではないか。「美文章滅すべし」という強烈な物言いの裏側には、そうした繊細な視点が感じられる。
文章を書くときには、内容と形式の両方について思考しなければいけない。それは非常に認知的に負荷が高いものだ。しかし、形式が固定されているならば、人は内容だけについて思考すればよくなる。その負荷の低減は、情報を共有する人の裾野を増やすだろう。それはたとえば、クックパッドのようなサイトが、人々のレシピの共有を後押ししたことに通じるはずだ。でもって、ある種のライフハック的なものが、ある一定以上に広がらなかったのも、そうした共有を後押しするものがなかったからではなかったかと推測する。少なくとも、ライフハックがブログブームと結び付いていたとき、そこには「文章を一定レベルで書ける力」がセットで必要だった。それができる人は私たちが思うよりも、多くない。
インスタグラムやYoutubeなどの、文章以外のメディアの発達は、その点で十分に意義があると言えるだろう。
もちろん、文章を書いて、自分の考えを表すスキルを身につけたおいた方が何かと便利、という話はあるとして、しかし、受け皿としてのメディアは広い方が良いはずだ。
さらにもちろん、既存の形式では伝えられない内容を伝えるために、新しく形式を生み出せる(あるいは上書きする)力が必要な場合もある。しかしそれを、「一般」の最低限度に据えるのは、おそらく違うだろう。
この点については、さまざまな観点から、もう少し考えてみたい。