ヘンリー・ジルー
https://scrapbox.io/files/6516971ede56da001ce3a9c0.png
元々高校での社会科教師をしていたジルーは,1980年代から解放のための教育理論を展開した。その背景の1つには,70年代までの「新しい教育社会学」の流れの中で,学校そのものを問う視点の教育社会学研究によって,社会経済的背景や資本主義と学校教育の関係が明らかになっていったことが挙げられる。さらに経済学の分野では,アメリカの経済学者サミュエル・ボウルズとハーバート・ギンタス(Herbert Gintis)の著作『アメリカ資本主義と学校教育』によって,学校教育制度と経済制度の間に密接な関連があることが示された。つまり,学校における人間関係や生徒の学習のあり方が資本主義社会の構造に対応しているという「対応原理(correspondence principle)」を唱えたのである。 これらの研究を通して,当時一般にリベラル派が信じていたように学校教育は社会の平等化を促進していたのではなく,むしろ社会の不平等再生産に寄与していたということが明らかにされた。ジルーはこのボウルズおよびギンタスの対応理論を本書の中で次のような理由で肯定的に評価している。 第1に,社会経済的な背景が学校教育を分析するにあたって,欠くことの出来ないものであることを指摘したことである。
第2に,対応理論が学校教育の階級分析により,教育の失敗に対する批判の対象を,教師や生徒個人から支配的な社会の構造的な力学へと移したことである。これらにより対応理論は,資本主義と学校教育の間の関係性に対する理解を深めるような理論的貢献をした。
ジルーは学校教育が社会的な不平等の再生産に寄与していることを認めつつも,ポール・ウィリス(Paul Willis)の『ハマータウンの野郎ども』の研究のように,その文化の生産過程に含まれる相対的な自律性に着目する。ここにジルーは抵抗の可能性を見出し,対応理論を乗り越えるような変革的実践を目指す「抵抗理論」を紡いでいったのである。彼が抵抗理論を紡ぐにあたって着目し,大きな拠り所としたのがフレイレの解放教育学であった。81年当時,フレイレはまだアメリカの一部のラディカル派やリベラル派にしか知られておらず,かつしっかりとした理解や正しい応用が必ずしもなされていなかったと彼はいう。ジルーはこの本の中でフレイレが教育や知識を政治的なものとみなし,省察と行動を形作る基礎として対話的関係を重視していることなどについて示している。 https://scrapbox.io/files/651698d317823f001b7d3ebf.png
本書はパウロ・フレイレに捧げる本という形を取っているが,学校は批判的市民を育てるための公共領域であると考える者としてデューイ(John Dewey)やグラムシと一緒に挙げられ,同じくフレイレの教育を政治的なものとして見る見方や対話的な関係について触れられている。 https://scrapbox.io/files/6516ac6cf9856b001be95e04.png
本書の中で,彼自身がそれまで「批判の言語(language of critique)」と呼んできたものと,「可能性の言語(language of possibility)」と呼んできたものとを結びつけたことに,フレイレの功績があると評価している。
「新しい教育社会学」やボウルズおよびギンタスの対応理論は,学校が実際には社会的・経済的・文化的再生産の主体であることを理論的にも経験科学的にも証明している点で「批判の言語」を提供していると言える。しかしながらこれらは,学校を本質的に再生産の場とみなしてしまい,対抗ヘゲモニー的な実践を創り出すような言説,すなわち「可能性の言語」を提供出来ていなかった。その結果,「批判の言語」が希望的な見通しを全く提供出来ないために,絶望の言説へと組み込まれてしまうこととなってしまう。
これらに対しフレイレの業績は、一方では主体と構造との関係を架橋し、歴史的実践または現在の実践の中で築かれた制約の中に人間の行動を位置づけることで「批判の言語」を提供しながら、他方で同時に社会的闘争に向けた可能性を呼び起こすような抵抗の形態や余地などを指摘することで「可能性の言語」をも提供していた。
しかしジルーはフレイレの理論をそのまま継承したわけではなく,ジルーが生きる北米の社会現実に照らして再構成をしようとした。特に、フェミニズムの立場からフレイレに向けられた批判を視野に入れることがポイントであった。エリザベス・エルスワース(Elizabeth Ellsworth) はクリティカル・ペダゴジーにおける「エンパワメント(empowerment)」「生徒の声(student voice)」「対話(dialogue)」さらには「批判的(critical)」などの概念が,実際の教室で実践を行う場合に,かえって支配関係を維持する抑圧的な言説になっているのではないかという問題を自身の授業実践の経験から提起している。
また,フレイレやジルーの理論枠組みでは,ある差別を問題とすることで,他の差別が問われなくなってしまうことが起きてしまうとする。すなわち,抑圧者と被抑圧者という概念は絶対的なものではなく,ある場面において被抑圧者である者が,他の場面では反対に抑圧者となりうることを示唆している。これらのフレイレに向けられた批判を視野に入れつつ,ジルーは「抵抗理論」からさらに理論を発展させ,差異の政治という観点から再構成し,これを「境界教育学(border pedagogy)」と名付けた。 「境界(border)」とは下記概念のことである
歴史や権力や差異の言語を構造化してきた認識論的・政治的・文化的・社会的な枠を示す
例としては,民族や人種,階級やジェンダーなどがこの境界にあたる。この境界概念は,「越境(border crossing)」という形として文化的批評と教育の過程を示唆するという。すなわち,支配の中で作りだされた既存の境界が,乗り越える形によって挑戦され再定義されうるものとして示されている。ジルーはこの境界概念の導入により,多種多様な差異に注目し尊重することを可能にしようとしたのである。
主題
私は、モダニズム、ポストモダニズム、そしてフェミニズムが文化政治や教育実践を発展させるのに、最も重要な言説の3つを代表していることを議論したいと思う。そして、そのような文化政治や教育実践こそがラディカルな民主主義のポリティクスを広げ、理論的に進展させることができる。
/icons/白.icon
モダニズム
モダニズムを定義したり分析するのではなく本稿では「モダニズムのいくつかの中心的な前提」及び「中心的な特徴のいくつかを理解する上での理論的・政治的な背景を提供する」ことにあるという。そして下記のようにそれらを類型化する。
モダニズムの理論的、イデオロギー的、政治的複雑さは、3つの伝統に関するその多様な語彙を分析することによって把握することができる。その3つとは、社会的なもの、美学的なもの、政治的なものである。
社会的近代性と美学的近代性、そしてその効果
一方、「別の特徴として存在論的な地位へと向けて理性を向上させるという認識論的な企て」を指摘する。
ここで関心となる近代性の観念とは、歴史的記憶が単線的な進歩として装置化された個人的、集合的なアイデンティティであり、人間主体は意味や行動の最終的な源泉となる。地理的、文化的領域性という観念は〜正統化された中心と周辺という図式で特徴づけられる支配と従属のヒエラルキーとして構築される。
次に、美学的近代性を述べる。
抵抗運動の伝統とフォーマルな芸術至上主義という2つで示されるような二元的な特徴を有している。しかし、美学的なモダニズムが最初にその評判を得たのは抵抗運動の伝統の方であり、〜疎外や否定的感情によるものだった。〜「壊すことは、創造することなのである」このような美学的な近代性の文化的、政治的表象の一端は、シュルレアリスムやフューチャリズムから1970年代のコンセプチュアリズムに至るまでのアバンギャルド運動の中に最もよく表現されている。 そして本二項の近代性がもたらした効果を下記のように綴る
このようなモダニズムの2つの伝統をともにもたらした中心的な要素は学問的なディシプリンや教育理論・実践の言説を形作るだけでなく、さまざまなイデオロギー的立場に共通の地平を提供するのにも強力な力を発揮している。これらの要素は、ポピュラー・カルチャーを超克するようなハイ・カルチャーの優越性に対するモダニズムの要求、統一されていない主体を中心化しようとする主張、高度に合理的で意識的な精神の力に対する信仰、より良い世界という関心の基に未来を形づくろうとする人間の能力への信念といったもののなかに見出すことができる。モダニズムに対する支援には長い伝統があり、それはマルクスやボードレール、ドストエフスキーの中に表現されている。 政治的近代性
フェミニズムによって熱心に取り組まれたが、ポストモダニズムからは一般に無視された〜伝統とは政治的な近代性であり、それと関連する美学的、社会的な伝統とは異なり〜認識論的、文化的問題に焦点を当てていない。(ムフ 1988) そして政治的近代性は下記に根差したという。
モダニズムの政治的プロジェクトは、苦悩の原因を取り除き、平等や自由、正義といった原理に意味を与えるよう、苦悩によって動かされる個人の能力にルーツを持つもの
これはロールズに端を発する現代政治哲学を見れば明らかである。 /icons/白.icon
ポストモダニズム
多元性や差異、多声性の言説として、ポストモダニズムは、支配のメカニズムや解放のダイナミクスを説明するために、単一の原理と接合され描かれることに抵抗する。〜ここで重要な点は、ポストモダニズムが特定のポリティクスのパラメーターの中でどのように定義されるかだけではなく、ポストモダニズムの持つ最上の洞察が進歩的で解放的な民主主義のポリティクスの中でいかに適正化されるかである。ポストモダニズムは特定の政治的プロジェクトを定義するための特定の原理を提案しているのではない。
ポストモダニズムは言説や文化的批判の境界を引き直し、再表現するような疑問を投げかけた。〜同様に、ラクラウは、社会的、文化的批判の言説としてのポストモダニズムは3つの基本的な否定、すなわち、認識論的、倫理的、政治的意識の否定とともに始まると論じている。
全体性や原理主義に対するポストモダニズムの攻撃に反動がないわけではない。それは、直接的にローカルなナラティブの重要性に焦点を当て、真実が表象という観念を超越するという考えを拒否する一方、単一的で規範的なものとして支配的なナラティブ間の差異をぼかす危険性も有している。しかし、それらこそが共通の地平に異なった集団やローカルなナラティブを歴史的、関係的に位置づける基礎を提供するものでもある。
/icons/白.icon
フェミニズム
ポストモダン・フェミニズムとモダニズム
フェミニストの理論はつねにモダニズムとの弁証法的な関係にある。一方でそれは解放のための文化的闘争という関心のもと、実質的な政治問題を進行させることを通して、ジェンダーの歴史的、社会的構築を書き直し、平等や社会正義、自由といったモダニズムの関心を強調してきた。他方でフェミニズムは、勝利への解放、特にエージェンシーや正義、ポリティクスといったカテゴリーの中に残存する実現化されていない潜在力の解放に向けて、自らの変革能力についてモダニズムの残骸との差をずっと明示してきた。また別の時には、ポストモダン・フェミニズムは、特殊性や偶発性をだしにして普遍的な原理が高められるというモダニズムの側面を拒否してきた。さらに、それは歴史の単線的な見方に対抗している。そのような視点は主観や社会に関する家父長制的観念を正統化するものだからである。加えて、ポストモダン・フェミニズムは科学や理性が客観性や真実と直接に一致するという観念も拒否する。
ポストモダン・フェミニズムとポストモダニズム
ポストモダニズムは様々なフェミニストの理論や実践と多くの仮定を共有している。例えば、両者とも、理性を多元的で部分的なものとみなし、主観性を重層的で矛盾を持つものと定義し、様々な本質主義の形態に対抗して偶発性や差異を仮定する。同時に、ポストモダン・フェミニズムは、ポストモダニズムの中心的な前提の多くを批判し、その適用範囲を拡大してきた。第1に、ポストモダン・フェミニズムは、なによりも社会批判を重視する。この観点に立って、言説の根拠や原理の普遍性への問い直しを重視するポストモダニズムの意義を定義しなおし、批判は認識のレベルではなく、政治的闘争として展開されるべきことを主張した。ハラウェイは「問題は認識論的なものではなく、倫理的、政治的なものである」というコメントでうまくその点をついている。第2に、ポストモダン・フェミニズムは、あらゆる形態の全体性やメタナラティブを拒否するポストモダンの見解を拒否してきた。第3に、それは、主体を脱中心化することによって人間というエージェンシーを消滅させるポストモダニズムの見解を拒否してきた。すなわち、意味の唯一の源泉として言語を位置づけることを拒否し、したがって単なる言説にではなく、現実の実践や闘争にも権力を結びつけてきた。第4に、ポストモダニズムの立場は、通常、差異をリベラルな多元主義の美的(パロディ)あるいは、表現と位置づけ、権力の言語を用いないで差異を増殖させる手法を用いるが、ポストモダン・フェミニズムは、差異の重要性をイデオロギーや制度の変化という、より広い文脈における闘争の一部分としてとらえるべきことを主張する。 /icons/白.icon
批評教育学の地平
1
ここから批判教育学の教育方法と目指す生徒像を提示する。
部分的にはこのことは,単なる良き市民ではなく,批判的な市民となるための知識や習慣,技術を教え,実践するためには教育者は批判的教育学を深めていく必要があることを意味している。これは,生徒たちに現存する社会的政治的形態に適応するのではなく,それらに挑戦し,変革する批判的能力を提供することである。それは同時に,生徒たちに自身を歴史の中に位置づけ、自身の声を発見し,市民的勇気を実行し,リスクを取り,民主主義の公的形態にとって本質的な習慣や社会関係を推し進めるのに必要な罪の自覚や思いやりを提供することも意味している。
民主主義にとっての批判的教育学とは,幾人かの教育者や政治家や集団が論じてきたような,生徒たちに毎日の学校生活の始まりに忠誠の言葉を言わせたり,支配的な英語という言語のみで考えることを強制することで減ぜられることはない。それはテストのスコアとともに始まるのではなく,疑問から始まるのだ。すなわち,ポストモダン文化の中で,公的な教育を通していかなる種類の市民を創り出すことをわれわれは望むのか,現在の変転する文化的,民族的境界のコンテクストの中でいかなる社会を創りだそうと望むのか,差異や平等という観念を自由や正義といった緊急になすべきことといかに一致させるのかといった疑問とともに。
2
倫理は批判的教育学の中心と見なされなければならない。これは,いかに異なった言説が生徒たちに自分たち自身が広い社会との関係性を築く上で多様な倫理的準拠点を提供するのかということを教育者がもっと十分に理解しようとする試みを意味する。と同時に,教育者がいかに異なった倫理的言説の中で生徒の経験が形づくられるのかというポストモダンの観念を超えることも意味している。教育者は倫理や政治を自己と他者の関係として見なさければならない。
そして倫理を下記のようにふかぼる
3
差異おける二つの概念(個/集)の教育の当為論を展開する。
批判的教育学は,倫理的な挑戦,政治的な変革の方法という点で,差異の問題に焦点を当てることを必要とする。ここで取り上げるべき差異という観念には少なくとも2つのものがある。第1に,いかに生徒のアイデンティティや主体が多様で矛盾に満ちた方法で構築されるのかということを理解する試みの一部として組み込まれる。この場合,アイデンティティとはそれを有するものの歴史性や複雑な主体の位置を通して切り開かれるものである。〜第2に,批判的教育学はいかに集団間の差異が構築され,可能的/不可能的な関係体として保持されるのかという点に焦点を当てる。この場合の差異とは,いかなる方法によって社会集団が民主主義的な社会へと機能的に統合するのかを理解する上での起点となる。このような文脈で差異を調べることは,支配の中で構造化されてきた空間的,人種的,民族的,文化的差異をチャート化することに焦点を当てるだけでなく、公的な闘争の中でそれ自身を明示するような歴史的な差異性というものを分析することにもなる。
そして下記のように続ける。
批判的言語の一部として,教師たちは,いかに異なった主観の在り方がイデオロギーや社会的実践の歴史的に特殊な範列の中で位置づけられるのかを問題にするることができる。それらは様々な主体の位置づけの中にいる生徒たちを記述するものである。同様に,そのような言語は,いかに社会集団の内外にある差異が支配や抑圧,ヒエラルキー,搾取の網の目の中にある学校の内外で構築され,維持されるのかについても分析することができる。このような可能性を持った言語の使用の一部として,教師たちは生徒たちに,多様なナラティブや社会的実践が創り出されるような知識・権力関係を発展させる機会を探求させることができる。それは,世界を異なった読み方で読み,権力や特権の悪用に抵抗し,オルタナティブな民主主義的コミュニティを構築する機会を提供する差異の政治学や教育学のまわりに生起するものである。
4
そして上記で述べた多面的な解釈方法を精微化する。
知識は常にその限界という点に関して再吟味されなければならないし、生徒に伝達すべき唯一の情報の体系として見なすことを拒否しなければならない。ラクラウが指摘したように,価値を付与された伝統として(それも論議ところであるが)判断されるものによって与えられた答えに限界を設けることは,重大な政治的行動である。ラクラウが提示していることは,生きた対話やナラティブの多様性の主張の一部として過去を創造的に適正に位置づけることを生徒たちができるようにすることであり,歴史性を持たない単一的な言説としてではなく,よりよい民主主義的な公的生活をつくりあげようという関心のもとで再形成されうる社会的,歴史的な発明としてナラティブを判断する必要があるということである。
5
批判的教育学は,学問的な境界を壊し,知識が生産される新たな領域を創り出すことを強調することによって,新たな知識の形態を創りあげる必要がある。この点で,批判的教育学は文化政治として、また社会的記憶の形態として再主張されなければならない。これは単に認識論的な問題ではなく,権力や倫理,ポリティクスの問題である。文化政治としての批判的教育学は,多様で批判的な公的文化を創りだそうとする広い試みの一部として,知識の生産や創造を巡る闘争を主張する必要がある。社会的記憶の形態としての批判的教育学は,学習の基礎としての日常生活や特定のものとともにはじめなければならない。解放的な実践にとって無益/有害という点を超えて,沈黙してきた人々の声を批判的に適正に位置づけ,単一で全体的なナラティブの中に位置づけられてきた人々の声を動員するのを助けるような,進行する努力の一部として歴史的なものやポピュラーなものをそれは再主張する このような闘争は,政治学的なものにおける教育学の意味を,また教育学的なものにおける政治学の意味を深める。
後者の例として,政治学的なものにおける教育学的側面を主張することは,いかに差異や文化が単なる政治学的カテゴリーではなく,教育学的実践として取り上げられるかという問題を引き起こす。例えば,もし教育学者や文化的従事者が知識を批判にさらされ,変転的なものとなる前に意味のあるものとしなければならないとしたら,差異は教育学的なカテゴリーとしてどのような重要性をもつのだろうか。もしくは,理論的には正しくとも,教育学的には誤っているような場合に緊急に取り組むこととは何を意味するのだろうか。このような興味や緊張は,政治学的なものと教育学的なものとの間の関係を相互に教えあい,問題化する可能性を提供する。
6
理性という啓蒙主義的な観念は,批判的教育学の中では再形成されなければならない。第1に教育者は,それ自身の歴史的な構築性やイデオロギー的な原理を否定することによって真実を明らかにすると主張するような,いかなる理性に対しても懐疑的になる必要がある。理性とは無垢なるものではなく,また批判的教育学は批判や対話を超えるように見える理性の全体主義的な形態に肩を並べるような権威を行使することはできない。このことは,知識の要求や方法論が歴史的,社会的に構築された性質を持つことを認める認識を採用し、客観性というものに対する要求を拒否することを意味する。この場合カリキュラムとは、生徒たちに特定の形態の理性を注入し,特定の生活の物語や方法を構造化する文化的スクリプトと見なすことができる。この意味での理性とは、権力や知識,ポリティクスの交差点を意味する
第2に,理性に対する本質主義や普遍主義者の防御を拒否するだけでは充分ではない。人々が特定の主体の位置というものを学び,それを取り上げるような別のやり方を認識するところまで理性の限界を拡張しなければならない。この場合教育者は,具体的な社会関係や習慣や直感の構築を通して身体が位置づけられる方法,また欲望や感情の生産や投資を通して、いかに人々が学習するかという点を十分に理解する必要がある。
7
批判的教育学は,批判の言語と可能性の言語とを結び付けることによって,オルタナティブな意味を取り戻す必要がある。ポストモダン・フェミニズムはこの点を,家父長制への批判と新たなアイデンティティや社会関係の形態の構築という両面で,実証している。教師たちは多くの考察を巡ってこのような問題を取り上げられるということは明記する価値がある。第1に教育者は限界という問題と自由や社会的責任についての言説を結びつける批判の言語を構築する必要がある。いいかえれば,自由という問題は個人の権利という問題からだけでなく,社会的責任についての言説の一部としても弁証法的に取りくまれなければならない。すなわち,自由が倫理的,政治的権利の状態を構築することにおいて本質的なカテゴリーとして残るとしても,エコシステムを脅かし,個人や社会に対して暴力や抑圧の形態を産み出すような,個人的,集合的行動のモードの中で表現されるならば,チェックされるべき力としても見なされなければならないということである。第2に批判的教育学は,危険な思想にて考え,希望や「いまだかつてない」地平に向けてのプロジェクトに取り組むことができるような実践的言語を探求する必要がある。可能性の言語は具体化されたユートピアニズムの形態へと解決される必要はない。それは,新しい公正な世界を想像し,それに向けて闘うための勇気を奮い起こさせる説得に活力を与えるための前状態として発展されうる。道徳的,政治的可能性の言語は,時代遅れのヒューマニスト言説の遺物以上のものである。それは,苦しみ敵対する人間に対する思いやりというだけでなく,現在ある支配のナラティブを闘うべき価値のある未来のイメージや具体的な例に再形成し,変革するポリティクスや教育実践にとって中心的なものである。
左派の言語を特徴づけているのはシニシズムである。この立場にとって中心的
なものは,すべてのユートピア的イメージやすべての「可能性の言語」に対す
る訴えを拒否することである。そのような拒否はしばしば「ユートピア的言説」
は右派によって用いられた戦略であり,したがってイデオロギー的色彩を
持ったものであるという点で基礎づけられている。もしくは,可能性という
観念自体を非実践的なものと消散し,したがって意味のないカテゴリーと見なす。
私の考えでは,このような立場は,消耗や絶望の言語を超克する運動の拒否
に比べて,あまり重大な批判ではない。この立場に対応して発達する中心的なもの
は,可能性という観念を区分するということである。すなわち,「反理想
郷的」言語とユートピア的言語の区別を行うことである。前者では未来に対する訴
えは,過去への回帰を呼びかけるノスタルジックなロマンティシズムの形
態に基礎づけられる。そしてそれは,支配や抑圧の正統化にかなりの程度給するも
のであると同時に,コンスタンス・ペンレー(Penley1989)言葉を借り
れば,「しばしば個人主義かゲリラ的な小集団による抵抗というロマンス化され
た観念へと限界づける。ユートピア的想像の真の衰えとはこのようなものであ
る。すなわち,われわれは未来を想像することはできるが,未来を変革し確か
なものとするのに必要な集合的な政治的ストラテジーは決して持つことはでき
ないのである」。反理想郷的な言語とは対照的に,可能性の言語は黙示録的な欠
やノスタルジックな帝国主義を拒絶し,開かれたものとして歴史を見,オルタナテ
ィブな未来の想像に向けて闘う価値のあるものとして社会を見なす。こ
れこそが「いまだかつてない」言語であり,想像の言語である。それは,社会
とはいかなるものかやそれはどのようになるのかといった批判的な認識に基づ
き,集合的な抵抗のストラテジーから導き出された新たな関係性を構築しよう
とする努力の中で回復され,活力を与えられる。ヴァルター・ベンヤミンに準
えていえば,これは歴史の微分に抵抗してそれを推し進める想像と希望の言説
である。ナンシー・フレイザーはこの議論に,社会的変革のプロジェクトに向
けての可能性の言語の重要性を強調し,光を与えている。すなわち,「そのよう
言語によって,内在的な批判や変転する欲望を他のものと混ぜ合わせるよう
ラディカルで民主主義的なポリティクスの可能性が与えられる」と。
8
批判的教育学は特定の政治的,社会的位置を占める変転する知識人としての教育者や文化的従事者の理論を発展させることを必要とする。批判的教育学では,教師の仕事は狭隘な専門職主義の言語として定義されず,イデオロギーや社会的実践の生産に取り組むものとして慎重に位置づけられることを必要とする。あるレベルではこれは,文化的従事者はまずもって客観性やまともさといった言説を捨て去り,その言説や意味を自己や社会,文化,その他のものに枠づける歴史的,イデオロギー的,倫理的パラメーターを暴くことのできる実践を行うということを意味する。文化的従事者は支配的な秩序を構造化しているイデオロギー的コードや表象,実践を読み解くだけでなく,われわれが住み占有する場所や空間を認識する必要がある。それは特定の仕方でわれわれの生活を枠づけ,物理的,地理的な場所性を持つゆえに,われわれの精神大部分となっているのである。社会的批判の実践は,自己批判の行動と分離不可能なものとなる。すなわち,他者との関係性の中でしかその場を確きないし,他者に対する優越性も持たない。そのかわりに,自己と他者は関係的で相互的な構成体とみなされなければならない。
一方で文化的従事者は非全体的なポリティクスを発展させることを必要とする。すなわち,部分的で,特殊な差異化されたコミュニティや権力の形態の文脈に注意を向けるようなポリティクスを。これはより大きな理論的,関係的ナラティブを無視することではなく,権力が操作可能なものとなり,支配がそれ自身を表現し,多様で生産的な方法で抵抗が作動する文脈の特殊性を明らかにすることによって,分析力を深めることである。この場合,教師や文化的従事者は倫理的,政治的言説の中で社会的批判を引き受けることができる。すなわち,彼らは自分たちが働いている文脈に意味を与えることができると同時に,自分たちをより大きな形成的なナラティブの重要性を認識する場へと接合することができる。この場合,批判や抵抗,移行は,ローカルかつグローバルなものを内包した知識のシステムや団結の網の目の中で組織化される。文化的従事者は,個人的な位置の政治学を認識するフーコーの特殊な知的モデルを真剣にけ止める必要がある。ただし,それは重要なことであるが,それだけでは充分ではない。なぜなら,自分たちの位置の直接性やより広いグローバルなコンテクストの両方に影響を与えるような広範な問題に関係し,それに呼びかけることができる公的な知識人として積極的に闘争もしなければならないからである。変転する知識人はローカルな経験やアイデンティティを共有する人々と団結の網の目を創りあげなければならないと同時に,すぐ隣の空間を占めていないがゆえにその問題を解決することのできないグローバルな世界に住む人々にも達するような団結のためのポリティクスも発展させなければならない。人間と地球両方にとって,人間の権利やアパルトヘイト,軍事主義,その他の形態の支配という問題は直接,間接にわれわれすべてに影響を与える。これは単に政治学的な問題ではない。より広い団結や闘争という文脈で,自己と他者,周縁と中心,植民地主義者と植民化された人々の関係性に意味を与える深い倫理的な問題でもある。教育者は,批判的意識の高揚だけではなく,変革的な行動の高揚のためにも教育実践を発展させる必要がある。この観点に立つと,教師や他の文化的従事者は,批判的な言説や実践,民主主義的な社会関係の発明に関与することになる。批判的教育学は,単なる生き方の伝達ではなく,その積極的な構築として自身を代表することとなる。また特に,変転する知識人や文化的従事者,教師は以下のような言語の発明に取り組むことができる。すなわち,彼ら自身やその生徒,オーディエンスが抑圧の関係を名づけ,同時にそれを克服する方法について再考する空間を提供するような言語の発明に。 9
批判的教育学という観念にとって中心的なものは,差異に関するポストダニズムの観念と政治的なものの重要性に関するフェミニストの強調を結びつける声の政治学である。このような取り組みは,人種主義やセクシズム,階級的搾取に寄与する制度的な形態や構造に対する呼び掛けを引っ込めるのではなく,それらに取り組むために,個人的なもののなかに政治的なものを取り除くことなく,両者の関係性を高める方法で,その両者の関係を取り上げることを意味する。またこのことはいくつかの重要な教育の介在を提示している。
①
1に,自己とは政治化の第一義的な場と見なされなければならないということである。すなわち,自己がいかに多様で複雑な方法で構築されるのかという問題は,主張の言語の一部として,またいかにアイデンティティは様々な社会的,文化的,歴史的形態の狭間で書き込まれるのかということを広く理解することの両方として分析されなければならない。自己の構築に関する問題に取り組むことは,歴史や文化,コミュニティ,言語,ジェンダー,人種,階級といった問題に呼びかけることである。生徒たちに自分自身や自分たちが住むグローバルな文脈についての理解を主張し,問いただし,広げるような対話的な文脈で話すことを認めることは,必要とされる教育実践が何なのかという問題を引き起こす。そのような立場は,生徒は複数で多様なアイデンティティ有することを認めることであると同時に,彼・彼女らにより公正で信頼のできる社会秩序を創りあげる道徳的,政治的エネルギーを再構築することを認めること,ヒエラルキーや支配の関係を弱体化させる言語を彼・彼女らに提供することの重要性を裏づけてもいる。
②
第2に,声の政治学は,社会的なもの,間主観的なもの,集合的なものの第一義性を主張する教育学的,政治学的ストラテジーを提供しなければならない。声に焦点を当てることは単純に生徒が語る,その可能性を称えることを意味するのではない。そのような立場はしばしば怒りの下に横たわっている原因や抑圧的な社会関係に果たしている支配の構造を変革させる集合的な動きへ理論化するのに役立つことなく,怒りを名づけるというナルシズムやカタルシス的経験へと悪化させる。そのような意識を呼び起こすことはますます個人的経験の第一義に自己の提供を訴えることによって支えられた分離主義のヘゲモニックな形態を正統化する口実となる。そのような訴えの中でしばしば表現されることは,活力のある政治的取り組みの形態,特に多様な抑圧の形態に呼びかけ,それを変革させようとする取り組みから後退させる反知識主義である。単純に声の主張を要求することは,内部に目を転じる反動的な教育過程へと減ぜられてきた。よりラディカルな声という観念は,ベル・フックスが述べたように,広い政治的取り組みの一部として経験を理論化することに注意を向けることから始めなければならない。特にフェミニストの教育学に言及して彼女は,告白や記憶の言説が「単なる経験の名づけから文化や歴史,ポリティクスに関連のあるアイデンティティについて語ることへと焦点を移行させる」のに使用することができると論じている。フックスにとって,苦悩の物語を語ることや声を表すことだけでは充分ではない。そのような経験が団結や闘争,ポリティクスといった広い観念と切り離されるのではなく,結びつけられるような,理論的,批判的分析の対象であるべきことが同様に重要なのである。