ランシエール
18世紀フランスの教育実践家で教育思想家であるジャコトがネーデルランドでおこなった外国語教育をはじめとする教育の実践とその理論を、ランシエールが分析したものである。バディウは下記のように述べる 『無知な教師』は反教師ジャコトの驚くべき姿を古文書から発掘しただけでなく、同時に、知性の平等についての討議へと誘うことを意図し、ジャコトを虚構的に再構築したものでもある。
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ジャコト教育のサマリーと旧式教育の実態
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ジャコト式教育法をランシエールによる描写にしたがって要約すると以下のようになる。フレミッシュ語もオランダ語もできないジャコトが、ルーヴェン大学でフランス語をまったく理解しない生徒にフランス語を教えた際、教材としてフェヌロンの『テレマックの冒険』という物語の、原語(フランス語)とオランダ語の対訳本を使った。生徒はまずテクストのフランス語を暗記し、次にオランダ語と比較し、何度も復唱することを毎日繰り返しながらフランス語の知識を増やしていく。この方法をしばらく続けた後、フランス語でテクストのコメントを書かせてみると、ジャコトは生徒たちの目覚ましい進歩に驚かされる。誰からも説明を受けることなく、彼らはスペルや文法の知識を物語のテクストから身につけ、それを正しく応用していた。その結果に励まされたジャコトは、これは「普遍的教育」の方法であり、他の知にも適用できると考えた。 ジャコトは以上のような結果から、次の諸原理を導き出した。
1.人はすべて等しい知性の持ち主である。(知の平等)
2.人はすべて神から自分を教育できる能力を授けられている。(知の自律性)
3.我々は自分が知らないことを教えることができる。(無知な教師の可能性)
4. すべてはすべてのなかにある。(一つを知ることができる知性はすべてを知ることができる=知の普遍性)
旧式教育の起源
ランシエールによれば、教育を「洞窟の中の盲目状態から、洞窟の外でのイデア理解へ」と進化する自己変容のプロセスと見るプラトン『パイデイア』以来の伝統的な考え方に基づいた進歩主義的教育、あるいは人間形成的教育の基本的手段は、「説明」である。 要するに、教師にとって本質的な行為とは説明すること〜教育するということは、知識を伝授することであると同時に、精神を単純なものから複雑なものへと段階的に前進させて形成することである。
ランシエールは旧来の教育が前提する説明の論理を、終わりのない塗り重ねであり、無限背進であると分析する。つまり知の諸要素たとえば一冊の書物を、教わる側の想定される能力の限界に合わせて再配置して伝達するために、説明のための説明のための説明...を重ねていく方法である。
説明による特権化
説明は、わからないものをわかるようにする、つまり無知と知のギャップを縮減することを標榜するが、実は説明すればするほどオリジナルのテクストから離れて退行していき、説明が続く限り永遠に<終わり=目的>には到達できないというパラドクスに陥ると言う
しかしここにこそ、教師の特権が存する。なぜなら、
1.教師は自分の話し言葉=パロールのなかで、無限背進する説明(説明の説明の説明…)をやめる地点(もう説明は不要という地点)を決め、説明を打ち切る権限を持つ。
2.書かれたテクストを理解するためには、生徒は教師の口頭の説明を必要とする(ことになっている)。言葉が発語されるその場にいることが条件である口頭の説明は、書かれたテクストよりも高い価値を置かれている。
言うなれば、教師の力とパロールの力が、学校の授業という一回限りのイヴェントに特権的地位を与え、生徒をそれに依存させている。要するに生徒は教科書を与えられてはいても、教師の説明なしにはそれを理解できない(ことになっている)のである。この特権の背後で、ある「知の抑圧」が行なわれている。
〔第一の抑圧〕、上記2にあるように、書き言葉の話し言葉に対する劣位である。それは生徒を教師に依存させることによって、教師と生徒の非対称な関係を保証するものでもある。
〔第二の抑圧〕こどもが就学前に説明する教師なしに親の使う言語を修得した知性を、学校における知識の修得における知性の劣位に置くことである。
対象の無能化
説明の論理においては、また一般的な教育の理解においても、教育は「知っている者から知らない者への知の伝達」と考えられている。つまり、知(有能)と無知(無能)のギャップを前提として、説明によってそのギャップを埋めるものとされている。
しかしジャコトはその論理を以下のように転倒させる。
1.無能力こそが説明する者の世界観を構造化する虚構である。
2.無能な者を必要とするのは、無能な者に依存するのは、説明する者であってその逆ではない。
3.説明は世界をふたつに分断しようとする教育学の神話(寓話)である。そのふたつとは、知っている者/無知な者、成熟した者/未熟な者、有能な者/無能な者、すぐれた知性/劣った知性、教師とエリートの知/子どもと庶民の知、等などである。
説明する者は、あらゆるものの上に「無知のヴェール」を投げかけたうえでヴェールを取り去ることを自らの任務とし、教育の絶対的な始まりを宣言する。これが<無能化の原理>である。無能な生徒がいるから教えるのではない。教えるためにはまず生徒を無能にすることが必要なのだ。前項であげた、学校も教師の説明もなしで、ただ親に導かれて母国語を習得した生徒の知性が、学校では無視あるいは軽視され、説明を理解する知性だけが特権化されるという事態は、まさにこのことの顕われである。 更に「暗記と物語の軽視」も生起する。劣った者と優れた者の不平等を前提する旧式教育学は、暗記や物語の解釈行為を劣った知性と見なす。優れた知性とは、知の全体像の中に位置づけられた特定の区分に応じて合理的に体系的に理解することができる能力のことである。単語を覚えたり、物語を解釈したりするのは誰にでもできる、劣った知性であり、教師のような優れた知性がないと彼と対等にはなれない。
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ジャコト式教育の優位性
教師の特権化に対する応答
〔第一の抑圧について〕下記のように述べる。
大切なのは[原語と対訳の]左右の頁をまたぐ能力ではなく、考えるところを他人の言葉を使って言う能力なのだ。
則、生徒に書物と直接の関係を結ばせることで、生徒と教師、生徒と書物の間に、それぞれ平等な知性の関係が打ち立てられるとする。これを行なえるのは、説明する「旧式」の教師ではなく、無知な教師ジャコトである。書物に直接対峙した時のジャコトの生徒たちの知性は、「自分を表現しようとする意志、すなわち翻訳しようとする意志」として働く。ランシエールは学ぶことと理解することは翻訳行為だと考えるのだ。
〔第二の抑圧について〕下記のように述べる。
自分自身の知性によって、また言語の説明をするわけではない教師たち[両親]によって話すことを学んだこの子供が、厳密な意味での教育を始めるとする。すると今度は、あたかもこれまで役立ってきた同じ知性を使っては、もはや学ぶことができないかのように、学ぶことと学んだかどうかを確かめることの自律的な関係は、彼には今後無縁のものであるかのように、何もかも進む。〜学習と確認の間にいまやある不透明さが打ち立てられる。それは理解することであり、この言葉だけであらゆるものの上にヴェールをかけてしまう。理解することとは、一人の教師の説明なしには子供にはできないことなのである。
対象の無能化に対する応答
ソクラテスは問いただしていくことで、メノンの奴隷が自分の中にある数学の真理を認識するように仕向ける。そこには知識への道はあるのかもしれないが、解放への道は全くない。それどころか、この奴隷が自分自身の中にあるものを見出すためには、ソクラテスが彼の手をとってやらなければならない。奴隷の知の証明はまったく同じ程度に無能力の証明でもあるのだ。〜したがって、ソクラテス主義は無能化の高度に完成された形なのである ソクラテス式教育法において、知を揺り動かし煽り立てるために次々に問いが投げかけられる。そこでは問い→答→問い→答...と問答が繰り返されるうちに、一つの真理に近づき、知性の正しい道が示される。しかしこの問いを投げかけたのはあらかじめ答を知っていながら無知を装っている教師なのであり、彼が知性の正しいあり方を示すことによって、そこに導かれなかった者の無知・無能力さが示されることにもなる。ソクラテスの産婆術は知を作り出すという名目で同時に無知を作り出すのである。
いっぽうジャコトは、彼の生徒たちがフランス語をマスターした知性は、かれらが母語をマスターしたときに用いた知性と同じものであるとする。観察、記憶、反復、知ろうとすることとすでに知っていることの照合、そして行動、行動したことについて考えること、などなど。これらは説明の教育学が劣った知性とみなすものであるが、その論理に対抗して、ジャコト(とランシエール)はあらゆる知の活動を平等化する
「人間が生み出したものはすべて「カリプソ」という単語の中にあると考えます、というのも、この単語は人間の知性が生み出したものだからです。」〜カリプソの中にあるすべてとは、人間によるあらゆる表明行為のうちにある知性の能力である。名称を作るのも、数学の記号を作るのも、同じ知性である。記号を作るのも、論証を行なうのも、同じ知性なのだ。二種類の精神があるわけではない。新しい関連を発見し組み合わせるために意志が知性に伝えるエネルギーの大きさに応じて、知性の発現には不平等はあるが、知的能力には序列は存在しない。自然本性上のこの平等を自覚することこそ解放と呼ばれるところのものであり、それこそが知の国におけるあらゆる冒険の道を開くのである。 問題は、劣った知性/優れた知性の分断を前提する不平等の教育にまどわされずに、知性自身にその真実の姿を知らしめることである。無知な教師のロジックは、平等性を将来達成すべき目標としてではなく、現在において正当化すべき公理として措定する。教師―生徒間の関係は、いまは不平等だが生徒が正しい知性を獲得すれば将来平等になるかもしれない関係、ではない。平等はまさにいま、教師―生徒間にあって当然の状態として基礎づけられる。
無知な人の可能性・能力を阻止するものは彼や彼女の無知ではなく、不平等への同意である。無知な人は知性とはもともと平等ではないものだという考えを持っている。こうした考えをもってしまうのは個人の咎ではなく、それが現代社会を動かしているシステム的な公理になっている。自分には優れた知性がないと諦めている人、知性は不平等なものだと思っている人々は、その分に相応した分け前で満足している。知性の不平等の公理は、社会的不平等を裏書する公理なのである。この社会的不平等という機械の操作を中断できるのは教師の知性ではなく、教師の意思である。
旧式は綴りを言わせることで生徒を無能化するのではなく、独りでは綴りを言えないのだと生徒に言うことによって〔不平等の原理によって〕無能化する
ジャコト的社会像
平等と不平等の関係に疑義を唱えたジャコトは、同時に説明というパラダイムを否認し、説明のロジックが社会的システムのロジックであることを示した。説明とは、現存の社会秩序が表象され、再生産され、永続化される方法である。
ジャコトの時代、フランス革命後に再構造化された社会秩序の中で新しい政治システムが設立され、王権や神といった超越的制度には不平等の要因を帰せられなくなっていた。言わば、不平等は平等の中に内在化された。それはジャコトが進歩主義と呼び、のちに近代と呼ばれるシステムである。
説明の教育パラダイムは、生徒のレベルやニーズに合わせて、学校がその一機能を果たしている進歩主義社会において貢献できるように訓練を行なう。これをランシエールは不平等のゲームと呼ぶ。このゲームは、現代のリベラルな教育学といわれるものにおいても続いていると彼は考えている。 無知な教師はそのゲームから撤退するが、その逃走は高くつくとランシエールは言う。なぜなら、説明と無能化こそが世で認められたメソッドであり、社会はそれで動いている。
無能力の円環は常にすでに存在する。それは無知と知との明白な相違の中に潜む、世のなかの歩みそのものなのだ
その最たる顕われが公教育であり、それは「知の不平等」という(虚構の)原則に基づいて行なわれ、「不平等を漸進的に平等にする方法」である。学校は言葉を話す存在の平等を機能させます。この平等なしには教師の言葉は空しいものとなるでしょう。ところが、この平等が機能するのは、一定の不平等な制度において、つまり知識の不平等においてなのです。
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詩的言語は、理性と矛盾しない。それどころか、この言語は語る主体一人一人に、自分の精神の冒険を真理の声と取り違えないよう注意を促す。すべての語る主体は己自身の詩人であり事実の詩人である
この講演で注目すべきなのは、彼が自分あるいはジャコトの教育学の言わば仮想敵と見なすメインストリームの教育学に対して、『無知な教師』においては「旧式教育学」といういささか曖昧な名辞を与えていたが、この講演ではそれに「リベラル教育学」という名を与えている点である。
旧式と違ってリベラルは生徒を自律させようと、さまざまな努力をする。ルソーの『エミール』の家庭教師のように、生徒が自分で壁を乗り越えることを習得できるようにわざと道に迷わせたり、通り道に障壁を置いたり、ソクラテスの産婆術的問答法のなかで生徒と対話し問題解決に導こうとする。 いっぽう旧式との共通点は、リベラル教育学も知/無知の分割を前提としつつ、そのあいだのギャップを架橋する任務としての説明を教師にゆだねていることである。ただしリベラル教育学にとって説明は、無知と知の関係が存在する不平等の状況を縮減する手段であるとされている。ランシエールによれば、リベラルな教育学は不平等を公理、自明の前提としている。そのロジックは以下の通りである。
1.不平等を減らすために、不平等に取り組むところから始めなければならない。
2.不平等を減らす知の成功は、不平等についての知とともにもたらされる
このロジックに従うと、不平等は事実存在するが、人はまさにこの不平等そのものを利用して、未来の平等のために用いることができる。教師の教授法は、生徒が一人では理解できない(とされている)もののヴェールを引き上げることであるが、それは生徒がいつの日か教師と平等になるだろうと約束する技法でもある。
換言すれば、リベラル教育学が行なう不平等の縮減とは、不平等を個人レベルで軽減させることで、劣った知の側にいた者を優れた知の側に移動させるだけで、この不平等な分割を生み出した構造自体は維持されたままである。ジャコトにとってはこの「未来の平等」「来るべき平等」は単に、不平等を生産しまた再生産するシステムを作動させるであろう「不平等な平等」への妥協にすぎない。 https://scrapbox.io/files/6538e874bceaa2001b860478.png
ここでいう文学の政治とは「作者たちによる政治」「作家たちが当時の政治的ないし社会的な闘争に個人として参加アンガージュマンしたのか」「作者たちが著作の中で、諸々の社会構造や政治運動、さまざまなアイデンティティをどのようなかたちで描いたか」のどれでもないとし、下記とする。 文学は文学として政治を行う〜その前提は、作家たちは政治を行うべきか、それとも、みずからの芸術の純粋性に身を捧げるべきか、と問う必要などはなく、この純粋性それ自体が政治と関わりを持つ〜集団的実践の特殊な形態としての政治と書く芸術という限定された実践としての文学との間には、本質的な結びつきが存在する 次に言説としての明度を上げるために本書で言う「政治」を定義する。そこで政治が存在条件を「権力が存在する」或いは「集団的生活を規制する法が存在する」だけでは十分でないとし、「それには共同体がある特殊な形態でかたち作られる必要がある」とする。
そこではいくつかの事物が共有のものとされ、一定数の主体がそれらの事物を指し示したり、それらについて議論することができるとみなされている、ひとつの特殊な経験領域を構成することである。しかし、こうした構成は、人間学的な不変要素に基づいて固定的に与えられるものではない。政治が依拠する所与とはつねに係争的なものである。アリストテレスの有名な定式が述べているように、人間は正と不正を分かちあうことを可能にする言葉を持つので政治的存在だが、動物は快ないし苦を表す声を持つだけである。だが根本的な問題は、何が〔人間的な〕熟慮の言葉であり、 何が〔動物的な〕不快の表現であるのかを判断しうるのは誰なのかを知ることである。ある意味で、政治的活動とはすべて、何が言葉で何が叫びであるのかを決定する闘争であり、したがって、政治的な能力を証明する感覚可能な境界線を引き直す闘争である。プラトンの『国家』は冒頭から次のように説明している。職人たちは自分の仕事以外のことをする時間がない。彼らの活動や時間の用い方、そうしたものに自分を適合させる能力のせいで、彼らは政治的活動が作り出すあの補足的な領域に近づくことができない。だが、政治が始まるのはまさにこうした不可能性が問い直されるとき、自分の仕事以外のことをする時間を持たない人々が、持たないはずの時間を割いて、自分が公共の世界に参加する話す存在にほかならず、凶暴な、あるいは、苦しんでいる動物などではないことを証明するときなのである。このように空間と時間、場所とアイデンティティ、言葉と雑音、見えるものと見えないものを分配し再分配すること、これこそが私が感性的なものの分割=分配パルタージュと呼ぶものをなす。政治的活動によって感性的なものの分割=分配のあり方はかたちを変える。公共の舞台に新たな対象と主体が導入され、見えなかったものが見えるようになり、騒々しい動物としてしか聞かれていなかった者たちが話す存在として耳を傾けられるようになる。 まとめると〈対象の可視性、言語の様態、行為の主体という三つの次元において境界線が引かれる事態を「感性的なものの分割=分配パルタージュ」と呼ぶが、政治とは、既存の分割=分配パルタージュに対して異議を申し立て、それを新たに組み替えようとする営為〉が政治なのである。これは『プロレタリアの夜』という最初の書籍から一貫しているランシエールの立場である。そんな定義から「文学の政治」を定義する。 したがって、「文学の政治」という表現が含意するのは、文学は文学として、こうした空間と時間、見えるものと見えないもの、言葉と雑音の切り分けに介入する、ということである。諸々の実践と、可視性の諸形態と語りの諸様態の間に存在する関係が、ひとつないし複数の公共世界を切り分けるのだが、文学はこの関係のあり方に介入するのである。
則、対象・言語・行為に関する分割線を再定義する実践が政治だとするなら、文学もまた、まさに文学のレベルにおいて政治を行うことができるということが上記の主張なのである。またある意味で「感性的なものの分割=分配パルタージュ」たる政治ではなく、文学の政治を研究することによって、文学理論書を超える構成論的アプローチとしての側面まで持つ書籍となる。 来るべきデモクラシー概念再考
「来るべきデモクラシー」−その意味は、さらなる何かをともなったデモクラシー、「さらなる何か」という条件におけるデモクラシーということである。 この補足がデモクラシーは「外部からつけ足されなければならない何か」でもないし、「未来に準拠」している訳でもない。つまり「私たちが期待するデモクラシー」という意味でもない。ランシエールは下記のように結論づける。
それは「来たるべきデモクラシーとしてのデモクラシー」という意味である。
デモスとはアリストテレスの定義によれば、同時に「支配する者」でも「支配される者」でもあるような人間である。したがって、この支配する者と支配される者のあいだに、デモクラシー固有の「ずれ」が生じる。 ランシエールは、このずれを更新可能な「パラドックス」とみなし、このずれを更新していく実践こそ政治であると主張、デリダはこのずれを調停も更新も不可能なアポリアだと捉え倫理法則に従わせることを求める。ランシエールはこの分岐を「政治の道」と「倫理の道」の分岐だと形容している。
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つまりあらゆる正統性を放棄し、秀でる能力は認識においてのみ正統性をもつべきだとルソーを援用し論じる。
もし権力が、もっとも博識な者、もっとも強い者、もっとも裕福な者に帰属するとするならば、ひとはもはや政治の中にはいないことになります。それはルソーが展開した、最強者の力は権利として表明される必要はない−最強者が最強なのであればその者は自分の力を認めさせるだけのことである。–という議論です。ほかの正統化は必要ないということです。