ハラウェイ
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すでに現代人はキメラ(=サイボーグ)になってしまった
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境界線の希薄化
マイクロエレクトロニクスの媒介により、労働はロボット工学と文書処理に、性は遺伝子工学と生殖技術に、精神は人工知能と意思決定作業に翻訳される。
上記により自然/人工物、物質/意識、人間/機械の脱構築を論じる
コード化へ還元される機械において、何が精神で何が身体なのかは明確ではない。〜私たちの形式的知識によっても、機械と有機体、技術的なるものと有機的なるものとを、根本的に、存在論的に区別することができない。〜サイボーグは、統一的なアイデンティティを求めて終わりなき二項対立を生成することはない。
そしてあらゆる問題の超越を語る
サイボーグはポスト−ジェンダーの世界の生き物であり、バイセクシュアリティとも、前エディプス的共生とも、阻害されない労働とも関係がない。そのような部分の力をすべてを最終的に高次の一体性に取り込もうとする有機的全体性への誘惑とは無縁である。
私が望むのは、サイボーグが、拮抗的対立、機能的制御、神秘的機能によってではなく、むしろ部分的なつながりによって差異を関連づけることである。 :The Science Question in Feminism and the Privilege of Partial Perspective
アクティヴィスト・フェミニスト批判
他の歴史上の諸集団と並ぶ「特定利益集団」であるとし探求の性質を下記に見定める
スター・ウォーズ、大型スーパーマーケット、ポストモダン、メディアがシミュレートする市民像のあからさまなアトミズムにあえて抵抗する
地球規模のつながりのネットワーク、それもきわめて異なった、しかも権力差のあるようなコミュニティ同士のあいだで、知を部分的に翻訳する能力を備えたネットワークを必要としている。
ハラウェイは上記ではなく、知識に対するあらゆる主張は根源的に歴史偶有的だとの説明と、世界についての誠実で正確な説明へのコミットメントとをいかに両立させることができるのかという点が肝心だとする。つまりハラウェイに言わせれば物語も理論も不要なのだ。
パースペクティブすぎる:ある種の多元主義批判
上記で述べたような利益集団が推し進めるのはパースペクティヴそのものであり、世界を評価する起点となり、主張の基となる「視点」である。
ハラウェイはそんな現代において注意を向ける問題は、見るべきものが多すぎるという現代的な感覚である。多様に異なるパースペクティヴから構成された世界においては、ひとつのパースペクティヴを主張することそのものが平板化につながってしまう。さらにその相対主義性を下記のように述べる。
だからこそハラウェイは限定的な視界の可能性について述べる下地を述べる
霊長類の色覚と立体視を備えた身体で、客体=客観性をどのように自分たちの理論的、政治的スキャナーに組み込むのかを学ばなければならない。どう呼んだらいいのかほとんどわからない精神的、肉体的空間の次元のなかで、自分たちがいる、あるいはいない場所を名づけるために
つまり肉体組織と人工器官の能動的な知覚系に則した限定的な視界を探る行為である。