ガート・ビースタ
エビデンスベースドによって自己目的化している教育に対して、常に問われるべきなのは「何に対して効果的なのか」だからであると下記のように述べる。
そこでは、何を「効果的」とするのかは何が教育的に望ましいのかということに決定的に依存しているということが忘れられている。実践の側では、エビデンスに基づく教育は教育に参加するものが、自分自身の文脈化された舞台に敏感なかたちで、あるいは意味あるかたちで、そのような判断を行う機会というものを著しく制限してしまっている。「何が有効か」への焦点化は、何に対して有効なのか、その有効先を決めるときに誰が言い分をもつべきなのか、ということを問わなければ、困難をきたす。
更にエビデンスベースド教育の特徴を下記と捉える。
エビデンスに基づく実践は専門職行為を介入と捉え、介入の効果性に関するエビデンスを求める研究を模索している
つまり、エビデンスに基づく教育政策・実践は、専門職行為の因果モデルに依拠していると言うことができる。それは、専門職は一定の効果をもたらすために何事かをなすという考えに基づいている。だからこそ、「何が有効か」という問いは、エビデンスに基づく実践の議論全体において中心を占めているのである。
加えて、介入としての専門職者像は、専門職行為を手段と目的とに切り離して理解するという枠組に依拠している。
エビデンスに基づく実践は、専門職行為の目的が所与であって、問われるべき意味のある唯一の(専門職的・研究的)問いはその目的を達成する最も効果的・効率的な仕方に関するものだと想定している。
こうした専門職行為のモデルを「専門職行為の技術的モデル(technological model)」と呼ぶことができよう。だが、「専門職行為の技術的モデル」はたとえ医療で通用したとしても、教育実践に援用することは容易でない。まず、そもそも学習者であることの条件は患者であることの条件とはかなり異なっている。教育は物理的な相互行為の因果過程としての治療ではない。教育は、シンボルに媒介された相互行為の因果過程である。
もし教育が学習に何らかの効果をもたらすとしたら、それは学習者が教えられることを解釈し、何とか意味をなすように理解しようとするからである。教育が可能となるのは、(多様な)解釈の過程によってのみである。
このことは、教育という営みが絶えず不確実性に開かれているということを意味する。
次に、たとえある目的を達成する最も効果的な方法がわかったとしても、それに従って行為しないことを決定することができる。たとえば、学業達成に学校以外の環境が重要だということと、早期教育が重要だということがわかっているとしても、子どもを親から離して理想的な環境に置くことを実行するとは限らない。
このことは、介入の効果性を知ることが教育行為の決定にとって十分条件ではないことの証左である。「特定の介入が望ましい(desirable)か否かという問いは常に存在している。」さらに、自分の行為の教育的効果が何かと問う必要もある。たとえ体罰が行動の改善に役立つとわかっていても、それによって子どもに、暴力で自分の意志を強めたり通したりすることができることを教えてしまうかもしれない。どの目的に応じた効果なのかを考慮しなければ、こうした事態を適切に考えることはできない。
以上から示されるのは、下記である。
教育的手段と目的が技術的・外在的な仕方で結びついているのではなく、内在的・構成的に結びついていること
手段は目的に対して中立的ではない。「効果的」だからといって、われわれは単純にその手段を用いるわけではない。その理由でエビデンスベースド教育は下記権利を奪うやもしれないのだ。
もし教師が「何が有効か」に沿った行為を教育的に望ましくないと判断したときに、エビデンスに従って行為しないという権利
そして研究の立場-価値を明確化する。
探究と研究ができるのはわれわれに可能なことを伝えることだけだということを意味する。一もっと正確に言えば、それらはただ、可能であった(has been)ことを示してくれるだけなのだ。すなわち、研究は何が有効だった(what worked) かを教えるのであって、何が有効か(what will works)を教えることはできないのである。
たしかに、われわれはどうすればよいか「知らない」状況に直面したとき、様々に思考を働かせ、過去の事例や研究結果から仮説を導くかもしれない。しかしそれらを観察者の視点で世界を外側から眺めたものではなく、行為者の視点で眺めたものだと捉える限り、その有効性は行為した結果からしか判定できない。つまり、いくらエビデンスを積み重ねようとも、それは「何が有効か」ではなく「何が有効だったか」に留まらざるを得ないというのがビースタの見解なのである。
こういうわけで、教育はその核心において、技術的な企てというよりも道徳的な実践なのである。
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学習化への危機感
エビデンスの警報
ビースタによれば、近年エビデンスに基づく教育政策・実践が注目されるのは、教育の「学習化(learnification)」が進んでいるからである。教育の「学習化」とは、下記である
PISAや TIMMSのように、多様でありうる教育目的を、「学力」という指標によって比較可能なものとする評価が広がっている。そうすることで、教育を語る語彙が学習の言語へと置き換えられているとビースタは診断するのである。
ビースタは次の二点に注意すべきだという。第一に、われわれは本当に価値を見出すものを 測っているのか、それとも単に容易に測ることができるものを測っているだけなのか 。 第二に 、「効果性 (effectiveness)」という言葉にすでに肯定的な価値が含まれているがために、教育の方向性をめぐる議論がしばしば、置き去りにされがちだということ。
エビデンスの認識論的位相の再検討
そこでビースタが依拠するのがデューイの哲学である。デューイのアプローチの中心にあるのは「経験」である。経験は意識や心的な気づきではなくて、生きている有機体とその環境とのトランズアクションに関わっている。われわれは行為をする前に世界についての知識をもっている必要はない。生きている有機体としてわれわれは、常に既に活動的なのであって、環境とのトランザクションにおいてはじめて何事かを知るのである。 したがって、重要なのは観察者の視点に立った「知識(knowledge)」ではなく、行為者の視点に立った「知る(knowing)」ということになる。「知る」はデカルト以降の二元論的な認識論が前提としてきた、われわれと世界とのギャップが存在しなくなる次元であって、エビデンスに基づく教育政策・実践はこうした次元を看過しているとビースタはいうのである。 さらにピースタはこの知識観に立脚して、「何が有効か」という概念を掘り崩す。デューイの知識観からすれば、われわれは自分の行いの結果を経験することで変容する。試行錯誤の過程を経て、行為の慣習を身につける。ただし、ビースタはデューイの盲目的な試行錯誤と知的な行為の区別に着目する。行為の中の反省は環境とのトランズアクションが滞ったときに生じる。つまり、どのように応答すればよいのかを「知らない」ときに、慣習ではうまくいかなくなったときに、人は思考することになる。このとき、人はやみくもに試行錯誤するわけではない。シンボルを操作して行為の様々な可能性を考える。仮説を立て、想像の中でリハーサルをして、より適切な行為を「探究(inquiry)」することになる。ビースタによれば、この「探究」がデューイの知識獲得に関する説明の中で占める位置に注目すべきである。
この見解がもつ主たる含意のひとつは、探究-つまり研究-が「あちら側にある」世界についての情報ではなく、行為と婦結の可能な諸関係についての情報を与えてくれる、ということだ。
ここでビースタが「可能な諸関係」という言葉で言おうとしているのは、「知識」ではなく「知る」の場合、われわれは常に行為してしまうことでしか事の成否を知ることができない、ということである。たとえ実際に行為していない(想像上のシンボル操作の)場合でも、「知る」ことが起こるためには、実際に行為をして環境に働きかけたときにどうなるかという、その関係についての情報が不可欠なのである。
主体化としての教育
資格化、社会化、主体化
第一に「資格化」について次のように論じる。
教育の―学校、他の教育施設の―主要な機能は、子どもたち、若者、そして大人の資格化にある。(...)資格化の機能は、疑いなく、組織された教育の主要な機能の一つであり、そもそも公的資金によって教育を行う重要な理論的根拠を構成している。これはとりわけ、それだけではないにせよ経済的な議論と結びついている。すなわち、労働力の準備のなかで、そしてそれを通して、教育が経済発展と成長に果たす貢献のなかで、教育が演じる役割と結びついている。
第二に「社会化」について次のように論じる。
社会化の機能は、教育を通して、我々が特定の社会的、文化的、政治的な「秩序(orders)」の一部になる多くの方法と関係している。(...)もし、社会化が教育プログラムや教育実践の明示的なねらいではないとしても、ヒドゥン〔隠れた〕カリキュラムの研究によって示されてきたように、教育は依然として社会化の機能を持つだろう。その社会化の機能を通して、教育は、個人を既存の行動様式や存在様式にはめ込んでいる。この方法で、教育は、文化と伝承の継承において―望ましい面と望ましからざる面との両面において―重要な役割を演じている。
第三に「主体化」について次のように論じる。
教育は単に資格化や社会化に貢献するのみでなく、個性化、あるいは、私の好みでは主体化―主体になるプロセス―と呼んでいるものにも影響を与える。主体化の機能は、おそらく社会化の機能の反意語として、もっともよく理解されるかもしれない。主体化の機能は、まさに「新参者」を既存の秩序にはめ込むことを表しているのではなく、そのような秩序からの独立を暗示するあり方や、個人がより包括的な秩序のひとつの単なる「標本」ではないようなあり方のことを表している。
このような教育の「機能」をビースタは三すくみとは考えず、「複合的」なものだとする。
主張したい主なポイントは、何がよい教育を構成するのかについての議論に我々が関与するとき、我々はこれが複合問題だということを認めるべきである、ということである。(...)我々が視覚化に取り組むとき、我々はいつも社会化や主体化にも影響を与えている。我々が社会化に取り組むときも、我々はいつも特定の内容に関連しながら同様のことをしている。つまり、資格化の機能とリンクしているし、主体化への影響を持っている。そして我々が主体化を第一とするような教育に取り組むとき、我々は同じように特定のカリキュラム上の内容と関係して資格化に影響を与えるだろうし、このことが常に社会化の効果も持つだろう。したがって教育の三つの機能はベン図の形式で最もうまく表すことができる。すなわち三つの部分的に重複する領域としてである。そしてより興味深く、重要なのは、実際には、それ自体として個別的な領域よりも、むしろ諸領域をまたぐ交差についての問いである。(...)問題が、資格化か社会化か主体化かを選択することにあるのではなく、むしろこれらの次元の独特な「混合」にあるということである。(...)三つの次元を区別することがいつも容易であるとは限らないし、これら三つの次元のなかで起こっていることの間の相互作用を把握することはより困難でさえあるが、教育の目的についての我々の議論の中でこの複合性に気づき、このことに明確に取り組むことは重要であると私は考える。
主体化の意義
ビースタは本書の「はじめに」にて次のように結論づけている。
民主主義的な機会は何よりもまず、教育の主体化の次元に存在し、我々が教育の他の次元に、より民主主義的に関わることができるのは、これを通してのみである、と私は主張する。
エルカースは民主主義とは「単なる生活の一様式としては定義されえないし、教育はその単なる相関物ではあり得ない」と主張する。彼は、民主主義と教育を、互いの上に単純に重ねることができない質的に異なった領域であると見ている。(...)彼は、学校教育という視点から、「教育を社会的経験や経験的学習に縮減することは支持できない」、なぜなら「教育の決定的な局面は、主体に関係づけられた学習、すなわち、標準が個人化されるように、第三者の知識や能力が自分自身の経験に変換される点を意味している」からである、と結論づける。ここでは、この種の学習が民主主義にとって重要ではないと言おうとしているのではなく、民主的なコミュニケーションや集団的な意思決定それ自体に関連して生じる学習とは異なると言おうとしているのだ。したがってエルカースは、学校は社会ではないし、社会は学校ではないとも言えるという理由から、基本的に「萌芽的社会」としての学校というデューイの概念を拒否する。(...)エルカースに従えば「未来のための理論的挑戦」とは、学校と社会の間には「たった一つだけの」関係性、すなわち「小さいものと大きいもの」という関係がある、とのデューイの見解を超えていくことである。もしくはより正確に言えば、仮に学校は 社会ではなく社会は学校ではないと認めるならば、問題は、民主的な教育がどのようにして「民主
主義の原理を遂行」でき、同時に、「教育の要求に応えうる」のか、ということだ(p.15)。この問い
の背後にある困難を例示するために、エルカースは、第五代シカゴ大学学長(1929-1945)であるメイ
ナード・ハッチンスの見解について議論する。彼は、一九三〇年代に、学生にシティズン(市民)と
では「なぜ、民主主義的な社会のなかでの教育の役割を社会化の点だけから考えるべきではないのか」。ビースタは次のようにいう。
熟議民主主義は前提として議論が合意へと収斂していくための条件として、市民がある資質を備える必要があるとする(Informed citizen)。この考えには、裏を返せば、初期条件(合理的に思考し、公平を尊ぶことができるといった資質)に合致した人々にとってのみ機能するような公共領域が前提にされている、という。 ビエスタによれば、それは下記システムに至るという。
参入条件がだれがだれを排除し、だれかを内包する際につねに政治的な「作用」をもつこと
これはつまり、教育が民主主義へと準備するプロセス、すなわちあらかじめ想定された良き市民を再生産する営みとして位置付けられてしまうこと(方法的社会化=ディシプリン的系譜)。更に現状の民主的秩序の正当性に対して異議申し立てする人びとは不道徳な者、つまり、悪であると容易に見なされてしまうことである。そのような政治=教育環境をビースタは下記のように表現する。 闘技民主主義(教育)検討
一方ビースタが提唱する政治=教育環境を下記のように定義する。
ビースタのいう「学習する民主主義」とは市民性を「未来に向けて根本的に開かれた目下進行中のプロセスとして考えることを重視する」教育である。ビースタの学習論を闘技型の市民性教育とみなしたとき、その特徴として以下のことが指摘できる。すなわち、闘技型の市民性教育における市民性とは、民主的な価値を受け入れ、目下進行中である民主主義のプロジェクトに参加しようと欲望することであり、市民として必要な能力や態度を具体的に規定したものではない。 それゆえ、ビースタも述べるように、闘技民主主義が要求する市民性は「リベラルな政治的コミュニティの構想において想定されているものよりも」開かれている。
更に、熟議民主主義的公共領域の考えでは、それを理性的で公平を尊ぶ市民で満たせば権力(power)がもたらす弊害は乗り越えられるというように、権力を理想的には除去される必要があるものとされているが(それは不可能であり)、民主主義政治にとって重要なのは、〔公共領域から権力を除去する仕方ではなく、民主的価値(自由と平等)により適切に合致するように、権力のあり様を変革することである〕とし、そんなムフがいう公共領域における政治的主体とは、対立や衝突があり、それを通して権力を変革していくまったく歴史的なプロジェクトとして理解する者である。そうした主体についてビエスタは次のように表現する。
民主主義的主体とは、いわゆる、民主主義への欲求〔desire〕、より厳密に言えば、目下進展している民主的なあり方の実験に参加する欲求に駆られた人である
ビエスタは、このように政治的主体を捉えた上で、民主主義教育の構想としての「市民としての学び〔civiclearning〕」について次のように述べる。
市民としての学びとは、民主主義政治という目下遂行中の実験の内在的次元である~ここでいう学びは、知識、スキル、コンピテンシーあるいは態度の獲得ではない。それは、民主主義という実験に「曝されること」、実験に参加することと関係するものである。この参加が主体化である。個人は、まちがいなく民主主義から学ぶのであって、民主主義のために学ぶのではない。なぜなら、民主政治の根本は「原理的なもの〔archic〕ではないからである。
ビエスタは、民主主義を教えるというよりは、市民としての学びが生じると述べているのである。注意したいのは、ビエスタは、「市民としての学び」に関わる理論的問題は、学習理論あるいは発達心理学領域の進展によって回答が得られるものではない、としている点である。というのも、主体化としての「市民としての学び」は、まずは、民主的主体についてのわたしたちの理解の仕方に由来するものだからである。