ムージルの詳しめのプロフィール
ムージルの詳しめのプロフィール
概要
活動
経歴
https://gyazo.com/10b3ab698984c8ebd0ada38b140603c2《1880年11月6日、クラーゲンフルトに生まれる。幼少期をコモタウ(現チェコのホムトフ)、シュタイアー(オーバー・エースターライヒ州の都市)で過ごす。シュタイアーにはギムナジウムがなかったため、ムージルは成績優秀にもかかわらず実科学校に通った。一家は1891年にブリュンへ転居するが、そこでもやはり実科学校に通う。ブリュンで出会った二歳年上の友人グストゥル(グスタフ)・ドーナトから性に関する知識を得るなど、早熟な少年だったムージルは、両親、特に母親との衝突と「ナポレオン的」なものへの憧れからアイゼンシュタットの陸軍初等実科学校へ進み、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン(チェコのフラニツェ・ナ・モラヴィェ)の陸軍上級実科学校に学んだ。やがて機械工学の道に転じてブリュン工科大学に入学。 その後再び哲学に転じると、ベルリン大学でエルンスト・マッハ研究により博士号を取得する(1908年)。しかし結局、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906)で踏み出していた作家としての道を選ぶ。1905年には「特性のない男」の草案を日記に書いている。》https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル 作品
(『特性のない男』)
反響
(ムージル文学館。暮らしていた家)
エピソード
https://gyazo.com/90fa02ad671bbac0c28ced10de656b3b雑誌編集者時代にカフカの才能に注目(他にロベルト・ヴァルザーなどに対しても評価)し、雑誌への作品の掲載を打診したりしている(だが実現せず)。第一次世界大戦中の病気療養の際には彼の元を訪問もしている。そのころ、若きベンヤミンの原稿を読み、けっきょく掲載しなかったらしい。そのためかは不明だが、ベンヤミンはムージルに批判的なコメントを残している。/スポーツ万能で、両手づかいだった。食事など基本的なことは左手で、その他のことは右手で行った。/シュタイア実科学校の後輩にヒトラーがいる。/彼の人生において重要な事件に、ヴァレリー体験がある。/《ムージルにとって読むことと書くことは幼少のころから特別に際だった体験であり、ドイツ語の作文ではその長大さと巧みに盛り込まれた見解、豊麗な描写が教師を驚かせたが、自身では「綱渡り」のような興奮状態の内に書かれた文章も、読み返す段になると、「結局彼(ムージル)は転落するのだった」と日記で回想している。》https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル 略年譜
以下、カール・コリーノ『ムージル伝記3』、ベルクハーン『ムジール』、プフォールマン『ローベルト・ムージル』などを参考に作成
11月6日午前5時、クラーゲンフルト市近郊ザンクト・ループレヒトに父アルフレートと母ヘルミーネの子として生まれる。
4月19日、『新ブリュン新聞』に「ヴァリエテ」掲載される(初めて実名で署名をした公刊作品である)。
10月末、『テルレス』刊行。
5月末、『合一』および『テルレス』新版がミュンヘンのゲオルク・ミュラー出版社から刊行される。 8月20日、リンツにて国民軍に入隊。
https://gyazo.com/068f9ad0897e8d359ea8ffe9d5a503855月、訪問客のアルフレート・デーブリーン、ムージルの長編小説の原稿に自分の名前を書き込む。デーブリーンは冗談のつもりであったが、ムージルは原稿の持ち主が自分でなくなったような気になり、その後何カ月も長編小説の続きが書けなくなる。12月29日、リルケ死去。追悼会開催の是非をめぐって、ベルリンの「グループ1925」内部に激しい議論が巻き起こる。ブレヒトは反対したが、ムージルは賛成し、ムージルの意見が通る。 https://gyazo.com/e50f413818ab9dd85a013ec3567fa6bd1月16日、ベルリン、ルネサンス劇場で催されたリルケ追悼会にて講演。2月6日、ベルリンの「ラジオ講座」の連続放送番組「現代の名匠」に出演。『テルレス』、『熱狂家たち』、未刊の長編小説『特性のない男』からそれぞれ一部分を朗読(このとき『特性のない男』という表題が初めて公にされる)。2月14日、『リルケ追悼講演』刊行。 4月8日、正式に『特性のない男』と名づけた長編小説を部分的に発表しはじめる。第八章にあたる「カカーニエン――断章」を『ターク』に発表。 9月半ば頃、ベルリン。経済状態が逼迫。美術史家クルト・グラーザーによる後援のもと、ムージル協会が設立される。同協会は銀行家クラウス・ピンクスとともに、およそ二万マルクを調達。しかし会員の大部分がユダヤ人であるため、同協会は1933年1月30日のヒトラーの政権掌握以降、散り散りに。 12月19日、ローヴォルト出版社から『特性のない男』第二巻刊行。
https://gyazo.com/8a4273b55b0b9e4e4ae2a7ab0f44b7fa8月末から、ヘルマン・ブロッホに対して自分のエッセイを剽窃したと非難。ブロッホは誠実に対応し、ムージルの非難を退ける。 5月、ムージルの友人たち、「ムージル基金」設立を呼びかける。結果、約400シリングという下級公務員の月給程度の金額が、さしあたり一年間毎月支給されることに。 12月半ば、チューリヒのフマーニタス出版社から小品集『生前の遺稿』刊行。実売数、数百部。 3月13日、独墺合邦(アンシュルス)。ムージルの友人や知人のうち、多数のユダヤ人がオーストリアを去ったため、ムージル基金の経済基盤は崩壊。 10月10日、『特性のない男』がドイツ国内全域で「禁書に指定された」旨、ウィーンのベルマン=フィッシャー出版社管財人から書状により通知される。 4月15日午後1時、ジュネーヴで脳卒中に襲われ死去。