結婚不要社会
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発行年 : 2019 年
TL;DR
経済的変化により、生活と恋愛を同時に満たす相手を見つけることが困難になってきた (経済か愛情かという選択)
欧米では結婚せずに 「パートナー」 として親密性を優先して経済は自立 → 結婚不要社会 日本では従来型の近代的結婚に固執している (親密性と経済生活の両立を目指す) → 結婚困難社会
感想
現代社会において結婚は合理的ではないよなー、結婚の意義ってなんなんだっけ、ということを考えていたので結婚について整理されていてよかった
現代社会においては親密性と経済生活の両方を結婚に求めるようになっていて (逆にそこにしか求められない社会になっていて)、だからこそ結婚が困難になっているとのことで、確かになー、と思った
親密性も経済生活も結婚にしか求められないというのは生きづらいと思うが、何故そうなってしまうのか?
社会制度と社会における規範の 2 つが日本における課題っぽい
日本でも結婚とは別の形での家族形成や共同体構築といったことも考えていく必要があるんじゃないかな、って思っている
まとめ
結婚とは?
文化や時代によって、結婚の形態や、その意義などはさまざまである 北西ヨーロッパやアメリカでは 100 〜 200 年前に、日本では 60 〜 70 年前に近代的結婚に移行した 個人や社会における結婚の意味合いが、「前近代社会の結婚」 と 「近代社会の結婚」 で大きく異なる
ミニマムな定義 : 性関係のペアリングに基づく恒常的関係
恋心や愛情の有無は、結婚を通文化的に説明する際には不適当
制度的な 「婚姻」 の意味 : 単に一時的な男女の性関係や私的な同棲と異なり、社会的に承認された持続的な男女関係の結合であって、その当事者の間に一定の権利・義務を派生させる制度 (比較家族史学会 『事典 家族』) 文化人類学での通文化的な婚姻関係 : 「排他的性関係」 (結婚した二人の性関係の特権的な正当化) と 「嫡出原理」 (結婚した二人の子どもの社会的位置づけの正当化) の 2 つの概念に集約される 排他的性関係は嫡出原理に直結する社会的機能を持っている
裏返しとして、結婚外で生まれた子どもには社会的不利益が与えられる場合が多い
結婚が当事者にもたらす効果
結婚は、当事者に 「経済的」 と 「心理的」 な効果をもたらす
経済的 : 結婚によってペアの経済的な生活水準が同一になる (例外もあり、結婚しても経済的には別々の場合もある)
心理的 : 結婚相手は親密性の相手。 性行動や恋愛感情を含めてお互いを心理的に満足させる仲の良い相手となりうる
経済的効果と心理的効果のどちらを重視するかは時代や文化によって異なる
近代社会においては、この 2 つの効果が純化している 結婚相手以外に経済的責任を持つ必要はないし、結婚相手以外の人と楽しく過ごしてはいけない
排他性の原理がより純粋に適用される
結婚の社会的機能
結婚には、当事者それぞれが属する親族集団を結びつける社会的な機能がある 前近代社会では、親族間という領域が重要な機能を果たした 近親婚禁忌は普遍的にあるので、親族が再生産するために外部から生殖相手を得る必要があった 近代社会においては、その機能はほとんど見られない
結婚は 「新しい家族を形成するイベント」 であり、個人的な側面が強い (親族の拘束を離れた)
近代社会における結婚の矛盾
社会としては個人が結婚して子どもを産んで次世代を育てることが不可欠
しかし、「結婚は個人的なもの」 という意識が出現してしまった
個人の決定と社会の存続が相反してしまう可能性がある → 社会から個人への介入は不可避であり、「介入じたいけしからん」 と言うのではなく、「どう介入するか」 という点で議論する必要がある
近代社会と結婚
前近代社会における結婚はイエ同士の結びつきであり、イエのためのものだった 家業が経済基盤
生涯にわたって自分の居場所があった (縛られていた)
近代では、仕事も自分で見つけなければならないし、人間関係においても自分を承認してくれる相手を独自の力で見つけなければならない
生活上の不安や心理的な不安、人間関係の不安 → これらのを解消する手段として 「近代家族」 が出現した 社会が成長しているときには、自分が属するコミュニティの外に出て生きた方が得
コミュニティの中で互いに支援しあうより、それぞれが個別に豊かになる方が経済的に得という話
→ 近代社会では宗教集団や親族集団が徐々に機能しなくなった
近代社会において、生活の安定と親密性に関して、家族に代わり得るものがない
結婚していない人にも居場所があった
近代的社会では配偶者に全ての情緒的満足を依存することが求められるようになった
ただ、今日においては配偶者とのそんな依存関係が緩やかになっている
近代的結婚は、親密性と経済生活の 2 つの要素を満足することを前提に組み立てられている 欧米でも日本でも、最初はそれが成り立つ社会的・経済的条件が整っていた
条件が変わって、結婚が不要あるいは困難になってきた
日本では、1995 年ごろに始まる経済成長で経済構造が変化して、近代的結婚が普及していった
戦後から高度成長期までは誰と結婚しても豊かな家族生活をつくれるという経済的条件を満たしていたため、皆婚社会が成り立っていた 当時は付き合ったら結婚するのが当然だとみなされていた
近代的結婚の危機 (結婚不要社会・結婚困難社会)
社会学では、通常近代社会が 2 つの段階に分けられる (近代 I と近代 II とする) 近代 II は、近代社会がもともと持っていた個人化や自由化といったトレンドがさらに深まって、近代 I とは質的に異なる社会になっている
現代の日本も近代 II
特に 「若年雇用の不安定化」 と 「性革命」 が結婚の在り方に影響 近代 I では長く安定した収入が見込めて豊かな生活だったが、近代 II の若年雇用の不安定化により、「結婚後に期待する生活水準は高いが、実際の収入は低くなってきている」 という状況
性革命と離婚の自由が増したことで、結婚と親密性が分離 近代社会では、結婚は豊かな生活と自分を認めてくれる親密な相手が手に入るものとして追及されてきたが、近代 II になって両方の追及が困難に
結婚は制度的な意味しかなくなった
欧米では結婚せずにパートナーとして親密性を優先し、経済は自立するような社会になっている → 結婚不要社会 対偶婚の時代に近い気がする nobuoka.icon 女性の方は、男性に収入や容姿を求める人が多い
男性の方は、年齢が重要な基準になっている (容姿に関しては人それぞれ好みが違っている)
→ 女性は婚活により結婚の可能性が高まる手ごたえを感じるが、男性は収入や容姿が悪ければその段階で選別されるため婚活してもチャンスは増えにくい
結婚できる・できないの格差は特に男性側に残る
まじか (ほんまか?) と思ったりもするけど何となくわかる気もする nobuoka.icon
なぜ近代的結婚に固執するのか?
社会システム的に結婚した方が便利だから
社会保険や相続、死亡届、入院した時の面会など
特に子どもがいる場合
永続性の保証があると思っているから
アメリカや中国と違って、一方的な離婚ができない
遺族年金を貰うために、嫌な相手とでも死別するまで結婚生活を続けるという人もいる
日本が世間体社会だから
若者は 「多数派に入らないと仲間外れにされる」 という不安の中で生きている
世間体から解放されるにはよほどのインテリでないと難しい 子どものため
子どもが小さい間は自分の手で育てたいが、養育のためのお金も確保したい
日本ではパートナーがいなくとも幸せに生きられる社会になる、という方向で結婚が困難になったことに対処しようとしているように見える
欧米では幸せに生きるためには親密なパートナーが必要だが、日本ではパートナーが居なくても幸せに生きられる
つまり、日本は結婚困難社会になりつつあるが、同時にパートナー不要社会になっている
欧米はパートナー形成圧力がある (パートナーが居ないとみっともない) が、日本では 「ちゃんとしたパートナーでないとみっともない」 という意識
内容詳細
はじめに
今日の日本社会は、制度的・意識的に結婚不可欠社会であるのに、結婚したくてもできにくくなっているという大きな困難を抱えています。つまり、いまの日本はいわば 「結婚困難社会」 なの 1 章 結婚困難社会 ― 結婚をめぐる日本の現状
男性にとって結婚はゴール、女性にとってはスタートと意識されてきた 20 年以上前の筆者の著書 『結婚の社会学』 において 「結婚とは、男性にとってはイベント、女性にとっては生まれ変わり」 と指摘 「少子化」 という言葉が一般化したのは 1996 年 当時は研究者の大勢はこれを 「晩婚化」 と認識したが、筆者は未婚化であると主張 「未婚化を克服しないと、少子化も克服できない」 という見解
特に女性の場合がそうで、仕事をしたいから結婚しないという人はほとんどいなくて、むしろ 「いい男がいないから結婚していない」 と答える人が大半
「父親よりも収入の高い男性と結婚する」 という価値観だが、経済成長が鈍って自分や父親よりも収入の高い男性を見つけることができなくなり、結婚相手を見つけることが難しくなっている
1975 年ごろまでは結婚したい人は結婚できた (nobuoka.icon 皆婚社会だ) なぜ実態把握ができていなかった?
マスコミや政府の調査対象になる男女は、大学卒の高学歴や都会在住者、大企業の正規雇用者や公務員たちという生活者が多い
一方で、世の中にはそのような範疇に入らない人が数多く存在
1. 「男は仕事、女は家庭」 という従来型の結婚にこだわっている
1990 年代は恋愛が活発 → 一人に決められない人たちが結婚を先延ばしにするため結婚が減っている
「もっといい人」 を求め続けていた
90 年代以前は 「恋愛したら結婚して当然だ」 というのが社会的な風潮
2000 年以降は、恋愛が不活性化しているために結婚が減っている
「結婚したければいつでもできる」 というものから、「結婚自体が困難になっている」 と認めた政府の政策変更と、未婚者の 「婚活」 行動──その二つが相まって、近年は国や自治体による 「結婚支援」 といった動きも広がっているわけ 経済的にもこの 25 年の間で大きな変化がありました。最も大きな影響を及ぼしたのは、
2 章 結婚再考 ― なぜ結婚が必要なのか
日本では 60 ~ 70 年前
前近代社会では親の結婚以外のモデルに触れることが少なかったので変化の機会は少なかった
グローバル化により別の文化や情報が入ってくることで、個人の選択が生まれてくる (個人化) 平成の天皇陛下の結婚 (1959 年) が社会に与えた影響は大きい 当時の庶民の多くは見合い結婚
お二人の出会いは、軽井沢のテニスコート
コートで 見初めて恋愛結婚した、というのが公式見解
個人や社会にとっての結婚の意味合いが、「前近代社会の結婚」 と 「近代社会の結婚」 とで非常に異なっている
結婚の役割 : 生まれた子どもの父親を特定するということ (文化人類学の知見から得られる人類社会に共通する役割) 結婚というのは、単に二人が一緒に住むというだけではなくて、排他的性関係があるということで、当人たちは 「結婚している」 と自覚 明治時代 (前近代社会から近代社会への過渡期) は、事実上の一夫多妻を容認する社会 明治民法では法律上の妻の子どもは 「嫡出子」、正妻以外の妻の子どもは 「庶子」、父親から認知されていない子どもは 「私生子」 というように、それぞれが二重に 結婚の効果
結婚する個人にとっては、「経済的」 と 「心理的」 な効果をもたらすのが結婚
「結婚は性的なペアリング」 だが、人は結婚すると、「経済」 と 「心理」 双方の面でメリットまたはデメリットを得る
経済効果
ほとんどの社会では共同生活 → ペアの経済的な生活水準が同一に 心理的効果
言語的 (話す・聞く)、身体的 (見る・さわる)、物的 (あげる ・もらう) コミュニケーションが、自然に障害なく行われている状態
どちらの効果を重視するかは時代や文化で異なる
前近代社会では、夫婦という単位は親族に包摂されていた (どちらの効果も夫婦以外の要素に強く影響された) たとえば、結婚相手以外の人に経済的責任を持つ必要がないし、逆に結婚相手以外の人と楽しく過ごしてはいけない
結婚における排他性の原理というものが近代社会においては、より純粋に適応されている
結婚がもたらす効果を純化したのが近代社会である、という言い方もできる
結婚の社会的機能
性的ペアリングである結婚には、二人がそれぞれ属している 「親族集団」 (氏族やイエ、伝統的な日本社会では農山漁村のマケ (同族集団) など) を結びつける社会的な機能がある 近代社会においては、その機能はほとんど見られない
結婚相手のきょうだいが困っていた時に助けるか?
前近代社会であれば助けるという規範があったので全員が助けていたが、近代社会では助けない人がほとんど
前近代社会では、「親族間」 という領域が重要な機能を果たしていた
たとえば、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが分析したように、結婚は 「生殖相手を親族間で交換するイベント」 ととらえることもできる そのため、親族が再生産するためには、外部から生殖相手を得る必要があり、結果的に、結婚が家族や親族を結びつけるものになっていた 近代社会では、結婚は 「新しい家族を形成するイベント」
個人のイベントという側面が強まった
結婚は親族の拘束を離れて 「個人の欲求充足」 や 「自己実現の手段」 ととらえることができる
結婚の矛盾
社会全体や国としては、個人が結婚して子どもを産んで次世代を育てることが不可欠
個人にとっては 「結婚は個人的なもの」 という意識が社会に出現
結婚が社会問題として浮上してくる大きな原因でもある
結婚や出産は個人のものとしながらも、社会全体は結婚や出産に依存しているのが近代社会
国民なり政府なりは、人々の結婚や出産に関心を持たざるを得ない
その関心は、たとえば今日の 「婚活」 にも表れている
そもそも社会や国に介入されるのが近代社会の特徴
近代社会は、国は個人のものとされながら、社会は個人の決定に依存する
つまり、個人の決定と社会なり国なりの存続が相反してしまう可能性がある状況にあり、それは、近代社会が抱え込んだ解決しなければならない根本的課題
「介入じたい、けしからん」 と言うことにはまったく意味がなく、批判するにしても 「どういうふうに介入するか」 について論じなければならない
近代社会における結婚の矛盾は、いわば個人と社会の矛盾
近代的結婚はもう一つ、恋愛と生活の矛盾というものも抱えている 3 章 近代社会と結婚 ― 結婚不可欠社会
いわゆる伝統的規範が緩んで、社会的生活が個人の選択にゆだねられる部分が増える 個人のわがままではなく、選択肢が増えたということ
近代社会になって、結婚相手に関する選択肢が生まれたし、結婚しないという選択肢も出てきた
結婚に関わる変化は大きく 2 つ
社会経済の面
前近代社会では家を継ぐしかなかったが、逆に言うと仕事が生涯保証されていた
いわゆる家業 (農家や商店など) が経済基盤である社会では、「後継ぎ」 によりその基盤を次の世代に受け渡す必要がある
だから結婚が必須
要するに前近代社会では、イエの農地やイエの店舗が生活を保証するものだったということ
近代社会では将来に渡る生活が保証されない
心理的な面
前近代社会には、生涯にわたって自分の 「居場所」 があった (縛られていた)
自分が何者であるかという問いは意味がなく、自分の友人や知人が比較的自然に与えられる
近代になると 「人生の意味」 を自分で見つけなければいけない社会になった 人間関係では、自分を承認してくれる相手を独自の力で見つけなければいけない
自分の存在を承認してくれるというのは、「親密性」 の根底にあるもの つまり近代社会の人間関係は、前近代社会のように伝統的に与えられた人間関係ではなくて、自分で人間関係を選んだり選ばれたりするようになった
自分が親密な相手として選ばれないリスクが出現
実存主義哲学者 (キルケゴールやサルトルなど) が言う 「存在論的不安」 「実存的不安」──「はたして自分はこれでいいのか」 とか 「自分は一人ぼっちじゃないのか」 といった不安──があらわれて、それを自分で解消しなければいけない こうした生活上の不安や心理的な不安、人間関係の不安を解決する手段として、「近代家族」 というものが出現 社会が成長しているときは、宗教的共同体に限らず、自分が所属しているコミュニティの外に出て生きたほうが得 コミュニティの内部にいて仲間と支援し合うよりも、それぞれが個別に豊かになっていくほうが経済的には得
親族集団でも、親族が貧しいからといってサポートし続けていたら、いつまでたっても自分は豊かになれない 親族集団から離れて自分一人が豊かになろうとしたほうがやはり貯えは増える
そして、成長社会のもとでは 「自分の家族だけを心配していればいい」 という社会のほうが、能力のある人にとっては得
近代社会の特徴である 「個人化」 とはこういうこと
近代化が結婚にもたらすものは個人の選択
「個人の選択」 がもたらされた大きな要因は、産業革命 親の資本を継承する社会でなくなったことが、結婚に個人化という決定的な変化をもたらした
つまり、個人が配偶者を選んで近代家族をつくるようになる条件には、男性が親の家業を継ぐのではなく、男性がイエの外で働くことが可能になるという 「仕事の個人化」 が含まれている 家業を継ぐということは資本を継ぐということ
前近代社会では、夫婦は代々の家業の後継ぎと後継ぎの妻であることが求められ それが近代社会になると、イエの外に出た核家族が 「生活共同と親密性の単位」 になる 「生活共同と親密性の単位」とは、夫婦が経済的に独立した単位であると同時に、存在論的不安解消のためのアイデンティティの源泉となることを意味
近代社会における結婚は、夫婦という単なる社会的な単位を形成するだけではなく、子どもの養育を含めた共同生活の相手でありかつ親密な相手 (自分を承認してくれる相手) を得るという人生の決定的な出来事
逆に言うと、近代社会において結婚しないということは、経済的な孤立プラス心理的な孤立という、深刻な二つの孤立を同時にもたらす
近代社会においては、生活の安定と親密性に関して、家族に代わり得るものはない 近代社会において、結婚は個人にとって不可欠なものに
不可欠というのは逆に言うと、結婚しないで独身でいることは、心理的には自分を承認してくれる相手がいないということで、わかりやすく言えば「さびしい」ということ
「個人」 と 「社会」 において結婚には大きな矛盾が生じている
近代社会は、結婚に恋愛と生活という 2 つの要素を入れたことで、結婚の条件が 2 つに引き裂かれた
それが現代日本社会における結婚の困難を引き起こしている最大の要因
現代社会の結婚において経済か愛情かという選択は地域によって違っている
日本やアジアでは経済を優先して好きかどうかは二の次 近代社会において、配偶者に誰を選ぶかが個人にとって決定的に重要
夫婦は親密性の単位なので、互いに自分の存在を肯定してくれる存在でなければならない 結婚は新たな経済生活のスタートなので、生活水準も期待を超える必要
前近代社会では、結婚していない人の居場所がありました。このことは拙著 『「家族」難民──生涯未婚率 25%社会の衝撃』 (朝日新聞出版/2014年) などで詳述していますが、前近代社会では結婚していなくても、たとえば 「部屋住み」 といったかたちで、嫡男ではない独身者が村の中で暮らし続けることが保証されていました。 また、日本ならお寺に入る、ヨーロッパなら修道院に入るという生き方もあったわけです。 要するに結婚しない、できない、してはいけない人たちが一定程度の割合でいて、その人たちをどう経済的に処遇するか、アイデンティティをどうするかという問題を解決する居場所が用意されていたわけ
近代社会は、夫婦に特権的な位置づけを与えました。逆に言うと、家族以外で自分の生活を保証してくれる存在がなくなっていくのが近代化ということ
いまではほとんどありませんが、結婚したら他の異性とのつき合いをなくす、というのは一昔前では日常的な習慣としてありました。結婚以外の性的な関係や異性同士の親密な関係は望ましくないものとされるのにはこうした土壌があったのです。
近代的結婚が立ち上がるときと、近代的結婚が崩れ始めるときに、如実に時代に表面化してくるのが不倫である、といえるでしょう。 近代的結婚は、親密性と経済生活という二つの要素が一致していることを前提に組み立てられています。日本でも欧米でも最初のうちはそれが成り立つ社会的・経済的条件が整っていました。けれども、条件が変わって親密性と経済生活が一致しなくなる。その帰結として、結婚が不要になるか、結婚が困難になるかという二つの道があるという言い方もできるでしょう。 4 章 戦後日本の結婚状況 ― 皆婚社会の到来
日本における結婚の歴史 (明治以降)
戦前まで
階層ごとに異なっていた
明治政府は近代化、つまり 「結婚の自由」 を推し進めたが、実質的な結婚の自由はほぼ無かった 「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」 といった条件に本人同士が合意し、友人の福沢諭吉が証人になって結婚 結婚はイエの継続が第一の目的
基本的には長子単独相続 (長男が嫁を取ってイエの跡を継ぐ、男子がいない場合は長女に婿を取る) イエは経済的基盤と連動していました。結局は、家業を継承するために結婚相手を選ぶということが、結婚の基本となるわけ
庶民は比較的自由に相手を選べます。上流~中流階級とは違い、庶民同士なら誰と結婚しても「暮らし」は結婚前と一緒なので、比較的自由だったのです。とはいえ、地域の仲間の介入はありました。 たとえば、農村や漁村には夜這いの慣習がありました。夜這いは「お前はあそこに行け」などと地域の仲間に管理されていて、その結果、子どもができて結婚するということがよくあったわけです。 未婚女性は何らかの手段で生活していかなければなりません。その意味では自立している女性が少ない以上、明治から戦前までの未婚女性にとって男性の浮気というのは、ほとんどが自立して生活していくための売買春か、生活の面倒を見てもらう第二夫人以下になるためのものかという二つの行為とイコールだったのです。
実質的に結婚というものが変化するのは、1955 年頃に始まる高度成長によって、経済構造が変化して以降のこと このように戦後の結婚は、好きな相手と結婚する愛情の単位となりました。そして先に述べた通り、それは同時に経済的に独立した単位にもなったのです。この「心理的」と「経済的」の単位が、近代的結婚を成立させる二つの要素です。要するに、愛情で結びつくことができる相手、経済的に豊かな生活を築くことができる相手というものが、結婚相手の基準として求められるようになったわけです。
上昇移動への期待があり、それが実現されていたからこそ、戦後から高度成長期までは、ほとんどの人が結婚する 「皆婚社会」 が成り立っていたわけです。 当時は未婚の男女が全国的にあふれていました。そして若者たちは、だいたいもれなく組織化されていまし
さらに当時は、「つき合ったら結婚するのが当然だ」とみなされていました。初めてつき合った一人目の相手と結婚する人が大部分でした。しばらくつき合ったあとに「嫌だから別れる」というのは、ほとんど許されなかったのです。
普通につき合って何もないのに別れるというのは、親族や友だち、先ほど挙げたような集団から「ひどいやつだ」と思われたし、「けしからん」と言われました。つまり、仲間からのサンクションがあったわけです。 このような「世間体」という心理的な圧力も、皆婚社会の成立に大きく影響しているでしょう。
私は以前から、知り合った相手に「つき合ってください」「わかりました、つき合います」といった、告白をしなければ恋愛関係に発展しない告白文化が、今日の若者たちの恋愛の活発化を妨げている要因の一つではないか、と主張しています。
告白して恋人になる、性関係を結ぶことが、結婚とほとんどイコールになるというのが高度成長期にできあがった日本の恋愛結婚における告白文化なのです。
5 章 「結婚不要社会」 へ ― 近代的結婚の危機
結婚のあり方に影響した深化・転換のトレンド
ニューエコノミー化は、欧米では 1980 年代以降、日本やアジア新興国では 1990 年代以降、顕著になった ニューエコノミーにより、従来 「男は稼げる」 という状況だったのが、「男も女も、稼ぐ人もいるし稼げない人もいる」 に
ニューエコノミーが家族に与える影響 → 男性の被雇用者に与える影響
近代 I では、男性が一生にわたって安定した収入を得られることが期待できた ニューエコノミー化で、雇用が不安定化し、格差が拡大 (特に若い男性)
欧米でも日本でも一般的であった性別役割分業家族を形成することが、特に収入の低い若い男性にとって困難に 全ての女性が収入の高い職業に就けるわけではなかった
多くの若年女性は低収入の状態にとめおかれた
その結果、女性間の収入の格差
結婚に大きく影響
近代 I では、結婚に期待する生活水準が低く、結婚後に予想される生活水準は高いから結婚が促進される 社会意識の変化も結婚に影響を及ぼしました。特に大きかったのは、1960年代から欧米で始まる「性革命」です。それは、離婚の自由化やフェミニズムの浸透といったもので示されるカップル関係の個人化・自由化を促進しました。 個人化・自由化というのは、伝統的規範に従わなくてもよいという個人の選択の自由が社会的に認められていくことなので、当然ながら従来の結婚のあり方を変えていくわけです。 いわゆる性革命は1960年代、アメリカやヨーロッパの若者たちが政治的に反乱を起こした時代に始まります。日本でも全共闘などの学生運動がありましたが、世界的な若者の反乱の中で、イシュー(課題)の一つになったのが「性の自由化」でした。 フェミニズムの運動とも連動していました。フェミニズムの第一のターゲットは、女性の職場への進出や女性差別禁止だったわけですが、もう一つのターゲットは女性の性意識の解放です。つまり、女性は単に男性の性欲を満足させる道具ではなく主体的・積極的に性関係を求めてもかまわないし、性的な楽しみを求めてもかまわないというような性意識の解放を、一つの目標としてフェミニズムは掲げていたわけです(江原由美子『女性解放という こうした一連の変化をひと言で表現すると「家族の規制緩和」と呼ぶことができます。 先に述べた通り、経済分野ではさまざまな規制緩和が行われ、ニューエコノミーとなって経済が発展します。ただその代わり、同時に中間層が壊れて富裕層と貧困層に分裂する二極化が起こりました。 それと同じように、家族の分野でも規制緩和が行われ、家族や性に関するさまざまな規制が取り払われる方向に進みました。そして、それがすべての人にとってプラスだとは限らないというのも、経済分野と同様なのです。
家族の規制緩和の結果、近代 II における結婚は 2 つの危機にさらされる 1. 性革命によって、愛情を持って性関係を楽しむ (好きになった相手と性関係を含んだ親密なコミュニケーションを持つ) ために、結婚というかたちを取る必要がなくなった
つまり、愛情を実現するうえで結婚は不要になってしまった
2. 離婚の自由化により、結婚が必ずしも親密な関係や性関係の永続を保証しなくなった
イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの言葉を借りれば、「相手を選び合っていることだけ」 が親密な関係 (互いに好きだという関係) を続ける唯一の根拠になってしまった つまり、別に結婚しているからといって親密であり続けるわけでもなく、結婚しないからといって愛情がないわけでもない
近代 I では、好きな相手と結婚して豊かな生活を築くということをある程度はできていた 近代 II では、好きな相手が経済的にふさわしいとは限らない、経済的にふさわしい相手を好きになるとは限らない、という矛盾が顕在化する これは恋愛結婚の本質的な矛盾だが、それが顕在化
こうした変化によって近代 II では、経済生活と親密性は別々に追求しなければならないものになった 近代社会における結婚というものは、結婚すれば豊かな生活と自分を認めてくれる親密な相手、その両方が手に入るものとして追求されてきた
それを両方同時に追求することが徐々に困難になってきた
大きく分けると次の 2 つ
結婚の困難性が顕著になっている : 日本や東アジア諸国の状況
結婚の不要性が顕著になっている : 欧米諸国の状況
結婚は、こうしていまや、完全に宙ぶらりんになってしまった
あくまでも個人の欲求を追求しようとする結婚という制度が不要なものになり始めている、ということ
いまや男女にとって、親密な関係性と経済目的を満たすためには近代的結婚を介する必要がない
その結果、結婚が不要になった
結婚に経済生活の安定を求めることもできなくなったし、結婚したからといって親密性が保証されるわけでもなくなってしまった
結婚は制度的な意味合いしかなくなってしまったということかもしれない
いずれも、生きているように見えるけれども実質的な意味はなくなっているという比喩
つまり欧米では、つき合って愛情を持って性関係を持つということと、結婚して制度的な枠組みに入ることとは、別のものとされているのです。
けれども、日本のように最初から結婚する相手を求めて出会い、交際するという利用者は、ほとんどいませ アメリカでは結婚と交際が別の次元に切り離されているということを、如実に示していると言えるでしょう。 つまり、中学・高校ぐらいからデートして当然のように性関係を持ち、ダメになったら別れるということをお互い一生繰り返すのが欧米の交際であり、いみじくもそれが結婚のあり方にもなっているわけです。
欧米は生涯恋愛社会になりつつありますが、伝統的な価値観を保持して結婚する人もいるといういわば留保条件は、当然社会学的には考慮する必要があるでしょ
欧米で離婚が普通のことになる、離婚者に対する差別がないという要因 一つに人権意識が高いということ
もう一つ大きいのは、日本と違って 「世間体というものがない」 から
欧米では、周りのことは気にせず、お互いに相手のやりたいことを認めましょう、別に法律に違反していないのであれば、お互いに自分の好きなことをやりましょうといった自意識がある
またスウェーデンでは、いわゆる日本のような母子家庭の貧困問題は見られません。それは、女性に対する「職場差別」がなく、子育てを支える社会福祉の仕組みがあるからです。たとえば、子どもの養育費を政府が立て替え払いするという制度があって、政府が離婚した相手から養育費を徴収します。つまり税金と同じなので、相手は逃れられない。日本のように「取り決めても払わない」「払われないから子育てに困る」ということがないわけです。 つまり、日本では離婚したあとでお金がないので払えないというケースが多いのですが、スウェーデン方式では取りっぱぐれるのは政府ということになるの じつは、欧米でフェミニズム運動が強かった要因の一つには、こうした「経済生活の自立」すなわち自分で自由に使えるお金が欲しいという動機があります。逆に言えば、女性が夫の収入を全部コントロールしていることが、日本でフェミニズムがあまり浸透しなかった大きな理由だと思います。
女性が働くことが必須の欧米は、逆に言うと、お金を稼がない女性は男性の言うことをきかなければいけないという社会でもあるわけです。だからお金を稼がない妻が多数派の日本では、逆に夫が妻に頭を下げておこづかいをもらうので、「男の言いなりにならない」というフェミニズムが浸透しにくい。これは当然のなりゆきでもあるの
つまり、生活を保持するのにお互い配偶者に一方的に頼らないし、頼ることができないのが欧米の社会なのです。要するに欧米では、男性は女性に家事や育児を頼らない・頼れないし、女性も経済生活を頼らない・頼れないという意識が浸透する中で、結婚が不要になっていったわけです。 結婚が不要になった究極のかたちは、先に述べた社会学者ギデンズによって提唱された「純粋な関係性」という理念でしょう。 それは、お互いがお互いを好きであるから結びついて一緒にいる、コミュニケーションするという関係性です。その関係性は、どちらかが嫌になったら解消するということが前提になっています。 また、社会学者ベックは「世界家族」という概念を提唱しました。お互いが遠距離で別々に生活しながら、スカイプやメールなどでコミュニケーションしている家族をそう名付けたわけです(ウルリッヒ・ベック他『愛は遠く離れて』)。これはつまり、なにも一緒に生活していなくても、お互いが心理的に選び合っているというだけで満足するような関係性です。 ちなみに、日本のような「不倫叩き」が欧米にもあるのか。欧米では、それが本気か本気ではないかによって裁断されるでしょう。結婚相手と別れる前提のもとで別の人とつき合い始めるという状態はよくあることで、それで糾弾されることはありません。 ただ、一時的な浮気であれば、やはり欧米でも叩かれるはずですが、一方的に離婚できるので、日本のように大騒ぎになることはありません。 日本はいろいろな意味で離婚しにくいから不倫が増えるわけですが、じつは日本の夫婦は欧米とは違い、愛情を追求せずに経済生活を最優先するから別れないという面が大きいのです。
6 章 結婚困難社会 ― 日本の対応
筆者の見立てでは、近代的結婚が困難になりつつある中で、欧米と日本は異なる変化を遂げている
日本が欧米のような結婚不要社会にならない最大の理由
そのため、結婚できた人および結婚できそうな人と、結婚できない人との分裂が、1990 年以降、日本では徐々に進行
婚活すれば、いずれ結婚困難が解消されるという手ごたえを感じるから
男性はそもそも経済や容姿のデータで選別されるので、婚活してもチャンスが増えることはない
こうした「本音」をオープンにしていいか・悪いかという判断基準が大きく変わったと思います。 20 年前は、自治体の報告書や新聞に本音を書こうとすると「待った」がかかりました。「お金なんて関係ない、結婚は愛ですべきだ」というようなイデオロギーが残っていたのです。
に言えば、結婚に関する本音がオープンに語られるようになったということは、「愛があれば貧乏でもかまわない」という恋愛至上主義が事実上なくなってしまったといえるのかもしれません。
婚活では、お金持ちを狙う女性ほどそういう本音は言わないし、言おうとしない。「結婚に年収は関係ない」と言いたがる傾向があります。拙著『「婚活」時代』の共著者であるジャーナリストの白河桃子さんが「セレブ主婦」のインタビューをしていたときに、ほとんどの人が「相手が大金持ちだから結婚したんじゃない」と話したそうです(白河桃子『セレブ妻になれる人、なれない人』)。 「好きになった人がたまたまそうだった」もしくは「結婚したときはお金持ちじゃなかった」といった回答です。
2018年のNHKの「日本人の意識」調査では、結婚することについて「必ずしも必要はない」と答えた人の割合が 68%でした。この調査は1973年から5年ごとに行われているものですが、過去 25 年間で最も高い数値だそうです。
なぜ日本人は近代的結婚に固執するのでしょうか。 理由の一つは、社会システムが近代的結婚を必要としているということでしょう。つまり日本では、結婚したほうがいろいろな意味で便利で有利だからです。 私の大学のゼミには「事実婚」について研究している学生がいて、婚姻届を出さない事実婚をしている 50 代のカップルに話を聞いたそうです。
特に子どもを持つ際には、扶養控除や子ども手当など、結婚していたほうがやはり便利で有利です。ただ、ようやく 2019 年から、子どもを持つ未婚の女性にも児童扶養手当が支給されるように法律が改正されました。 いずれにしても日本の社会システムでは、戸籍上の家族であるかないかということが公的機関でも民間でもいろいろな面で左右してきます。そうした制度上の理由によって、人々は結婚という制度に固執するわけです。 日本は、一方的には簡単に離婚ができない仕組みになっているので、結婚が永続性の保証と思えるわけです。
私が高齢者の夫婦関係のインタビュー調査をする中で、遺族年金をもらうために嫌な夫と暮らし続けている、あるいは結婚し続けていたという高齢の女性はかなりいました。つまり仲が悪くなろうが、死別するまで結婚していた限り、老後の経済保証があるのが日本の制度なのです。
三つ目の理由は、日本が「世間体社会」であることです。日本人はとにかく周りの人から批判されたくありません。先ほど事実婚のケースで紹介した「いちいち説明しなければいけない」というのも、その裏返しと言えるでしょう。つまり、世間体をよくするためには、説明不要の関係が求められる、ということです。
日本人は社会的地位が同じような人同士でないと、友だち関係がなかなか続きません。特に女性の場合は、周りの友だちが結婚してしまうと話が合わなくなり、友人関係が続かなくなってしまう感じです。つまり、結婚した人同士でつき合い、結婚していない人同士でつき合うので、独身だった友だちが結婚してしまうと、未婚女性は多数派ではなくなり、「話が合わない」「愚痴もこぼせない」といった不安な孤立状況になりがちなのです。 多数派ではなくなるという意味では、たとえば、まだ少数派の同棲もしたくないわけです。特に女性は、周りの人に知られないように同棲していることを隠すか、結婚していると偽るかのどちらかになりやすい。「
男性の場合は、結婚相手によって自分のアイデンティティが上下しないので、誰と結婚しても社会的評価は変わらないのですが、女性の場合、その友人や親戚、家族の関心は、とにかく結婚相手の社会的地位です。それは、今日でも変わりません。相変わらず女性は、結婚相手の社会的地位によって自分のアイデンティティが上下するわけです。
たとえば合計特殊出生率 (ひとりの女性が生涯に産む子どもの数の推定) が全国トップの沖縄県では、非正規雇用の男性の割合があまりにも多いので、そういう人と結婚しても友人や親戚から何か言われることは少ないのでしょう。それが沖縄の当たり前、いわば見栄を張る必要がないのであって、だから非正規雇用の男性の結婚も多く、そのおかげで結婚して子どもが生まれる割合が全国でも特に高いというわけ 最近、風俗店の多い街など「不都合な情報」を載せた『「東京DEEP案内」が選ぶ 首都圏住みたくない街』(逢阪まさよし・DEEP案内編集部/駒草出版/2017年)という本が、隠れたベストセラーになりました。「年収が低い人と結婚したくない」ということが公に語られるようになってしまったのと同じように、今日では「どこの地域に住みたくない」ということも、公に語られるようになっているのです。
こうした世間体や見栄から解放されるのは、よほどの「インテリ」でないと難しい、というのが私の考えです。つまり、同棲にしろ住んでいる地域にしろ、世間体や見栄以外でプライドが保てるいわゆるエリート層であれば許される、ということです。ただ、そうした少数派の行動を許容する感性が養われているエリート層は、日本では圧倒的に少数です。
日本人が近代的結婚に固執する最後の理由、四つ目は「子どものために」です。前述の「JJ世代の結婚白書2019」には「お金がないからやりたいことができないというのは嫌だ」という考え方が載っていますが、同様に、「お金がないから子どもに何か買ってやれないという事態は絶対に避けたい」と、特に女性の多くは考えているわけです。
私の見立てである日本の結婚困難社会に対しても、じつは欧米とは異なるかたちでそれに対処しようとする動きがあります。いわば、日本は欧米とは別のかたちでの結婚不要化が進んでいる、というのが私の最終的な考えなのです。 どういうことか。本書の結論として述べていきましょう。 欧米は、幸せに生きるためには親密なパートナーが必要な社会です。結婚は不要だけれども、です。それに対して日本は、配偶者や恋人のような決まったパートナーがいなくても、なんとか幸せに生きられる社会になったのです。これが私の結論です。
つまり、欧米の結婚不要社会はパートナー必要社会であるのに対して、日本は結婚が困難になり始めているのに、パートナー不要社会になっているというわけです。
パートナーなしで親密性を満足させる仕組みもいろいろなところで整っています。たとえば母親や同性の友だち、ペットといったパートナー以外の「存在」とのコミュニケーションで、特に女性は親密性が満たされています。男性ならキャバクラやメイドカフェといった「場」で、いろいろ話したり体験をシェアしたりするという親密性を市場から買うこともできるわけです。
日本はパートナー圧力──パートナーがいないとみっともないという意識──がないし、親密性を買うことに抵抗がないということも、こうした仕組みが整う理由と言えるでしょう。 欧米社会にはパートナー形成圧力があるわけですが、それは端的に言えば、「パートナーが存在しないとみっともない」という意識です。けれども日本では、「ちゃんとしたパートナーでないとみっともない」となるわけです。 日本における結婚では、世間体や見栄によらない人たちの中から新しい動きが生まれています。 ただそれは、まだ特殊なケースの段階であって、マスの統計的なものを動かす段階には至っていないわけです。
九州工業大学名誉教授の佐藤直樹さんは「目くじら社会」と呼んでいますが、日本は、とにかく周りから目くじらを立てられないように行動しなければいけない社会なのです。それは結婚行動にも相当影響しています(『目くじら社会の人間関係』)。 逆に 「世間体にこだわらず、楽しく暮らせそうな人と一緒に暮らす」という新しい結婚のかたちが増えて、結婚する人が増えていく兆候は確かにあります。
どこに基準を置くかによって、結婚が必要か不要かは異なってくるのです。たとえば、社会の再生産という観点から言えば、少子化という状況は特に地域社会では困る問題でしょう。ただ、国や地域社会が困るというのと、本人が困るというのは別のことであって、社会学者としては両方大事だというまとめの言葉しか出せないのです。
日本でも欧米のように、結婚しないで子どもを産んでも大丈夫という仕組みが増えてくれれば、結婚しない人が増えてもかまいません。けれども、国がそれを認めたからといって、状況がすぐに変わるわけではないのです。 世間体が変わらない限り、日本は結婚しなければ子どもが生まれないという社会であり続けるのではないでしょうか。
おわりに
日本では、伝統的結婚にこだわるあまり、結婚できない人がかえって増えてしまった。そして、未来を失ってしまったと言えないでしょうか。
本書のもとになったのは、『出会いと結婚』(日本経済評論社/2017年)所収の論文「日本の結婚のゆくえ──困難なのか、不要なのか」です。