ハイデガー
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序章
問う行為の批判
問われていること/問い質されていること/問いかけられているもの
ex )因数分解を先生に聞く: 因数分解の解き方/因数分解を解く意味/先生
これは存在/存在の意味/存在者(空間,貨幣... etc)→現存在( 人間 )
現存在は存在への問いを発せれる唯一の存在者であり実存である。 実存について... 自らなんらかの態度を取り意思決定していくこと
現存在以外の存在者は本質によって規定されるが実存はできない /icons/白.icon
存在を問うことは大事なのか
諸科学の基礎づけにおいて存在者を規定せず、様々な存在を規定すると弊害や障害にぶち当たるため、するべき
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実存的な了解: 現存在の関心ごとである人生、将来、死など 実存論的な了解: 実存とは?実存性とは何か?と言ったメタな話 存在的: 存在してるか否か、どう存在しているかなどの存在のあり方 →現存在以外の存在者は現存在について理解が深まればわかる
変な雑念を持つことなく当たり前に了解して、関わったり使用しているため。それを前存在論的な存在了解という。これによって現存在以外の存在者についても考察していく /icons/白.icon
実存在の土台
ハイデガーの捉える現象学
現象
基礎
現象:みずからにおいてみずからを示すもの
仮象: みずからでないものを示すもの
現れ: みずからを示していながら、みずからでないものを示すもの
ex ) 多量な汗が出ている場合、それは現象であるし、体温の上昇を示している。
分類
形式的な現象概念: みずからを示すものが存在者
ex ) 赤いりんご自体がみずからを示す
現象学的な現象概念: みずからを示すのは存在者の存在性格 ex ) 赤いりんごが空間内を落下することからりんご自体に質量があることを示す
こっちが大事 byハイデガー
学
語源から推論 | logy → logos | ハイデガー曰く論理ではなく根源的な意味がある
ロゴスは語りであり、語りにより見えるようにすること(これが命題や論理判断と捉えられ意味が変容していった。)
無意識下で脳が遮断している存在者等を暴くということは、存在論は現象学でのみ解明可能であり、現象学は存在論である。
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つまり現存在と存在者の関係をそのように見てる
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第一章:現存在の特徴
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実存:
眼前存在者(目の前に存在する事物)=本質と現存在=実存に分けたときに眼前存在者は何であるかが大事だが、現存在は何であるかは規定できず存在が大事 各私性
現存在が関わってる存在は、その都度私の存在であること
本来性はヘーゲル的良心に近い(普遍性は関連しないが)、非本来性は、逃避・排他・他律のような人間のこと 平均的な日常的な生き方
時には本来的で時には非本来的なグラデーションな生き方をしている。このどっちつかずの中間的なあり方を重要視
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第二章 :世界内存在
とは: 世界の中で存在していることについて明らかにしよう
世界内
存在者
内存在
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世界の世界性は現存在によって形成される。
主観客観モデル
主体が客体にアクセスすることで客体を認識する
これは間違いなのでは
ex)音楽の世界に興味を持ち、楽器の構造や音の理論について概念的に把握しよう!
主観客観モデル的にいえば主体が音楽の世界にアクセスし認識
ただ興味を持ったのはそれまでの連続的な人生史が関係してるのであれば、それははるか昔から内存在いていたといえる。 つまり人間が認識作用を作動する前に、世界のもとで存在し、なじんでいる
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第三章 :世界内とは
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道具的存在者を中心に世界を理解しよう
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眼前存在者の総体
概念的に捉え、存在論の用語としたもの(数学の世界..とか)
前存在論的で実存的な世界
「世界性」という存在論的・実存論的な概念
1と2だけでは現存在がないからだめ
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現存在と手元存在者(道具)が密接に結びつく(配慮的な気遣い) /icons/白.icon
道具性の欠如:道具は不在により、価値が顕現する
⇛手元存在者の世界適合性も現れる
有意義性:適材適所性の全ての連関は現存在の存在に収束する
⇛この有意義なもののネットワークを世界
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第四章 :存在者とは
共同現存在 :道具は他者の産物であり、世界が世界たりえるには他者が必然 ニートだとしても、それは共同存在の欠如的な様態にすぎない
(顧慮的な気遣い)
他者の代理になる顧慮
他者にて手本を示す顧慮
共同相互存在:基本他者に対して無関心なこと(至極当然の表し) /icons/白.icon
グローバリズムは世人を拡張しちゃうから一意に定まっちゃって多文化共生ではなくなってしまうようね~てのありそう
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世人について(下記を世人自己といいしゃあないとする)
均等性: 出る杭は打たれる
公共性: 共通言語として機能
存在免責: 自身の好意の責任を分散して免除したい
迎合: 世間に自ら合わせに行く
不断性: 絶えず世人の支配のもとに
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第五章 :内存在とは
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気分の本質的な3つの性格
ある気分をそのまま感じたままにすることは少ない
気分はなにかを志向することを可能にする
気分は世界を開示する
理解(気分に染色されていることと実践的(非観想的)であることが前提) 世界の有意義性と現存在の存在と可能性から出力される
この能動性を投企(ただこれは被投の上で存在しうる) 2種類の性質
本来的な理解:現存在が実存から理解すること
非本来的な理解:世界の事物から反照的に理解すること
解釈:現存在の存在様式について理解すること(いわば自己意識)
予持(フォアハーベ):解釈可能にするためにあらかじめ所持しているもの
予視(フォアジヒト):解釈における視点と方向性
予握(フォアグリフ):解釈で使用される概念を予め把握すること
言語現象すべて
語りによって言語化され事物が意義を持ち、分節化され全体性が生まれれる、その意義の全体性が言語になる
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情態性・理解・語りに曖昧さ・好奇心・世間話が日常的なあり方として存在する
曖昧さ: 投企に対して責任を負うあり方から回避し、世間に流布する一般論にすがり、アウトカムに一貫性が損なわれること 好奇心: 付近にある共同現存在や手元存在者から、離れ遠くの存在に関心を寄せる事によって、配慮的な気遣いや顧慮的な気遣いから開放され、責任や重荷を忘却できる
世間話: 自己の実存ではなく世間に流布されているものが語られるため、表層のみが循環、反復される
頽落しているという: 本来的な自己から脱落して世人として自己を喪失すること 頽落の動性
誘惑が存在し、安らぎを与える
好奇心が良いものであるという考え(多様な智識をいれ自己を喪失することを疎外と呼ぶ)
行き過ぎた自己分析や分類(性格学,類型学)
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第六章
これまでのまとめ
頽落しつつ開示され、被投的に投企する世界内存在であり、この世界内存在は世界のもとでのみずからの存在と他者との共同存在において、みずからに最も固有な存在可能そのものに関わっている存在である。 /icons/白.icon
これを統一するは不安
手元存在者や世界の有意義性において形骸性を自覚し、世界から隔絶され孤独化する→孤独化が、自己存在に向き合うトリガーである
実存性: 自己を投企し自己に関わる存在であること
被投性: 世界に投げ入れられた受動的な存在であること
頽落存在: 世人として世界に没入していること
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実存性: 投企した未来の自分が先立っている→未来
被投性: 過去の自分が本来的な自己に先立っている→過去
頽落存在: 非本来的な自己が先だっている→現在
これらのベクトルをすべて気遣いとよぶ
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現存在の根源的な構造の全体性は「気遣い」である
真理は「現存在がおのれにかかわる存在者をあらわにすること」→この総体がこれまで言われていた命題や法則である。
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第七章 :死について
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現存在が死んだ時初めて、当本人の全体性が顕現する(死によって現存在の人生が完成する)
まだ死してない現存在が、死を先駆し全体性に思いを馳せるのが全体存在
ただ現在形で「気遣い」が怒るため、死の瞬間にしか全体性は理解できない 死の代理不可能性: 他者の全体性理解も完全ではないため、気遣いに効果を及ぼすに過ぎない 死についての五つの規定
最も固有な可能性: 死の代理不可能性
関係の喪失: あらゆる手元存在者や他の現存在との繋がりが喪失する
死の可能性を追い越し得ない: 死後に投企しえない
確実さ: 不安によって死の到来が開示される
無規定性: 死期の不確実性
現存在の終焉としての死は、自らに最も固有で、関係を喪失し、確実であり、しかも無規定な追い越すことのできない可能性である
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ただこれはかなり通俗的な時間概念から認識された規定で日常的なもの
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本来的なあり方は何か??
→死への先駆: あらゆる瞬間に可能で、いつでも死にえることによって死の近さを自覚する 死の先駆の特徴
あらゆる可能性を消失し、自ら下せる性質があり、他人には代理できない最も固有なもの
世人に迎合することなく、自身と向き合うことのできる孤独性を孕む固有のものだと自覚できる。さすれば自分だけのかけがえのない思考を実現できる
死以降は何もなし得ず、その死は次の瞬間に起こるかも知れぬことを自覚することにより頽落から脱出できる
死の不安を直視することにより、確信し現存在の本来的なあり方の入り口となる
自己自信とは、世人の幻想から解放され、情熱的で、事実的で、みずからを確信し、不安にさらされた <死の自由>の内にある自己自身なのである。
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第八章 :
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証し :本来的な存在可能が可能であることの証明
良心を持とうと意思すること
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呼び声という性質(語りの様態)
呼びかける相手: 日常的なあり方をしている世人自己
呼びかけられる内容: 無(自己の存在可能に向けて、固有な存在可能について呼び覚ますため)
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良心の呼び声の意味とは??: 負い目ある存在であることを知らせること
無(無力)であることの根拠
実存性: 被投的投企である無力さと無限の可能性に対しての投企を並列処理できない無力さ 被投性: 自らの初期条件は意のままに調律できない無力さ
頽落存在: 非本来的なあり方から脱することは難しい無力さ
他者の現存在において発生した欠落の根拠であること
現存在は無力であるために他者に対して負い目を感じたり責任感を感じる
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良心を持とうと意思することとは
情態性: 無力さの露呈により現存在に不安が→不安を受け入れるしかない!!!
理解: 実存性の無力さ→固有な存在可能に向けて投企するしかない!!!
語り: 呼び声は沈黙(無)→世間話を隔絶できる
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この傑出した開示性は、最も固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに不安に耐えながら自らを投企することである。私たちはこれをEntschlossenheit(以下決意性)と呼ぼう /icons/白.icon
良心を持とうと意思することによる本来的な開示性=決意性: 下記決意性の特徴
最も根源的な心理であること(現存在の開示性が真理なため、本来的な開示性な決意性は最も根源であると言える)
現存在の多様な存在様態(死・不安・無力)を隠蔽せず(世人にならず)引き受け、向き合うことを決意すること
決意性は世界と他者たちとの共同現存在を変容させる
決意性によって、属するコミュニティや使用する手元存在の扱い方が変わってくる /icons/白.icon
ここまでのまとめ
死への先駆によって全体存在を可能とし、決意性によって本来的な存在を可能にする
ここらの繋がりを次章にて
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第九章 :
三段論法で言えば、死への先駆があるからして、本来的/非本来的なあり方が存在し、本来的/非本来的なあり方が存在するからして、決意性が存在する。
ここから現存在の存在の意味は時間性であることにつながっていく
意義: 道具同士の連関によって規定されるもの
意味: 道具が現存在に提供するもの(可能性)
絶対知の真/知に地平/投企を対応させるとわかりやすい 例) ドアを投企し部屋を仕切るものにする→それ自体が地平となり新たな投企(鍵という機能)をして他者を隔絶するものとしての地平を得るみたいな
未来のためには過去がベースとなるということ
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通俗的な時間性
未来: 待っていたらいつか訪れるもの
過去: ただ過ぎ去った時間
現在: 字義どおり
将来: 自らの固有な存在可能に向き合う
現在化: 将来から既往を含む形で、現在へ立ち戻り存在者へと出会わせる運動性
根源的な時間制から派生したものが通俗的な時間性
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時熟すること:時間性とは動的で将来が既往を含む形で現在化するという運動→これを時熟するという 脱自的であること
ある意味対自存在を脱自態と呼び、対他存在へと向かう性質を脱自と呼ぶ
将来が優位であること
将来→既往→現在化と思考する
根源的な時間性は有限であること
開示性がベースのため、根源的で本来的な時間性は有限であると言える
無限である時間という感覚は世人に染められた解釈
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気遣いと時熟の関係
将来→実存性
既往→被投性
現在化→頽落存在
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今んとここんなイメージ
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第十章 :
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理解の時間性:第一義的には将来でそこから時熟
自己のあり方から先駆し、将来と既往を背負い瞬視し、過去のヘーゲル的良心のようなものを反復する 配慮的な思考から未来を予期し、他律的に押し寄せる現象に現在化(埋没)され、現在形のみの情報を保持しそれ以外を忘却することをし続ける
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情態性の時間性:第一義的には既往でそこから時熟
恐れの時間性
予期しながら現在化する忘却: 恐れという気分のもと解消しようと場当たり的に執行する
不安の時間性
本来的な存在可能に覚醒し、瞬視や先駆をもたらす
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頽落の時間性:第一義的には現在化でそこから時熟
ex)好奇心→Tiktok
本来的な将来や既往の疎外
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予期しつつ(意義と意味)保持する現在化
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配慮的な気遣いの目配りの眼差しがどう眼前存在者への理論的なまなざしに変化するのか
環境世界の枠組みを外して存在者を見ようとする態度(手元存在者の他(主題以外)の性格や道具連関を無視する)
これは先行的に眼前存在者として見る!!という理解であれ投企が必要(主題化)
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将来: 目的性
既往: 被投性の<それに臨んで>→反復と近似しよう
現在: 手段性
世界の世界性、有意義性のネットワークが可能になる条件は時間性が地平的図式を持っていること
各存在者が地平的図式を持っている(ex: コップ: 水を飲むため/「水を飲むべきタイミング」など/水を飲む)みたいな
これらは地平的図式は世界が先立っている(先立って開示している)。世界が無ければ構造が定義されない。つまり個々の存在者に世界が先立っているこれを世界の超越という 更に現存在は世界を超越している(現存在は世界を開示しているため)
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第十一章 :
現存在の伸び広がり(この動性を生起と呼ぶ)
先駆は常に目の前にいるが、既往は年と共に積み重なる
生起の現象及び現存在の歴史性の解明
第一次的に歴史的に存在する現存在が、二次的に歴史的に存在する手元存在者に交渉することによって顕現する。そして現存在が死すそれ即ち手元存在者が属する世界が失われたことによって、手元存在者が歴史的な遺物として扱われる
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本来的歴史性: 被投性に目を向け、固有である伝承すべき遺産を選択する→宿命 非本来的歴史性: 自己の歴史は配慮的に気遣われたものから理解する
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第十二章 :時間内部性と世界時間
時間内部性
日付可能性: 過去形、未来形、現在完了形の時間性のラベリングをすること
伸び広がり: ex)今は本来的な今だけでなく、ある一定期間を今と指すことがある
時間の穴ができる: 多忙な人は「今」が絶え間なく流れるため、各今の繋がりがない。 公共性: 共通現存在同士の共通の指標である
世界性: すべき時間という理解(寝るべきなど)
世界時間
現存在の非本来的時間理解「予期・保持、忘却・現在化」が世界時間を可能にした
時計について
最古の時計=日時計(明るさは開示的。つまり昼に効率的な作業をするに特に合理的であった)
通俗的な時間概念「今-時間」: 移動する秒針の現在化 時計の性質上: 時間が普遍的で誰にとっても共通であり、恒常的で眼前的である
これが本来的な時間性から遠ざけ、頽落させている
?ここまでだと現存在のみの時間性しか語られてないのではないか?
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つまり基礎存在論が、死という企投の極致を積極的に論じていたとすれば、メタ存在論は、現存在の被投性の極致であり、実存に先立っているがゆえに、現存在の力の及ばない全体における存在者を積極的に論じようとしている。換言すれば、基礎存在論は現存在の実存の次元における被投性を論じていたのに対し、メタ存在論はその実存を可能にする根源的な被投性を主題化している。したがって、メタ存在論は投企に重点があった『存在と時間』の基礎存在論とは異なって、被投性に重点がある。 https://scrapbox.io/files/644f4a15ae3740001b51d797.jpeg
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30年代初頭、我が民族における階級差別は、社会的責任感を持っていきている全ドイツ人にとって耐え難いものだった。ベルサイユ条約によって課されたドイツに対する厳しい経済的締め付けも同様だ。1932年現在で失業者は700万人をも数え、彼らはその家族と共にただああと貧困の前に途方に暮れるだけであった(GA16,568)
戦後ある学生に宛てたハイデガーの手紙より
このような期待が当時ナチスを政権に駆り立てた
フライブルクのナチ管区指導者の勧めに応じて、党の役職には一切つかず活動も一切しないことを条件に入党及びフライブルク大学学長に選出された。(理由が以下)
一 私は当時権力を握った運動のうちに民族の内在的な結集と刷新へと至る可能性と民族の歴史的-西洋的使命を発見するひとつの道筋を見ていました。私は自己自信を革新する大学も民族の内在的な結集に基準-付与する仕方で協力する使命をもつと信じていました。
二 それゆえ、私は学長職のうちに次のような可能性を見て取っていました。つまり能力を導き入れ、これらの人材の影響力を強め確かなものにするという可能性です。
三 このようなやり方により私は不適格な人物の浸透、ならびに党の組織と協議による差し迫った支配に対抗できると期待していたのです。(GA16,374)
戦後の釈明
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黒ノート@省慮と目指せⅢより
学長在学中に記された覚書に同様のことが記載されている。ex
国民社会主義が真の生成する力となるのは、それが己の全ての行いと行動の背後に、なお何か黙して語らぬものをもちーまた将来へと働きかける力強い深謀遠慮(Hinter-hältigkeit)によって活動するときだけである これに対して新たな事態に対するあの到るところで蓬生しているたまりに性急な同調は冷静にやり過ごしておかねばなりません。皮相的なものへのああいった追随ですがそれは今や突然とありとあらゆるものを「政治的」に捉えこうしたことが、最初の革命のひとつの手段でしかあり得ないことを熟慮しないのです。もちろんこれは多くの者にとっては、最初の覚醒のひとつの手段となりうるし、またそうなったということはありえます。ー我々が第二のより深い覚醒に対する心構えを持つ気があるならば 表面的なものとはドイツ学生団が大学内で推進していた強制的同質化の諸措置である
しかもそれに代表されるものはユダヤ人の教員や学生の排斥運動である。
それはある種肯定的であるが、より深層に進めということ
これをユダヤ人のブロッホマンに送っていることから楽観的で鈍感な様が伺える。
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超政治解明による哲学と学問の変貌
1928年夏学期講義にて
形而上学の概念は基礎存在論とメタ存在論によって形作られている
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ここに「民族としての歴史的本質」を付与したのがハイデガーの現存在における超政治なのでは??
共同体としての固有性を国家の崩壊を先駆し、歴史性から実存を模索し続けることこそ、被投性を帯びたポリスとしてのありようであり投企であるのではないか 「意欲であり続ける知、 知であり続ける意欲とは、 実存する人聞が存在の非隠蔽性の内に自らを脱自的に放ち入れることである。『存在と時間』で思惟した開鎖性とは、或る主観の決意した行動などではなく、 存在者に囚われていることから存在の開けへと現存在を開けることなのである 近代哲学はキリスト教神学を世俗化したものにすぎないという今日しばしば聞かれる主張は、多くの限定つきでしか正しくない〜正しいのはむしろ逆のことであって、キリスト教神学は非キリスト教哲学をキリスト教化したものなのであり、だからこそこのキリスト教神学が再び世俗化されることもできたのです。
詩人(詩作者)は神々を命名し(nennen)、すべての物をそれらの本質(wassiesind)において命名する(nennen)。この命名(Nennen)は、その前にすでに知られているものがただある名前によって理解されることにあるのではなく、詩人は本質的な言葉を語るがゆえに、存在者(あるもの)はこの命名によってはじめて、その本質(wasesist)を担うものへと任命される。このようにして存在者は存在者といて知られるようになる。詩作(Dichtung)は、存在【あること】を言葉によって作り出すと(worthafteStiftungdesSeinsである。〜詩作の活動領域は言語である。したがって、詩作の本質は言語の本質から捉えられなければならない。しかし、それゆえ次のことが判明となった。すなわち、詩作とは、あらゆる物の存在と本質とを命名しつつ作り出すことである―任意の語りではなく、われわれが目常の言語で相談したり交渉したりしていることがすべてそれによってはじめて明るみにもたらされるような、あの語りである。したがって、詩作はけっして言語をすでにある材料と見ることはなく、詩作そのものがはじめて言語を可能にする。詩作は歴史のうちにある民族の原言語 (Ursprache eines geschichtlichen Volkes)である。したがって、逆に言語の本質は詩作の本質から理解されなければならない。
このように詩作は命名によって存在を作りだし、またそれによって言語をはじめて可能にする。
また「歴史のうちにある民族の原言語」という言い方が示すように、詩作によって「すべてのもの」をそのものたらしめるという事は「作り出すこと」、作り出される「存在」、それによって可能となる「言語」が歴史的性格を持つ事を示唆する。
存在が歴史を持ち、存在の歴史の第一の始まりとともにもう一つの始まりが語られるのも、この連関による
世界の模倣=表象としての世界像
機械技術を近世的な数学的自然科学の実践への単なる適用に過ぎないと誤解してはならない。〜近世的技術の本質は、近世的形而上学の本質と同一のもので有る。
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近代の形而上学について
デカルトの契機「人間が主観となる」-基体的主体の認識論という人間学的地平
ニーチェも含めて、すべての近代の形而上学は、デカルトによって軌道を敷かれたところの・存在するものの解釈と真理の解釈の枠内を動いている。 これはどのように解釈すればよいのか。ハイデガーは本書の補遺で下記のように綴る。
人間が初めて独自のスプエクトゥムとなるばあいには、これは人間が、つまりその上にすべての存在するものが、その存在と真理という仕方において基礎づけられているような、そのような存在するもの〔基体的主体〕になる、ということです。人間が、存在するものそのものの関与の中心となるのです。 この意味で「近代の本質」について「人間が、従来の束縛から自己を解放することが、決定的なのではなくて、人間がズプエクト(Subjekt)となることによって、人間の本質一般が変化することが決定的なのです」と、デカルトを再解釈するのだ。またその意味でプトレマイオス的反転の起源はデカルトと言えるし、下記の意味で「人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろう。」はデカルトの系譜としてのカント的人間学の終焉として論じられるべきであろう。 「世界が像となる」
まず「世界」、「像」、「世界像」を下記のように定義する。
このばあい世界とは、存在するものをひっくるめての名称です。世界というこの名称は、宇宙や自然に限られません。歴史もまた世界に属します。〜像とという語のばあい、さしあたり何かの模写が考えられます。そうすると世界像とは、いわば存在するもの全体の絵画でもありましょうか。〜世界像とは、本質的に解すれば、それゆえ、世界についてのひとつの像を意味するのではなくて、世界が像として捉えられていることをいう
つまり世界を「模写」的に捉えていることこそが、「世界像」であるのだ。そしてこうした「世界が像になるというそのことが、近代の本質を表している」のだ。そしてハイデガーは「人間は存在するものをこえてみずから像のなかへと、座を占める」或いは「新しく在る、ということは、像となった世界に属すこと」とする。つまり近代の人間は、世界に属し座を占め住まうことではなく、「像となった世界」つまり「世界像」に属し座を占め住まうことになったのだ。それがいわぬる「世界像の時代」なのだ。
こうして「存在するものの表象されてある」領域に住まう近代人は、いわゆるギリシア人的な「存在するものの受容者」という姿勢と対極的だ、とハイデガーは語るがギリシア知識人には一見するとデカルト的言明が多い。これをハイデガーは下記のように解釈する。
立ち顕れる惑星的帝国主義
技術的に組織された人間の惑星的帝国主義において、人間の主観主義は極点に達します。そこから人間は、組織された画一性の平野に落着き、そこで身の都合をつけることになるでしょう。その画一性は、完全な、つまり地球の技術的支配の最も確実な道具となります。主観性という近代的自由は、それに完全に適合した客観性の中に没入してゆきます。 /icons/白.icon
まこと我等の生涯は限られて短い、我等の見て取り数えるのは己の諸歳月の数、しかし諸々の民族の諸歳月、死すべき者の眼でそれらをみて取るものがあったか。おまえの魂が憧れのあまり自分自身の時を飛び越えるとしても、そのときお前は悲しみながら、冷たい岸辺の縁者たちの許に身を寄せはするが彼らを知ることは決してないのだ。
存在を探究する者は、探究者としての力を極めて特徴的な仕方で過剰に持っているという点において、存在を「作り出す」詩人である。
存在の声に忠実な思索は、存在の真理がそこから言語へともたらされる言葉を存在のために探し始める。はじめ歴史のうちにある人間の言語がその言葉から生まれ出るとき、言語はまっすぐである。しかし、言語がまっすぐであれば、隠れた源からの静寂な声が証しとなって、それが言語に合図する。存在の思索はその言葉の番をし、それほどの慎重さでその使命を果たす。それは言語使用への気遣いである。長く番をされてきた言語の欠如と、そのうちで明るみにもたらされた領域の入念な解明から、思索者の語りが生まれる。詩人の命名は、これと起源を同じくしている。けれども、その同じということは異なった者としての同じということでしかなく、にも拘らず詩作と思索は言葉の慎重さにおいてはこの上なく同じであるから、両者は同時にその本質において最も隔たっている。〜思索者は存在を語る。詩人は聖なるものを命名する。
思索は、存在の、人間の本質に対する関係を成就する。思索がこの関係をもたらし実現するのではない。思索は、存在によってそれ自身に委ねられているものとしてのみ、この関係を存在に捧げる。存在に捧げるというこのことは、思索において存在が言語に至るということにある。言語は存在の家である。言語の住まいのうちに人間は住む。思索する人々と詩作する人々は、この住まいの番人である。彼らの見張りは、彼らが自分たちの語りによって存在の啓示性を言語へともたらし言語のうちに保って限りにおいて、存在の啓示性の成就である。
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技術の本質は道具性ではない。
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メタ存在論的な巨視的な次元からは、現存在が新しい存在者の流れをもたらしたという契機にしか過ぎない。 ここからハイデガーは技術を用立てるものと救うもの(叶えるもの)の二つに定義し、後者を重要とする
開蔵へと派遣するこの叶えるものは、それ自体、救うものである。というのは、この救うものは、人間に自分自身の本質の最高度の尊厳を見させ、それに帰入させるのだから。人間の本質の尊厳は、あらゆる本質の不伏蔵性と、これとともにそのつどそれに先立ってあらゆる本質の伏蔵性を、この大地のうえで見守ることにある。
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ハイデガーにおけるピュシス解釈
「ギリシア的に思索されたピュシスの意味でのこちらへと、前へとーもたらすことは、伏蔵性から不伏蔵性のうちへと前へともたらすことを意味している。もたらすこととは、あるものをおのずから到来させ、現前させることである」(GA79,64)
ハイデガーにおけるテクネー解釈
そのつどまさに眼前にあるものを越えて、 原初的にかつ恒常的に見ること
暴力的な境遇が人間が全体としての存在者に対してとる唯一無比にして変更不能の根本態度であり、 これの内でその者の運命が展開される
上記は根本態度によって全体としての存在者を対象にできる。つまり、眼前を越えれるということ
『悦ばしき知識』ニーチェの神は、キリスト教の神を指しているが、彼にとって神とキリスト教の神という名前は超感性的世界一般の称呼として用いられている。 すべての現実的なるものの超感性的根拠であり、その目標であるところの神が死んでいるならば、諸理念の所在たる超感性的世界がその拘束力となかんずくその喚起力と建設力とを喪失したのであるならば、そのときには人間が自己を支え自己の指標とすべき何ものももはや残らなくなる
即ち我々の生きている近代以降の時代は、人間が意味の絶対的な中心性、源泉を失った時代であるといえよう。我々は、生きる意味を知り尽くすことはできない。「生きることを飽きる」ことはできても「生きることに飽きることがない」世界に生きているのである。
カントの曲解
「カントの『判断力批判』はこれまで曲解(Missverstandnisse)基づいてのみ作用してきた」と語るが、その曲解とは何か。 対象に何ら関与することなくただ休息することを美的な状態と規定する立場に対しては、直ちに反論が予想されるであろう。実際、そのように反論したのがニーチェである。ハイデガーはニーチェが1833年に書き記した次の断章を引用している。「カント以来、芸術、美、認識、智恵についてのすべての言説は、「関心なしに」という概念によって台無しにされ、汚されてきた」。美的状態を陶酔と結びつけるニーチェの立場は、たしかに、カントの無関心性説を逆転させたもののように見える。だが、ハイデガーによれば、こうしたカント批判はショーペンハウアーによるカントの曲解に基づくのであって、カントの美の無関心性説の最も重要な点を捉え損なっている。 そこで無関心性説とは本来カントにおいて単に次に続く美しいものについての「積極的」な規定を準備するための 「消極的」条件であるにすぎないのに、それが美しいものについての積極的な規定とみなされたこと、ここに問題がある、とハイデガーは主張する。 それでは、ハイデガーはカントの「積極的な主張」をいかなるものとして捉えているのであろうか。
「これは美しい」という判断をわれわれに強いるものは関心ではありえない。そのことが言わんとしているのは、何かを美しいと思うためには、われわれは〔われわれに〕出会うものそれ自体を純粋にそれ自体として、それ固有の位階と威厳において、われわれの前に来たらせなくてはならない、ということである。〜カントは次のように語る、すなわち、美しいものそれ自体への態度とは、自由な好意である、と。すなわち、われわれは〔われわれに〕出会うもの自身に属するもの、それがわれわれにもたらすものを、この 〔われわれにに〕出会うものに委ね、恵与しなくてはならない。〜「関心」を〔ショーペンハウアーのように〕曲解することから、関心の排除とともに対象へのあらゆる実質的関係が阻止されてしまう、という誤った考えが生じる。実際はその反対である。対象そのものへの実質的関係は、この「関心なしに」をとおしてこそ作動する。そのとき初めて対象が純粋な対象として現前し、そして〔対象が〕このように現前にいたることが美であるのだが、そのことが〔この誤った考えにおいては〕見逃されている。 〔ドイツ語の〕「美しい(schin)」という語は、こうした現前の輝きの中に現れ出ることを意味する。 ここにいう「対象への実質的関係」とは、対象への実践的関心を排することによって初めてわれわれが到達することのできる関係、 われわれがただ美しいものに対してのみ有しうる関係のことである。対象への実践的関係が対象を私のために (あるいは私の目的のために)用いる自己中心的な関係であるとすれば、対象への実質的関係とは対象を「それ自体として、それ固有の位階と威厳において、われわれの前に来たらせる」ような関係、いわば中心を対象それ自体のうちに持つような関係である。したがって、〈美の無関心性〉説とはけっして〈美的無関心〉を主張するものではなく、 美しいものに対する〈実践的無関心〉、ならびにそれを消極的条件として成り立つ〈美的関心〉ないし〈美的関与〉を論じる学説のことにほかならない。 一言で論ずるなら〈実践的無関心〉という消極的条件によって、対象中心的な〈実質的関係〉になるのである。これはカントが「美」を「生を促進させる感情」として「崇高」を「生命力が瞬間的に阻止」とすることからも、どちらかというとショーペンハウアー的美は「崇高」的であって「美」的ではないと言えるだろう。